第55話 第二章「止まらない誓い」前編
八月十二日 午前八時十四分
救助命令は、事故より遅れて届く。
だから現場には、届く前の命令が必要になる。
「負傷一。意識あり。右前腕熱傷、呼吸速い。冷却水、十五度前後。氷は直接当てない」
風祭澪は言いながら、倒れた工員の袖を切った。
右耳の補助具を外す。
高い警報音が割れて入ると、床まで傾く。聞こえない方が動ける音もある。
工員の皮膚は赤い。水疱はまだ大きくない。濡れた耐熱布が熱を抱えている。
「名前」
「言える」
「あなたの名前」
工員は息を整え、名を言った。
澪は復唱したが、七瀬へ目を向ける。
七瀬はカメラを負傷者の顔から外していた。
「今いる場所」
「正門」
「何が起きた」
「二次熱回収。赤戻り。継手から」
「中に何人」
「二人。歩ける。たぶん」
「たぶんを分けて。見た?」
「一人は見た。もう一人、返事」
「目視一。返事一。右路から出す。聞こえた人、復唱」
門前の工員三人が返した。
声が重なる。
澪は通さない。
「一人ずつ」
最初の男。
「中、二人。右路」
二人目。
「一人は目視。一人は返事だけ」
三人目。
「門前を空ける」
「よし」
澪は白い救助索を門柱へ回した。
鉞谷鉄志が門を押し開ける。
「俺が行く」
「装備」
「ある」
「同行二」
「要らん」
「倒れたら三人になる」
「炉前の人間を使う」
「本人の返事」
鉄志が二人を指す。
指された工員は動きかけた。
澪は間へ入る。
「行く?」
「行く」
一人。
「行きます」
二人。
「右路。腰索。三分で返事がなければ範囲を広げる」
「工場命令は操業優先だ」
門内から、灰色の作業服の監督が叫んだ。
胸札には《運転統括補佐》とある。
責任者の肩書は長いほど、本人まで届くのに時間が掛かる。
「赤戻り区画のみ退避。主ライン継続。救難は運転を妨げない範囲」
監督は赤い縁の命令票を掲げた。
「発令時刻」
「八時十二分」
「事故は」
「圧力異常の警報も十二分」
「負傷者が出たのは十三分」
「だから命令は先だ」
「範囲は警報前の配管図?」
監督の目が泳いだ。
「現行図だ」
「更新日」
「救難員が問うことではない」
「避難範囲を決めるために問う」
「赤戻り区画だけだ。署名済み」
紙の最下部に工場長の印。
その横に細長い空欄がある。
《現場変更》
変更理由、範囲、時刻、署名。
白冠の救難訓練校で、澪はその欄を何度も見た。
ほとんど空白だった。
命令を変えれば、最初の判断を否定したことになる。
範囲を広げれば、停止損失の請求先になる。
狭めれば、取り残した責任を負う。
空欄は自由ではない。
誰も座りたくない椅子だ。
鉄志が二人を連れて中へ入る。
炉前の工員たちが道を空けた。
止まってはいない。
頭上の搬送鎖は動き、床のローラーは赤熱した部材を運び、遠くで打撃機が一定の間隔を刻む。
事故の横を、仕事が通り過ぎていく。
「澪」
凱が横へ来た。
重要な話をする時、彼は澪の左へ立つようになった。
以前は正面へ立った。
改善は、相手の欠点を知ったことではない。
自分の立ち位置を変えることだった。
「範囲を広げるべきだ」
「理由」
「蒸気が正門上まで達した。赤戻り区画の隔壁が閉じていない。隣接通路の人員を出す」
「何人」
「見える範囲で四十二」
「見えない範囲」
「名簿がない」
「なら命令にできない」
「名簿を出させる」
「誰が」
「俺が要求する」
「拒否されたら」
「俺の名で退避を命じる」
澪は一番小さい笛を握った。
「白王として?」
「現場協力者として」
「四十二人が、あなたの声を白王の声と分けられる?」
凱は答えなかった。
門内で、工員が一人、条件反射のように凱へ頭を下げた。
「私が変える」
澪が言った。
「なら、俺が署名者を守る」
「どうやって」
「停止損失を一人へ負わせない。工場と住民へ説明する」
「それは後」
「今、あなたが一人で負う必要はない」
「一人で決めないと、変更が遅れる」
「なら俺の名も」
「いらない」
澪の声が小さくなった。
命令ではない話をするときの声。
「あなたの名前を借りたら、私が変えたのか、王が変えたのか分からなくなる」
凱の右手が胸の割れた鐘へ触れる。
触れたまま、外した。
「分かった」
「復唱」
「あなたが現場命令を変更する。俺は変更者にならない。変更後の説明と費用分担を引き受ける提案をする」
「提案」
「決定ではない」
「よし」
澪は命令票を監督から取った。
「勝手に書くな」
「現場救難責任者」
「工場が任命していない」
「救難依頼者は私。門前の負傷者を受け取った時刻、八時十四分。以後の救難範囲変更は私が署名する」
「白布の認証を使うなら、工場の同意が要る」
「使わない」
澪は紺の上着から白布を外した。
腕へ巻かず、地面へ置く。
「帰路班の救難として入る。工場が拒否するなら、拒否した名を記録して門外救護だけにする」
監督は鉄志の背中を見た。
鉄志はもう蒸気の向こうだ。
「……門外だけでは二人を出せない」
「なら入場を認める?」
「救難だけ」
「操業命令へ従うとは言ってない」
「現場変更は工場長へ確認が」
「確認は何分」
「回線が混んでいる」
「何分」
「分からない」
「変更する」
澪は鉛筆を取った。
《変更時刻 八時十七分》
《赤戻り区画に加え、北連絡路、二次熱回収床、食堂上通路を退避》
《理由 赤色蒸気が隔壁外へ到達。現行人員名簿未提出》
《変更者 風祭澪》
最後の一画が、紙を少し破いた。
「範囲三。右路と北階段。歩ける者から出す。持ち場の安全を確認してから離れる人は、確認者の名を言う。返事のない者へ三歩以内。復唱!」
監督は返さない。
工員二人が返した。
門前の住民が返した。
凱も返した。
「北連絡路、二次熱回収床、食堂上通路。右路と北階段。持ち場確認者の名を残す」
「あなたは命令しない」
「復唱した」
「よし」
澪は笛を一度鳴らした。
進行でも停止でも帰還でもない。
注意を向けるだけの普通の笛。
誓痕は光らない。
人を動かす前に、聞くかどうかを本人へ返す。
最初に出てきたのは、若い工員ではなかった。
六十近い弁係が、工具箱を抱えて歩いてきた。
「北連絡路、弁三つ閉めた。確認者、俺」
「名前」
名を言う。
澪は書く。
「帰る場所」
「門外」
「歩ける?」
「歩ける」
「右路」
次に二人。
食堂上通路から八人。
全員が不満そうだった。
救助される人間は、感謝の顔をするとは限らない。
仕事を途中で取り上げられた顔をする。
「大げさだ」
若い工員が言った。
「昨日も赤い蒸気は出た」
「昨日、負傷者」
「軽傷」
「今日は一」
「歩ける」
「歩ける人が歩いて出るための命令」
「炉を止める気か」
「今は人を出す」
「同じだ」
「違う」
「外の人には」
「なら違いを説明して」
若い工員は口を閉じた。
澪は待った。
急ぐ時ほど、答えを作ってやりたくなる。
作った答えは、次の命令へ使えない。
「炉を止めたら、給料が減る」
工員が言った。
「食堂も浴場も長屋も文句を言う。俺たちが休んだって言う。だから人を出す話から、止める話になる」
「記録する」
「何を」
「あなたが退避と停止を同じに感じる理由」
「意味ある?」
「次の命令を分ける時に要る」
工員は鼻で笑った。
それでも名を言った。
午前八時二十四分
鉄志が一人目を背負って戻った。
肩へ人を載せ、右手で配管を押さえ、左手で梯子を下りる。
蒸気の中で、赤錆色の腕布が光った。
途中、頭上の継手が外れた。
金属片が鉄志の肩へ落ちる。
鈍い音。
普通なら膝が落ちる重さだった。
鉄志は立ったまま、負傷者を渡した。
耐熱前掛けの下、胸から首へ赤い線が浮かぶ。
炉心不落〈キープ・ザ・ファイア〉。
炉を見守る作業員がいる限り、鉄志は倒れない。
倒れない代わりに、作業員を置いて自分だけ離れられない。
能力は自由を増やすとは限らない。
守る相手と同じ場所へ、本人を縫い付けることもある。
「二人目」
鉄志が言う。
「こちらで行く」
澪は索を渡した。
「俺が」
「呼吸が荒い」
「平気だ」
「判断者、私。三十秒座る」
「命令か」
「救難命令」
「従わん」
「拒否、記録する」
「好きにしろ」
「好きじゃない」
澪は二人の救難員を選んだ。
鉄志が前へ出ようとする。
轟が立った。
正門の左右に引かれた黄色線の間へ、巨大な身体を置く。
一人門〈ワン・ゲート〉。
二本の境界線のあいだでは、一度に一人しか轟へ挑めない。
「門柱」
鉄志の声が低くなる。
「救難、先」
「俺の工場だ」
「負傷者の身体は、工場じゃない」
「退け」
「一人ずつ」
鉄志の右拳が来た。
速かった。
巨体同士の打撃は、遅く見えると思われがちだ。
実際には、遅いのは止まる方である。
鉄志の肩が一センチ沈む。
腰が回る。
拳が轟の胸へ届くまで、半呼吸。
轟は受けなかった。
左前腕を斜めに差し、鉄志の拳を門柱へ流す。金属が鳴る。右足を半歩引き、境界から出ない。鉄志が二撃目へ入る前に、轟は開いた掌を鉄志の胸へ置いた。
押さない。
位置を教えるだけ。
「ここ、熱い」
「知ってる」
「倒れないから、壊れてないと思うな」
「おまえもだ」
「だから、今日は持たん」
轟は道を塞いだまま、後ろを見ない。
「救難、通せ」
鉄志の視線が、担架へ向いた。
二人目の工員が運ばれてくる。
右足を引きずっているが、意識はある。
鉄志は拳を下ろした。
「三十秒だ」
「一分」
「長い」
「相場」
「誰の」
「身体」
轟が黄色線から出た。
勝敗はなかった。
道が一人分、開いただけだった。
負傷者の受け渡しが終わる前に、正門脇の連絡筒が三度鳴った。
短い二回。
長い一回。
轟の顔から、いつもの鈍い笑いが消えた。
「内側、閉じ込め」
「人数」
澪が訊く。
「打音だと二」
「場所」
「洗浄塔の裏」
鉄志が補聴器を戻し、立ち上がる。
「俺が行く」
「呼吸」
「戻った」
「自己申告」
「ほかに誰が決める」
「救難責任者」
澪は返事を待たず、床へ工場図を広げた。赤い蒸気で紙の端が湿る。現場図は三年前。轟が左の親指で二本の線を消し、現在の通路を空中へ描く。
「ここ、増設壁。正面から無理」
「上は」
「足場、熱い」
「下」
「排水溝。一人ずつ」
「鉄志は入れない」
「入る」
「肩幅で詰まる」
「壊す」
「閉じ込め二人の上へ壁を落とす」
鉄志の左手が図面の端を握る。
澪は怒鳴らない。
「あなたは入口を開けたままにする。内部へ私と迅。轟は索。七瀬、時計と外の記録。凱、退避者の名簿。小麦、温水と糖。真琴、命令変更を記録」
「俺の工場だ」
「だから出口を持って」
澪は右耳の補助具を外した。
鉄志の口が動く。
聞き取れない。
澪は左側を向けた。
「もう一度」
「必ず二人返せ」
「返す。あなたも」
排水溝は、人が通るために作られていなかった。
幅六十センチ。高さ八十。底を熱い水が二センチ流れている。澪は肘と膝で進み、腰の索を三回引いた。
進行。
後ろの迅が一回返す。
了解。
声は使わない。蒸気の向こうで誰かが叫んでも、方向を誤る。
十五メートル先で、水面が細かく震えた。
澪は止まり、左掌を床へ置く。
連続振動。
途中で二拍空く。
人が工具で叩いている。
生きている音は、規則正しいとは限らない。疲れれば間が伸びる。怖ければ速くなる。機械の方が、最後まで同じ拍子を守る。
澪は笛を吹かなかった。
代わりに床を三回叩く。
こちらは救難。
向こうから二回。
二人。
排水溝の格子へ着く。向こう側に足が見えた。耐熱靴が二足。一人は立っている。一人は座っている。
「名を」
澪は格子へ口を寄せた。
返事は蒸気に削られた。
「板へ書いて」
鉛筆と薄板を隙間から渡す。
一枚目に二人の名前。
二枚目に《一人、目が見えにくい》。
三枚目に《扉、外から開かない》。
迅が格子の蝶番へ指を掛けた。
右手ではない。
「引く?」
「待つ」
澪は格子の四隅を触った。左上だけ熱が低い。そこへ冷却水が漏れている。無理に引けば、裏の管を折る。
迅は一度頷き、腰の細い金具を抜いた。
「切らない」
「外す」
「何を」
「格子じゃなく、留め具」
それは能力ではなかった。
欠けた金具を梃子にし、錆びた割りピンを半回転ずつ起こす。右腕を固定したまま、左手だけで四本。遅い。だが壊さない。
澪は後ろへ二回索を引いた。
時間延長。
外から鉄志が一回、強く返した。
了解ではない。
急げ、に近い。
澪は同じ二回を返す。
急いでいる。
だから壊さない。
最後の割りピンが抜け、格子がこちらへ倒れる。迅が肩で支えた。固定帯の下で息が詰まる。
「右」
澪。
「使ってない」
「顔が使った」
「顔は折れてない」
「後で診る」
一人目は自力で排水溝へ入った。二人目は洗浄液が目へ入り、片目を開けられない。澪は手首へ白い短索を結ぶ。
「私の踵だけ触って。止まったら止まる。引かれたら離さない」
「外へ出たら、戻れって言われる」
「誰に」
「班長」
「名前」
男は言えなかった。
澪は待たない。
「外へ出た後の命令は、外で受ける。今は帰る」
四人が排水溝を戻った。
途中で背後の格子が落ちる音がした。壊したのではない。支えが外れた音だ。
出口へ近づくと、鉄志の左腕が暗がりへ伸びてきた。一人目を引き上げる。二人目。次に澪。最後に迅。
鉄志は人数を数え、二人目の顔を見た。
「戻らなくていい」
先に言った。
男の口が開く。
「班長へは俺が言う」
「親方が?」
「俺が」
澪はその言葉を復唱しなかった。
本人が言った言葉は、本人の声で残した方がいい時もある。
七瀬の時計は、午前八時五十九分を示していた。
命令を変えた者。
入口を持った者。
格子を外した者。
外へ戻らなくていいと言った者。
一人の英雄へまとめれば、話は短くなる。
救難記録は、短い話を作るための紙ではなかった。
午前九時五分
退避者は四十六人になった。
澪は足元の靴を数える。
四十二と予測した範囲から四十六。
名簿にいなかった清掃員が二人。
夜勤から残っていた補修員が一人。
注文を届けに来た外部の運搬人が一人。
現場は、紙より四人多かった。
「四十六。負傷三。搬送二、経過観察一。所在不明ゼロ。復唱」
救難員が返す。
工場の監督は返さない。
鉄志は門柱へ座らず寄りかかり、補聴器を外していた。首の鋲を掌で温めている。三十秒の休憩は、結局一分二十秒になった。
小麦が濃い麦茶を差し出す。
「飲む」
「名を言え」
「鉞谷鉄志」
「能力使わない」
「聞いてない」
「使う時は言う」
鉄志は飲んだ。
「薄い」
「濃いのが好きなの知ってる。でも今は水分」
「誰から」
タマキが横から訊く。
「共同食堂」
「誰へ」
「鉞谷鉄志」
「何のため」
「倒れないため」
「違う」
小麦が言った。
「倒れられる身体へ戻すため」
鉄志は麦茶を見た。
「詩で腹は膨れん」
「麦入ってる」
「それで、誰が食う」
「まずあなた」
「工場を止めたら」
「止めた後の献立を決める。止めない理由に、作る人の仕事を勝手に使わないで」
鉄志は返事をしなかった。
聞こえなかったふりをしたのかもしれない。
右耳に補聴器はない。
けれど小麦は、彼の左側に立っていた。
四十六人の確認が終わったあと、凱は靴の列をもう一度数えた。
四十七足ある。
「一足多い」
七瀬が言った。
「靴は二足で一人です」
真琴。
「四十七足。片方だけが三つ」
凱は列の端を示した。
安全靴の右だけ。
布靴の左だけ。
小さなゴム靴の右だけ。
「ゴム靴、子ども?」
タマキ。
「工場内に子どもはいない」
監督が即答する。
「名簿に?」
「規則でだ」
「規則が靴を履く?」
迅。
監督は答えない。
澪は人数確認を《所在不明ゼロ》から戻した。
「靴三。所有者確認まで、未確定」
「全員出た」
監督。
「人は」
「なら何を探す」
「靴の持ち主」
ゴム靴は洗浄塔の運搬口で拾われた。片方だけ泥が新しい。工場の外から入った跡。
タマキが靴底を見て、鉄箱の内側にある配達路の泥見本と比べる。
「北用水路」
「分かるのか」
「黒い砂と白い貝殻。配達路三番」
「誰が通る」
「食材運搬、洗濯回収、廃材拾い」
最後の言葉で、監督の顔が固くなる。
廃材拾いは工場へ登録されない。
捨てる銅線、曲がった釘、石炭片を拾い、外で売る。立入は禁止。だが工場側も、廃棄物が減るため黙認してきた。
「子どもが入った可能性」
澪。
「ない」
「確認方法」
「規則」
「規則は返事しない」
澪は洗浄塔外周の退避範囲を、用水路側へ十メートル延ばした。
監督が反発する。
「また勝手に」
「変更、風祭澪。理由、所有者不明の小型靴一。確認後に戻す」
凱は外周班を二つに分けた。
轟と迅は用水路。
澪とタマキは廃材置場。
七瀬は靴と時刻を固定撮影。
真琴は立入違反の処分を一時保留する文を書く。
「保留?」
監督。
「見つけた者が処罰を恐れて逃げると、救助確認が遅れます」
「犯罪者を助けるのか」
「生存確認と処分を分けます」
「甘い」
「死体へ罰金は請求できません」