第414話 第一章「記念劇の募集」後編
「あなたは、型をいつ覚えた」
「六歳です」
「自分で選んだ?」
「選択肢がありました。動作試験、記録照合、施設外訓練」
「どれを選んでも施設?」
「当時は」
「今は」
「試験官です」
「答えになっていない」
「質問が広い」
「狭くします。今、ここへ来ることを選んだ?」
レムの指が、一拍を数えた。
「選びました」
「この脚本を守ることも」
「はい」
「安全装置を外すことも」
「評価値を歪める装置だけです」
「落下網は評価値を歪める。骨折は?」
「事故率として記録されます」
「記録された骨は、治る?」
「治療します」
「治らないものは」
「補償します」
「補償できないものは」
レムは答えなかった。
階段の先に、青いマフラーを巻いた人形が立っている。
竜胆岳の体格へ合わせた訓練人形。
右手は梁へ。
左腕は避難者へ。
顔はない。
カナタは人形の左腕を持ち上げた。
途中で止まる。
「岳は、左腕が悪かった」
「記録では動かしています」
「動いたことと、動かせたことは違う」
「映像上は、避難者を支えています」
「誰かが下から押した可能性は」
「画角外です」
「誰かがいた可能性は」
「あります」
「脚本では」
「岳が一人で支えます」
豪が人形の背後へ回った。
「こいつ、重心が前すぎる」
「英雄姿勢です」
「この姿勢で梁持ったら、腰が死ぬ」
「映像では」
「映像は骨まで映さねえ」
豪は人形の足を半歩開いた。
腰を落とし、左腕へかかる荷重を背中へ逃がす。
英雄の姿が、少し不格好になる。
少し、生きている人間に見えた。
レムが足位置を元へ戻そうとする。
豪の掌が先に床へ置かれた。
「今、直すな」
「規定位置です」
「こいつが痛いって言えねえから、俺が言う」
「人形です」
「だから都合がいい」
カナタは脚本の余白へ書いた。
《左腕可動域を再確認。補助者の存在を調査。英雄単独の持上げを保留》
レムが覗く。
「保留では認証が下りません」
「認証が下りないなら、公演をしない」
「訓練です」
「中止できない訓練は、本番より危ない」
階段を降りると、第一街区の裏側に安全器具の検査台があった。
安全器具という名の物は、たいてい赤い。
赤ければ、危険な時に見つけやすい。
危険な時に赤が見えない人もいることは、説明書の最後に小さく書かれる。
壁面には非常紐が三本。
成人の肩の高さ。
握り玉は右側。
引けば落下網、排水、非常灯が順に作動する予定だった。
「予定ではなく、実際に引きます」
カナタは言った。
技術員が眉を上げる。
「本番前の全系統作動は、復旧に時間がかかります」
「復旧できない安全装置ですか」
「作動後、再封印が必要です」
「何分」
「一系統、四十分」
「三本なら」
「並行作業で七十分」
「日程は」
「遅れます」
「骨より?」
レムが先に言った。
カナタは彼女を見る。
「今の、私の台詞?」
「犬飼さんの引用です」
「引用元が強い」
豪は非常紐の前へ立った。
「俺は引かねえ」
「なぜ」
「届くし、握れるし、体重もある。俺で動いたら、動くことしか分からねえ」
彼は訓練参加者の中から、三人を呼んだ。
一人目は左手の指が二本欠けている。
二人目は百五十センチに満たない。
三人目は、手袋を外せない皮膚疾患がある。
「これが非常時の身体だ」
豪が言う。
「規格外です」
技術員。
「事故が規格表を読んでから来るならな」
一人目は握り玉をつかめない。
手首へ紐を巻くと、引ける。
しかし戻せない。
二人目は、爪先立ちでも届かない。
壁の踏み台は、避難路を十二センチ狭める。
三人目の手袋は、濡れた握り玉を滑る。
布を巻けば摩擦は増えるが、布の保管場所が五メートル離れている。
「英雄役なら届きます」
レムが言った。
「避難者役は?」
カナタ。
「英雄が引きます」
「英雄が倒れていたら」
「別の英雄役が」
「八人全員が同じ身長?」
レムは札を見る。
「違います」
「なら、紐を下げる」
技術員が首を振る。
「誤作動が増えます」
「下へ追加する。上は残す。握り玉は輪へ替える。右だけでなく左にも」
「部品が」
「舞台幕の予備索」
豪が指した。
「耐荷重は」
「人の手で引く分には余る」
「認証外です」
「試験する」
カナタは赤鉛筆で、器具番号を一つずつ囲った。
非常紐一。
落下網。
引き手三種。
作動者三人。
復旧担当二人。
停止条件。
「ここまで書く必要がありますか」
技術員が訊く。
「事故の時、誰が引いたかだけ残ると、その人が英雄になります」
「悪いことですか」
「その人が引けた理由と、引けなかった人の身体が消える」
レムが非常紐を見上げる。
「記録は、全条件を残せません」
「だから、残せない条件を選んだ人の名も残す」
「私?」
「私も」
カナタは検査票へ、自分の名を書いた。
《全系統作動試験を要求》
《日程遅延を受領》
《演出担当 紅葉カナタ》
レムも、その下へ書く。
《再現精度への影響を異議として保留》
《試験官 八城レム》
二人の文は一致しない。
同じ紙に残る。
豪は三人へ、引く前の姿勢を教えた。
「力を入れる前に、逃げる足を決めろ。引いた装置が落ちてくることもある。安全装置は、味方の顔をして上から来る」
「怖いこと言いますね」
「怖くない説明で、身体は守れねえ」
一人目が手首で引く。
赤い紐が動く。
壁の向こうで、落下網が開いた。
半分だけ。
右端が、装飾柱へ引っかかった。
誰も笑わなかった。
レムが時計を見る。
「復旧を含めると、昼を越えます」
「越えましょう」
カナタは言った。
「公演準備が遅れます」
「遅れた時刻も、現在です」
安全装置の赤は、舞台の朱より鈍かった。
鈍い赤の方が、今日はよく見えた。
正午まで、残り四十九分。
カナタは契約書へ署名した。
ただし書きを三つ付けた。
安全装置は現物確認。
役名と実名を併記。
中止権限は演出責任者にも置く。
レムも署名した。
彼女の字は、八本の線で囲ったように整っていた。
「最後まで、終わらせてください」
レムが言った。
「最後まで、止められるようにします」
カナタは答えた。
二人の署名の間に、赤鉛筆の円があった。
今度も、円は閉じなかった。