第54話 第一章「蒸気の朝」後編

 午前八時十一分

 北工区は、天環の中で一番早く朝を使い切る。

 高架線の下に鉄骨長屋が続き、その向こうで巨大な工場が地面から生えている。赤錆大工場〈ハート・ファーネス〉。炉、浄水、熱回収、鍛造、解体、修理。街が壊れた物を持ち込み、別の形で持ち帰る場所だった。

 正門の上には、赤錆兵団〈ラスト・アイアン〉の旗がある。

 赤い鉄板へ黒い歯車。

 旗を固定する芯は、工場壁へ溶接されていた。

 外せない旗は、旗というより壁に近い。

 門前には作業員が二十人ほど集まっていた。耐熱前掛け。厚い手袋。遮光眼鏡。全員がこちらを見るが、道は空けない。

 中央に鉞谷鉄志が立っている。

 百九十センチの身体。焦げ茶の短髪。熱で薄くなった右眉。濃い琥珀の目。首には冷えた鋲が下がり、耐火手袋を一本だけ腰へ差していた。

 右耳には古い真鍮の補聴器。

 左手で工場の門柱へ触れている。

 轟が先に口を開いた。

「テツ」

「門柱」

 二人は握手をしなかった。

 互いの手が、今どこへ使われているかを知っている顔だった。

「配管、泣いてる」

「古いからな」

「古い音じゃない」

「外から聞いて決めるな」

 鉄志の声は胸へ響く低音だった。本人の耳へ届きにくい分だけ、ときどき大きくなる。

「昔、三番炉の脇をおまえが補強した」

「四年前」

「まだ持ってる」

「持ってる物に、もう一日を載せるな」

「載せる。載せるために補強した」

「何キロまで」

「街一つ」

「重さで言え」

「飯百八十二、長屋四百、浴場四、診療所二。止めたら全部、おまえが運ぶか」

 轟の足が柱間隔へ開いた。

「止めた後、直す」

「止める前に直せ」

「中、見せろ」

「見せない」

 凱が一歩前へ出る。

 工員の何人かが反射的に姿勢を正した。

 白王だった頃の癖が、他人の身体に残っている。

「給湯と浄水の圧力が落ちている。小事故の有無と復旧見込みを住民へ示してほしい」

「操業に支障なし」

「支障の定義は」

 七瀬。

 鉄志が彼女を見る。

「炉が動く。水が出る。人がいる」

「温度低下、圧力変動、昼食注文半減は」

「暑い。古い。忙しい」

「三つとも理由に見えて、原因ではありません」

「カメラを下ろせ」

「現在、門前の全景と発言者の上半身を撮影しています。工員の顔は許可なく公開しません」

「公開しない映像でも、撮られる側は休めん」

 七瀬の口元が水平になる。

 すぐに反論しなかった。

 撮影機を門柱へ向け直す。

「発言は音声だけ。顔を外します」

 鉄志は少し驚いた。

 それを隠すように、腰の手袋を一枚抜いた。

「何をしに来た」

「外周避難路の確認」

 澪が答えた。

「救難依頼者、風祭澪。工場内へ入らない。門前、北壁、冷却水路の出口を歩く。十一時まで。危険があれば現場変更を出す」

「白い布の仕事か」

「帰路班の仕事」

「誰の班だ」

「道の仕事の名前。迅の部下じゃない。凱の隊でもない」

「責任者は」

「私」

「事故が出たら」

「私の署名を残す」

 鉄志は澪の右耳へ目をやった。

「笛が聞こえない隊長が?」

 澪は一番小さい笛を握った。

 吹かなかった。

「聞こえない音がある。だから笛だけにしない」

「炉の中は、聞こえない音だらけだ」

「なら、あなたも耳だけで止めないで」

 工員たちの間に小さな動きが走った。

 鉄志の顔が硬くなる。

「止める話なら帰れ」

「まだ言ってない」

「外の人間は煙を一本見れば止めろと言う。止めた後、誰が食う。誰が長屋の湯を出す。冬の予備材を誰が作る」

「今日は八月だ」

 迅が言った。

「冬は、夏に止めた一日を覚えてる」

「人間は?」

「人間もだ」

 鉄志は迅の右腕を見た。

「止められて、まだ壊れてる腕だな」

「止めなかったから壊れた」

「殴ったからだ」

「詳しいな」

「街中で見た」

「カメラは嫌いなのに」

「嫌いなもんほど、見ないと向こうが勝手に決める」

 七瀬がクランクを半回転戻した。

「今の発言、残します」

「顔は要らん」

「音声だけ」

 凱は門の向こうを見た。

 炉前へ続く広い通路。頭上にクレーン。床の黄色線。人が一定の間隔で歩いている。

 一定すぎる。

 誰も座っていない。

「内部点検を要請する」

 凱が言った。

「要請は拒否する」

「住民供給に関する記録だけでも」

「赤錆の評議で出す」

「いつ」

「今日の交代後」

「交代は何時だ」

 鉄志は答えなかった。

 工員の一人が視線を落とした。

 凱の胸で、割れた青銅鐘が揺れた。

 以前なら、門を開けろと言った。

 白王の命令なら、ここにいる元白冠の工員が二人は動く。赤錆の若い者も、王の声へ反応する。

 速い。

 そして、誰が開けたか消える。

 凱は右手を素手にした。

 命令を出す手。

 指を閉じた。

「正午までに、住民供給の圧力、事故件数、交代時刻を公開してほしい。拒否するなら、拒否した者の名を記録する」

「鉞谷鉄志」

 鉄志は即答した。

「炉前組合議長。赤錆兵団長。公開を拒否する。理由は、外部が数字だけで停止を決めるからだ」

「記録しました」

 七瀬。

「理由も同じ行へ」

「分けません」

「ならいい」

 鉄志が門を閉めようとした。

 そのとき、工場の奥で金属が裏返る音がした。

 巨大な皿を、地面の下で誰かが落としたような音。

 轟の足が開く。

 柱間隔の幅。

「伏せろ」

 完全な文だった。

 門の上から、赤い蒸気が噴き出した。

 白ではない。

 錆色の細い柱が、朝の空へ真っ直ぐ立つ。

 工員が一人、通路から転がり出た。耐熱上着の肩が濡れ、片方の手袋から湯気が上がっている。

 澪は走った。

 三本の笛のうち中央を抜く。

 高い一音。

 右耳へは届かない。

 それでも工場門前の二十人が振り向いた。

「負傷一。門前退避。右路を空ける。救難笛、停止一。復唱!」

 赤い蒸気の柱が、二本になった。