第418話 第三章「誓痕停止区画」後編
「脚本にない」
「地図」
「英雄役しか持ってない。私のは南まで」
タマキが鉄箱から、移動予定図を出した。
固定住所。
現在位置。
移動予定。
朝、三種類持ってきた。
可動街区の予定図には、住宅模型が西へ移動した後に開く保守通路が書かれている。
今は南西へ三十センチずれた。
「この隙間」
タマキが指す。
「二十八センチ」
迅が見る。
「子どもなら」
「役の子ども、身体は大人もいる」
「俺も無理」
「僕は通る」
「箱は」
「外す」
「置くの嫌だろ」
「住所、ここに書く」
タマキは箱へ札を貼る。
《環玉樹の鉄箱》
《一時保管》
《東路地分岐》
《受取人 環玉樹》
《移動禁止》
「箱に住所つけるのか」
「動く街だから」
「誰が受け取る」
「迅」
「俺?」
「今、いる」
受け取ると言っていない。
タマキは見た。
「受ける?」
「受ける」
「目的」
「お前が奥を見るまで守る」
「受領」
能力はない。
それでも条件を言う。
タマキは箱を下ろした。
身体が急に軽くなる。
軽くなったのは能力ではない。
十二・四キロを置いたからだ。
二十八センチの隙間へ横向きに入る。
左耳が壁へ近づくと、音が消える。
右耳へ、金属の擦れる音。
「街区、まだ動く」
「戻れ」
迅。
「奥、何人」
「十一」
「戻れ」
「確認してない」
「お前が挟まれる」
「住所、分からない人が残る」
「俺が行く」
「肩幅」
「壊す」
「能力ない」
「拳はある」
「壁の向こう、人いる」
迅が黙る。
タマキは身体をさらに薄くする。
息を吐く。
犬飼豪が昨日言った。
転ぶ前に息を止めるな。
転んだ後、最初に声を出すな。
吸えるかを確かめろ。
助ける奴が一人なら、二人目を呼べ。
一人で英雄になろうとするな。膝を悪くする。
隙間を抜けた。
向こう側に、十一人いた。
二人は座っている。
一人は足首を押さえている。
もう一人は呼吸が速い。
役札が床へ散っていた。
《母親》
《負傷兵》
《能力を恐れる老人》
《荷物を捨てない商人》
誰も、その役を演じていない。
「名前」
タマキが言った。
全員が顔を上げる。
「本名でいい。嫌なら今の呼び名。歩けるか。何ができるか」
「訓練は?」
誰かが訊く。
「分からない」
「事故?」
「予定外。いま八時四十一分くらい」
「くらい?」
「時計、向こう」
「配達員なのに時刻曖昧?」
「住所は得意。時刻は七瀬」
少し笑いが起きる。
呼吸の速い人の肩が、ほんの少し下がった。
「外へ札送る。紙に書いて」
タマキは防水紙を配った。
「何を」
「名前。歩けるか。怪我。出たい方向。分からなければ分からない」
「英雄役へ?」
「近くの人へ」
「誰が責任者」
タマキは答えかけて、止めた。
演出責任者。
試験官。
進行係。
英雄役。
現場技術者。
責任者が多いほど、責任の住所が消える。
「今、この十一人の確認は僕。出し方は一人で決めない」
「子どもが?」
「十四」
「もっと悪い」
「年齢で届かなくなる?」
「そうじゃない」
「じゃあ書いて」
紙が回る。
足首を押さえているのは、避難者役の柳瀬ユウ。
歩行不可。
搬送希望。
右足首、内反。
触覚正常。
呼吸が速いのは、生活技能役の田部シン。
喘息歴あり。
吸入器は更衣区画のロッカー。
現在は会話可能。
煙が水蒸気だと分かっていても苦しい。
タマキは隙間の向こうへ声を送る。
「迅!」
「いる」
「十一人確認。歩行不可一。喘息一。担架入らない。保守通路を開けられるか確認して」
「轟へ届ける」
「受領」
「箱は守ってる」
「それも受領」
声だけの受領。
能力は光らない。
それでも、人が動く。
五分後、隙間の向こうから轟の声がした。
「保守床、下へ四十センチ。外装板、上へ三。滑車要る」
「何分」
「工具次第」
「脚本では?」
誰かが訊いた。
「英雄が持ち上げる」
轟が答えた。
「現実では?」
「英雄も滑車使え」
壁越しの声に、今度は十一人全員が笑った。
十一人の情報を壁の向こうへ渡した後、戻ってきたのは、担架ではなく三本の板だった。
一枚は市場看板。
一枚は床下点検蓋。
一枚は、英雄帰還場面で掲げる予定だった薄い演壇板。
「人を載せる板じゃない」
柳瀬ユウが言った。
右足首を自分の両手で固定したまま、顔だけを上げる。
「今から人を載せる板にする」
轟の声が壁越しに返る。
「荷重」
タマキ。
「単体で四十。三枚重ね、中央へ木桟二本。百二十までは静荷重。引く時は半分と思え」
「柳瀬、体重」
「五十八」
「荷物」
「衣装七」
「衣装、置く?」
柳瀬は迷った。
避難者役の衣装には、家族写真の小道具、毛布、空の薬箱が縫いつけられている。役としては、荷物を捨てない人間だった。
「役なら持つ」
「本人は」
「……毛布だけ」
タマキは写真と薬箱を外す。
「返却先」
「衣装係」
「本人確認後」
「はい」
衣装の小道具にも住所を付ける。
事故の中で、物はすぐ誰かの人生へ見える。
見えるからこそ、本当の持ち主を確かめる。
三枚の板を重ねる。
紐を二本。
一本は牽引。
一本は戻し。
タマキは結び目の数を変えた。
一つ――前へ。
二つ――止まる。
三つ――戻る。
四つ――人を降ろす。
「声でいいだろ」
迅。
「壁と水で聞こえない」
「能力なら」
「今、ない」
口に出した瞬間、胸の奥が少し冷える。
封緘便があれば、送り主と受取先と目的をそろえられる。
道が一本だけ、身体の内側へ浮かぶ。
今は、結び目しかない。
結び目は間違う。
指は数え違える。
泥で潰れる。
だから、二人で触る。
タマキが数え、田部シンが確認する。
喘息のある田部は、吸入器が届くまで重い物を持たない。
その代わり、呼吸の間で結び目を読む。
「一、二、三」
「三は戻る」
「違う。三、戻る。四、降ろす」
「言い直した」
「記録」
「自分で書いて」
田部は笑うと咳き込む。
笑いも、負荷になる。
壁下の隙間から、板を送る。
向こうで迅と轟が受ける。
戻し索を固定。
柳瀬を板へ移す。
「肩へ触る」
タマキ。
「受ける」
「腰」
「受ける」
「右足は」
「触らない」
四人で、身体を十五センチ持ち上げる。
柳瀬が息を止めた。
「吸って」
豪の声が向こうから飛ぶ。
「今、痛い」
「痛い時ほど、吐け。声が出るなら出せ」
「う、あ」
「出てる。続けろ」
板へ載る。
牽引開始。
壁の隙間は、胸一つ分。
柳瀬の右足が板の端から出る。
「止める!」
田部が二つ結びを引く。
向こうが止まる。
タマキは足首の下へ、役札を束ねた薄板を入れた。
役名が、骨を支える。
《母親》
《負傷兵》
《商人》
《英雄》
紙は濡れ、文字は読めなくなる。
いま必要なのは厚みだけだった。
「再開」
板が動く。
柳瀬の身体が隙間を越える。
向こうから、迅の声。
「受けた」
「誰が」
「俺と轟」
「医療」
「豪が呼ぶ」
「返却」
「板?」
「写真と薬箱」
「後」
「期限」
「事故が止まってから」
「曖昧」
「生きてから」
「それ、前も聞いた」
「便利」
能力は戻らない。
それでも、柳瀬は壁の向こうへ届いた。
封緘札は光らなかった。
送り主も受取先も、一本の道も、世界が保証しなかった。
代わりに、結び目を読み違えた声と、止めた手と、役札を骨の下へ入れた判断が残った。
最後に《分からない》と書いた参加者が、タマキへ訊いた。
「私は何をしたら」
「柳瀬の呼吸、十回数えて」
「数えるだけ?」
「途中で止まったら、大声」
「それは、できます」
できることは、危険が起きるまで小さく見える。
小さい仕事が一つ、壁を越えた。
上で警報が鳴った。
遅い。
赤旗が、ようやく上がる。
しかし同時に、別の鐘が三回鳴った。
訓練継続の鐘。
停止と継続。
二つの命令が同じ空へ出た。
タマキは役札を集めた。
誰が母親か。
誰が負傷兵か。
誰が商人か。
今は要らない。
十一枚を裏返す。
白い裏へ、現在の情報を書く。
《歩ける》
《足首固定が必要》
《喘息、吸入器なし》
《工具経験》
《狭所通過可能》
《声が大きい》
《灯具配線を知る》
《座って待てる》
《手を貸せる》
《触られる前に声をかけて》
《分からない》
最後の一枚は、何もできないという意味ではない。
まだ決めていないという意味だ。
壁の向こうで、金属が軋む。
街は、脚本どおりには止まらない。
人も、役どおりには動かなかった。