第413話 第一章「記念劇の募集」前編

十一月二十二日 午前八時十二分

 紅葉カナタの稽古場には、椅子が十二脚しかなかった。

 十一脚は客席。

 残る一脚は、途中で帰る人の荷物置きだった。

 十二人目が来たらどうするのか、と訊かれるたび、カナタは答えを変えた。

「立ち見です」

「追加公演です」

「人気の証明です」

「消防法違反です」

 最後の答えだけが本当だった。

 その朝、客席には誰もいなかった。

 舞台もなかった。

 あるのは、白墨で床へ引いた三本の線と、天井から吊った古い戸板と、右半分が朱、左半分が群青の薄い面。面は椅子の背へ掛けられ、空席の客みたいに稽古を見ていた。

 カナタは右足首へ布帯を巻き直した。

 結び目を外側へ置く。

 内側へ置くと、踏み切るたび皮膚へ食い込む。

「次は、転ぶ場面です」

 舞台上の声なら、狭い稽古場の壁を一枚増やせる。

 今の声は低く、壁の穴へ落ちた。

 床の中央で、犬飼豪が腕を組んでいた。

 百九十一センチ、百キロを超える身体。

 袖を切った作業着。

 右膝の装具。

 首から下げた犬鑑札が、息をするたび小さく触れ合う。

「転ぶ場面じゃねえ」

「では、転倒場面」

「言い換えても床は柔らかくならねえ」

「演劇は言い換えで床を柔らかくする仕事です」

「救助は、床が硬いって先に言う仕事だ」

 豪は床を二度、掌で叩いた。

 乾いた音がした。

「こいつは硬い。次」

 カナタは右足を前へ出した。

 重心を高く見せる。

 観客からは、転ぶ直前まで立っているように見える姿勢。

 豪の左手が伸び、肩へ触れる寸前で止まった。

「遅い」

「まだ転んでいません」

「転ぶ奴は、転んだ後に遅かったって知る」

「哲学ですね」

「膝の話だ」

 豪の指が、カナタの右膝の外側を示す。

「お前、足首を庇って膝で止めてる。客には見えねえ。床には見える」

「床に目があるなら、出演料を請求します」

「床は請求しねえ。まとめて取り立てる」

 豪が縄ベルトを緩めた。

 怒っている時の癖だ。

 カナタは舞台用の笑みを作りかけ、やめた。

「もう一度」

「次は、転ぶ前に息を吐け」

「倒れる瞬間に悲鳴を入れたい」

「悲鳴は肺に残ってる空気で出す。先に吐いたら短くなる」

「短い悲鳴は映えません」

「長い悲鳴は起き上がれねえ」

 豪が自分で倒れた。

 巨体が床へ落ちる。

 だが、音は小さい。

 踵。

 尻。

 背中。

 肩。

 四か所へ衝撃を分け、顎を引き、右膝をひねらない。

「倒れたら、まず息」

 豪は仰向けのまま言った。

「次に指。足。首。どこまで動くか。助ける側は、勝手に引っ張らねえ。動ける場所を聞く」

「観客は待ってくれますか」

「待たせろ」

「待たせる間が、下手な役者には一番長い」

「じゃあ上手くなれ」

「乱暴ですね」

「お前に言われたくねえ」

 カナタは笑った。

 今度は、演技の笑いではなかった。

 扉が三回叩かれた。

 規則正しい。

 同じ強さ。

 同じ間隔。

 豪が眉をしかめた。

「犬じゃねえな」

「人を訪問音で分類しないでください」

「犬なら一回目で匂いがする」

 カナタが扉を開けた。

 白と黒の試験服を着た女性が立っていた。

 淡い栗色の髪を、八本の同じ形のピンで固定している。

 薄青の瞳。

 薄底靴。

 関節の位置へ引かれた八本の線。

 彼女の背後には、文書箱を抱えた二人の事務員がいた。

「紅葉カナタさん」

「舞台では片面王子とも」

「契約書では本名を使用します」

「すばらしい。もう信用できます」

「まだ内容を説明していません」

「説明前に信用させるのが、契約の第一幕です」

 女性は笑わなかった。

「記録系七局、動作試験官の八城レムです」

「八城さん。八が好き?」

「偶然です」

「髪留めも」

「固定点です」

「階段は」

「八段ごとに停止します」

「食事は」

「八口単位です」

 レムの眉がわずかに動いた。

「調査済みですか」

「今、三つ当てました」

「二つです。食事は公開情報ではありません」

「当たったなら三つ」

 豪が床から起き上がった。

 右膝を伸ばし、巨体を壁へ預けず立つ。

「仕事か」

 レムは豪を見る。

 視線が、左眉の二本傷、肩、膝装具、足幅へ順番に落ちた。

「犬飼豪さん。地下格闘歴七年。受身指導、転倒後評価、救助者交代の訓練を依頼します」

「役は」

「英雄側の護衛役を提案します」

「断る」

 間がなかった。

 カナタが面の紐を指へ巻いた。

「聞く前に?」

「聞いた。護衛役だろ」

「出演料は通常稽古の三倍です」

「犬の手術代なら四匹分」

「計算が早い」

「そこだけ練習した」

 豪は首の犬鑑札を一枚押さえた。

「だから断る。受身は教える。転んだ後の呼吸も。助ける奴の交代も。舞台には上がらねえ」

 レムは文書箱の上へ指を置いた。

「理由を記録します」

「俺が強いから呼んだ。強い役をやれば、次も強い役で呼ぶ。犬舎の借金は減る。膝は減る。客は増える。俺はまた、守るって言って殴る」

「出演拒否と、指導契約は両立します」

「する。だから来た」

 豪はカナタを見る。

「お前、俺を説得すんなよ」

「説得する前に釘を刺されると、演出家は寂しい」

「寂しさは経費に入れろ」

 レムが事務員へ合図した。

 一つ、二つ、開始。

 文書箱が机へ置かれる。

 表紙には、太い活字でこうあった。

《黒雨記念教育事業

 青灯救難再演訓練

 演出・出演者募集要項》

 カナタは、面を椅子へ戻した。

「黒雨〈セブン・ブラック〉を、舞台にする?」

「舞台ではありません。訓練劇場です」

「観客席がある」

「教育見学席です」

「演目がある」

「標準動作列です」

「役者がいる」

「参加者です」

「拍手は」

「禁止していません」

「舞台です」

 レムは一拍、黙った。

「呼び方は、目的を変えません」

「呼び方が目的を隠すことはあります」

 カナタは表紙をめくった。

 訓練の舞台は、旧貨物操車場へ建てられた可動街区。

 黒雨当日の水没住宅、倒壊高架、地下放水路、医療搬送路を再現する。

 中心となるのは、竜胆岳の救助記録。

 八人の英雄役が、同じ動作列を分担する。

 記録上の肩書きは、英雄再演兵〈リプレイズ〉

 カナタの指が止まった。

「兵?」

「技術用語です」

「技術用語は、人を物にする時ほど便利だ」

「訓練後には氏名記録へ戻します」

「終わるまで、名前を預かる?」

「役割の混乱を防ぐためです」

 豪が文書を横から覗いた。

「字が多い」

「音読しましょうか」

「ゆっくりなら自分で読む」

 豪は人差し指を紙へ置き、一行ずつ追った。

 カナタは次の頁へ進んだ。

 英雄役の中心には、《先導者》とある。

 倒壊した梁を持ち上げる。

 水門へ向かって退かない。

 最後まで退場しない。

 避難者を一つの出口へ導く。

「誰の記録です」

「竜胆岳を中心に、当時の救難記録を統合しています」

「統合」

「複数の映像では動作が断片的です。教育用には連続した型が必要です」

「転んだ場面は」

「削除しています」

「迷った場面は」

「判断停止として誤学習を招くため」

「他人に直された場面は」

「指揮系統が複雑になります」

「つまり、一人の英雄にした」

「一人分の動作へ整えました」

 カナタは脚本を閉じた。

「演出の依頼ですか。整形の依頼ですか」

「安全な型を作る依頼です」

「安全?」

 レムは別の図面を開いた。

 可動街区は八つの街区模型を巨大な軌道台へ載せ、事故状況を変化させる。役者の動きに合わせて壁が倒れ、路面が傾き、放水設備が雨と浸水を再現する。

 安全策の欄には、カナタが舞台で見慣れたものが並んでいた。

 落下網。

 破断式の外壁。

 自動停止索。

 二重非常弁。

 赤外線の立入検知。

 いくつかには、赤い斜線が入っている。

「斜線は」

「不採用です」

「理由」

「身体が安全装置を前提に動くと、原記録との比較ができません」

「落下網があると、人は落ち方を変える」

「はい」

「だから外す」

「見える範囲だけです。床下の受け網は残ります」

「二重非常弁」

「手動弁一系統で基準を満たします」

「立入検知」

「演者と装置の距離が短く、誤停止が多い」

「誤停止は、止まるだけです」

「再現精度が落ちます」

 豪が文書から顔を上げた。

「骨は、精度に入るか」

「負傷率は評価項目です」

「事故の後で数える数字か」

「事故を減らすために、型を完成させます」

 レムはまっすぐ答えた。

 悪意がない。

 それが、カナタには一番厄介だった。

 彼女は本気で、正しい動きを覚えれば人は死ににくくなると信じている。

 カナタも、似たことを信じていた。

 舞台で止まる練習をすれば、本番でも止まれる。

 退出口を物語へ組み込めば、観客は逃げることを恥じない。

 役を降りる台詞を用意すれば、誰かは役を降りられる。

 違いは、安全を物語に従わせるか、物語を安全に従わせるか。

 その境界は、照明の明暗ほどはっきりしていない。

「なぜ、私です」

 カナタは訊いた。

「第六回祝祭劇で、あなたは公演を中止した」

「途中で壊した、とも言います」

「観客、出演者、裏方へ別々の退出を作った。安全演出家として評価されています」

「役者としては、出演作を終わらせられなかった」

「今回は終わらせてください」

 レムは言った。

「竜胆岳の救助を、最後まで」

 カナタの右足首が、古い傷の場所で重くなった。

 痛みではない。

 痛みが来る前の、皮膚の内側の予告。

 彼の誓痕は予告を拍手へ変えた。

 今は長期休演中で、使う予定もない。

 それでも身体は、次に何が求められるかを先に演じたがる。

「条件があります」

 カナタは言った。

「安全装置の削減は、私が現物を確認する。役名と実名は併記する。転倒、休憩、交代を脚本へ入れる。英雄役は最後まで残る、を削る」

「最後の項目は認証基準です」

「なら、認証基準ごと書き直す」

「時間がありません」

「時間がない舞台は、開演時間を変える」

「記念日は変えられません」

「人の骨は、記念日を知りません」

 レムの右手が、わずかに上がった。

 カナタが面を取ろうとした動きより、半拍早い。

 彼の指が椅子へ届く前に、レムの指が面の紐を押さえていた。

「触らないで」

 カナタの声が、舞台裏の一語になった。

 レムは手を離した。

「失礼しました」

「今のは」

「確認です」

「能力?」

 レムは八本の髪留めのうち、右端を押した。

 淡い光が関節線へ走る。

 型通り〈リプレイ〉

 記録済みの動作。

 同じ起点。

 同じ目的。

 その次へ、一拍早く入る。

「あなたが面を取る動作は、公開映像に四十七回あります」

「気味が悪い口説き文句ですね」

「口説いていません」

「そこは予測しない?」

「記録がありません」

 カナタは別の手を動かした。

 面ではなく、椅子を蹴る。

 レムの身体が先に面の方向へ入っていたため、一歩遅れた。

 椅子は倒れない。

 豪が足で止めた。

「稽古場で物を蹴るな」

「即興です」

「壊す言い訳だ」

 レムは姿勢を戻した。

 髪留めは一つもずれていない。

「目的が変われば、予測は落ちます」

「人は、事故で目的を変える」

「だから、最初の目的を正しく設定する」

「事故は設定を読まない」

「型がなければ、混乱します」

「型だけなら、型が壊れた時に人が消える」

 二人は同じものを見ていた。

 床。

 扉。

 面。

 契約書。

 違う事故を想像していた。

 豪は音読を終え、契約書を閉じた。

「俺の契約、受身と呼吸と交代だけ。出演なし。犬舎の餌代は前払い半分。膝が腫れたら帰る」

「記録しました」

 レムは事務員へ言った。

「紅葉さんは」

 カナタは机の上の赤鉛筆を取った。

 削除された安全装置へ、丸を付ける。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

「現物を見てから」

「契約期限は本日正午です」

「午前八時二十九分。三時間三十一分ある」

「正確ですね」

「舞台人は、幕が上がる時刻だけは守る」

 カナタは笑った。

「下ろす時刻を、守れなかったことはありますが」

 レムは、その言葉へ答えなかった。

 事務員が図面を広げる。

 八つの街区模型。

 十六の退出口。

 四つの地下通路。

 中央放水路。

 図面の隅で、赤い線を引かれた落下網が丸めて描かれている。

 実物を見なくても、片づけられた網は想像できた。

 舞台の外。

 誰も落ちない場所へ。

 カナタは赤鉛筆で、その網をもう一度囲んだ。

 円は閉じなかった。

 十一月二十二日 午前十一時十一分

 旧貨物操車場は、街を八つに切って並べたような場所だった。

 住宅の正面だけを持つ壁。

 途中で終わる階段。

 床へ埋められた線路。

 線路の上に載った街区模型。

 見上げれば、青空より先に巻上塔の鋼索がある。

 遠くから見ると、災害後の街。

 近くで見ると、災害を起こすために作られた機械。

 観客席は半円形に二層。

 最前列から可動街区まで、幅八メートルの乾いた堀が隔てている。

「客は舞台へ入れない」

 カナタが言った。

「見学者です」

 レムが訂正する。

「見学者は事故の時も見学者?」

「誘導員が退出させます」

「舞台側へ技師が必要になったら」

「技師は技術区画にいます」

「客席に技師が座っていたら」

「登録外です」

「人間の技能は、席を買う時に入口へ預ける?」

 レムは答えず、八段の階段を上がった。

 八段目で一度止まる。

 豪が遅れてついてきた。

「こいつ、ほんとに止まるな」

「固定したリズムです」

「犬なら、待てが上手い」

「犬との比較を続けるなら、記録に残します」

「残せ。俺はあとで読んでもらう」

 観客席の裏へ回る。

 黒い帯が床を横切っていた。

 帯の内側へ足を入れた瞬間、カナタの胸の奥から、いつもあった細い期待が消えた。

 拍手が来る。

 予告した場面が、観客の身体へ届く。

 届いた数が、動きを確かにする。

 その感覚がない。

 予告拍手は発動していない。

 長期休演後、試すことも禁じられている。

 それでも、誓痕〈ヴァウ・スカー〉は身体のどこかで、いつも観客席の存在を測っていた。

 黒い帯の内側には、それがなかった。

「ここから停止区画です」

 レムが言う。

 彼女の関節線からも光が消えている。

「痛みも止めてくれますか」

 カナタが右足首を回した。

「誓痕作用だけです。筋力、疲労、古傷、病気は対象外」

「英雄だけやめて、人間は残る」

「訓練の目的です」

「なら、英雄役はいらないのでは」

「型を残すために必要です」

 豪が黒い帯をまたいだ。

 何も起きない。

「俺は元から何もねえ」

「能力がない、という状態です」

 レムは言った。

「無能力者をゼロとして扱いません」

「いい言葉だ」

「評価しますか」

「まだ腹に入ってねえ」

 豪は床を二度叩いた。

 一度目は高い音。

 二度目は鈍い。

 彼は少し場所を移し、もう一度叩く。

「下、空洞だ」

「床下受け網の収納部です」

「網は」

「本番時に展開します」

「見せろ」

 技術員が操作盤を開けた。

 レバーを引く。

 床下で金属が滑る音がし、模型街路の下へ網が広がった。

 豪はしゃがみ、床の隙間へ指を入れた。

「この幅なら、腕が抜ける」

「荷重試験済みです」

「腕から落ちる奴の試験は」

 技術員が書類をめくる。

「全身落下を前提にしています」

「人は、全身で綺麗に落ちねえ」

 カナタは赤鉛筆を出した。

「部分落下試験を追加」

「日程が」

 レム。

「骨は記念日を知らない」

「同じ台詞を二度使いました」

「観客は初めて聞く」

「私は二度目です」

「なら、あなたに効いているか確認できます」

 レムは口元を固くした。

 笑いを抑えたのか、怒りを止めたのか分からない。

 可動街区へ入る。

 第一街区は、三階建て集合住宅の外殻。

 第二は市場。

 第三は倒壊高架。

 第四は病院斜路。

 第五から第八は、水門、地下通路、停電街、避難広場。

 建物は実物より少し軽く作られている。

 それでも、人が挟まれば軽いとは言えない。

 カナタは、集合住宅の階段を上った。

 右足首が、三段目で痛む。

 五段目で角度を変える。

 八段目で立ち止まるレムを追い越さず、その横へ並ぶ。