第411話 第十二章「方角を失う」前編
十月二十一日 午前七時十二分
環玉樹は、病室から便所へ行けなかった。
廊下を知らないからではない。
昨夜、二回通った。
左へ十六歩。
突き当たりを右。
手すりの切れ目が便所の入口。
住所で言えば簡単だった。
《東医療棟二階・第三区画・洗面所隣》
タマキは住所を覚えている。
身体が、左を右だと言う。
ベッドから立つ。
床が一度沈む。
壁へ手をつく。
手すりが斜め上へ伸びて見える。
一歩。
左耳の奥で、水が残っているような音。
二歩。
廊下の窓が横へ滑る。
三歩。
看護補助者が近づく。
「どこへ」
「便所」
「案内します」
「場所は知ってる」
「身体が知らない?」
「身体が嘘つく」
「腕、持つ?」
「道を言って」
「左へ十六歩」
「一緒に数えて」
「分かりました」
助けを借りる方法を、本人が選ぶ。
腕をつかまれない。
背を押されない。
一歩ずつ、数えてもらう。
「一」
「二」
「三」
タマキは歩く。
十四。
十五。
十六。
「右」
身体は左だと言う。
声は右だと言う。
タマキは声を選ぶ。
曲がる。
入口へ着く。
「受領」
看護補助者が笑う。
「何を」
「道」
「料金は」
「病院の案内費に入ってる?」
「多分」
「多分は請求書で困る」
「確認しておきます」
能力者になった翌朝の最初の配達は、自分の身体だった。
行先は便所。
目的は排尿。
受取人は自分。
封緘便は使わない。
使う必要がないからではない。
医療者から、潜水と能力使用を止められている。
方向感覚を失う可能性がある能力を、方向感覚を失っている時に試すほど、配達員は荷物を粗末にしない。
午前八時。
朝食の盆へ、塩パンが一つ載っていた。
小麦が置いた食事札。
《空腹を能力反証と誤認しない》
タマキは文句を言った。
「僕、空腹で倒れたことない」
小麦は厨房の窓から言う。
「二回ある」
「一回は寝た」
「床で」
「もう一回は」
「立ったまま意識が薄くなった」
「倒れてない」
「倒れる前を成功に数えるな」
「料金」
「食べたら払え」
「能力者割引」
「増額」
「なんで」
「能力者は食べなくても動けるって勘違いする客が増えるから」
「僕は客?」
「患者」
「厨房の」
「食べない病気」
タマキは塩パンを食べる。
左耳で噛む音が大きい。
右耳では普通。
自分の口の中が、片側だけ別の部屋にある。
「変」
「味?」
「音」
「医療者へ言え」
「今言った」
「私は料理人」
「時雨ミソラにも言う」
「それが受領」
小麦はスープの温度を手首で測り、別の患者へ運ぶ。
タマキを特別な能力者の席へ置かない。
食べる人の一人にする。
それが、昨夜の拍手より助かった。
百舌忍は、東医療口の再圧評価室へ入った。
本人が選んだのは中央保留室だった。
中央で神経症状が進み、医療者から東への二次搬送を提案された。
百舌は左手で条件を書いた。
《中央での受領を取消さない》
《東は治療先》
《氏名照会は薬歴と圧力記録のみ》
《監督報告は治療記録へ添付しない》
東へ移った。
行先を変えたのではない。
治療先を追加した。
言葉を分けなければ、中央を選んだ事実が消える。
再圧評価の結果。
減圧障害。
右手指の感覚低下。
特に薬指と小指。
握力低下。
高濃度酸素治療。
安静。
潜水禁止。
声帯片側麻痺と気管切開痕は、今回の事故より前からある。
医療記録の一行目へ、それを明記する。
救助事故で声を失った悲劇にすれば、分かりやすい。
分かりやすさは、過去を上書きする。
百舌は、右手を見た。
指を一本ずつ曲げる。
親指。
人差し指。
中指。
薬指が遅れる。
小指は、触れられているのに遠い。
白い診察台の上へ、音の出ない鈴を五つ並べる。
右手で一つずつ取る。
一つ目。
落とさない。
二つ目。
持てる。
三つ目。
指から滑る。
音の出ない鈴は、床へ落ちても鳴らない。
百舌は笑った。
声は出ない。
表情だけで、かなり意地が悪い笑いだった。
タマキが病室の入口から見る。
「何がおかしい」
百舌は左手で打鍵器へ入力する。
《落としても静か》
「便利」
《拾う人には不便》
「僕が拾う」
《料金》
「一個一円」
《高い》
「能力者価格」
百舌が机を二回叩く。
笑う癖。
タマキは鈴を拾う。
右手へ渡さない。
「どっち」
百舌は左手を出す。
「右手の訓練」
首を横。
「今は休む」
頷く。
「受領」
百舌は左手で鈴を取る。
自分の身体の仕事を、今は左へ変える。
右手が戻ると約束しない。
戻らないと決めもしない。
十月二十二日 午後一時
三つの受入施設が、同じ机へ集まらなかった。
東は病院の会議室。
西は共同宿舎の食堂。
中央は保留室の廊下。
三か所を低音線と筆談板でつなぐ。
凱は中央の廊下。
椅子へ座る。
左膝の装具を外さない。
王冠はない。
王座もない。
役割は、受領数と変更記録を読み上げることだけ。
「救助時点」
凱が言う。
「東十七、西十四、中央十二。合計四十三」
東の医師が続ける。
「東十七のうち、医療代行一。代行後に意識回復。本人へ説明済み。治療継続を選択。能力履歴照会は救命範囲のみ」
西の受入係。
「西十四。家族面会希望九。面会拒否三。共同宿舎二。家族口という名称が、面会を強制すると誤解された件を記録」
中央。
「中央十二。呼称保留四。身分登録保留七。目的保留一。二十四時間後、三人が東での診療を希望。二人が西共同宿舎を希望。七人は延長を希望」
真琴が眼鏡の左つるを上げる。
「中央保留室は二十四時間と説明しました。延長の根拠は」
「根拠はない」
中央の受入係が答える。
「だから、延長を拒否する?」
「拒否する権限もない」
「では」
「空けろと言う権限もない。七人と、次の二十四時間だけの暫定利用を一人ずつ相談している」
「収容施設化の危険があります」
「ある」
「なら閉じるべきです」
《未定》が筆談板へ手を出す。
最初にタマキの能力で中央へ届いた人。
《閉じる日を、入った人より先に決めるな》
真琴が読む。
「では無期限に?」
《違う》
「期限を延長する基準は」
《今決める》
「誰が」
《入っている人》
「受入側の資源もあります」
《一緒に決める》
「自動延長を禁止します」
《賛成》
「空けられない場合」
《代わりの場所を先に作る》
真琴は紙片を左右へ並べる。
怒っている。
怒るほど敬語になる。
「つまり、あなたは制度がないまま制度を要求している」
《未定》。
《制度がないから、出ていけと言われた》
「その言い方は」
《間違い?》
真琴は止まる。
正しい文を作る前に、現実がある。
「間違いではありません」
《じゃあ、制度は後》
「後回しにすると、力のある人が決めます」
《今も、紙を持ってる人が決めてる》
真琴は自分の紙を見る。
中央保留室は、選べない人を守る場所にもなる。
決めない人を閉じ込める場所にもなる。
正解は出ない。
凱が終了時刻を言う。
「今日の協議は午後三時まで。決まらなければ、七人の今夜の寝床を失わせないことだけを暫定決定する。明日、本人ごとの協議を続ける」
真琴。
「その暫定決定の責任者は」
「俺」
「期限」
「明日午後三時」
「撤回窓口」
「中央受入係と本人」
「了解しました」
凱は王ではない。
決めない権利を、無期限に守れるわけでもない。
一日分の寝床へ、一日分の名前を書く。
それだけの役割を、終わる時刻まで引き受ける。
十月二十三日 午前十時四十分
壊れた圧力扉の修理が始まった。
轟は、酸素切断器を使わなかったことを成功談にしなかった。
使い切った空ボンベを仮支柱から外す。
胴に一ミリのへこみ。
弁は正常。
内部圧力はゼロ。
「返却不可」
整備員が言う。
「呼吸用にはな」
轟。
「廃棄」
「支柱へ回す」
「どこで」
「水上の訓練場。荷重表示を付ける」
「酸素瓶だった物を、柱に?」
「空だと分かる色に塗る」
「また誰かが酸素を入れる」
「弁を外す」
「元へ戻せない」
「呼吸用へ戻す方が危険だ」
タマキが記録票へ書く。
《返却先変更》
「送り主」
「東医療口設備庫」
「受取先」
「水上訓練場」
「目的」
「仮支柱訓練」
「元の持ち主の同意」
東医療口の設備担当が署名する。
「受領」
能力は使わない。
空ボンベは軽くならない。
轟と整備員二人が運ぶ。
タマキは経路を指す。
階段へ来ると、視界が揺れる。
手すりを持つ。
轟が振り返る。
「持つか」
「ボンベ?」
「手すり」
「持ってる」
「休むか」
「次の踊り場」
「今でもいい」
「次を選ぶ」
「分かった」
踊り場まで八段。
タマキは数える。
七段目で床が右へ傾く。
止まる。
「七」
迅が後ろから言う。
「知ってる」
「八段ある」
「見える」
「身体は」
「七で終わったって言う」
「じゃあ八段目は、俺の声を使え」
「命令?」
「案内」
「間違えたら」
「俺の責任」
「一歩だけ」
「一歩だけ」
タマキは八段目へ上がる。
迅は手を出さない。
次の踊り場で、タマキが自分から壁へ座る。
「水、まだ怖い?」
タマキが訊く。
「怖い」
「昨日、最後まで潜った」
「潜った」
「克服」
「してない」
「僕、方向を失った」
「失った」
「歩いた」
「歩いた」
「克服?」
「してない」
「同じ」
「何が」
「できたことと、怖くなくなったこと」
「違う」
「記録」
七瀬はいない。
タマキが自分で住所札の裏へ書く。
《できた》
《治っていない》
二行。
同じ面へ書く。
二つは、別の欄に残った。
十月二十四日 午後四時二十分
七瀬は、タマキへ再現撮影を提案しなかった。
提案書を作った。
渡す前に、破った。
タマキは破った紙を見つけた。
「何」
「撮影案」
「何の」
「初発現」
「撮ってない」
「はい」
「再現?」
「提案する前にやめました」
「なんで」
「水中で一人だったことを、地上で照明を当てて再演すると、別の出来事になる」
「僕がやるって言ったら」
「撮ります」
「言わなかった」
「だから訊いていません」
「訊かないのも、決めること」
七瀬は一秒止まる。
「はい」
「僕が、訊かれたかったかもしれない」
「そうかもしれません」
「どうする」
「今、訊きます。再現撮影を希望しますか」
「しない」
「分かりました」
「でも、能力が出たって残す」
「目撃記録、身体所見、条件札、受領時刻があります」
「映像なし」
「なし」
「弱い証拠?」
「映像がある証拠より、媒体が一つ少ない。弱い部分もあります。映像がないから守られる部分もあります」
「どっち」
「両方」
「便利な答え」
「不便な事実です」
七瀬は撮影機の代わりに、机へ四つを並べる。
《未定》の封緘札。
中央受入の触覚記録。
迅の水中報告。
タマキの身体に現れた線を、施設潜水員が描いた図。
完全には一致しない。
線の位置が違う。
色も違う。
出現時刻も四秒ずれる。
「間違い」
タマキ。
「記憶の差」
「一つにする?」
「しません」
「本当は」
「一つだったかもしれない。でも、今ある記録は四つです」
「どれが正しい」
「私が決めると、撮らなかった時間を私の編集で埋めます」
「じゃあ四つ」
「四つ」
能力の誕生は、一枚の美しい映像にならなかった。
それで、能力が消えるわけではない。
英雄の誕生を撮れなかったのではない。
配達員の仕事へ、四つの不一致が残った。
十月二十五日 午前十一時五分
イオは、タマキの病室へ来て、最初の六分を黙っていた。
黙っている間、止まった時計を三つ机へ置く。
九時十二分。
零時。
三時二十二分。
三時二十二分は、タマキが方向を失った時刻。
「それ、僕の?」
「違う。私の時計」
「なんで合わせた」
「忘れないため」
「僕が忘れたいって言ったら」
「戻す」
「今訊いた?」
「訊いてない」
イオは三つ目の時計を手に取る。
「保管していい?」
「何のため」
「能力の条件と反証を記録する時刻基準」
「誰が見る」
「私、あなた、医療者。公開は別に確認」
「受領」
イオは時計を置く。
防水台帳を開く。
一頁目は使わない。
真琴の癖ではない。
イオは、最初の一行を終了時刻にする。
《使用開始 午後二時三十九分》
《破封 午後三時二十二分》
《方向喪失確認 同時》
《回復推定超過》
《左耳圧外傷 別原因を含む》
「条件」
タマキが言う。
イオは書く。
「本人が呼称を選ぶ」
「本人が受取先を選ぶ」
「本人が目的を選ぶ」
「受取側が受入れる」
「防水札を封緘」
「本人は随時破封できる」
「タマキは復唱しない」
「最後は能力条件?」
イオ。
「僕の運用」
「区別する」
二つの欄へ分ける。
能力が要求する条件。
タマキが自分へ課す運用。
「効果」
「今通れる一方向」
「距離」
「分からない」
「危険」
「消えない」
「人の重量」
「変わらない」
「酸素」
「増えない」
「扉」
「開かない」
「便利じゃない」
「便利」
「どっち」
「方向が分かるのは便利。全部できないのも便利」
「できないことが?」
「他の人の仕事を取らない」
イオの鉛筆が止まる。
「それを、能力の美徳にしない方がいい」
「なんで」
「できないことを褒めると、できる能力へ別の仕事を全部渡す」
「じゃあ、どう書く」
「上限」
イオは欄へ書く。
《上限》
できないことは、人格の美しさではない。
機能の限界だ。
限界が分かれば、別の人員と道具を用意できる。
「水科イオ、怒ってる?」
「いる」
「僕に」
「半分」
「半分って誰」
「私」
「何で」
イオは真鍮装具の刻印を触る。
一つ。
二つ。
三つ。
未来の話になると、文が短くなる。
「能力がないあなたを、私は好きだった」
タマキは目を瞬く。
「好き?」
「恋愛ではない」
「じゃあ何」
「安心」
「僕が弱いから?」
「能力がなくても仕事がある証拠だった」
「証拠」
「私が失っても終わらない証拠」
「僕を使った」
「使った」
「今、能力が出たから困る?」
「困る」
「僕が出したみたいに言うな」
「出した」
「条件を選んだ」
「それが、私には裏切りに見えた」
タマキの顔が固くなる。
「僕は、水科イオのために無能力だったんじゃない」
「知っている」
「今も、能力者の見本じゃない」
「知っている」
「知ってるなら、なんで言う」
「言わないと、私は良い先輩の顔で、あなたの能力条件を管理する」
「しないで」
「すると思った」
「今も?」
「今もしたい」
イオは台帳へ手を置く。
「この字を私の字にそろえたい。反証を私の経験へ当てはめたい。あなたが能力を喜ぶ前に、危険を教えて止めたい」
「止めるのが仕事?」
「違う。私の怖さ」
「じゃあ、離れて」
タマキは言った。
イオの指が止まる。
「どのくらい」
「この台帳を僕が書けるまで」
「右へ置く」
「机の右、今は左に見える」
「では中央」
イオは台帳を二人の間へ置く。
立ち上がる。
「午後一時まで、私は戻らない」
「二時間」
「一時間五十五分」
「細かい」
「距離を曖昧にしない」
「戻ってきたら」
「続きを頼まれたら書く。頼まれなければ触らない」
「今、仲直り?」
「していない」
「嫌い?」
「分からない」
「僕も」
イオは病室を出る。
タマキは、台帳へ自分の字で書く。
《送り主が破封したことを、配達員への加害と記録しない》
《次の送り主には、方向喪失の可能性を先に説明する》
《説明したことで撤回をためらわせた場合、それも記録する》
字は曲がっている。
床が揺れるからではない。
怒っているからだ。
午後一時。
イオは戻る。
「続き」
タマキが言う。
「受領」
二人は仲直りしないまま、同じ台帳へ別々の字を書いた。