第419話 第四章「普通の身体」前編

十一月二十六日 午前九時十二分

 水科イオは、能力を失った人間へ「普通」という言葉を使わない。

 普通は便利だ。

 便利な言葉は、使った人間が後片づけをしない。

 腕が前より上がらない。

 走ると胸が乱れる。

 昨日できた重さが、今日は持てない。

 それを普通と呼べば、本人の身体ではなく基準の方が正しくなる。

 だから、イオは訓練生六人へ訊いた。

「いま、階段を三段上がれる?」

 一人目。

「上がれます」

「何秒」

「普通に」

「禁止語」

「え?」

「普通を数字にして」

「……四秒くらい」

「上がった後、話せる?」

「話せます」

「何文字」

「知りませんよ」

「じゃあ階段の上で自己紹介。長かったら休む」

 二人目は左膝に古傷。

 三人目は貧血。

 四人目は高所が苦手。

 五人目は能力が止まると右腕の感覚が急に薄くなる。

 六人目は何も申告しなかった。

「何もない?」

「ありません」

「ないじゃなく、言いたくない?」

 六人目は目を逸らした。

「それも選べる。ただし作業は短く切る。倒れた後に秘密を守るのは難しい」

「脅しですか」

「経験」

 イオは左右の違う靴で階段へ上がった。

 左は白い運動靴。

 右は黒い作業靴。

 歩幅が少しずれる。

 能力がある時、右腕は重量へ追いついた。

 身体の遅れを能力が埋めていた。

 いまは停止区画の中だ。

 左前腕の真鍮器具は冷たい。

 指を曲げても、金属は返事をしない。

「三段。五秒。上で十五文字」

 イオは振り返る。

「水科イオ。今日は指導。膝は硬い」

「十五文字以上です」

 凱が数えた。

「元王、細かい」

「元能力者、雑だ」

「能力じゃなく人格」

「悪化している」

「減衰じゃない?」

 六人のうち二人が笑った。

 凱は英雄役の長外套を着ていない。

 薄い作業服。

 左膝に黒い装具。

 首からは役札だけが下がっている。

《北区指揮英雄》

 札が、本人より先に周囲へ命令する。

 イオは札を裏返した。

「何をする」

「見えない方が話を聞く」

「役を拒否してはいない」

「聞く前に役へ返事する人がいる」

「だから裏返すのか」

「自分で戻せる」

 凱は札を表へ戻さなかった。

「六人、三段。順番は自分で決めて」

 イオが言う。

「体力のある者から」

 凱。

「誰がある?」

「申告と姿勢で判断する」

「外す時ある」

「だから観察する」

「観察される側は、外されるまで傷む」

「全員へ決めさせれば、譲り合いで遅れる」

「遅れる」

「負傷者が増える」

「急がせても増える」

 凱の顎が少し上がる。

 王だった頃の顔。

 答えを出すため、迷いの証拠を消す顔。

 イオは階段の一段目へ腰を下ろした。

「決めて」

「何を」

「この六人の順番。責任も言う」

 凱は一人ずつ見る。

 膝。

 顔色。

 手。

 呼吸。

 靴。

「貧血歴のある者を二番。右腕感覚が薄くなる者を三番。左膝は最後。高所不安は二人組。無申告者は最初の一段で停止確認」

「理由」

「最初に動かして状態を知る。ただし転倒時、俺が下に立つ」

「左膝で?」

「右側へ寄せる」

「英雄は下敷きになる役?」

「役ではない」

「よし」

「何がよしだ」

「いま、役じゃなく身体で決めた」

 六人が動く。

 最初の無申告者は、一段目で止まった。

 顔が白い。

「何」

 イオ。

「閉所が」

「階段は開いてる」

「上の梁が低い」

「降りる?」

「訓練を外されたくない」

「質問が違う。いま降りる?」

 相手は五秒かけて頷いた。

 凱が下へ立つ。

 手は出さない。

「触れてよいか」

「腕じゃなく背中」

「右か左か」

「左」

 凱が左の肩甲骨の下へ掌を置く。

 自分の左膝は曲げすぎない。

 相手は一段下りた。

 英雄の指揮ではない。

 身体二つの相談だ。

「次」

 イオが言った。

 訓練は進む。

 しかし、イオ自身のやり方も、すぐに失敗した。

 昼前。

 可動街区の中央広場。

 脚本では、英雄役が崩れた梁を一人で持ち上げ、下敷きの避難者を救う。

 梁は訓練用。

 実物の七割。

 重量、百六十キロ。

 床に支点。

 片側は発泡材。

 中央に鉄骨。

 英雄役は凱だった。

「持てる?」

 イオが訊く。

「上げるだけなら」

「何秒」

「十」

「下に人が出るまで」

「二十」

「左膝」

「固定する」

「腕」

「問題ない」

「じゃあ、膝を使わず腰から。三人が下から避難者を引く。十秒で交代」

 イオは能力を失った人間向けの持ち上げ方を教えた。

 支点へ近づく。

 背中を丸めない。

 腕を伸ばしきらない。

 呼吸を止めない。

 上げきろうとしない。

 必要な隙間だけ作る。

 凱が梁へ入る。

「始め」

 重さが身体へ来る。

 凱の靴底が鳴る。

 太腿が震える。

 腰は落ちない。

 梁は五センチ上がった。

「引け!」

 避難者役三人が、下の人形を引く。

 人形は台本上の体重が四十八キロ。

 現物は七十二キロ。

 水を吸う演出を想定した重量だ。

「重い!」

「二人増やす」

 イオが言う。

「役割外です」

 進行係。

「重量が役割外」

「英雄が持ち上げる場面です」

「英雄、いま持ってる。引く人を増やす」

「画が変わります」

「画は腰を支えない」

 凱の左膝が、わずかに内へ入った。

 イオは見た。

 見たのに、言葉が遅れた。

「膝、外」

 凱が修正する。

 しかし、後ろの訓練生が凱の真似をした。

 体格が違う。

 筋力が違う。

 古傷も違う。

 同じ足幅へ入り、腰を落とす。

 右足が滑る。

 避難者人形の腕を持っていたため、手を離せない。

 肩から倒れかける。

 百舌忍が、音の出ない鈴を二回叩いた。

 犬飼豪の教えを覚えていた訓練生が、人形を一度床へ戻す。

 もう一人が倒れる者の腰へ入り、頭を守る。

 肩は床へ当たらない。

 梁は、凱の腕へ重さを増す。

「戻せ!」

 轟の声。

「まだ出てない!」

 進行係。

「人形より膝」

「あと三秒です!」

「人の三秒は同じじゃない」

 イオが叫んだ。

 凱は梁を戻した。

 床へ置く。

 重い音。

 人形の脚は、まだ下にある。

「失敗判定です」

 進行係が記録板へ書く。

 イオは凱の前へしゃがんだ。

「痛み」

「三」

「十段階?」

「十」

「歩ける」

「歩ける」

「役を続ける?」

「続ける」

「いま決めるな」

「おまえが訊いた」

「訊き方が悪かった」

 イオは自分の膝を叩いた。

「私のやり方を、全員へ同じにした。凱はできた。後ろが真似た。止めるのが遅れた」

「俺が先に断るべきだった」

「責任を拾うな。床に落ちてない」

「比喩か」

「いまのは人格」

 凱は黙った。

 イオは訓練生の右肩を確認する。

 圧痛は軽い。

 可動範囲あり。

 それでも十五分休む。

「休めます」

 本人が言った。

「できる?」

「できます」

「違う。休みたい?」

 相手は凱を見た。

 英雄役を見る。

「……休みます」

 凱は頷いた。

「俺の顔を見る必要はない」

「見てません」

「見ていた」

「大きいから視界に入るんです」

「それは、すまない」

「謝るところですか」

「分からない」

 イオは立ち上がる。

「この梁、人力で上げない」

 進行係が反論する。

「認証項目です」

「滑車」

「当日の記録に滑車はありません」

「記録にないのか、使わなかったのか」

「英雄が単独で」

「映像は途中から?」

 七瀬の声がした。

 腰高三脚を押してくる。

 左肩へ支持帯。

 撮影機は低い。

「救助開始前の九十秒が欠けています」

「公認脚本では」

「公認は欠落を埋めない」

 脚本担当者が一人、後ろから来た。

 薄い灰色の上着。

 記録束を胸へ抱いている。

「火群灯里の映像には、梁が既に持ち上がった状態で英雄が映っています」

 七瀬の口元が水平になる。

「母の映像ですね」

「はい」

「その前は」

「損傷しています」

「音声は」

「別記録から補いました」

「誰の」

「複数です」

「英雄の声として?」

「演出上、一人へ統合しました」

「何人」

「救助者三名、現場技師一名、避難者二名」

「六人の声を、一人へ」

「訓練教材として分かりやすく」

「母も、そうした」

 七瀬は言った。

 責める声ではない。

 事実を置く声。

「だから、正しいとは限らない」

 脚本担当者が目を伏せた。

「資料が足りません」

「足りないところへ英雄を置いた?」

「空欄では訓練にならない」

「空欄を空欄として扱う訓練は」

「判断基準が作れません」

「滑車を探す基準は作れる」

 轟が入ってきた。

 右手に、錆びた滑車輪。

 左肩は上げない。

 工具帯は右腰。

「どこに」

 イオ。

「市場模型の吊り看板。使える。索は舞台幕」

「展示を壊すな」

 進行係。

「外す。戻す」

「史実にありません」

「人類史にはある」

 轟は梁の支点を見る。

「一人で百六十。必要隙間、十二センチ。滑車二。引き四。支え二。下、二。交代一」

「英雄役は」

「声出せ」

「声?」

「同時に引く」

 凱は梁から離れ、滑車の位置を見る。

「俺が号令を出す」

「命令じゃない」

 イオ。

「同期だ」

「誰が止める」

「最も痛い者」

「声が出ない時」

 百舌が左手を上げる。

《索を二回叩く》

「受領」

 凱が言った。

 滑車を組む。

 轟が壁の梁へ仮設帯を回す。

 タマキが結び目を作る。

 能力はない。

 結び目はある。

「ほどける方?」

 轟。

「荷重抜けば、一回で」

「荷重中は」

「締まる」

「よし」

「料金」

「後で飯」

「現金」

「飯と現金」

「受領」

 八人が位置へつく。

 凱は号令の前に、一人ずつ見る。

「引けるか」

「引ける」

「右手だけ」

「十秒」

「肩は使わない」

「索を叩いたら止める」

 凱は深く息を吸う。

「一、二、引け」

 梁が上がる。

 一人の力ではない。

 英雄らしい画ではない。

 索が軋む。

 滑車が回る。

 轟の右腰が支点を取る。

 イオは人形の脚を外す。

 百舌が索を二回叩く。

 全員が止まる。

「なぜ」

 凱。

 百舌が指す。

 吊り看板から外した滑車輪の軸が、熱を持っている。

 グリス不足。

「冷やす」

 イオ。

「水はかけるな。割れる」

 轟。

「布」

 タマキが出す。

「巻いて、交代」

 英雄場面は、五回止まった。

 五回目に人形が出た。

 進行係は失敗欄へ何か書いた。

 イオは成功欄を見なかった。

 人形の腕が床へ擦れている。

 救助された物は、画面の外で傷む。

 午後二時十六分。

 前日の予定外移動について、内部確認が始まった。

 カナタは安全装置の削減一覧を要求した。

 八城レムは境界外の試験卓で、動作記録を並べた。

「訓練を止める必要はありません」

 レムは言った。

「昨日の移動は、実事故です」

 カナタ。

「軽微です。訓練生は負傷なし。右足首捻挫一名、喘息発作一名は処置済み」

「負傷なしの後に二名いる」

「重篤ではありません」

「事故の定義を重篤だけへ寄せないで」

「停止すると、全員が事故を経験せず終わります」

「経験させるために事故を作ってはいない」

「作っていません。起きた事象を訓練へ取り込むべきです」

 レムは昨日の映像を再生する。

 迅がタマキを伏せさせる。

 鉄箱が破片を受ける。

 凱が三人の復唱担当を置く。

 轟が壁を支える。

「予定外でも、既存の救助動作で対応できています」

「できていない人も映ってる」

 七瀬が言う。

 呼吸が速くなった田部。

 足首を捻った柳瀬。

 指示が二重になって立ち止まった参加者。

 脚本どおりの南門へ行こうとした者。

「全映像を見せて」

「試験卓では要点を」

「要点を決めたのは」

「私です」

「なら、あなたの判断も映像へ入れる」

 レムは七瀬を見る。

「記録は、判断を妨げるためにありますか」

「判断した人を消さないため」

「私は消していません」

「画角外」

 その言葉に、七瀬自身が少し止まった。

 薄墨の能力名ではない。

 普通の言葉だ。

 見えない場所。

 選ばれなかった時間。

 編集の外。

「いまのは能力の話じゃない」

 七瀬が言い直す。

「選ばなかった場面の話」

「全てを見れば、判断は遅れます」

「全部撮れば正しいとも言わない。あなたが何を外したかを残す」

 レムの八本の髪留めが、まっすぐ並んでいる。

「私は、英雄再演兵の動作精度を評価しています。事故対応の倫理審査ではありません」

「事故対応から倫理を外すと、残るのは動作だけ」

 脚本担当者が、会話の間へ入った。

「岳の原記録を、追加で出します」

 全員が見る。

「追加?」

 カナタ。

「損傷前に作られた文字起こしが一部あります。公認版へ入れなかった箇所です」

「なぜ」

「英雄の判断として一貫しなかった」

 紙が机へ置かれる。

 時刻。

 発言者不明。

 救助順。

 訂正。

《梁は持ち上がらない。切る》

《切るな。下に二人》

《撤回。支点を作れ》

《誰が滑車を持っている》

《岳、足をどけろ》

《痛い》

《痛いなら座れ》

《俺じゃない。あっち》

《名前を》

《分からない》

《じゃあ、分からない一名》

 一人の英雄の声ではない。

 迷い。

 誤り。

 訂正。

 他人からの注意。

 七瀬は文字を撮る前に、脚本担当者へ訊いた。

「公開範囲」

「訓練参加者まで」

「提供者」

「複数遺族。個別確認が必要です」

「撮影しない」

 カメラを下げる。

「見る」

「撮らずに?」

「覚える。引用は確認後」

 イオは紙を読む。

 岳も、梁を一人で持ち上げていない。

 少なくとも、文字の中の岳は間違えている。

「型にならない」

 レムが言った。

「だから外した?」

「再現できない判断は、教育へ使えません」

「間違えるところは再現できる」

 イオ。

「誤判断を教えるのですか」

「訂正を教える」

「判断基準が一定しない」

「人が一定じゃない」

「それでは、同じ災害に対応できません」

「同じ災害、ある?」

 イオは外の可動街区を見る。

 昨日と今日で、同じ模型の位置が違う。

 同じ人の膝も違う。

 同じ能力者でも、停止区画では違う。

「過去は一回。再演は別の日」

「だから、型で接続する」

「型は便利。便利なもの、後片づけしない」

 レムは立った。

 境界の外。

 能力が働く場所。

 模擬救助の映像を三つ同時に流す。

「竜胆迅が七歩を取る」

「獅堂凱が中央へ立つ」

「伏見轟が入口を支える」

 レムは映像より一拍早く、三人の次の位置を指す。

 右。

 中央。

 左支柱。

 全て当たる。

「既知の動作は、人を減らさず再現できます」

 イオは映像を見る。

「映像の三人は、今日そこに立ってない」

「立たせればよい」

「誰が」

「訓練です」

「答えになってない」

「役が決めます」

 レムは、停止区画へ向けて指を下ろした。

「英雄役は配置へ戻ってください。昨日の予定外移動も、訓練障害として記録します。外部観覧者へは、予定された追加課題と伝えます」

 カナタの顔から、舞台の笑みが消える。

「本物の事故と伝えない?」

「混乱を避けます」

「観客へ?」

「参加者にも、訓練の枠を維持します。枠があるから動ける」

「枠が壊れたと伝えるのも、演出の仕事です」

「壊れていません」

 その時、内部放送が鳴った。

《北住宅、倒壊障害を追加。英雄役は史実動作へ移行。避難者役は南門へ》

 昨日、塞がった南門。

 仮修理は終わっている。

 安全確認は、書類上だけ済んでいる。

 イオは凱を見る。

「行く?」

「現場を見る」

「役へ?」

「人へ」

 凱は役札を裏返したまま歩く。

 外部観覧席では、拍手が一度起きた。

 追加課題の開始を告げる音だと思われている。

 停止区画の中で、誰かが叫んだ。