第53話 第一章「蒸気の朝」前編

八月十二日 午前六時四十二分

 王をやめた男にも、風呂の温度を上げる権限はなかった。

「三十七度です」

 共同浴場の番台に立つ女が、棒温度計を獅堂凱の顔の前へ突き出した。

「昨日は四十一度。四度下がった。数字は反対しないでしょう、元王様」

「数字は反対しない。測り方が反対する」

「二本で測ったよ」

 もう一本が出てきた。

 三十六・八度だった。

 負けた。

 凱は白い外套の裾を膝へ掛からないところまで折り、浴槽の縁へしゃがんだ。左膝の装具がきしむ。湯へ指を入れると、確かにぬるい。湯というより、昨日の風呂を今朝まで覚えている水だった。

 朝一番の客が十二人、洗い場へ立っている。

 裸の人間は、旗色を失う。

 白冠だった者も、零番街の者も、湯がぬるければ同じ顔で肩をすくめた。平等とは立派な言葉だが、たいてい暖房が壊れた時に一番早く実現する。

「白い布が街の仕事をするって決めたんだろ」

 桶を抱えた老人が言った。

「決まったのは、仕事ごとに責任者と期限を書くことです。給湯設備の所有権は移っていない」

「説明は熱くても湯は温まらん」

「その通りだ」

 凱が認めると、老人は少し困った顔をした。

 王だった頃なら、認める前に担当者を呼び、配管図を出させ、正午までに復旧時刻を掲示した。速かった。正しかったかどうかは、速さの後ろへ隠せた。

 今は、中央を空けた白布を使う活動に三十日の認証があるだけだ。

 領土なし。

 永久代表なし。

 強制徴収権なし。

 作業ごとの責任者、証者、期限、撤回窓口を記す。

 七月二十七日に発効し、八月二十六日の夜には失効する。

 認証は王冠より軽い。

 だから持ち運べる。

 軽い物は、投げつけられやすい。

 浴室の奥から、白い髭の男が濡れた足で出てきた。

 左肩に、薄く消えかけた白冠の刺青がある。

 凱が王だった頃、外門の交代責任者を務めていた男だ。名を呼ぼうとして、凱は止めた。

 今は浴場の客である。

「陛下」

 男は呼んだ。

 洗い場の空気が変わる。

「その呼び方は終わった」

「俺の口では終わってない」

 男は番台から紙と筆を借り、浴槽の縁へ置いた。

「北工区へ緊急命令を出せ。給湯圧を戻す。昔なら一枚で済んだ」

「昔の命令書は失効している」

「署名は書ける」

「効力がない」

「工場は読める」

「読んで従う者がいる」

「それでいい」

「よくない」

 凱は紙を取らなかった。

 男が眉を寄せる。

「湯が冷たいんだぞ」

「分かっている」

「子どもも老人もいる」

「分かっている」

「なら、なぜ命じない」

「従う者がいるからだ」

 男の顔に、怒りより先に傷が浮かんだ。

 昔なら、それは忠誠と呼ばれた。

 凱の言葉を疑わず動くこと。間違っていた時、間違いを自分の判断にしないこと。命令を出した王だけが責任を持つ、と信じること。

 実際には、王が負える責任には限界がある。

 死んだ者の痛みを引き取れない。

 失った仕事を戻せない。

 命令を待つ癖を、命令で消せない。

「おまえに命じれば、行くか」

「行く」

「配管が破裂しても」

「陛下の命なら」

「それが、よくない」

 男は拳を握った。

「俺の忠義を侮辱するな」

「侮辱していない。使わないと言っている」

「同じだ」

「違う。忠義はおまえのものだ。俺が必要な時だけ取り出す道具じゃない」

 浴場の湯気が薄い。

 声がよく通る。

 番台女が腕を組み、老人たちが桶を止めている。

 男は命令書になるはずだった紙を見た。

「では、俺は何をすればいい」

「客として、何時までなら待てるか言ってくれ」

「命令ではなく?」

「依頼でもない。影響の確認だ」

「小さいな」

「小さくした」

「弱い」

「それも認める」

 男は鼻から長く息を吐いた。

「妻の介護で、十時には身体を拭く湯が要る。浴槽はいらん。十リットル」

 凱はタマキへ目を向ける。

 タマキが受付票へ書く。

《北二長屋。清拭用十リットル。必要時刻、午前十時。申告者――》

 男は自分の名を言った。

 役職ではない。

 凱の部下だった肩書でもない。

「受領」

 タマキが言う。

 男は紙を凱へ渡さず、受付箱へ自分で入れた。

「陛下」

「終わった」

「凱」

 名前だけで呼ぶのに、彼は少し時間が掛かった。

「十時までに答えろ。できないなら、できないと」

「分かった」

「約束か」

「回答する約束だ。湯を出す約束ではない」

「面倒になったな」

「王より?」

「ずっと」

 男は浴室へ戻った。

 凱は白い紙を見送った。

 王令なら、署名は一人で済む。

 生活の必要は、一人ずつ違う字で書かれる。

 面倒なのは、街が壊れたからではない。

 最初から人間が一枚の命令書へ収まらなかっただけだった。

「苦情は受ける」

 凱は言った。

「復旧を約束はできない。原因を確認し、今日の正午までに、何を誰へ頼めるかを掲示する」

「正午まで風呂は」

「営業するか閉めるかは、浴場の責任者が決める」

 番台の女が鼻を鳴らした。

「ぬる湯料金にする。二円引き。差額は赤錆へ請求」

「請求先が決まる前に値引きするのか」

「客は原因が分かるまで裸で待てない」

 凱は頷いた。

 決断は、正しい人間の専売品ではない。

 急いでいる人間が先に値札を書くこともある。

 浴場の外では、環玉樹が緑のニット帽を脱いで絞っていた。雨は降っていない。浴場の軒から落ちる結露を頭から受けただけだ。

「元王様、風呂に入った?」

「測った」

「料金は」

「払っていない」

「指を入れた」

「一秒だ」

「一秒料金、いくら」

「決めていない」

「決めてないなら無料?」

「おまえは朝から誰の味方だ」

「会計」

 タマキは胸より大きな鉄箱から紙束を出した。

 白布活動認証の受付票。

 昨日までに届いた苦情は二十一件。共同浴場四か所、診療所二か所、洗濯場三か所、集合住宅十一棟、豆腐屋一軒。

 給湯温度低下。

 水圧変動。

 赤い沈殿。

 夜中の金属音。

「全部、北工区〈ラスト・ベルト〉の熱と水」

 タマキが言う。

「赤錆大工場から?」

「たぶん」

「たぶんは受取印にならない」

 火群七瀬が浴場の壁際から言った。

 銅色の短い髪。左だけの細い編み込み。黒い短丈雨合羽の腰に、手回し撮影機が下がっている。左肩へ重い機体を載せず、折り畳み三脚の上で低く構えていた。

「共通点は赤錆大工場の熱回収水系です。北工区の給湯、洗濯、浴場、浄水前処理へ接続しています。午前五時台の圧力記録は平常の八割二分。原因は未確認」

「工場へ照会したか」

「四時五十八分、五時二十分、六時三分。回答は《操業に支障なし》

「支障なしで四度下がる?」

 タマキ。

「支障の定義を聞いています。回答なし」

 浴場の戸が開いた。

 山吹色の前掛けが先に出てきた。

「朝ご飯、食べた人」

 土門小麦が言った。

 誰も手を挙げない。

 小麦は左右へ丸く結った髪を揺らし、へこんだ鍋蓋を背へ差した。右前腕の油火傷が朝の光を鈍く返す。

「四人。未食。うち一人は王だった。王は廃止されても低血糖は廃止されない」

「俺は後で」

 凱が答える。

「後でって何時」

 タマキがすぐ訊く。

「おまえは迅の言い方を移すな」

「迅が僕の言い方を取った」

「どちらでもいい。十五分で食べる」

 小麦は紙包みを四つ出した。

 塩むすび。

 焦げた葱の味噌。

 薄い卵焼き。

 凱が包みを受け取ると、小麦は別の帳面を開いた。

 炊事労働台帳〈キッチン・クロック〉

 在庫と代金だけではない。調理者の作業開始、休憩、体温、交代、断った仕事まで書く帳面だ。

「赤錆の昼食注文、先週は百八十二。今朝の確定、九十一」

「給料が遅れている?」

「請求は通ってる。食材もある。注文だけ半分」

「夏場で食欲を」

「工場の人は夏に食欲をなくしたら、秋までに腕もなくす。交代が減ってる」

「なぜ分かる」

「百八十二人分を九十一人で食べる注文なら倍量になる。減ったのは人数じゃなく、席へ来る人」

 小麦は朝の発注票を指で叩いた。

「昨日の空容器、返却が四十九。食べ残し二十一。全部、汁が乾いてた。休憩で食べた残り方じゃない。持ち場へ置いて忘れた残り方」

 七瀬が撮影機を小麦ではなく発注票へ向けた。

「撮る?」

「注文数だけ。調理者名と個別の食事内容は外します」

「食べ残しは」

「許可があれば。食べている顔は使いません」

「宗教みたい」

「食べている人の顔を、説得力に使いたくないだけです」

 小麦は少し考え、空容器だけを並べた。

「じゃあ乾いた汁を撮って。味は映らないから」

 通りの向こうから、重い靴音が近づいた。

 一歩ごとに、道端の排水蓋が短く鳴る。

 伏見轟だった。

 身長は二メートル近い。橙色の工事ベスト。剃った頭。こめかみから首へ三本の傷。左手で工具袋を持ち、右手には共同浴場の配管栓がある。

 建物へ入る前に壁を二回叩く癖があるが、今日は浴場の外壁ではなく配管栓を二回叩いた。

「熱、来てない」

「それは全員知ってる」

 竜胆迅が轟の後ろから現れた。

 色褪せた紺の学ラン。前髪の一房だけ灰色。右腕の白い固定材は外れているが、手首から前腕まで薄い黒の補装帯が巻かれている。赤い七結びは、その下から覗いていた。

 右手で重い物を持つなと医師に言われている。

 迅は左手で凱の塩むすびを奪った。

「俺の」

「王の物は民の物」

「王は廃止された」

「じゃあ無主物」

「三円」

 小麦が言った。

 迅は一口かじってから止まった。

「食後請求は卑怯だ」

「先に値札を見ない人が言うと、よく育つ言葉」

 迅は靴の中敷きへ手をやった。右手が動き、痛みで眉が一瞬寄る。

 七瀬はそこを撮らなかった。

 小麦は見た。

「右、まだ握らない」

「むすびは握ってある」

「口だけ元気」

「使うところが違う」

「朝から下品」

 タマキが言った。

「十四歳が判定するな」

「年齢で意味は変わらない」

 轟が欠けた前歯へ舌を当て、短く笑った。

 笑った後、北を見た。

 工場の煙突が七本、朝焼けへ並んでいる。

 そのうち中央の一本だけ、煙が薄かった。

「行く」

 轟が言う。

「依頼は」

 朽葉真琴の声がした。

 浴場の角を曲がってくる。淡い茶髪を中央で分け、丸眼鏡を掛け、白手袋の指先には既に黒いインクが付いている。

「ありません。苦情はあります。活動認証は依頼者、目的、責任者、期限、撤回窓口を要します。工場は支障なしと回答している。あなた方が勝手に設備へ触れば認証外です」

「湯がぬるい」

 迅。

「感想です」

「工場の飯が半分」

 小麦。

「状況です」

「圧力八割二分」

 七瀬。

「計測事実です」

「人が倒れる前に行く」

 風祭澪の声がした。

 紺の救難上着。右袖だけが短く切れ、内側の橙が見える。腰には三本の真鍮笛。重要な器具は聞こえる左側へ寄せてある。

 澪は浴場の軒下へ入ると、靴先を三度鳴らした。

「七人。北工区へ。救難依頼は私が出す。工場の返答を待つ間、外周の避難路だけ確認する」

「俺も人数へ入っているか」

 真琴。

「入ってる」

「私は同行を承諾していません」

「断る?」

「契約書を見るまでは保留します」

「保留一。同行六。復唱」

「勝手に数えないでください」

「聞こえた」

 澪は歩き出した。

 午前七時二十一分

 北へ向かう途中で、苦情は紙から生活へ戻った。

 洗濯場では、すすぎ水へ赤い粉が浮き、白い包帯が桃色になっていた。診療所では消毒器の湯温が上がらず、看護師が薬缶を三つ並べていた。豆腐屋は固まらない豆乳を木桶へ戻し、「豆は一晩待てるが、家賃は待たない」と言った。

 凱は一軒ずつ、復旧を約束しなかった。

 代わりに、困っている内容と、今日どこまで待てるかを聞いた。

 浴場は正午。

 診療所は午前十時。

 洗濯場は午後三時。

 豆腐屋は、もう待てない。

「期限が四つある」

 タマキが言った。

「原因は一つかもしれない」

「原因が一つなら、期限も一つ?」

「ならない」

 真琴が眼鏡の左つるを押し上げた。

「設備側の一件と、影響側の四件は別の仕事です。工場へ行く目的を《復旧》と書くと、私たちが給湯責任を引き受けたと解釈され得る」

「じゃあ何て書く」

「状況確認、避難路確認、住民影響の通知」

「止めるは?」

 迅。

「書けません。停止権限がない」

「壊れそうでも?」

「緊急避難は別ですが、壊れそうと誰が判断するかが未確定です」

 轟が路面へ手を当てた。

 道路の下で、低い振動が続いている。

「軸、速い」

「何の」

「給水ポンプ。水が減ると、回して埋める」

「危険?」

 凱。

「今すぐ折れる音じゃない」

「今すぐ、は何分」

 タマキ。

 轟は少し考えた。

「一時間か、一年」

「幅が広い」

「中を見ないと狭まらん」

 真琴は用紙へ《状況確認》と書き、その下で筆を止めた。

「終了条件がありません」

「午後六時」

 凱。

「時刻ではなく、何をもって仕事が終わるかです。外周を一周すれば終了なのか、住民へ回答すれば終了なのか。認証様式には欄自体がない」

「期限はある」

「期限は終わりではありません。期限を越えた時に失敗が確定するだけです」

 迅が用紙を覗く。

「壊れるまで?」

「最悪の解釈です」

「でも書いてない」

「はい」

 真琴は新品の紙の一頁目へ書けない癖がある。今回も二枚目から始めていた。

 白い一枚目だけが、風でめくれた。

「空いてるなら、終わりを書く」

 迅が言った。

「様式外です」

「禁止?」

「禁止とは書いていません」

「じゃあ書ける」

「あなたは法をいつも床の穴のように扱いますね」

「落ちなきゃ道だ」

「落ちた人が判例になります」

 七瀬が撮影機のクランクを半回転だけ戻した。

「今のは残します」

「どっち」

「両方です」

 澪は白紙の下へ短く書いた。

《外周避難路の通行可否を確認し、正午までに危険区間を掲示した時点で本作業を終了する。内部救難が発生した場合は別記録へ移行する》

「勝手に追加した」

 真琴。

「現場責任者」

「法的効力は保証しません」

「保証しなくていい。誰が終わらせるかは見える」

 凱はその文を読んだ。

 仕事には始める勇気が必要だ、と王だった頃は思っていた。

 いまは違う。

 始める人は褒められる。

 終わらせる人は、たいてい誰かをがっかりさせる。

 途中、旧議事堂の前で凱は足を止めた。

 昨日まで投票所だった玄関に、今朝は木の掲示板が立っている。白布の仕事を受け付けるための仮設窓口だった。板の左半分には依頼、右半分には完了報告。依頼の紙は十七枚。完了報告は二枚しかない。

《東三区 井戸蓋が閉まらない》

《西長屋 共同便所の夜灯》

《縫製区 賃金の受取人不明》

《北工区 湯温低下》

 最後の紙には、赤い鉛筆で三本の線が引かれていた。

《診療所を優先》

《浴場も生活》

《工場へ口を出すな》

 同じ紙に、違う筆圧。

「人気者ですね」

 七瀬が言った。

「俺ではない。湯だ」

「湯に負ける元王」

「王より毎日使う」

「名言みたいに言っても敗北です」

 窓口を預かる老人が、帳面から顔を上げた。昨日の百人会議で、最後まで白戸へ委任を残していた一人である。

「これ、誰が選ぶ」

 老人は十七枚を指した。

「仕事ごとの依頼者です」

 真琴が答える。

「依頼者は全部、自分が先だと言う」

「だから期限と影響を並べます」

「並べた後は」

「引き受ける者が選び、断った理由を残す」

「選ぶ奴が王になるんじゃないのか」

 凱は掲示板を見た。

 王は大きな問題を選ぶと思われる。

 実際には、選ばなかった小さな問題の方が長く人を恨む。

「なる」

 凱は言った。

 老人の眉が上がる。

「だから、選び直せるようにする。今日は北工区。正午に外周確認を終え、内部事故がなければここへ戻す。診療所の湯は別の応急依頼として、運搬人を募る」

「工場が直れば二度手間だ」

「直ると約束していない」

「元王が弱気になった」

「約束を小さくした」

「同じだろ」

「壊れた時、違う」

 老人はしばらく凱を見たあと、北工区の紙の下へ、余白を一本引いた。

《外周確認 正午まで》

「戻らなかったら」

「窓口へ苦情を入れろ」

「もう入ってる」

「先払いか」

「利息も付く」

 老人が笑った。

 小麦は掲示板の隅に、《診療所向け湯運搬 鍋・蓋あり》と書いた。報酬欄へ「一往復、食券一枚」と記す。

「共同会計から?」

 タマキが訊く。

「浴場の返金積立から立替。あとで工場側へ請求できるか真琴が見る」

「払わなかったら」

「鍋は返してもらう」

「湯は」

「使った人のもの」

 小麦は書きながら、板の高さを測った。子どもには上段が見えない。空箱を二つ重ね、踏み台にする。

「危ない」

 轟が箱を揺らした。

「直して」

「依頼」

「掲示板の踏み台。十分。責任者、小麦。報酬、朝飯」

「成立」

 轟は箱の底へ木片を打ち、がたつきを止めた。

 北工区へ向かう前に、ひとつ仕事が終わった。

 誰も拍手をしない。

 完了報告の二枚の横へ、小さな三枚目が増えただけだった。

《踏み台固定 午前七時五十三分 返却先・議事堂窓口》

 凱はそれを見て、少しだけ左膝の装具を締め直した。

 街を動かすとは、大きな旗を振ることではないらしい。

 旗を見上げられない背丈の人間に、まず足場を渡すことらしい。