第412話 第十二章「方角を失う」後編

 十月二十六日 午後二時三十分

 百舌の報告聴取は、病室で行われた。

 治療を止めて審理へ出ない。

 右手の点滴。

 左手の打鍵器。

 酸素管。

 通訳は巴。

 ただし、百舌は途中で通訳を替えられる。

 七瀬は撮影しない。

 百舌が希望したのは、固定文字記録と、手話の二系統。

 最初の欄。

《役割》

 百舌は左手で打つ。

《施設監督生》

 次の欄。

《救助時の立場》

《指揮者》

 次。

《施設内での立場》

 指が止まる。

 百舌は右手を見ない。

 左手で打つ。

《被験者》

 同じ紙の中へ、二つを置く。

 指揮者。

 被験者。

 被害者だから指揮責任が消えるわけではない。

 指揮したから被害が消えるわけでもない。

《救命実績》

《初動で酸素配管を開通》

《全員東案で重症者を先行》

《迅の誤操作を停止》

《二十六人までの搬送順を維持》

《問題》

《東拒否者の順番を下げた》

《判断不能を東同意として扱う案を出した》

《無言同意を二回使用》

《施設潜水員三人の次動作を統一》

《西・中央の索を外させた》

《理由》

《救命率》

 巴が確認する。

「理由は免責を求めるためですか」

 百舌は首を横へ振る。

《再現防止》

「救命率を重視する判断自体を禁止しますか」

 首を横。

《拒否を費用へ入れる》

「拒否で時間が増えることを、計画上の費用として最初から計上する?」

 頷く。

「拒否者を非協力として計画外へ出さない?」

 頷く。

「沈黙」

 百舌が打つ。

《保留》

「動けない身体」

《同意ではない》

「同じ身振り」

《同じ意味とは限らない》

 巴は読み上げる。

 百舌の右手が、布団の上で少し動く。

 薬指と小指は遅れる。

 その動きを、誰も賛成とは解釈しない。

「今後の所属」

 聴取者が訊く。

 百舌は打つ。

《未定》

「空白の旗への協力」

《依頼ごと》

「施設同意監査」

《参加希望》

「監督生だった者が監査する利益相反」

《ある》

「では不適格?」

《単独不可》

「誰と」

《被験者が選ぶ人》

「あなたが選ばない?」

《選ばない》

 百舌は、音の出ない鈴を一つ左手で持つ。

 右手は空のまま。

 左右違う手袋。

 左は紫。

 右は透明。

 自分が動かす手と、今は動きが遅い手を、同じに見せないためだ。

 十月二十七日 午前九時

 救助費用の清算表には、能力使用料という欄がなかった。

 潜水手当。

 危険作業手当。

 医療材料費。

 設備修理費。

 通訳費。

 記録費。

 受入施設費。

 環玉樹の名前は、潜水補助へ一件。

 地上連絡へ一件。

 配達作業へ一件。

 封緘便の使用は、備考欄へだけ書かれている。

「能力、無料?」

 タマキが訊く。

 会計担当は眼鏡を上げた。

「能力使用に料金基準がありません」

「道を示した」

「潜水補助の範囲では」

「潜水する前に、送り主と受取人を確認した」

「地上連絡の範囲」

「じゃあ能力は、どの範囲」

「新規項目です」

「新規だから無料?」

「予算化されていない」

「仕事した人が、制度より先にいたら無料になるの」

 会計担当が止まる。

 小麦が横から清算表を取る。

「料理人が新しい鍋を使ったら、鍋能力手当は出ない」

「僕は鍋?」

「仕事と道具を分けろって話」

「能力は道具?」

「あなたの身体。だから余計に、能力だけへ値段を付けると、身体を買ったみたいになる」

「でも、危険が増えた」

「危険手当を増やす」

「潜水外傷と能力反証、別」

 イオ。

 机の反対側から言う。

「危険手当も分けるべき。潜水時間、初潜水、圧力環境。能力は発現初回、反証不明、破封後の方向喪失」

「二重取り」

 会計担当。

「二つの危険が重なった」

「金額をどう」

「今決める。本人、医療、労務、受取側」

「前例が」

「前例を作る時に、本人を外さない」

 タマキは表を見る。

「能力一回いくら、にはしない」

「なぜ」

 会計担当。

「使う回数が多い方が稼げるから」

「仕事なら当然では」

「方向が分かるたび、使う理由を作る」

 イオが頷く。

「能力使用料ではなく、配達作業の範囲追加。危険は別手当。治療費は全額作戦費。後遺症が残る場合の補償を、能力発現の成功報酬と相殺しない」

「成功報酬」

 タマキ。

「欲しい?」

「分からない」

「保留」

「期限」

 凱が言う。

「成功報酬を決める前に、補償だけ先に決める。報酬が出なくても治療は続く。報酬の協議期限は十一月十日」

「僕の能力なのに、受取側も入る?」

「能力で利益を受けた側が費用を負う。条件を決める権利はあなた」

「利益って、全員?」

「一人へ能力を使った。残りは既存手順」

「西の一人にも成立したけど、索を使った」

「それを能力使用へ数えるか」

 タマキは考える。

「成立した。道は見えた。でも使わなかった」

「料金」

「確認作業。能力一回じゃない」

「正規料金?」

 小麦。

「正規料金」

「けち」

「料理人に言われたくない」

「鍋は無料で使う」

「鍋の代金は料理に入ってる」

「分かってるじゃない」

 会計担当は、新しい欄を作った。

《配達条件設計》

《受取確認》

《潜水補助》

《初発現危険》

《医療・補償》

《能力そのものの所有権は本人》

 能力を一本の値札へしない。

 仕事へ分ける。

 タマキは三枚へ別々に署名した。

 十月二十八日 午後三時十六分

 洗濯索の通路は、救助路として閉じられた。

 閉鎖は、埋め戻すことではない。

 中央保留室の受領係。

 《未定》

 水系七局の設備担当。

 洗濯槽を使っていた住民三人。

 轟。

 六者で現物を見る。

 床板。

 配達索。

 水で膨らんだ木枠。

 《未定》の右足首が引っかかった突起。

「削る」

 轟が言う。

 《未定》が首を横へ振る。

《洗濯籠が止まる》

「人が引っかかった」

《人を通す道ではない》

「また災害で使うかもしれん」

《その時に板を外す》

「時間」

《今回、場所が分かった》

「次も通れる保証はない」

《保証を付けるために、生活の道具を変える?》

 轟は突起を見る。

 人を救ったから、生活路を救難設備へ変える。

 善意の改修。

 その結果、洗濯籠が毎日止まらなくなる。

「色だけ付ける」

 轟。

《何色》

「触って分かる刻み。人が通る時は外す位置。籠の停止には残す」

《外す工具》

「横へ吊るす」

《誰でも》

「誰でも使える。使った人を責任者にしない。戻す担当は水系設備」

《受領》

 突起は削らない。

 外せる印と工具だけを置く。

 配達索の名称も、《封緘路》には変えない。

 壁へ小さく、《洗濯索》と戻す。

 タマキの能力が初めて示した経路であることは、救助記録に残る。

 生活の壁へは書かない。

 毎日洗濯する人が、能力者の記念碑を通過しなくてよいように。

 《未定》は洗濯槽の増設脚を受け取る。

 錆。

 曲がったボルト。

 救助時の白墨。

「洗う?」

 タマキ。

《錆は落とす》

「白墨」

《残す》

「記念?」

《位置》

 次に組み立てる時、荷重の線が分かる。

 物語ではなく、作業の印。

 タマキは返却札へ受領印を押す。

 十月二十九日 午後六時

 百舌の報告書は、三つの写しになった。

 一つ。

 施設の被験者と元職員が閲覧できるもの。

 二つ。

 救難手順の監査に使うもの。

 三つ。

 百舌本人だけが持つ、削除していない原文。

 公開版では、年少者の呼称、行先、家族関係を伏せる。

 監査版では、能力使用時刻、対象人数、外された索、負傷を残す。

 原文には、百舌の感情も一行だけある。

《全員を東へ送れば助けられると思った》

《拒否する者を、死を選ぶ者として憎んだ》

《自分が施設を拒否できなかったから》

 巴が読む。

「この一行を公開しますか」

 百舌は首を横へ振る。

「隠す?」

《今は》

「責任逃れと読まれる可能性」

《ある》

「公開しない理由」

《被験者へ説明する前》

「先に当事者へ」

 頷く。

 七瀬が訊く。

「当事者が公開を拒否したら」

《公開しない》

「あなたの感情なのに」

《相手の被害を含む》

「あなた自身の記録権は」

《原文を持つ》

「誰かが、都合よく善人になったと言ったら」

 百舌は左手で打つ。

《言わせる》

「訂正しない?」

《必要な事実だけ》

「感情は」

《証拠にしない》

 百舌の右手は、まだ薬指と小指の感覚が鈍い。

 左手だけで打鍵する。

 報告書の最後に、今後の監査参加条件を書く。

《単独で同意判定をしない》

《被験者が選ぶ監査者と組む》

《沈黙・不動・同一動作を同意としない》

《救命率と拒否者数を同じ表へ載せる》

《誓痕使用は二人確認》

「二人確認の相手」

 巴。

《当事者が選ぶ》

「あなたの能力を止められる人?」

《止める権限を持つ》

「実際に止められる身体能力は」

 百舌は迅を見る。

 迅は首を横へ振る。

「俺を常設するな」

 百舌が机を二回叩く。

 少し笑った。

《身体で止める前に手順で止める》

「手順が破られたら」

《依頼を終了》

「終了できない緊急時」

 百舌の左手が止まる。

 答えはない。

 巴は空欄へしない。

《未決》

 未決のまま、報告書を閉じる。

 十月三十日 午後五時四十分

 水系七局の仮設記録室には、四十三枚より多い札が干されていた。

 最初の選択札。

 変更札。

 医療代行札。

 受領札。

 撤回後の封。

 呼称保留札。

 全員だから、四十三枚ではない。

 一人が選び直せば、札は増える。

 間違いを戻せる制度は、紙を使う。

 時間を使う。

 人手を使う。

 百舌の一本化より、机が散らかる。

 タマキは乾いた札を一枚ずつ仕分ける。

 東。

 西。

 中央。

 変更。

 破封。

 非公開。

 緑のニット帽をかぶっている。

 左耳の痛みは、刺す痛みから鈍い圧迫へ変わった。

 床の揺れは、まだある。

 机から立つ。

 出口が、二つに見える。

 実際には一つ。

 右だと思う。

 左かもしれない。

 タマキは、最初の《未定》を受け取った中央保留室の受領係を見る。

 その人は、乾いた円札を箱へ戻している。

「受取人」

「はい」

「零番街へ帰りたい」

「目的は帰宅?」

「夕食。配達箱を取る。寝る」

「受取先は」

「零番街共同世帯。四十七人」

「今、住所札は」

「持ってる」

「封緘便を使いますか」

「使わない」

「では、何を」

 タマキは言った。

「道を教えて」

 受領係は立ち上がる。

「この扉を出て左。手すり沿いに二十四歩。階段は使わず、荷物昇降機。地上へ出たら西の停留所。揺れたら、その場で止まる」

「一緒に来る?」

「停留所まで」

「料金」

「受領業務に含めます」

「多分?」

「含めます。私の名で」

「受領」

 タマキは扉へ向かう。

 一歩。

 床が左へ傾く。

 止まる。

 受取人が言う。

「今は真っ直ぐ」

 タマキは真っ直ぐを選ぶ。

 二歩目。

 机の上では、防水札が乾いている。

 封を切られた札も、切られなかった札も、同じ風を受けていた。