第420話 第四章「普通の身体」後編
「床が動いてる!」
観覧席には、効果音として届いた。
イオは走った。
左前腕の真鍮は冷たい。
膝は硬い。
能力はない。
普通ではない。
ただ、いま持っている身体だった。
北住宅の床は、予定より二度高く持ち上がった。
一度目は演出。
二度目は巻上の戻り。
外部の観覧者には、どちらも同じ揺れに見える。
停止区画内の参加者には、足裏の向きが違った。
「三列で移動」
進行放送。
イオは列を見る。
三列。
同じ歩幅。
同じ速度。
同じ方向。
分かりやすい。
分かりやすい列は、遅い身体を後ろへ押し出す。
「一列目、歩幅四十。二列目、二十五。三列目、停止を言える人」
イオが変える。
「三列の意味が違います」
進行係。
「いま作った」
「脚本では英雄、技能、避難者の三列です」
「身体は脚本読まない」
「認証上の識別が」
「色札」
タマキが赤、黄、青の布を出す。
「赤、速い?」
「危ない。赤は止まる」
「一般と逆」
「赤で進む方が変」
「それはそう」
赤札。
休憩、確認、停止。
黄札。
歩幅二十五センチ。
青札。
歩幅四十センチ。ただし追い越さない。
凱は青へ入ろうとする。
「膝」
イオ。
「平地だ」
「床、揺れる」
「黄では後ろが詰まる」
「詰まる責任、凱の膝に置かない」
「俺が遅いのは事実だ」
「事実と責任、同じ靴に入れない」
「比喩か」
「左右違う靴だから分かる」
凱は黄へ入った。
元王が遅い列へ入る。
周囲が合わせようとする。
「合わせない」
凱が言う。
「黄の歩幅へ。俺の顔へではない」
最初の十メートルはうまくいった。
次の十メートルで、タマキの視線が遅れた。
床の揺れ。
左耳の圧。
前の人の踵。
タマキが右へ寄る。
イオは肩を掴んで戻そうとした。
「触る前」
タマキの声。
イオの手が止まる。
「右へ寄ってる」
「分かってる」
「列から出る」
「出たい」
「なぜ先に言わない」
「今、分かった」
「歩幅が遅い」
「耳のせい」
「休む?」
「列を出る」
休むと決めつけた。
身体が遅れれば休憩。
イオが知っている安全策。
だが、タマキは止まりたいのではない。
列という動く基準から外れ、壁へ触れて方向を確かめたい。
「赤へ」
イオ。
「赤は停止」
「停止して確認」
「僕が決める」
「……選べ」
「列の外。壁。三十秒」
「受領」
タマキが外れる。
後ろの列が乱れる。
凱が声で間隔を作る。
百舌が手話で壁側を空ける。
イオは、自分の胸へ時刻札を貼った。
《十三時四十一分》
《方向障害を休憩と誤認》
《本人の選択前に肩へ触れかけた》
「そこまで書く?」
訓練生。
「書かないと、次も同じ」
「恥ずかしくないですか」
「恥ずかしい」
「なら、なぜ」
「恥ずかしさは記録媒体じゃない」
タマキが壁から戻る。
「三十秒?」
「二十七」
「戻る?」
「黄。前の人、変えて」
「誰へ」
「靴音が一定の人」
百舌が左の鈴柄で、一定の打音を作る。
タマキは彼女の後ろへ入る。
列は再び動く。
同じ歩幅ではない。
同じ方向でも、違う方法。
階段搬送の組み替えを始める前に、七瀬が古い映像を持って来た。
火群灯里の撮影断片。
複製ではなく、閲覧用の低解像度写し。
「これを、英雄の証拠に使った?」
イオが訊く。
「脚本担当はそう言っている」
七瀬は固定台へ撮影機を置き、古い映像の時刻札を指した。
《十八時十四分二秒》
岳が、斜路の下へいる。
左肩は濡れた布で吊られている。
右手で少年の上着をつかむ。
次の断片。
《十八時十四分十九秒》
少年は斜路の上。
岳は画面外。
十七秒。
「抱えて上がったと脚本にはあります」
脚本担当者。
「十七秒で?」
イオ。
「能力使用が推定されています」
「映ってない」
「当時の証言に、岳が持ち上げたと」
「誰の証言」
「複数を統合しています」
「複数の誰」
担当者は資料を開く。
一人は、斜路の入口にいた。
一人は、上から少年の腕を引いた。
一人は、後に岳本人から聞いた。
一人は、映像を見て「そう見えた」と答えた。
「全部、場所が違う」
七瀬。
「相互補完です」
「相互に同じ事実を見てない」
映像を一齣ずつ送る。
岳の右足が滑る。
膝が床へつく。
画面の下端から、手が一本出る。
少年の腰へ布を回す。
次の齣。
別の手。
斜路上から索を引く。
顔は映らない。
名もない。
「二人いる」
イオ。
「少なくとも」
七瀬。
「岳は」
「右手で支点を作った。左腕はほとんど使っていない」
「抱えてない」
「誰かが引き、誰かが腰を押し、岳が落ちない位置へ置いた」
「英雄場面がなくなります」
脚本担当者の声は、防御より疲労に近かった。
「なくならない」
七瀬。
「変わる」
「観客は、誰を見れば」
「手を」
「顔がない」
「だから、名前がない仕事として」
「教育には、識別できる主体が必要です」
イオは映像を止めた。
「必要なのは、主体じゃなく手順かもしれない」
「手順だけでは、人は動きません」
「英雄だけでも動かない」
彼女は訓練生へ三本の帯を配った。
赤。
黄。
青。
「脚本では、全員が英雄の速度へ合わせる。いまから逆。赤は短距離なら速い。黄は一定。青は休憩を多くする。優劣じゃない。移動条件」
「私はどれ」
凱。
「左膝。長い距離。青」
「声は」
「赤」
「二色」
「人間」
「札が増える」
「増やす」
タマキは左耳へ触れる。
「方向、誰かの後ろなら黄。一人なら青」
「書く」
迅。
「俺は」
「水なしなら赤。水あり青。人に合わせるなら黄」
「全部」
「人間」
同じ答えを返す。
六人目の訓練生は、また何も申告しない。
「色も言いたくない?」
イオ。
「決めたら、それでしか動けなくなりそうで」
「途中で替える」
「替えたら失敗?」
「変更」
「誰に言う」
「近くの二人。札へ時刻」
「色を決めないままでも」
「最初は青。情報不足を速さで埋めない」
訓練生は青帯を受け取る。
「普通の人は、黄ですか」
「普通はいない」
「平均」
「平均は、誰もその通りじゃない数字」
「使えない?」
「道の幅には使える。人を歩かせる時は本人を見る」
七瀬は、古い映像の手を拡大した。
索を引く手。
腰を押す手。
斜路の端を押さえる手。
「この人たちの色は」
脚本担当者が、半ば皮肉で訊く。
「分からない」
イオ。
「分からないまま、三人いたと書く」
「岳の役は」
「支点」
「英雄ではなく?」
「その時できたこと」
脚本担当者は、脚本の《抱き上げ》へ線を引いた。
消さない。
横へ書く。
《映像再照合。複数人による布担架・索搬送の可能性。単独挙上は未確認》
文字が長くなる。
場面は、分かりにくくなる。
人間の数だけ、正確になった。
住宅模型の二階では、別の訓練が進んでいた。
《英雄が子どもを抱えて階段を下りる》
子ども役は成人。
体重六十八キロ。
英雄役は女性。
腰痛歴あり。
「抱えられません」
本人が言う。
「訓練用人形へ替えます」
進行係。
「人形は何キロ」
「二十五」
「違いすぎる」
イオ。
「安全のためです」
「安全な二十五キロを抱えて、六十八キロを救える認証?」
「動作確認です」
「誰の動作」
脚本担当者が説明する。
「岳が当時、十二歳の少年を抱えて下りた記録です」
迅が階段下から見る。
「俺?」
「少年の氏名は記録上、伏せられています」
「体重」
「不明」
「岳の左腕」
「負傷前と推定」
「原記録、挙上不能ってあった」
「時刻が」
「分からない?」
「はい」
「なら、抱える型にするな」
迅は自分が子どもだった可能性を、物語へ使わない。
誰だったかを決める材料がない。
「担架」
イオ。
「階段用の布担架。三人。本人が座れるなら、座位搬送」
「英雄の抱き上げ場面がなくなります」
「腰もなくなるよりいい」
カナタが階段の手すりを叩く。
「舞台的にも、三人の方が間が作れます」
「演出で正当化しないで」
七瀬。
「はい」
「今、演出家の癖が出た」
「何でも美しくできると思う病気です」
「治療」
「失敗」
「効いてる?」
「痛いだけ」
布担架を作る。
タマキの結び。
轟の荷重確認。
凱の声。
百舌の停止合図。
イオの時間。
腰痛の英雄役は、持たない。
代わりに搬送者の顔色を見る。
「右の人、呼吸速い」
「交代」
「あと一段」
「一段でも交代」
階段の途中で止まる。
止まる場所へ、足を置く余裕がない。
カナタが役用の旗を外し、踊り場へ敷く。
滑り止め。
「旗を踏むの?」
参加者。
「布です」
「英雄の印」
「今は足裏の摩擦」
旗は破れない。
泥がつく。
英雄の印が、足を滑らせない道具になる。
午後四時。
全員が停止区画を出る前、イオは六人の最初の訓練生をもう一度集めた。
「三段」
「また?」
「同じ条件じゃない。疲れてる」
一人目、六秒。
二人目、上で話せない。
三人目、膝痛四。
四人目、高所不安が強い。
五人目、右腕の感覚低下。
六人目は梁を見て、自分から階段を使わないと申告した。
朝の数値は、夕方には使えない。
「記録を更新」
イオ。
「毎回?」
「身体、毎回違う」
「面倒」
「そう」
「能力なら」
「面倒を飛ばす時がある」
「便利ですね」
「便利。後片づけしない」
訓練終了の鐘が鳴る。
外部観覧席では、予定された一日が終わったと思われている。
停止区画内の壁には、赤い札が残る。
《事故》
《脚本外》
《現在の身体を再確認》
《同じ歩幅を使わない》
イオは最後の札を外さなかった。
明日、別の身体が同じ場所へ来るからだ。