第56話 第二章「止まらない誓い」後編
真琴の言い方は冷たい。
冷たいから、誰かの善意ではなく手順として使える。
用水路の橋の下で、轟が壁を二回叩いた。
返事はない。
迅は泥の足跡を見る。
小さい跡が二つ。
片方は靴。
片方は裸足。
工場から外へ向かっている。
「出てる」
「どこへ」
「水路下」
二人が橋を回ると、石組みの隙間に少年がいた。
十歳前後。
片足にゴム靴、もう片足は裸足。胸へ銅線を抱えている。
轟を見ると、逃げようとした。
迅が道を塞がない。
逃げる先を指す。
「そっち、蒸気」
少年が止まる。
「捕まえる?」
「今は数える」
「何を」
「生きてる人」
「銅、返さない」
「後」
「後っていつ」
タマキの癖が、迅へ戻っていた。
「蒸気が止まって、名前を言いたくなった時」
「言わない」
「じゃあ名無し一」
「それ、名前みたい」
「嫌?」
「嫌」
少年は自分の名を言った。
七瀬は遠くから撮影機を下げる。
「顔と氏名、非公開。生存確認のみ」
「盗ったことは」
少年。
「私は見ました」
「言う?」
「救助記録には混ぜません」
「別に言う?」
「後で、あなたへ先に確認します」
「面倒」
「よく言われます」
少年の足裏に、浅い切り傷がある。
澪が洗浄し、片方の靴を履かせる。
「工場の中に、ほかに誰かいた?」
「今日は俺だけ」
「昨日は」
「言わない」
「今日は、だけ確認」
靴一足の持ち主が決まった。
残る二つは、負傷者が搬送時に片方を履いたままだったことと、廃棄予定の見本靴だと分かった。
四十六人。
外部の少年一人。
現場にいた可能性のある生存者、四十七。
最初の名簿より五人多い。
澪は《所在不明ゼロ》を、もう一度書いた。
今度のゼロは、紙に最初からいた人だけを数えたゼロではない。
規則の外へいた一人を、規則の中へ無理に入れず、生きて帰した後のゼロだった。
少年を救護所へ送ったあと、澪は退避者四十六人をすぐ持ち場へ戻さなかった。
正門横へ、靴底を洗う浅い槽を二つ置く。
一つ目、赤い粉を落とす。
二つ目、洗浄液の残りを測る。
「帰れるだろ」
工員が言った。
「皮膚と靴を確認してから」
「大げさ」
「目に見えない付着が、長屋で子どもへ移る」
「今まで毎日帰ってる」
「だから今日から数える」
澪は一人ずつ、手袋を外すか本人へ選ばせた。外さない者は、手袋の表面だけを測る。外した者は指の色、痺れ、火傷を確認する。
十一人目で、右手の薬指が白くなっている男がいた。
「痛み」
「ない」
「感覚」
「ある」
「この指へ触れた」
澪は綿棒を当てる。
「分かる」
「目を閉じて」
もう一度。
男は答えない。
「分からない」
「寒いだけ」
「今日は暑い」
「昔から」
「いつから」
「分からん」
小麦が鍋帳へ書く。
《手指感覚低下一。事故由来未確定》
「俺を負傷者へ入れるな」
「入れてない。確認待ち」
「仕事、外される」
「外すかは救護と本人が決める」
「本人は続ける」
「救護は検査する」
「なら本人の意味ない」
「続けたい理由を聞く意味がある。傷を消す意味はない」
男は怒ったまま、検査票を受け取った。
次の工員は手袋を外さなかった。
「拒否、記録」
「罰は」
「なし。症状の有無も未確認」
「隠したって書く?」
「確認を断った、とだけ」
「同じだ」
「違う。隠した理由まで私が決めない」
澪は右耳の補助具を外したまま、全員の返事を左側で受けた。
列が右へ回り込むたび、立ち位置を変える。
工員の一人が訊く。
「耳、治ってないのか」
「高い音は戻らない可能性」
「救難、できる?」
「できる方法を変える」
「俺たちには検査しろって言って、自分は」
「昨日、診察済み。再検査は二十日」
「記録」
七瀬が画面を下げたまま答える。
「本人の医療記録。公開しません」
「便利だな」
「不便です」
澪は言った。
「聞こえない側から、便利という声だけはよく来る」
男は口を閉じた。
全員の確認が終わるまで四十八分。
追加で診療へ回した者、六人。
手袋表面の赤粉高値、九人。
確認拒否、四人。
工場が動いているかどうかだけなら、四十八分は損失だった。
人がどんな身体で戻るかまで仕事へ含めれば、最初から必要だった時間になる。
午前十時十七分
工場長から返答が来た。
《操業継続。現場変更は過剰。損失算定後、変更責任者へ照会》
監督が紙を澪へ突きつける。
「撤回しろ」
「撤回しない」
「負傷者は出た。もう範囲を戻せる」
「配管は直ってない」
「赤蒸気は減った」
「減った理由」
「二番へ逃がした」
「二番の耐圧」
「運転部が見る」
「誰」
「運転部だ」
「名前」
監督は答えない。
澪は変更票の下へ追記した。
《十時十七分 変更継続。理由 二番返送管の耐圧確認者、未提示》
「あなたは責任の意味を分かっているのか」
「分からない部分を名前付きで残すこと」
「違う。金だ。停止損失だ。住民の苦情だ」
「それも残す」
「十六歳が払える額じゃない」
「年齢で蒸気は曲がらない」
タマキが言った。
迅が小さく笑う。
「おまえの台詞、取られたな」
「言ってない」
「言いそう」
凱は変更票の写しを取った。
「風祭澪の判断へ異議がある者は、ここへ書け。賛成だけを集めない。費用請求は俺が窓口を作る。ただし、彼女の署名へ俺の名を足さない」
監督が言う。
「元王が保証するのか」
「保証しない。分担を提案する」
「言葉遊びだ」
「以前の俺なら、保証すると言って全員へ従わせた」
「今は何が違う」
「保証できないと言える」
「弱くなったな」
「そうだ」
凱は即答した。
監督の方が困った顔をした。
弱さは、相手が勝つために用意した言葉である。
本人が先に受け取ると、武器にならない。
正午三分
退避範囲は解除されなかった。
操業も止まらなかった。
二つの命令が同じ工場へ残った。
工員は持ち場へ戻る前に、澪の変更票を見た。
賛成した者は少ない。
反対欄に九人。
保留が十三人。
読んだだけが二十人。
澪は読んだだけの者を賛成へ数えなかった。
命令は人数で正しくならない。
だが、誰がどこまで知っていたかは、次の命令を変える。
救難員が最後の担架を南詰所へ運ぶ。
澪は門前に残った。
「帰らない?」
小麦が訊く。
「変更範囲の確認」
「ご飯」
「後」
「後って何時」
「十三時」
「十二時半」
「十三時」
「十二時四十五分」
「交渉?」
「食事」
「十二時四十五分」
「記録した」
小麦は鍋帳へ書いた。
澪は地面へ置いた白布を拾う。
腕へ戻さない。
折って、救難鞄の外側へ結んだ。
今日は白布の命令ではなかった。
自分の名で変えた命令だった。
赤い蒸気は細くなっていた。
消えてはいない。
澪は右耳へ補助具を戻さず、左手を門柱へ触れた。
鉄の内側から、休みなく続く振動が掌へ上がってくる。
工場は動いていた。
命令も、まだ止まっていなかった。