第57話 第三章「工員の昼食」前編

八月十三日 午前十一時三十八分

 食堂へ椅子を持ち込むだけで反乱になる職場は、たいてい椅子より先に何かが壊れている。

 土門小麦は折り畳み椅子を十二脚、赤錆大工場の食堂へ並べた。

 一直線ではない。

 三脚ずつ、四つの机を囲む形。

 食べる人間は兵隊ではないからだ。

「撤去しろ」

 運転統括補佐が言った。

「理由」

「通路を塞ぐ」

「避難幅、一・八メートル残る」

「作業員が滞留する」

「食堂だから」

「工程が遅れる」

「休憩時間」

「自主的に短縮している」

「自主的って、誰が最初に言った」

「全員だ」

「全員の名前」

 補佐は答えなかった。

 小麦は椅子を一脚増やした。

「増やすな」

「答えない人の分」

「煽動だぞ」

「座るだけで煽動なら、椅子が議長」

 食堂の隅で、タマキが鉄箱の留め具を鳴らした。

 笑いを我慢した音だった。

 昨日の事故後、工場は外部の食事搬入だけを認めた。

 白布の活動認証は使っていない。

 食堂と小麦の間にある、以前からの納品契約。

 米百二十食。

 豆と根菜の汁。

 塩漬け胡瓜。

 麦茶。

 代金は赤錆の共同会計。

 調理は零番街。

 配膳は工場側。

 小麦は今日だけ、配膳監査という名目で付いてきた。

 監査という言葉は便利だ。

 手伝うと言えば無料にされる仕事でも、監査と言えば机を出してもらえる。

 もっとも、机は出たが椅子は出なかった。

「十二時から三十分、全工程休憩では」

 タマキが発注票を読む。

「規定は」

「工程別。十二時から十三時の間に二十分以上」

「二十分」

「紙は」

「現場は三分」

「紙と人、どっちが食べるの」

「紙は油を吸う」

「冗談覚えた?」

「迅が言いそうなことを先に言った」

「悪い教育」

 タマキは緑と赤の靴紐を結び直した。

 工場内は道によって色を変える。

 赤は炉前。

 緑は給水。

 黄色は荷役。

 タマキは自分の靴紐へ工場の色を借りたが、左右を同じにはしなかった。

「誰から」

「共同食堂」

「誰へ」

「赤錆大工場、昼勤百二十人」

「何のため」

「食べて、生きて、午後に判断するため」

「操業のため、じゃない?」

「食べた人が決める」

 タマキは受領票へ書いた。

《目的 昼食。操業継続への同意を含まない》

「長い」

「短くして意味が減るなら、紙を増やす」

「真琴みたい」

「嫌」

 小麦は即答した。

 食堂の時計が十一時五十分を指す。

 工員が一人入ってきた。

 耐熱上着を脱がず、立ったまま盆を取る。麦飯を三口。汁を二口。胡瓜を一本。合計二分四十七秒。

 席を見たが、座らない。

「椅子、空いてる」

「戻る」

「休憩何分」

「三分」

「規定二十分」

「忙しい」

「名前」

 工員は警戒した。

「何に使う」

「食事時間。事故記録と合わせる。嫌なら名前なし、工程だけ」

「炉材搬送」

「昨日」

「三分」

「一昨日」

「五分」

「その前」

「覚えてない」

「食べ残す理由」

「戻るから」

「味じゃない?」

「味はいい」

「よし」

「喜ぶところか」

「料理人だから」

 工員は少し笑った。

 笑うと、手の震えが見えた。

 汁椀の表面に細かな輪が広がる。

「右手、いつから」

「何が」

「震え」

「熱いだけ」

「椀は五十二度。手袋を外して四分。熱じゃない」

「医者か」

「料理人。熱い器を持つ手は見る」

「寝不足」

「何時間」

「四」

「今日の持ち場、誰と交代」

「いない」

「椅子へ座って」

「命令じゃない」

「なら断る」

「断ったの記録する」

「好きにしろ」

 昨日と同じ言葉だった。

 好きにしろと言う人間は、だいたい好きにされると思っていない。

 工員は盆を返し、走らずに急いだ。

 椅子が十三脚、空いている。

 正午二分

 十二人が入ってきた。

 座ったのは二人。

 三人は立ったまま食べ、四人は飯だけ包んで持ち場へ戻り、二人は麦茶だけ、一人は小麦の顔を見て何も取らなかった。

「食べない?」

「そっちの能力、使うだろ」

「今日は使わない」

「同じ鍋から名を言ったら」

「使う時は言う」

「言わずに使える」

「使ったら私が鍋を失う」

「誓いを信用しろって?」

「信用しなくていい。別鍋ある」

 小麦は小さい鍋を出した。

 同じ献立。

 同じ温度。

 能力を使わない人向けに、柄へ白い布を巻いてある。

「何が違う」

「鍋」

「味は」

「同じ」

「面倒だな」

「安全は、面倒を手順にしたもの」

「誰の受け売り」

「今作った」

 工員は白い柄の鍋から受け取った。

 名を言わない。

 小麦も聞かない。

 同じ釜〈セイム・ポット〉は、同じ鍋から名を告げて食べた者の疲労、寒さ、空腹を均す。

 昨日のような工場で使えば、立っていられる者が増える。

 その代わり、倒れるべき身体が倒れなくなる。

 重症者の疲労が百人へ薄まり、本人の異変が見えなくなる。

 能力は、助ける形で事故を隠すことがある。

 今日は使わない。

 小麦は鍋帳へ大きく書いた。

《能力不使用》

《理由 疲労差と熱症状を観察するため》

「手抜き?」

 タマキが訊いた。

「違う」

「顔が手抜きって思ってる」

「思ってない」

「布巾、四回折り直した」

 小麦は手の布巾を見た。

 角が合っている。

「監視しないで」

「記録」

「七瀬みたい」

「嫌?」

「今日は全員、嫌な人に似る日?」

 タマキは塩パンを一つ取った。

「料金」

「配達人分」

「食べたら仕事を頼む?」

「もう頼んでる」

「何を」

「工員へ食事時間を聞く。名前は要らない。工程、開始、終了、座ったか」

「僕が聞くと子どもへ答えた感じになる」

「嫌なら断っていい」

「料金」

「一件一円。上限三十。虚偽はゼロ」

「本人が覚えてない時」

「覚えてない、を一件」

「成立」

 タマキは塩パンを口へ入れ、鉄箱を背負った。

 仕事を頼むと、子ども扱いしないことになるとは限らない。

 危険を説明し、断る値段を付けるところまでして、ようやく少し近づく。

 午後零時二十九分

 小麦は調理台の裏で、最初の食べ残しを見つけた。

 金属弁当箱の隅に、麦飯が五口ぶん。

 焦げた豆だけがきれいに消えている。

 蓋の内側に、黒鉛で時刻が書かれていた。

《十時五分》

 昼食ではない。

 朝の残りだった。

「持ち主」

 配膳係へ訊く。

「返却棚にあった」

「誰の」

「番号が消えてる」

「消した?」

「熱で」

 小麦は箱を傾けた。

 底の一角だけ、繰り返し火へ当てたように青く変色している。飯を温めたのではない。持ち場の機械へ置き、熱が移った。

「食堂へ来ない人の箱」

 小麦は言った。

「箱だけ食堂へ帰ってる」

 七瀬が撮影機を向ける。

「番号は読み取れません。工程の推定は」

「炉材搬送か返送管。赤い粉が違う」

「断定は」

「しない。箱を洗わないで。乾いた飯と粉を別に取る」

「衛生上、食用へ戻せません」

「記録用。代金は払う」

 配膳係が顔をしかめる。

「弁当箱を証拠にするのか」

「昼ご飯にするより、まし」

「持ち主が怒る」

「返してほしいなら名を言える」

「言えない事情がある」

「なら返却棚に置いたまま、ここで記録する。持ち出さない」

 小麦は鍋帳の脇へ、別紙を置いた。

《所有者不明。公開しない。工程推定せず》

「役に立たないじゃないか」

「役に立つために、持ち主を勝手に作らない」

 七瀬が小さく頷いた。

 配膳係は納得しないまま、箱を透明な蓋で覆った。

 食堂へ来ない人の昼食は、誰かの証拠になる前に、その人の物だった。

 午後一時十七分

 小麦の前に、紙が三列並んだ。

 左が食堂の鍋帳。

 中央が工場の小事故掲示。

 右がタマキの聞き取り票。

 七瀬は撮影機を机へ固定し、紙全体が入る角度を取っている。左肩を使わず、右手でゆっくりクランクを回す。

「事故掲示、いつから」

「工場入口に三か月分。軽傷は件数だけ。時刻と工程は昨日の負傷者記録から照合」

「公開していい?」

「掲示分は。個人の聞き取りは本人確認後、工程別の集計だけ」

「数字にしたら人が消える」

「名前を出せば生活が消えることもあります」

「どっち」

「両方残す。公開は分ける」

 七瀬は紙の左端に時刻線を引いた。

 十一時五十分。

 十二時。

 十二時十分。

 十二時二十分。

 十二時三十分。

 事故時刻へ黒い点を置く。

 過去二週間、軽傷十五件。

 十一件が、休憩開始予定から二十分以内。

 八件が、休憩を五分未満で切り上げた工程。

 数字だけなら、偶然と言える。

 聞き取り票には別のことが書いてある。

《食べながら弁を監視》

《汁を持ち場へ。冷めて廃棄》

《座ると次の人が遅れる》

《親方も休まない》

《自分だけ休めない》

《昨日は昼食なし。事故なし》

 最後の一枚が大事だった。

 食べなければ必ず事故になるわけではない。

 だから食べれば安全とも言えない。

 人間の身体は、名言ほどきれいに因果を守らない。

「事故時刻と休憩削減は相関」

 七瀬が言った。

「原因は確定しない」

「難しい言葉にしないで」

「休めなかった日に事故が多い。でも休めなかったから事故になったと、これだけでは断定できない」

「それ」

「字幕へ使います」

「長い」

「短くすると断定になります」

「真琴みたい」

「今日は全員、嫌な人に似る日らしいです」

 七瀬は口元を少しだけ緩めた。

 食堂の入口で、鉄志が立っていた。

 聞こえていたのか分からない。

 右耳の補聴器は外している。

「事故を飯のせいにするな」

「してない」

 小麦が答える。

「親方が休ませないって映像を作る気か」

「作らない。休憩時間を聞いてる」

「俺も三分だ」

「偉くない」

「偉いと言ってない」

「顔が言ってる」

「顔を撮るな」

 七瀬はカメラを紙へ向けたまま答えた。

「撮っていません」

 鉄志は食堂へ入った。

 椅子を見た。

 一脚へ手を掛ける。

 片づけるのかと思った。

 彼は机との間隔を測り、通路を十センチ広げた。

「ここはクレーン担架が通る」

「最初に言って」

 小麦。

「聞かなかった」

「避難幅一・八で足りると思った」

「担架は曲がる」

「じゃあ一・九」

「二・一」

「広い」

「担架の横に人が一人」

「二・一」

 小麦は椅子を動かした。

 正しい指摘をした相手が、間違った文化を持っていることはある。

 どちらか一つにすると、話は楽になる。

 現場は楽にならない。

「親方」

 炉材搬送の工員が食堂へ入った。

 朝、手が震えていた男。

「二番ローラー、音が」

「行く」

 鉄志がすぐ振り向く。

 小麦が前へ出た。

「今、休憩」

「異音」

「確認は必要」

「なら退け」

「別の人」

「俺が分かる」

「親方しか分からない工場?」

「今は」

「それ、壊れてる」

「設備の話か」

「仕事」

 鉄志の左手が手袋へ伸びた。

 一枚を抜く。

 怒る前。

 小麦は鍋蓋へ手を掛けなかった。

「食べて」

「命令か」

「注文」

「断る」

「断ったの記録」

「好きにしろ」

「それ、流行ってる?」

 鉄志は工員を見る。

「二番ローラー、誰と見た」

「一人」

「止めたか」

「遅くした」

「誰の判断」

「俺」

「よし。図を持ってこい。ここで聞く」

 工員は驚いた。

 鉄志自身も、言った後に少し驚いた顔をした。

 食堂の机へ図面が広がる。

 小麦は鉄志の前へ飯を置いた。

「名前」

「知ってるだろ」

「能力使わないけど、配膳記録」

「鉞谷鉄志」

「量」

「普通」

「普通は人による」

「大」

「汁」

「少なめ」

「麦茶」

「濃い」

「注文はできる」

「喧嘩売ってるか」

「昼ご飯」

 鉄志は座らなかった。

 小麦は椅子を引いた。

「三分だけ」

「三分なら立つ」

「座って三分」

「意味が」

「手が震えてる人の前で、親方が座る意味」

 食堂の空気が止まった。

 工員たちが見る。

 見られるほど、鉄志は立ち続ける。

 炉心不落は炉前だけの能力だ。

 だが倒れない男の誓いは、食堂まで持ち込まれている。

 能力が光らなくても、共同体は人を縛る。

「煽動だ」

 運転統括補佐が入口で言った。

「座る人を増やして、ラインを遅らせる」

「休憩規定」

 小麦。

「自主短縮」

「誰が最初」

「全員」

「名前」

 また答えない。

 鉄志は椅子を見た。

 座らない。

 代わりに、工員へ言った。

「おまえは座れ」

「親方は」

「図を見る」

「座って見られる」

 タマキが言った。

「子どもは黙れ」

「子どもが分かることを、大人だけ難しくする?」

「タマキ」

 小麦が止める。

「料金、減る?」

「今のは余計。一円減る」

「厳しい」

 工員が椅子へ座った。

 椅子の脚が床へ当たる。

 ただの音だった。

 工場の中では、警報より珍しい音になっていた。

 工員は飯を一口食べる。

 二口。

 三口。

 手の震えが少し減る。

 そのとき、食堂の壁で赤い灯が点いた。

 一度。

 消えない。

 遠くでローラーの回転が落ちる。

 運転統括補佐が叫んだ。

「誰がラインを遅らせた!」

 座った工員が立ち上がる。

「俺が――」

「座って」

 小麦は言った。

「今、立つと全部あなたのせいになる」

「実際、俺が離れた」

「二番ローラーは遅くしたって言った」

「それで全体が」

「警報値を見て」

 七瀬がカメラを壁へ向けた。

 赤灯の下に圧力計。

 針は危険域の手前。

 透明なカバーの縁へ、細い金属片が挟まっている。

 針がそこから下へ戻らないよう、昨日まで固定されていた跡。

 金属片は今、振動で外れ、床へ落ちていた。

「警報は今、上がったんじゃない」

 七瀬が言う。

「今まで下がらないように見せていた計器が、正しい位置へ戻った」

「断定するな」

 補佐。

「固定痕があります。挟まっていた金属片と同じ幅。設置者は未確認」

「外部が触った」

「撮影開始、十一時三十五分。以後、計器へ触れた者はいません」

「その前だ」

「あり得ます。だから設置者は未確認」

 小麦は座った工員の盆を押さえた。

 汁椀の表面が揺れている。

 工員の手ではない。

 床が震えている。

「椅子のせいじゃない」

「椅子が遅らせたから、警報が出た」

「遅らせて見えたなら、速く動かして隠れてた」

「止める気か」

「食べさせる」

「同じだ」

「違う」

 小麦は鉄志を見る。

 鉄志は圧力計を見ている。

 作業員ではなく、針を。

 やがて視線を工員へ戻した。

「二番ローラー、停止」

 補佐が振り向く。

「全体へ負荷が」

「二番だけ。点検」

「工場長命令は操業優先」

「壊れたローラーで操業できん」

「休憩中の異常だ。食堂を閉じれば」

「椅子は壊れてない」

 鉄志の声は低い。

「ローラーを見ろ」

 工員が立ちかける。

「おまえは食え」

「親方」

「別の者を出す」

「誰」

 鉄志は答えようとした。

 食堂にいる全員が、彼を見る。

 名前を待っている。

 一人しか分からない仕事を、誰へ渡すか。

 鉄志の口が止まった。

 警報灯は消えない。

 小麦は鍋帳へ、最初に椅子へ座った時刻を書いた。

《十三時四十三分》

 その横に、警報が点いた時刻を書く。

《十三時四十四分》

 数字は、誰かを有罪にするためだけにあるのではない。

 同じことが起きたとき、次は一分早く止めるためにもある。

 午後一時五十分

 二番ローラーは、止まらなかった。

 正確には、回転数を通常の三分の一まで落としたまま、低い唸りを続けた。

 停止命令を出しても、止め方を知る一人が食堂へいる。

 工員は椅子から立ち上がろうとした。

 鉄志が肩を押さえた。

 右手だった。

 熱傷で薬指と小指の握りが弱い手。

「食え」

「親方、俺が」

「図で言え」

 工員は図面へ指を置いた。

「ここ。戻り軸の潤滑が切れてる音。止めるなら、先に荷を抜いて、左の鎖を落として、ブレーキを二段。急停止だと赤材が跳ねる」

「誰ができる」

「俺と親方」

「ほか」

「……夜勤の一人」

「呼べ」

「寝てる」

「起こす」

「昨日二時間しか」

 鉄志の手が止まる。

 休んでいる者を起こす。

 目の前の者を休ませるために。

 正しさが順番待ちを始めると、最初に立っていた人間がずっと立ち続ける。

「俺がやる」

 鉄志が言った。

「親方しか分からない工場」

 小麦がもう一度言う。

「今は」

「明日は?」

「教える」

「いつ」

「止まった後だ」

「止める話?」

「二番だけだ」

「同じじゃない?」

 鉄志が小麦を見る。

 昨日、自分が言った言葉だった。

「違う」

「なら、違いを残して」

 小麦は鍋帳を差し出した。

 鉄志は読み書きが遅い。

 それを隠すため、会議の文を暗記する。

 小麦は急かさなかった。

 鉄志は一行ずつ追い、左手で書いた。

《二番ローラー休憩中点検。停止判断 鉞谷鉄志。担当者一名を食堂へ残す》