第421話 第五章「カナタの失敗稽古」前編

十一月二十七日 午後一時七分

 演出家には、失敗した時ほど台詞が増える種類がいる。

 紅葉カナタは、その種類だった。

「まず最初に申し上げたいのは、昨日の件が単純な機材故障という一語で処理できないこと、しかし同時に、訓練全体の理念まで一件の不具合で否定するのも拙速であること、そして私自身、安全確認の条件を契約へ入れたものの――」

「長い」

 迅が言った。

 会議卓の端。

 壁に背を向けない位置。

 赤い七結びを親指で押さえている。

 カナタは息を吸った。

「では簡潔に。私は、安全装置の削減を知らなかった」

「知ろうとした?」

「一覧を要求しました」

「届いた?」

「抜粋が」

「全部を待った?」

「日程が」

「待たなかった」

「はい」

 会議室の空気が、少し硬くなる。

 八城レム。

 劇場運営責任者。

 脚本担当。

 進行係。

 設備技師。

 保険担当。

 参加者代表。

 人数が多い。

 人数が多い会議は、責任を均等に薄められる。

 カナタは、薄めたくなった。

「ただし、削減を決定したのは運営側であり、演出担当へ提示された資料には、自動停止が二重化されている旨が――」

「今、何を止める」

 迅。

「責任の説明を」

「それは後。今」

「 rehearsal――」

「日本語」

「稽古」

「どこまで」

「全演目」

 迅は何も言わない。

 褒めない。

 背中を押さない。

 正しいと言わない。

 カナタは、自分の言葉だけを残される。

「全演目を中止します」

 レムが目を細めた。

「本番ではなく、稽古を一時停止する、ですね」

「本番を含む全演目」

「権限がありません」

「演出責任者として、出演許可を停止します」

「訓練事業は演目だけではありません。安全確認後、運営側で再開できます」

「私の名前を使う演目は中止です」

「名前を外せば続けられる」

「では、私が作った進行、殺陣、役割配置、放送原稿を使わないでください」

「訓練認証は既に発行されています」

「認証されたのは安全条件つきの案です」

「条件は満たしていると設備側が――」

 轟が図面を卓へ置いた。

 音が重い。

「満たしてない」

 設備技師が顔を上げる。

「昨日の故障箇所は修理しました」

「故障箇所、一つじゃない」

「何を根拠に」

「音」

「測定記録では」

「巻上三号。待機回転中、逆転一回。制御記録に無い。南門支柱、固定穴が旧位置。住宅模型、荷重計の値が百三十キロ軽い」

「模型の重量差は装飾材で」

「百三十キロの飾り、どこ行った」

 設備技師は答えない。

 轟が図面の三か所へ太い指を置く。

「自動停止、二重じゃない。同じ電源。同じ信号。線二本でも、根が一つ」

「独立系統と報告を」

「紙は独立。線は一緒」

 保険担当が眼鏡を直す。

「重大な契約不一致です」

「事故が起きる前に言って」

 カナタの声が、舞台用へ戻った。

 響く。

 きれいに届く。

 届くほど、隠れているように聞こえる。

「失礼。私が言う資格は薄いですね。事故が起きる前に、私は確認すべきでした。条件を書いた。書いたことで、守られた気になった。安全という言葉を台本の一行へ押し込め、装置の線を見なかった」

「演出家が配線まで見る必要はありません」

 レムが言う。

「見る人が見たかを確認する必要はあった」

「確認記録はあります」

「紙ではなく人へ訊くべきだった」

「全ての担当者へ訊けば、事業は進みません」

「進まない事業を進めるため、誰かの身体を予備部品にした?」

「そういう言い方は不正確です」

「正確な失敗は、失敗じゃなくなりますか」

 レムの八本の髪留めが、光をそろえて返す。

「再演の中止は、過去の救助記録を次へ渡す機会を失わせます」

「機会と人、秤に載せる?」

「人を守るための機会です」

「今いる人を危険にして?」

「危険を経験しなければ、本当の救助へ備えられない」

「本当の事故は、事故のふりをしない」

 会議卓の外から、太い声がした。

 犬飼豪が立っていた。

 今日は来ないはずだった。

 出演を断り、契約した受身指導は前日までで終わっている。

 膝装具。

 大きな手。

 保護犬の毛が、黒い上着へ一本ついている。

「犬飼さん」

 カナタ。

「呼ばれてない。転んだ奴が、呼吸のやり方を忘れたって来た」

「怪我は」

「右足首。固定。喘息は帰った。そっちは」

「会議中です」

「見れば分かる。人が座って、机が逃げない」

 豪は空いている椅子へ座らない。

 壁際へ立つ。

「何を止めた」

 迅がカナタへ訊いたのと同じことを、豪は会議全体へ訊いた。

 レムが答える。

「演出担当が、全演目の中止を宣言しました。運営権限について確認中です」

「機械は」

「点検中です」

「人は」

「待機」

「役は」

「継続です」

「じゃあ止まってない」

 豪は膝装具の留め具を締め直した。

「役を外せ」

 カナタは立つ。

「全参加者の役割札を回収します」

「回収後の指示系統は」

 レム。

「一度、全員を停止区画から出します」

「誰が誘導しますか」

「現場担当が」

「現場担当とは、どの役ですか」

 カナタの口が止まる。

 英雄役。

 生活技能役。

 避難者役。

 六十四人は、役で配置されている。

 役を外せば、名簿は残る。

 しかし、誰がどこへ行くかの線は消える。

「人を役で並べた」

 豪が言う。

「外す時も、代わりが要る」

「名簿順に」

 カナタ。

「名簿は足が悪い順か」

「いえ」

「耳が聞こえない順か」

「違います」

「工具を持ってる順か」

「違う」

「じゃあ何の順」

「登録順」

「事故は登録順に来ない」

 カナタは喉の奥へ、いくつもの言葉を戻した。

 説明。

 弁明。

 理念。

 契約。

 今必要なのは、順番だった。

「停止区画の全員へ、今いる場所から動かないよう伝える」

 凱が言う。

「俺が声を出す」

「届かないところ」

 百舌が打鍵器を掲げる。

《手話三人。文字板二人。低音灯一》

「私が映像放送」

 七瀬。

「顔は撮らない。現在位置と停止だけ」

「区域ごとに、伝令」

 タマキ。

「能力なし。二人組。戻る時刻を決める」

「構造確認後、動ける経路を出す」

 轟。

「赤は通れない。黄は一人ずつ。青は工具持ち」

「医療確認」

 十夜が言う。

「選手、脈と座る場所。胸は殴らない。殴る人いないけど先に言う」

「私が全体を」

 カナタが言いかける。

 迅が見る。

「持つ?」

「演出責任者です」

「全部を?」

「私が始めた」

「だから全部持てる?」

 カナタは答えない。

 始めた責任と、全部を指示する権利は同じではない。

「私は、回収宣言と外部説明。現場経路は轟。医療は十夜と医療係。伝令はタマキ。声と復唱は凱と百舌。記録は七瀬。迅は――」

「空いてる」

「空いている担当?」

「隙間。足りないところへ行く」

「便利な役ね」

「役じゃない」

 その一言が、カナタの胸へ刺さる。

 役ではない。

 人間は、空いている仕事へ入る。

 しかし、空いている仕事に名前がなければ、誰も気づかない。

「犬飼さん」

「俺は舞台へ入らない」

「知っています。外で、転倒後の確認と交代を」

「契約外」

「払います」

「高いぞ」

「タマキと同じことを言う」

「配達員、賢い」

 豪は少し考えた。

「条件。俺の名前を英雄指導へ使うな。参加者が倒れたら、救助役も交代。助け続ける奴を褒めるな。止めた奴の名も残す」

「受けます」

「目的」

 タマキが横から訊く。

 豪が見る。

「六十四人を、役じゃなく身体で外へ出す」

「終了条件」

「最後に助けた奴も座る」

「受領」

 会議は終わらなかった。

 終わる時刻を決めた。

 午後一時三十五分。

 役割札回収開始。

 午後二時までに全員へ停止を伝える。

 二時十分までに位置確認。

 二時三十分から経路別移動。

 最終確認後、外で身体検査。

 紙へ書く。

 壁へ貼る。

 誰が変えられるかも書く。

 カナタは放送室へ入った。

 赤い点灯。

 マイク。

 台本。

 台本の一頁目には、華やかな開幕口上がある。

《あの日、街が沈んだ時、一人の英雄が立った》

 カナタは頁を裏返した。

「青灯再演劇場、演出担当の紅葉カナタです」

 自分の名。

「現在、稽古および全演目を中止します。これは演出です、という言葉ではなく、中止です。役割札を外してください。ただし、札を外した後も、勝手に移動しないでください。いまいる場所、歩けるか、聞こえる方法、持っている技能を確認します」

 マイクの向こうは静かだった。

「英雄役は英雄である必要がありません。避難者役は従う必要がありません。生活技能役は、指定された仕事だけをする必要もありません」

 そこで、問題が起きた。

「では、誰に従えばいいんですか!」

 遠い区画から、声が返る。

 放送用の返答回線。

 役を外した訓練生。

「近くの担当者へ――」

「担当者は誰ですか!」

「経路担当は轟。医療は――」

「私の場所から見えません!」

「動かずに待って」

「いつまで!」

「確認が届くまで」

「何分ですか!」

 カナタは時計を見る。

「二十五分以内」

「二十五分、煙区画で待つんですか!」

 煙は水蒸気。

 安全濃度。

 しかし喘息の人には違う。

「煙区画は、先に――」

「先にって誰が決める!」

 別の声。

「足が悪い人が後回しになります!」

「英雄役を外したら担架を持つ人がいません!」

「私は避難者役なので、工具へ触っていいか分かりません!」

「役札を捨てた人と、まだ付けてる人が混ざってます!」

 中止宣言が、指揮系統を消した。

 カナタはマイクを握る。

 右足首が脈打つ。

 立ち続けていた。

 痛みを忘れるため、声を大きくしていた。

「役札を外すことが、自由だと思った」

 小さく言った。

 迅が放送室の扉にもたれている。

「誰に」

「自分に」

「今、何を止める」

「その質問、便利ね」

「後片づけする」

 カナタは笑いそうになった。

 笑わなかった。

「全員への一括指示を止める」

「次」

「区域ごとに訊く」

「次」

「答えが返るまで、こちらで役を決めない」

「遅い」

「遅いわ」

「でも、やる」

 カナタはマイクの回線を、全域放送から区域選択へ切り替えた。

「北住宅。現在地の人数、聞こえる方法、動けない人を報告してください」

 返答。

「十三人。声は全員。足首固定一。閉所不安一。工具経験二」

「北住宅、受領。煙区画を通らず東へ出られますか」

「通路幅が分かりません」

「轟、確認できますか」

 別回線。

「五分」

「五分で返答。北住宅、そこで待てますか」

「閉所不安の一人が難しい」

「外装板を開けて視界を作れるか」

「工具役ができます」

「本人、やりたい?」

 間。

「やります」

「受領。失敗しても責任を一人へ置かない。五分後に再連絡」

 次。

「南市場」

 次。

「地下通路」

 次。

 全区域へ、一つずつ。

 全体へ話すより遅い。

 六十四人を一つの観客として扱うより、ずっと遅い。

 午後二時十二分。

 役札の回収箱が届き始めた。

《岳役》

《母親役》

《王役》

《能力を失った犠牲者役》

《泣く子役》

《最後まで立つ英雄役》

 首から外した札は軽い。

 箱へ入れると、紙の音しか鳴らない。

 しかし、札を外した人は立ち尽くした。

「私は、何をすれば」

 イオが答える。

「今できることを書く」

「元は医療役です」

「できる?」

「応急手当の講習だけ」