第51話 第十二章「空席を残す」前編

七月二十七日 午後七時四十八分

 勝った夜には、ご馳走が出ると思う人がいる。

 土門小麦は、その考え方が嫌いではなかった。

 嬉しい時に食べる。悲しい時にも食べる。何も決まらなかった時は、決まらなかった人間同士で湯を沸かす。

 食事はだいたい、政治より働き者だ。

 ただし、ご馳走を作る人間が勝ったことになっていない場合を除く。

「卵を割ろう!」

 議場の後ろから声が上がった。

「保存箱に三十ある! 勝ち粥だ!」

「割らない」

 小麦は即答した。

「何でだよ、通ったんだぞ!」

「朝食分」

「今夜くらい」

「今夜食べた人は明日も腹が減る」

「祝いだろ!」

「夕食は作る。祝いは作らない」

 小麦は山吹色の前掛けを外さず、黒板の費用欄へ《卵三十、未使用》と書いた。

 賛成席から不満が漏れる。

 反対席からは、少しだけ安堵が漏れた。

 勝者の宴へ残るか、敗者として帰るか。

 その二択にされると、空腹はいつも負ける。

「残り粥、百二十一椀」

 小麦は鍋の蓋を開けた。

 湯気はもう弱い。

「議員、傍聴、侵入した人、帰路担当。全員同じ薄さ。持ち帰り可。食べても採決への同意にならない。食べなくても異議は消えない」

「侵入した奴にも?」

 割れた南窓の近くで、誰かが言った。

「十五人増えた。百三十六」

「人数の話じゃない!」

「人数の話。椀が足りるか足りないか」

 小麦は布巾を折り直した。

「壊した窓は弁償。投票箱へ触ろうとした記録も残す。粥は別」

「甘い」

「塩も薄い」

「そういう話じゃない」

「私の鍋の前では、そういう話にする」

 言い返した男へも、同じ量をよそう。

 怒ると多めに盛る癖が出かけて、小麦は一度すり切った。

 同条件と言った直後に、自分の怒りだけ一匙増やしてはいけない。

 最初に椀を受け取ったのは、投票箱へ毛布をかぶせようとした男だった。

 彼は両手で持ち、湯気の消えた表面を見た。

「毒は」

「入れるなら熱いうち」

「冗談?」

「衛生の話」

 男は一口すすった。

「薄い」

「反対意見として記録しない」

 真琴が横から言った。

「献立への異議は鍋帳へ」

「何でも記録するなよ」

「記録しなければ、次も薄いままです」

「濃くなるのか」

「燃料費を払えば」

 小麦が言う。

 男は二口目をすすった。

 賛成した者も、反対した者も、保留した者も、箱へ触れようとした者も、同じ列へ並んだ。

 意見は混ざらない。

 粥だけが同じ温度へ近づいていく。

 片づけ表は、祝辞より先に壁へ貼られた。

《机百脚を元の倉庫へ》

《座布団百枚を乾燥》

《割れた南窓三枚を仮封鎖》

《正面扉を蝶番へ戻す》

《借用品の点検と返却》

《負傷者十九名の診察》

《議事記録の複製三部》

《食器百九十一点の洗浄》

「十九?」

 七瀬が固定カメラのクランクを回したまま訊いた。

 入口で手を引かれていた子どもは負傷者へ数えない。名前を公開せず、保健室で住所札を確かめ、澪の帰路担当が本人の指定した共同世帯へ送り届ける。連れてきた女の供述とは、別の記録にする。

「十五人と、迅、凱、白戸、あなた」

「私は負傷者ではありません」

「左肩、震えてる」

「機材の振動です」

「機材を診てもらえば」

「皮肉の精度が落ちています」

「低血糖」

 小麦は自分の口へ粥を一匙入れた。

 味が分からない。

 舌が火傷しているわけではない。

 朝から味見し続け、身体の方が感想をやめている。

「二十」

 七瀬が言った。

「何が」

「負傷者。あなた」

「立ってる」

「立てるかどうかは診察基準ではありません」

「撮れてるかどうかも」

「それは別です」

「同じ」

「別」

「二人とも保健室」

 タマキが配膳カートを押してきた。

 車輪の一つが外へ曲がり、進むたびに、きゅ、きゅ、と鳴る。

「これ返す。病院、八時まで」

「先に洗う」

「機械油ついてる」

「だから」

「病院で洗うって」

「借りた物を汚して返すなって育てられた」

「僕も」

 二人はカートを挟んで睨み合った。

 七瀬がカメラから言う。

「受取側の洗浄規定を確認してください」

「撮ってないで手伝って」

「記録終了前です」

「いつ終わる」

「投票箱の封印、侵入者の接触なし確認、議場損傷の全景を連続で残してから」

「何分」

「十七分」

「じゃあ十七分後にカート」

「私が?」

「肩、使わない仕事」

「押すのは肩を使います」

「受領票を書く」

「左手では鏡文字になります」

「右で書けば」

「あなたは時々、非常に無礼です」

「料金は普通」

 タマキはカートの留め具を鳴らした。

 固定カメラが回っている間、七瀬は片づけへ入らない。

 誰かがそれを「楽をしている」と言いかけた。

 小麦は先に、作業表へ《記録継続・火群七瀬・終了予定二十時七分》と書いた。

 見えない仕事は、見えるようにしないと、休んでいることにされる。

 見える仕事は、見えすぎると、休むことを許されなくなる。

 鍋帳を作った自分が、いちばんその罠へ入っていた。

 澪は西口で最後の退出列を数えている。

「帰路、残り三十二。歩行困難、四。付き添い、六。北線は照明不足で閉鎖。西二区へ迂回」

「食べてから」

 小麦が椀を差し出す。

「退出を先に」

「また抜く」

「持ち帰る」

「三角の蓋、嫌いでしょ」

「警告標識に見えるだけ」

「嫌いじゃん」

「機能はする」

 澪は蓋付き椀を左手へ受けた。右耳の補助具の位置を直し、口元を小麦へ向ける。

「小麦。調理残留、何人」

「二」

「三十分、過ぎた」

「片づけが増えた」

「変更を記録」

「四十五分に」

「十五分延長。理由、侵入後の全員配食。終了条件、鍋洗浄ではなく火元停止」

「鍋が」

「人が先」

 小麦は言い返そうとした。

 澪の右耳の後ろには、補助具が擦れた赤い跡がある。

 自分で帰路を選んだ者を、食事のために引き止めるなと言ったのは澪だ。

 同じことを、小麦の身体へ返している。

「復唱。火元停止で終了。鍋洗いは明朝でも可」

「確認」

「でも焦げる」

「水を張る」

「鍋に命令しないで」

「鍋は復唱しない」

 澪は少しだけ笑い、西口へ戻った。

 迅は壁際から消えようとしていた。

 小麦は前掛けの紐を投げた。

 山吹色の布端が、迅の学ランの一番下のボタンへ絡む。

「どこ」

「出口」

「見れば分かる。何しに」

「帰る」

「片づけ表」

「右腕使えない」

「番号札を数える」

「字が多い」

「百まで」

「それは字じゃない」

「できるね」

 迅は紐を左手で外そうとした。

 小麦が引く。

「勝った直後にいなくなるの、かっこいいと思ってる?」

「思ってない」

「じゃあ残って」

「俺、票ない」

「窓を割った人も票ない」

「同じにするな」

「同じ粥食べた」

「それで同じになるなら、政治いらない」

「分かってる。だから片づけは同じにする」

 迅はしばらく小麦を見た。

 それから、絡んだ紐をボタンごと外した。

「ボタン取れた」

「あとで縫う」

「借りになる」

「工賃払って」

「いくら」

「その質問ができるなら元気」

 迅は番号札の箱を左手で持った。

 九十七番だけはタマキが離さない。

「それも数える」

「置く場所が決まるまで僕」

「仕事の依頼?」

「本人から」

「なら取らない」

 迅は一から九十六までを並べ、九十八、九十九、百を続けた。

 一枚足りない箱は、欠品ではなかった。

 凱は椅子を並べていた。

 投票に使った低い椅子を、体育館の倉庫へ運ぶため、十脚ずつ列へしている。

 左膝の装具は汗で黒く濡れ、足を引くたびに金具が鳴る。

「座って」

 小麦が言った。

「並べ終わっていない」

「あと八十六」

「だからだ」

「一人でやる数じゃない」

「誰かが始めなければ」

「始めた人が終わるまでやる規則、今日なくしたでしょ」

 凱の手が椅子の背で止まる。

「なくしたのは永久代表だ」

「似てる」

「椅子を並べるのと王は違う」

「同じ人が全部並べたら、次もその人待つ」

 轟が二十脚を重ねて近づいた。

「これは持つ」

「一度に持ちすぎ」

 小麦。

「床、持つ」

「肩は」

「持つ」

「質問に答えて」

「肩、まだ持つ。今夜まで」

「今夜で壊していいみたいに言わない」

 轟は二十脚を下ろした。

 床が低く唸る。

「十にする」

「凱は一」

「俺は負傷者扱いか」

「はい」

「命令か」

「献立」

「意味が分からない」

「座る。水。粥。診察。四品」

「選択肢がない」

「粥に漬物つける?」

「増えたのは選択肢ではなく付け合わせだ」

 凱はそれでも座った。

 高い王席ではない。

 倉庫へ戻す低い椅子の一つ。

 座ると、何を話せばよいか分からない顔になる。

 小麦は粥を渡した。

「薄い塩」

「地区は」

「零番街」

「北東はもう少し硬い」

「文句?」

「記録すべき地域差だ」

「王やめても粥の支配は続ける気?」

「味付けの提案だ」

「提案は、断れる言い方で」

 凱は椀を見た。

「次に北東の人間へ作る時、米を硬くする選択肢はあるか」

「費用と時間次第」

「断られた」

「交渉の入口」

 凱は一口食べた。

「うまい」

「今、私の口調真似した?」

「白戸と混同するな」

「怒ると分かりやすい」

 小麦は凱の椅子を作業列から外し、保健室行きの札を背へ掛けた。

 凱が気づいた時には、轟が残りの椅子を十脚ずつ運び始めていた。

 仕事を渡すとは、誰かを休ませることではない。

 休んでいる間にも、仕事が進む形を作ることだった。

 午後八時十九分。

 保健室には、勝者も敗者も入らなかった。

 患者だけが入った。

 入口の紙へ、小麦がそう書いた。

《ここでは陣営名を外す》

「法的効力は」

 真琴が訊いた。

「ない」

「では」

「でも読める」

 轟が後ろから言った。

 真琴は黙って、その下へ小さく書き足した。

《診療順は負傷の重さによる。採決結果・侵入行為・委任状態を優先順位へ用いない》

「長い」

「精度です」

「大きく書いて」

 真琴はため息をつき、同じ文を二倍の字で書き直した。

 白戸は二番目の寝台に座っていた。

 最初の患者は、南窓から入る時に脛を切った侵入者だった。白戸は自分より先に診ろと言ったわけではない。看護担当が傷を見て順番を決めた。

 それが白戸には、少し居心地悪そうだった。

 誰かへ順番を譲れば善人になれる。

 順番を決められると、ただ待つしかない。

「右手、出して」

 年配の診療員が言った。

 白戸は左手も一緒に出した。

「右だけ」

 両手を見比べる癖が止まる。

 白戸は右手を膝へ置いた。

 薬指は第二関節から少し曲がり、力を抜いても戻らない。

「痛み」

「三。動かすと六」

「痺れ」

「小指側に少し」

「握って」

 白戸の指が閉じる。

「開いて」

 親指、人差し指、中指、小指。

 薬指だけが遅れ、半分で止まる。

「腱が切れた感じじゃない。借用の反動で神経と筋が攣縮して、関節も傷めてる。今夜固定。明朝、画像。完全に戻るかは、今は言えない」

 診療員の言葉の区切りが、白戸の口へ移りかける。

「今夜、固定。明朝――」

 白戸は止めた。

「……戻らないかもしれない?」

「ある」

「書けますか」

「左で書ける?」

 白戸の顔が固まる。

「本来は」

 言葉が出ない。

 小麦は寝台の横で鍋帳を閉じた。

「左利き?」

「矯正されました」

「治った?」

「直された、です」

「じゃあ左、残ってる」

「字は下手です」

「下手だと食券無効?」

「署名照合で」

「本人確認つける。真琴が喜ぶ」

「喜びません」

 入口から真琴が答えた。

「右手負傷時の代替署名は、事前筆跡がなくても証者二名と本人質問で成立させられます。ただし今夜の委任回答には、音声併用を」

「ほら喜んでる」

「職務上の関心です」

 診療員が白戸の薬指へ薄い板を当てる。

 白戸は歯を食いしばらない。

 代わりに、隣の寝台の侵入者と同じ呼吸をし始めた。

 吸って、二拍。

 吐いて、三拍。

 小麦が布巾で白戸の左手を軽く叩く。

「それ、誰の」

「何が」

「呼吸」

 白戸は隣を見た。

 侵入者も見る。

「俺の?」

「すみません」

「別に。使っていい」

「許可は今?」

「今」

「いつまで」

「痛いの終わるまで」

 真琴が入口から口を挟む。

「時間で指定を」

「黙ってろ、書記」

「拒否を確認しました」

 白戸は、自分で息を吸った。

 誰かの長さではない。

 少し浅く、途中で詰まる。

 それでも、自分の呼吸だった。

 診療員が固定を終える。

「今夜は使わない。持ち上げない。委任状も書かない」

「九人へ返答が」

「音声」

「記録を」

「他の人が書く」

 白戸の薄紫の目が、小麦へ向いた。

 頼むと言いそうになる。

 小麦は先に言った。

「私、代筆しない」

「まだ頼んでいません」

「顔に書いてる」

「それは無断読解です」

「自分で言えるじゃん」

 白戸は右薬指を左手で伸ばそうとし、診療員に止められた。

 その時、保健室の外から小さな声がした。

「依久」

 白戸と同じ薄い髪の少女が、扉の隙間に立っている。

 共同宿舎で二つの椀を持っていた末の妹だった。

 彼女は兄の包帯を見ても、かわいそうとは言わなかった。

「何がいい?」

 白戸の肩がわずかに落ちる。

 家族の中で、その問いをするのは彼女だけだ。

「何が、って」

「夜。宿の人、六十三。朝の分もないって」

 小麦は前掛けのポケットから鉛筆を出した。

「六十三人。今夜は食べた人が何人」

「四十一。残り二十二。朝は六十三。見張りと調理で七人」

 少女は淀みなく答えた。

 小麦は合計を出す。

「今夜二十九、朝六十三。九十二食。乳は使わない。米が足りないから、朝は芋粥。塩、漬物、乾燥菜。運搬は」

「宿の荷車が一台」

「人は」

「二人」

「二人を何時間働かせる」

 白戸が答えようとした。

 妹が先に言う。

「一時間半。帰って寝る。朝は別の二人」

「賃金」

「今まで食券」

「食券は食事へ。労働は現金か物資」

「現金ない」

 白戸の声だった。

「倉庫に乾燥芋、十二箱。石鹸、二箱。毛布の補修券」

「物々交換の値段、公開する。宿の人へ、食事の条件に委任維持を入れない。白布認証への賛否も入れない。途中で断っても今夜分は取り上げない」

「分かっています」

「分かってたのと、やったのは別」

 白戸は黙る。

 妹が兄を見る。

「依久、何がいい?」

 同じ質問を繰り返した。

 白戸は前の人の注文を探すように、保健室を見回した。

 侵入者の椀。

 診療員の湯。

 凱の薄い粥。

 どれにも合わせないため、目を閉じる。

「僕は、今回は」

 いつもの練習の言葉。

「具のないスープがいい。塩は少なく。パンがあるなら、端」

「宿の全員?」

「僕の分」

 妹が頷く。

「分かった」

 小麦は鉛筆を白戸の左手へ渡した。

「契約、書く」

「今、右手を使うなと」

「左」

「筆跡が」

「本人確認、私と真琴。内容は声で復唱。嫌なら書かなくても、口頭契約を記録」

「左で」

 白戸は鉛筆を持った。

 指の置き方が、右より自然だった。

 けれど線は震える。

 紙の上に《白戸依久》と書く。

 最初の白は大きすぎ、戸は傾き、依の人偏が離れ、久の払いが途中で止まった。

 誰の署名にも似ていない。

 白戸はその字を恥ずかしそうに見た。

「下手です」

「読める」

 小麦は言った。

 真琴が近づき、眼鏡の左つるを上げる。

「本人署名として受領。右手負傷のため左手使用。証者、土門小麦、朽葉真琴。契約内容――」

「先に料金」

 小麦。

「乾燥芋六箱、石鹸一箱。運搬二名へ一人四十。調理二名へ一人六十。燃料は共同食堂。容器は宿。今夜二十九、明朝六十三。追加は別契約」

「高い」

 白戸。

「値切る?」

「乾燥芋七箱。石鹸なし。運搬は五十。調理は六十」

「芋の品質」

「昨月。湿気なし」

「六箱半。石鹸半箱。運搬五十。調理七十」

「調理者が宿の人なら、宿へ払うことになります」

「本人へ」

「共同財布です」

「本人へ」

 白戸は妹を見る。

 妹が言う。

「本人へ」

「……本人へ」

「成立」

 小麦は鍋帳へ書いた。

 白戸の手続き上の不正と、共同宿舎の九十二食は、同じ頁へ書かなかった。

 混ぜれば、どちらかが免罪符になる。

 分ければ、両方へ責任を置ける。

「助けるんですか」

 白戸が訊いた。

「九十二食を作る」

「僕を」

「診療員が診てる」

「そうではなく」

「あなたが負けても、宿の人の胃は採決結果を読まない」

「僕がまた条件を付けたら」

「契約停止。今夜食べた分は取り返さない。次を断る」

「信用していない」

「してない」

 小麦は白戸の左署名を乾かすため、紙を寝台脇の板へ置いた。

「でも、信用してない相手とも値段は決められる」

 白戸はその紙を見た。

 関係が続くのは、好かれたからでも、許されたからでもない。

 次に断れる条件があるからだった。

 午後十時三分。

 火元を止めたのは、小麦ではなかった。

 共同食堂の年配の調理者が、かまどの栓を閉めた。

「まだ宿の朝分が」

「仕込みは四時」

「今、芋を洗えば」

「寝ろ」

「六十三人」

「明日の私ら、四人」

「でも」

 年配者は小麦の前掛けを外した。

「鍋帳、見せな」

「今?」

「今」

 壁から外した大学ノートを開く。

 調理者十五人。

 作業開始。

 休憩。

 交代。

 体調。

 本人の異議。

 小麦の欄。

《午前四時十二分 作業開始》

《午前十一時四十七分〜十一時五十九分 休憩十二分》

 その後は空白だった。

「夕方、味見した」

「休憩じゃない」

「保健室で座った」

「白戸の契約書いた」

「粥食べた」

「立ってた」

 小麦は反論を探した。

 全部、他人へ向ければ怒れる言い訳だった。

 自分へ向くと、仕事の説明に見える。

「私が抜けたら、誰が判断するの」

「献立は薄い粥。火元は閉じた。明朝は芋粥。もう決めてある」

「塩分」

「私が見る」

「乳糖」

「入れない」

「白戸の分、具なし」

「別鍋、小さいの」

「端パン」

「取っとく」

 年配者は鉛筆を差し出した。

「書きな」

「何を」

「未休憩」

 小麦の指が止まる。

 鍋帳は、働いている証拠だった。

 同時に、働かせすぎた証拠でもある。

 他人の名前は書けた。

 自分の名前の横へ《休めなかった》と書くと、料理人として負けた気がした。

「これ、誰の責任」

 小麦が訊く。

「決めた人」

「私」

「頼んだ人も。止めなかった私らも。全部書け」

「一人にしない?」

「一人にしたら、あんたがまた喜ぶ」

「喜ばない」

「必要とされた顔する」

 小麦は怒って、玉葱を探した。

 かまどは閉じている。

 包丁も洗浄箱の中。

 みじん切りへ逃げられない。

「嫌い」

「知ってる」

「今、すごく嫌い」

「明朝も言え」

 小麦は鍋帳へ書いた。

《午後零時以後、正式休憩なし》

《本人が継続を選択。交代提案不足》

《決定者 土門小麦》

《停止提案 調理班四名、風祭澪》

《停止時刻 二十二時三分》

 その下へ、新しい欄を作る。

《次回の停止条件:四時間で二十分休憩。代行二名がそろわなければ献立を縮小。本人が拒否しても記録者一名の判断で火元停止》

「私の厨房なのに」

「共同食堂」

 年配者が言った。

「共同って、あんた一人の別名じゃない」

 小麦は鉛筆を置いた。

 前掛けを畳む。

 布巾の角を合わせるように、四度も折り直した。

 眠る前に、白戸の具なしスープの塩を考えた。

 それから、考えるのをやめた。

 七月二十八日 午前九時二十六分

 旧体育館の正面扉は、また扉に戻ろうとしていた。

 轟が外した蝶番を洗い、曲がった軸を叩き直す。

 前日、受付台として百人を通した鉄扉は、表面に番号札の鉛筆跡と、椀を置いた丸い染みを残している。

「磨けば消える?」

 七瀬が訊いた。

 左肩を吊り、今日は小型の音声機だけを持っている。

「消える」

 轟。

「残す?」

「扉、閉まる方が先」

「記録価値は」

「写真、撮った」

「映像です」

「なら足りる」

 轟は染みを磨いた。

 歴史を残すために、体育館の扉を閉まらないままにはできない。

 七瀬は止めなかった。

 代わりに、磨く前と後を同じ角度から十秒ずつ撮った。

「空の扉を撮って楽しい?」

 タマキが病院の受領票を持って来た。

「誰もいなかった証拠です」

「昨日は百人いた」

「今日は今、いない」

「僕らいる」

「画角の外」

「ずるい」

「構図です」

 タマキは受領票を七瀬の音声機の前へ出した。

「配膳カート。返却、八時四十三分。右前輪ゆがみ。修理費、会議負担。病院が洗う規定だった」

「小麦に言いましたか」

「言った。悔しがった」

「撮ればよかった」

「食べ物の写真、撮らないでしょ」

「悔しがる人は食べ物ではありません」

「厨房では近い」

 七瀬が笑う前に、音声機のクランクを半回転だけ戻した。

 迅は床へ座り、番号札の紐を付け替えていた。

 右腕は固定。左手だけで結ぶため、結び目が不揃いになる。

 赤い七結びを持つ本人が、百枚の紐には苦戦している。

「九十七は」

 七瀬が訊く。

「議場」

 タマキ。

「本人の希望どおり」

「盗られない?」

「誰かいる」

「誰」

「交代。今は真琴」

「番号札に警備?」

「本人の意思に警備」

 迅が言った。

 タマキは満足そうに頷いた。

 轟が扉を持ち上げる。

「人、足りん」

 迅が立とうとする。

「おまえ、片腕」

「肩で」

「戸が泣く」

「昨日、床だろ」

「今日は戸」

 凱が外から入ってきた。

 左膝の装具を締め直し、白い外套の裾をさらに短く折っている。

「俺が持つ」

「膝」

 迅と轟が同時に言った。

 凱の眉が寄る。

「一人ずつなら聞く。二人だと命令に聞こえる」

「持つ場所、上」

 轟が指示する。

「重量は肩へ。膝を捻るな。上げるのは三秒」

「復唱。上。肩。膝を捻らない。三秒」

 凱は正確に返した。

「迅、軸」

「左で」

「七瀬、時刻」

「九時三十一分。開始」

「タマキ、下に指入れるな」

「言われる前から」

「言うのが仕事」

 四人で扉を戻す。

 轟が重量を受け、凱が上を支え、迅が左手で蝶番軸を入れる。タマキは工具を順に渡し、七瀬が変更と危険を声で記録する。

 三秒では終わらない。

 軸が途中で噛む。

「下ろす」

 轟。

「あと一センチ」

 凱。

「下ろす」

 轟の声が完全な文になる。

「いったん下ろしてください。軸が斜めです」

 凱は従った。

 扉が支持台へ戻る。

「昨日なら押し切った」

 迅が言う。

「昨日でも、構造担当が止めれば従う」

「王席なら?」

 凱は答えるまで一拍置いた。

「従わなかったかもしれない」

「記録しました」

 七瀬。

「消せ」

「撤回窓口はあります」

「誰に似た」

「制度です」

 二度目は軸が入った。

 扉が閉まる。

 開ける。

 もう一度、閉まる。

 轟が壁を二回叩く。

「持つ」

「工賃」

 小麦が体育館へ入ってきた。

 眠ったのは四時間。髪の左右の丸い結びが、今日は少し高さ違いだ。

「誰が払う」

「会議経費」

 タマキ。

「便利な言葉覚えたね」

「端子とカートで二回」

「予算、足りない」

「では俺が無償で」

 凱が言う。

「だめ」

 小麦と轟が同時に返す。

 凱が二人を見る。

「なぜだ」

「無料を当然にする」

 小麦。

「次、職人呼べん」

 轟。

「俺の労働へ金を払う必要はない」

「自分の値段を自分だけでゼロにしない」

「金を受け取っても共同費へ戻す」

「戻すかは受け取った後に決める。最初からゼロと別」

 凱は市場価格に疎い。

「いくらだ」

 轟が蝶番、窓板、工具、作業時間を数える。

「仮修理、四人時。材料別。二百八十」

「安い」

「友人価格?」

 小麦。

「違う。仮」

「正式修理は」

「窓込みで千六百」

 凱の顔が変わる。

「高い」

「王の椅子より?」

「比較対象が分からない」

「昨日の会場費二日分」

「高い」

「壊す方が安いと思うと、また壊す」

 小麦は費用表へ書いた。

 侵入者十五人には、損害の分担と支払方法を本人ごとに確認する。払えない者は、無償労働ではなく、合意した有償修理へ参加し、賃金の一部を賠償へ充てる。働けない者は猶予。異議窓口あり。

「甘いって言われる」

 迅。

「粥と同じ」

「薄い?」

「人を壊さない濃さ」

 小麦は言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。

「今の、記録しないで」

「既に音声へ」

 七瀬。

「消して」

「撤回理由」

「格好つけた」

「本人申告として受理」

 タマキが笑った。

 体育館の中央には、高い王席だけが残っている。

 他の椅子は倉庫へ戻った。

 広い床の真ん中に一脚。

 座る者がいないと、昨日より高く見えた。

「これ、どうする」

 施設管理の老人が訊いた。

「倉庫には入らん。元々、式典用に作ったもんだ。解体するなら鋸」

 凱は王席を見た。

 昨日、一度座った椅子。

 人が静まり、二十三人の委任が一つの声へ集まり、自分が必要な形へ戻りかけた場所。

「壊す」

 迅が言う。

「おまえが決めるな」

 凱。

「じゃあ座る?」

「座らない」

「なら邪魔」

「邪魔だから消すのは、空席を残す考えと矛盾します」

 真琴が九十七番の札を持って、議場側から出てきた。

「王席と九十七番は同じではない」

 七瀬。

「一方は権力を集めるために作られ、一方は委任を拒んだ本人の席です」

「では王席は撤去すべきです」

 真琴。

「撤去を誰が決める」

 タマキ。

 全員が黙った。

 採決は終わった。

 王席の処分は議題にない。

 施設管理者には邪魔。

 凱には過去。

 迅には再発の危険。

 七瀬には記録物。

 真琴には権限の象徴。

 小麦には、床掃除の邪魔だった。

「今、決めない」

 小麦が言った。

「片づかない」

 迅。

「椅子一個で体育館は使える。座らないって札をつける。物置にも祭壇にもしない。誰かが花や鍋を置いたら戻す」

「期限」

 真琴。

「白布の認証と同じ三十日?」

「勝手につなげない」

「では、施設管理者が必要と判断するまでの暫定保留」

 老人が頭を掻く。

「俺が悪者になるやつか」

「決める時は公開」

 七瀬が言う。

「今日決めない理由も記録します」

 凱は王席から視線を外した。

「残すことに賛成ではない」

「反対?」

 小麦。

「今日、俺一人では決めない」

 それで十分だった。

 真琴が札を書く。

《着席者なし》

《委任権なし》

《象徴使用なし》

《撤去・移動は公開記録》

 轟が王席の背へ、釘ではなく麻紐で札を結んだ。

 外せる結び方だった。

 七月二十九日 午後四時十二分

 共同宿舎の食堂には、九十二食分の空の椀が積まれていた。

 小麦は椀の数を数え、鍋の底を指でなぞる。

 焦げはない。

 朝の芋粥は、共同宿舎の調理者二人が作った。小麦は塩分だけ確認し、途中で二十分休憩した。

 休憩中、鍋を見に戻ろうとして、年配者に椅子へ座らされた。

 屈辱だった。

 同時に、食事は止まらなかった。

 それがもっと屈辱だった。

 自分がいなくても鍋が回ることを、夢にしていたはずなのに。

 夢が叶う最初の音は、たいてい自尊心へ悪い。

「味、薄かった」

 共同宿舎の少年が言った。

「誰が決めた」

「うちの調理の人」

「なら本人へ」

「小麦に言えば変わると思って」

「私は監督じゃない」

「有名だから」

「有名は塩を増やさない」

 小麦は鍋帳とは別に、宿の調理記録へ《感想一件・薄い。次回、本人へ確認》と書いた。

 白戸は窓際の机で、左手で委任者九人への返答を書いていた。

 右薬指には固定具。

 字は昨日より少しましだが、まだ傾く。

 九通とも同じ文にはしない。

 相手が訊いたことへ、一通ずつ答える。

 途中で、相手の筆跡を空中へ真似する指が動きかける。

 固定された右手は動かない。

 左手だけが、自分の字を続ける。

「宿の食事、委任条件から外した」

 白戸が言った。

「掲示、見た」

「診療枠も。安全宿泊も」

「見た」

「僕が変えました」

「誰と」

「宿泊担当、洗濯担当、会計、利用者十四人」

「なら、僕が、じゃなくて」

 白戸の眉が寄る。

「僕が提案して、十九人で変えました」

「それなら記録」

「褒めないんですか」

「褒められたい?」

 白戸の声が、小麦へ似かけた。

 丸い響きになる前に止まる。

「……少し」

「偉い」

「軽い」

「十五グラム」