第58話 第三章「工員の昼食」後編
「担当者の名」
鉄志が本人を見る。
「出す?」
工員は考えた。
「工程内だけ」
「公開しない」
小麦が答える。
名が書かれる。
鉄志は図面を持ち、食堂を出た。
座らなかった。
だが、別の者を座らせたまま出ていった。
小麦はそれを勝利とは書かなかった。
《休憩継続 一名》
それだけ書いた。
午後三時二十六分
二番ローラーの停止は終わった。
潤滑管は詰まり、戻り軸には焼き付きの前兆があった。
警報計器の固定片について、誰も設置を認めなかった。
運転統括補佐は「過去の応急措置」と言った。
応急措置は、終わりの日を書かないと、ただの設備になる。
七瀬は固定片を持ち出さず、現場で寸法と位置を撮影した。工員三人、鉄志、補佐、小麦が同じ物を見た時刻を記す。
小麦は、聞き取り票を工員へ返した。
「集計へ使っていい人は丸。嫌なら斜線。あとで変えていい」
「もう数字にしたんだろ」
「仮」
「外へ出した?」
「まだ」
「事故が多いって言えば、工場止めろって騒ぐ」
「言わなくても事故は減らない」
「止めたら給料が」
「給料の紙も並べる」
「食堂がそこまでやるのか」
「食堂は、来なかった人の数を知ってる」
工員は丸を付けず、斜線も引かなかった。
「保留」
「分かった」
「いつまで」
「明日の昼」
「短い」
「食事時間より長い」
工員は苦い顔で、紙を持ち帰った。
全員が協力する物語は書きやすい。
全員が同じ速度で納得する工場は、たぶん、また何かを隠している。
集計を始める前に、小麦は食堂の裏口へ回った。
出入口の脇に、空の弁当箱が七つ積まれている。
蓋が閉じている物が三つ。
開いている物が四つ。
開いた箱は、食べた箱ではない。
中身を捨てた箱も同じ顔をする。
小麦は一つずつ持ち上げた。重さ、匂い、汁の跡。三つ目の箱に、豆が半分残っている。五つ目は米を水で流した跡。七つ目には手を付けていない煮卵が入っていた。
工員が一人、壁際でしゃがんでいる。
最初に手の震えを見せた青年だった。
「名前」
「さっき言った」
「今、食べる人の名前」
青年は言った。
「眩暈」
「ない」
「嘘」
「腹減ってるだけ」
「同じに見える時がある」
小麦は木の匙を差し出した。
「能力は使わない。砂糖水、飲む。卵、半分。五分座る」
「持ち場」
「誰が代わる」
「いない」
「じゃあ持ち場も五分休む」
「機械は腹減らない」
「だから人より休める」
青年は笑おうとして、膝へ額を付けた。
小麦は笑わなかった。
糖を計る。水百ミリに対して、小匙三。濃すぎれば吐く。薄すぎれば間に合わない。料理は愛情だと言う人は、たいてい計量匙を洗わない。
青年が飲む。
「甘い」
「砂糖水」
「何か入れろよ」
「名前?」
「味」
「塩、一粒」
「変わる?」
「変わった気がする」
「料理って詐欺だな」
「料金払ってから言って」
青年の震えが、少しずつ小さくなる。
小麦は時刻を書く。
《十六時十二分 砂糖水・卵半個 能力不使用》
「それも外へ出す?」
「名前は出さない」
「食わなかったことは」
「人数だけ」
「俺が怠けたって言われる」
「怠けた人は、空の弁当箱を洗って重ねない」
青年は顔を上げた。
「見てたのか」
「箱を」
「同じだろ」
「人を見て決めると、顔が上手い人に負ける。箱は演技が下手」
小麦は七つの箱を、洗浄済みと未洗浄へ分けた。
そこへ、年配の女工が来た。煮卵の残った箱を指す。
「それ、私」
「食べられなかった?」
「歯が痛い」
「診療所」
「休むと配給順位が」
「歯で?」
「診療扱いにするには証明がいる。診療所へ行くために休む。休むために証明がいる」
「丸い」
「何が」
「話が」
「歯は穴」
「そっちは丸くない」
小麦は鍋帳の別頁を開く。
《食べ残し理由 歯痛一。受診未了》
「名前を出さずに、どう証明する」
女工が訊く。
「本人用の紙と、集計用の紙を分ける。本人用には名前。集計は番号」
「番号でも分かる」
「七瀬に映させない。真琴に保管期限を書かせる。使い終わったら返す」
「返した後は」
「あなたが捨てる」
「工場じゃなく?」
「あなたの歯」
女工は煮卵を見た。
「柔らかくできる?」
「つぶす」
「子どもみたいだ」
「歯が痛い大人」
「もっと悪い」
小麦は卵を匙でつぶし、汁を混ぜた。女工は立ったまま食べようとする。
小麦は椅子を足で寄せた。
「座る」
「命令?」
「料理の手順」
女工が座る。
青年も、まだ壁際に座っている。
十三脚のうち二脚だけが使われた。
残り十一脚は空いている。
空席は、休む人がいない証拠ではない。
休めない理由が十一個ある可能性もある。
小麦は弁当箱の重さを量り、残食を種類ごとに分けた。米、豆、硬い物、脂。時間がない人と、噛めない人と、食欲がない人では、直す物が違う。
工場を安全にするという言葉は大きすぎる。
大きい言葉は、歯の穴へ入らない。
だから小麦は、まず明日の煮卵を半分だけ長く煮ると書いた。
それが炉を止める方法には見えなくても、同じ人間が明日も計器の前へ立つなら、無関係ではなかった。
午後四時四十二分
夜勤の食事係が、閉鎖前の食堂へ来た。
腕へ《配膳》の布を巻いた男と、十五歳の見習い。
「夜は四十食」
男が言う。
「昨日は八十」
小麦。
「四十人しか来ない」
「残りは」
「持ち場で食う」
「届ける?」
「置いてくる」
「誰が食べたか」
「箱が空なら」
「捨てても空」
男は面倒そうに息を吐いた。
「昼の人間が、夜まで口出すな」
「夜の人間が、昼と同じ手を震わせてる」
「見たのか」
「空箱を」
小麦は残食表を見せた。
米。
硬い物。
汁の乾燥。
未開封。
「名前はない」
「名前がないから、俺たちじゃない」
「じゃあ夜の記録を別に取る」
「仕事が増える」
「配膳数と返却数だけ。食べ残し理由は本人が書ける時だけ」
「書かない奴は」
「未回答」
「怠ける」
「答えないのを怠けと決める方が、記録は楽」
見習いが十三脚の椅子を見る。
「夜も出していい?」
「出す」
「班長、怒る」
「誰の椅子」
「食堂」
「誰が使う」
「食べる人」
「成立」
男が見習いを睨む。
「勝手に決めるな」
「配膳担当、僕も」
「見習いだ」
「見習いは座らない?」
男は答えられなかった。
小麦は鍋帳を二冊に分けた。
一冊は食事。
一冊は労働。
「料理の味と、作った人の休みを同じ頁へ書くと、味を褒めて休みを消す人がいる」
「誰がそんな」
「私」
小麦は言った。
男が顔を上げる。
「忙しいと、自分でやった方が早い。早いから、次も自分でやる。それで他の人が覚えない。親方と同じ」
「鉞谷と一緒にするな」
「似てる所だけ」
小麦は夜勤帳の最初へ書く。
《配膳責任者》
《見習いが断れる作業》
《食堂閉鎖の判断者》
《翌朝への引継ぎ》
男はしばらく見たあと、自分の名を書く。
見習いも書く。
「閉鎖は誰」
「俺」
「僕も」
「二人なら」
「どちらか一人が危険を見たら、いったん閉鎖。再開は二人で確認」
小麦は頷いた。
昼の食堂を直すために、夜勤を昼の真似へする必要はない。
同じ椅子でも、座る人が違えば、断る言葉も作り直さなければならなかった。
午後五時四分
食堂の床を、小麦とタマキが拭いた。
配膳契約は昼食までである。
片づけは工場側の仕事だった。
だが配膳係は二番ローラーの応援へ出たまま戻らない。
小麦は勝手に無償労働を始めかけた。
布巾を濡らしたところで、タマキが鉄箱へ手を置く。
「料金」
「汚れてる」
「誰の仕事」
「配膳」
「誰が払う」
「共同会計」
「頼まれてない」
「このまま帰る?」
「帰る」
「衛生」
「閉鎖札を置く」
タマキは受領票の裏へ書いた。
《床清掃未完。配膳係不在。食堂使用停止。再開は清掃確認後》
「冷たい」
小麦が言う。
「床?」
「あなた」
「無料で拭いたら、明日も配膳係は戻れない」
小麦は濡れた布巾を見た。
自分がやれば十七分。
十七分で食堂はきれいになる。
そして、配膳係が一人いなくても回る証拠になる。
「一枚だけ」
「何を」
「汁をこぼした場所。滑る」
「危険除去」
「残りは閉鎖」
「誰の判断」
「土門小麦」
「料金」
「危険除去一か所、一円。共同会計へ請求」
「成立」
小麦は一枚ぶんだけ拭いた。
残りの床へ、閉鎖札を置く。
椅子は十三脚、畳まなかった。
明日、座る人がいるかもしれない。
工場の警報は止まっていた。
代わりに、食堂の閉鎖札が静かに立っていた。
止めることは、いつも大きな音を必要としない。
誰かが「ここから先は、まだ終わっていない」と書くだけで始まることもある。