第415話 第二章「配役された英雄」前編
十一月二十三日 午前九時
獅堂凱は、王冠を返した後で、王の兜を渡された。
青銅製。
額に青い灯の印。
側頭部から後頭部まで、竜胆岳の顔の寸法へ合わせた内張り。
「似合います」
係員が言った。
「それは評価か」
「衣装適合です」
「誰に適合した」
「英雄役に」
「英雄の名は」
「統合先導者です」
「俺の名は」
係員が名簿を見る。
「獅堂凱」
「今の質問へ、同じ答えを保て」
凱は兜を受け取った。
かぶらない。
両手で持つと左膝へ重さが逃げるため、右腕へ抱え、黒い装具の留め具を一段緩めた。
配役室の壁には、六十四枚の札が並んでいる。
英雄役、八枚。
生活技能役、二十四枚。
避難者役、三十二枚。
札の上には実名。
下には役名。
役名の方が三倍大きい。
凱の札。
《獅堂凱
先導英雄
最後まで退場しない
退路を示さず、前進によって群衆を導く》
「退路を示さず?」
凱は訊いた。
「英雄が後方を指すと、避難者が逆流します」
説明したのは、榊槙司だった。
墨色の髪を襟足で結び、四角い眼鏡の左端を押さえている。
黒い長衣の袖へ白い粉。
左手の触覚は、以前の反証で一部鈍い。
それでも彼は、左右の手で別々の紙へ同時に文字を書いていた。
「ここでいう《退路》は、英雄の進行方向と反対の経路を指します」
槙司が言う。
「俺が進行方向を変えたら」
「その時点で前方の定義を更新します」
「更新を誰が知る」
「放送します」
「停電したら」
「役割札の矢印」
「煙で見えなければ」
「接触復唱」
「英雄が倒れたら」
槙司の筆が止まった。
「英雄役は、最後まで退場しません」
「倒れることと退場は違う」
「脚本上は」
「脚本の話をしていない」
凱は兜を机へ置いた。
「英雄が倒れた時、避難者は誰へ従う」
「代行英雄へ移ります」
「八人目まで倒れたら」
「訓練中止です」
「誰が中止する」
「演出責任者、試験責任者、設備責任者の二者一致」
「二者が連絡不能なら」
「……規定がありません」
「作れ」
「命令ですか」
「質問への要求だ。拒否してよい」
槙司は空中へ括弧を描いた。
「《拒否してよい》が、旧王から言われた場合の圧力を定義する必要があります」
「俺が言ったという事実を残せ。定義は後でいい」
配役室の向こうで、笑い声がした。
水科イオが、壁の札を見ている。
濃い青緑の髪。
片側だけ刈り上げ。
左前腕の真鍮装具。
左右で色の違う靴。
イオの札にはこうある。
《水科イオ
救助対象・能力喪失者
歩行不能
英雄へ右腕を預ける
救助後、英雄へ感謝する》
係員が、別の照合票を開いた。
氏名欄の横へ、小さく《IO-04》とある。
「旧識別も残しますか」
「残さない」
イオは即答した。
「事故照合には」
「旧施設へ問い合わせる時だけ、封印欄。役札へ出さない」
「IOは、入出力の略だと資料に」
「違う」
声が一段低くなる。
「最初の同室者の姓名、その頭文字。施設が勝手に番号へ使った。私は四番を捨てた。二文字まで捨てたとは言ってない」
「本人の名は」
「公開しない」
「記録へ、由来だけ」
「私が許した範囲で」
係員は《IO-04》へ覆い紙を置く。
番号を消しても、その下にいた人まで消す必要はない。
残すことと見せることも、同じではない。
「感謝は技能ですか」
イオが訊いた。
「演目上の感情到達点です」
係員。
「何秒で」
「何が」
「感謝。開始から完了まで」
「時間では測りません」
「訓練なのに?」
イオは札を外した。
「歩けます」
「役です」
「右腕は強化を失っている。歩行はできる。膝は硬い。長い階段は休憩が要る。情報が三つ。脚本は《歩行不能》一つ。どちらが訓練向き」
槙司が近づいた。
「役割は、個人の現在状態を再現するものではありません」
「では、誰の状態」
「黒雨時の能力喪失者を代表します」
「一人で?」
「教育上の圧縮です」
「圧縮した人間は、どこへ戻す」
イオの声は低い。
怒るほど、時刻を言うように正確になる。
槙司は答えを探した。
凱は待った。
待つのは得意ではない。
空席へ命令を置きたくなる。
彼は胸の割れた青銅鐘へ触れかけ、手を下ろした。
「槙司」
「はい」
「定義したのは、あなたか」
「一部です」
「英雄、避難者、成功」
「はい」
「なぜ」
「訓練記録を比較可能にするためです。全員が別の行動をすれば、どの型が有効だったか測れない」
「人が別なら、行動も別だ」
「だからこそ、条件を揃えます」
「条件を揃えた結果だけが、人を救うと?」
「揃えなければ、改善できません」
イオが壁の時計を見る。
実際には時計を見ていない。
床の振動を足指で数えている。
「九時四分十八秒。議論開始から二百五十八秒。誰も役を選んでいない。比較可能」
槙司の眼鏡が少し下がった。
「皮肉ですか」
「観察」
扉が開き、竜胆迅が入ってきた。
色褪せた紺の学ラン。
右手首の赤い七結び。
片方だけ外側の減った靴。
「遅刻」
凱が言った。
「六分」
「理由」
「入口が一つだった。裏を見た」
「裏口は」
「二つ。片方、鍵が錆びてる」
「報告したか」
「今する」
「俺ではない。設備担当へ」
「お前が聞いた」
「聞いた者と直す者を分ける」
「王をやめて、面倒になったな」
「元からだ」
迅は壁の札を見た。
自分の札を見つける。
《竜胆迅
逃走避難者・少年
恐慌により指示へ反抗
先導英雄の説得後、列へ復帰》
「似てる」
イオが言った。
「どこが」
「反抗」
「恐慌じゃない」
「そこも」
迅は札を外さなかった。
「台詞は」
係員が台本を差し出す。
迅は読む。
《こんな道じゃ死ぬ。
英雄なんか信じない。
兄さんなら、こんなことはしなかった》
頁を閉じる。
「誰が書いた」
槙司が手を上げた。
「原記録の発言を統合しました」
「俺の記録?」
「あなた個人ではありません」
「兄さん、って言葉を使う避難者が何人いた」
「五人」
「そのうち、英雄の弟は」
「一人です」
「圧縮した?」
「教育上」
迅は笑わなかった。
「岳は、俺を説得したことにするのか」
「統合先導者が、恐慌する少年を列へ戻す場面です」
「実際は」
槙司の指が止まる。
「竜胆岳は、少年を薬品搬送へ行かせました」
「説得じゃない」
「命令でした」
「頼み事の形の」
「記録上は《頼む》です」
「拒否できなかった」
槙司は眼鏡の左端を押した。
「その圧力は、当時の記録形式では測定できません」
「今、測れ」
迅が言った。
「台詞を直す。英雄は頼む。少年は断る。断った後の経路も作る」
「史実と異なります」
「史実では、断れなかった。訓練なら、断った時を試せる」
八城レムが入室した。
八本の髪留め。
試験服。
薄底靴。
「史実と異なる条件は、比較対象として別枠になります」
「別枠を作れ」
迅。
「認証時間が不足します」
「時間の話ばかりだな」
イオが言う。
「私の担当?」
レムは札を確認した。
「水科さんの能力は、終了時刻を精密化する。今回の訓練では停止区画へ入るため使用できません」
「能力の話ではない。あなたたちが、時間がないと言うたび、誰の時間を切っているか」
「記念事業の開幕は十一月三十日です」
「答えが日付」
「はい」
「正確で助かる。正しいとは言っていない」
凱は兜を持ち上げた。
「試す」
「何を」
レム。
「役の圧力だ」
凱は兜をかぶった。
内張りが額を押す。
岳の頭の形へ合わせた兜は、凱には少し浅い。
視界の上が狭い。
係員たちが無意識に姿勢を正した。
凱は声を出す。
「英雄役八名。整列」
配役室にいた英雄役の参加者が、反射的に壁際へ並んだ。
まだ訓練開始前。
まだ、役を選んでいない。
それでも兜と声が、人を動かした。
凱はすぐに言った。
「今の命令は撤回する。並び続ける者は、並ぶ理由を自分の名で言ってくれ。離れる者は離れてよい」
一人が列から出た。
二人目が続く。
残った五人のうち、一人が言う。
「靴の寸法確認が早く終わるので」
別の一人。
「まだ、役を受けるか決めていません。位置だけ確認したかった」
三人目は黙った。
凱は待つ。
沈黙を同意へ数えない。
十月の水底事故で、百舌忍が残した手順が、別の場所へ持ち込まれている。
凱は兜を脱いだ。
「これが役の圧力だ。声量だけではない。衣装、位置、周囲の期待。定義書へ入れろ」
槙司は右手で記録した。
左手は、紙の感触を確かめるように何度も縁を撫でている。
「《英雄》を、他者が従いやすい外見と声を持つ役、と追記します」
「足りない」
「何が」
「従った者が悪いように読める」
迅が言った。
「英雄側が、従わせる条件を作った、と書け」
槙司の唇が一度途切れた。
「わ、分かりました」
吃音を隠すように咳をしない。
そのまま書く。
レムは凱から兜を受け取った。
「配役を拒否しますか」
「まだ決めない」
「期限は本日十七時」
「十六時五十九分まで決めない権利がある」
「あります」
「なら、今は未定だ」
凱は自分の札の下へ、《保留》と書いた。
字が大きい。
英雄の役名より、少しだけ大きい。
十一月二十三日 午後二時二十分
動作試験は、停止区画の外で行われた。
床に白い八角形。
中央にレム。
周囲に、凱、迅、カナタ。
カナタは演出ノートを脇へ挟み、右足首を温めている。
面は着けていない。
「三人とも、公開記録の多い動作があります」
レムが言う。
「獅堂さんは、右手を上げてから前進。
竜胆さんは、踵を擦ってから後退。
紅葉さんは、相手の退出路を見てから面へ触れる」
「私だけ戦闘動作でない」
カナタ。
「舞台では視線も動作です」
「よい答え」
レムの関節線が淡く光る。
型通りの発動。
「一、二、開始」
凱が右手を上げる。
その起点へ、レムが半拍早く入る。
手首を押さえる。
凱は前へ出る代わりに、その場へ座った。
レムの次の足が止まる。
「既知動作ではありません」
「座る練習中だ」
「目的は」
「膝を守る」
「試験目的外です」
「俺の身体は試験内だ」
レムは手を離した。
迅が踵を擦る。
後退の起点。
レムが三歩先へ位置を取る。
迅は退かず、靴紐を結んだ。
「動作の偽装です」
「ほどけてた」
「今、ほどきました」
「ほどけた原因も俺だ」
カナタが手を叩かずに笑う。
「卑怯な即興は、即興に含まれますか」
「試験では減点です」
「事故は採点表を持たない」
レムの目がカナタへ向く。
彼が面へ触れる起点を待つ。
カナタは退出路を見た。
レムは面の方向へ半歩入る。
カナタは扉を開けた。
廊下で待っていたタマキが、配達用鉄箱を抱えている。
「受取人、八城レム」
「私?」
「配役札。本人確認」
レムの予測が止まった。
タマキは訊く。
「誰から」
「演出事務局」
「誰へ」
「八城レム」
「何のため」
「試験官役の確認」
「役?」
「職務です」
「役と職務、違う?」
レムは答えようとして、カナタを見る。
「記録にありませんか」
カナタが訊いた。
「この会話は初回です」
「なら、自分で答える場面です」
レムは一拍ではなく、三拍待った。
「違います。職務は、契約と責任が残ります。役は、演目終了で終わる」
タマキは札を渡す。
「受領?」
「受領します」
「拒否できた?」
「できました」
「今、したかった?」
レムの薄青い瞳が、札へ落ちた。
「分かりません」
「受領記録に書く」
「何を」
「《分からないまま受け取った》」
「それは不備です」
「本当」
タマキは鉄箱を閉めた。
レムは札を持ったまま、八拍を数えなかった。
午後四時五十二分。
配役締切まで、八分。
凱は再び兜を手にしていた。
迅は逃走避難者の札。
イオは救助対象の札。
タマキは伝令役。
轟は生活技能役の構造担当。
七瀬は記録担当だが、英雄映像の撮影位置を指定されている。
凱は、札を一枚ずつ見た。
「役は受ける」
槙司が顔を上げる。
「条件は」
「俺は最後まで退場しない、を削除する」
「認証が」
「削除できないなら、本文へ追記する。英雄役は、退場判断を他者へ委ねない。本人が退場できない場合、二名が停止を宣言できる」
「史実の英雄は」
「史実の人間は、退場できなかった。だから訓練では退場できるようにする」
レムが言った。
「型が変わります」
「変えた型を比較しろ」
「標準から外れます」
「人間は標準から外れる」
「それでは、誰でも正しいことになる」
「違う」
凱の声は大きくない。
名前と主語が明瞭になる。
「誰でも、間違えた時に止まれるようにする」
カナタが演出ノートへ書いた。
《英雄役・獅堂凱。条件付き受諾》
迅も札を受ける。
「俺は、説得されて列へ戻らない」
「どうする」
カナタ。
「自分で出口を選ぶ。英雄と違う出口でも」
「演目が割れる」
「避難は割れていい」
イオは、自分の札の《歩行不能》を線で消した。
《平地歩行可。
階段は休憩。
右腕の持上げ補助なし。
感謝は任意》
「最後、必要?」
タマキ。
「一番必要」
イオ。
槙司は、六十四枚の役割札を見上げた。
「定義が増えます」
「人が増えた」
迅が言う。
「最初から六十四人いた」
「札には、六十四個の役しかなかった」
締切一分前。
凱は英雄の兜をかぶらなかった。
兜の内側へ、自分の名を書いた。
消えない墨ではない。
水で落ちる白墨。
役が終われば、洗い流せる字だった。
十一月二十四日 午前十時四十分
兜の内側へ書いた名は、汗で半分消えた。
凱はそれを見て、書き直さなかった。
衣装合わせの次は、動線確認だった。
英雄役八人は、青い帯。
生活技能役二十四人は、黄。
避難者役三十二人は、白。
色だけで判断できない場合に備え、形も違う。
青は三角。
黄は四角。
白は丸。
「青が偉い色に見える」
七瀬が言った。
腰高の三脚へ手回し撮影機〈クランク・アイ〉を固定している。
左肩は上げない。
クランクは右。
画角を変える時は、三脚ごと足で押す。
「灯の色です」
槙司。
「三角は上向き」
「方向記号として」
「上に立つ印にも見える」
「では、配置を横へ」
「色は」
「既存資料との照合が」
「また比較」
七瀬はクランクを半回転戻した。
「比較のために、何を同じにしている?」
「役割」
「役割を同じにしたら、人の差が消える」
「差を記録するために、基準が要る」
「基準を作った人の差は、どこへ入る」
槙司は青い三角札を見た。
「作成者欄を追加します」
「あなたの名?」
「私と試験局の担当名」
「削除できる?」
「履歴を残して改訂します」
「削除した定義で人が怪我したら」
槙司の左手が止まった。
「削除は、責任の終了ではありません」
「それ、札の裏へ」
七瀬は言った。
槙司は裏面へ書いた。
《定義を変更しても、旧定義の運用責任は消えない》
凱が青い三角を外した。
「形を変える」
「何へ」
カナタが訊く。
「英雄役も丸にする」
「見分けがつかない」
「声で名乗る」
「煙の中では」
「触って分かる刻みを変える」
タマキが鉄箱から、余った靴紐を取り出した。
「結び目」
「何種類」
凱。
「役で三種類なら覚えられる。でも役が変わったら結び直し」
「途中で変える前提?」
「変わる」
タマキは当然のように言った。
「配達先も、受取人が変われば札を直す」
「人の役も」
「同じ」
レムが近づいた。
「途中変更を認めると、訓練評価が難しくなります」
「変更できない救助は、事故より先に人を決めてる」
タマキ。
「年少者が英雄役へ変更する危険があります」
「しない」
「なぜ」
「英雄になりたくない」
「理由は」
「料金が出ない」
カナタが口元を押さえた。
笑いを演技へ変えないためだ。
「役ごとの手当は同額です」
レム。
「じゃあ、なおさら」
タマキは白い丸札へ緑の紐を通した。
「僕は伝令。速く走る。でも、左へ揺れる。高い所は遅い。これを書いて」
係員が困る。
「役割札に障害情報を公開しますか」
「見られたくない人は?」
「本人選択にする」
七瀬が言った。
「公開範囲も札へ」
「情報が増えます」
槙司。
「人が減るよりいい」
迅。
彼は逃走避難者の白札を袖へ結んでいる。
結び目は、すぐ外せる一重。
「お前は、外す気だな」
凱が言った。
「外せる札しか付けない」
「役を受けた」
「受けるのと、返せないのは別だ」
「返す時は言え」
「誰へ」
「演出責任者と、近くの二人」
「お前じゃない?」
「俺が聞こえれば、聞く。聞こえない時に、俺を待つな」
凱は言ってから、自分の言葉へ少し驚いた。
王だった頃なら、自分を待たせた。
自分が決めた。
自分が到着するまで、現場を保留させた。
今は、別の者が決める余地を言葉へ入れる。
それでも、全員が凱を見る。
変化は、言葉より遅い。
「視線が集まってる」
七瀬が言う。
「分かっている」
「分かっている顔をして立つと、もっと集まる」
「どう立てばいい」
「座る」
迅。
「床へ?」
「椅子がある」
凱は曲がった椅子を見つけた。
直したくなる。
脚の高さが違う。
座面が出口へ正対していない。
彼は直さず座った。
左膝を伸ばす。
右手を膝へ置く。
誰かが命令を待っても、立たない。
英雄役の一人が訊いた。
「次の配置は」
凱はカナタを見る。
「演出責任者へ」
カナタは一瞬、舞台声を使いかけた。
「次は――」
言葉を止める。
壁の動線図を見る。
役割札を見る。
床へ置かれた工具を見る。
「全員、青い線へ」
六十四人が動きかける。
カナタは手を上げた。
「違う。ごめん。全員ではない。役別でもない」
裏の低い声になる。
「いま、床の線を読める人。近くの二人へ意味を説明して。読めない人、見えない人、色を区別しにくい人は手を上げなくていい。別の合図を作る」
誰もすぐ動かない。
レムが言った。
「指示が長いです」
「短い指示は、聞ける人だけ速い」
「事故時には時間が」
「だから今、時間を使う」
生活技能役の女性が、青線の意味を隣へ説明した。
白札の避難者役が、線の上へ立つのではなく、線の外側へ靴を置いた。
「中は滑る」
彼は言った。
技術員が確認する。
青い塗料は、見栄えを優先して光沢仕上げだった。
濡れると摩擦が落ちる。
レムは採点板へ書いた。
「線内歩行、減点」
「塗った側は」
七瀬。
「設備評価へ記録します」
「出演者だけ減点?」
「……設備側も」
レムは欄を増やした。
欄が増えるたび、採点表の余白が減る。
凱は椅子から見ていた。
人は、命令がなくても動いた。
遅い。
不揃い。
誰かが二度聞く。
一人が方向を間違える。
別の人が直す。
きれいではない。
だが、きれいな列より、間違えた人が見える。
イオが凱の隣へ立った。
「座る訓練」
「そうだ」
「何秒」
「決めていない」
「上達しない」
「上達が必要か」
「必要。座るだけで褒められる元王は、労働市場で有利すぎる」
「褒められていない」
「視線、十八」
「数えたか」
「十八人。いま十六。二人は線を見た」
凱は水を飲みたくなった。
決断後、結果が出るまで飲まない癖がある。
まだ決断していない。
だから飲める。
水筒を開けた。
イオが一度だけ頷く。
「能力を失うと」
凱が言った。
「何」
「視線は減るか」
「増える時もある。可哀想、再起動、次の象徴。種類が変わる」
「俺は、まだ失っていない」
「知ってる」
「減衰している」
「知ってる」
「英雄役に選ばれた理由は、声と身体か、過去の王位か、能力か」
「全部。選ぶ側は、分けるのが面倒」
「分けさせる」
「誰に」
「俺が」
イオは止まった時計を一つ、腰から外した。
「また自分で持つ」
「癖だ」
「直す?」
「分からない」
「正直。記録時刻、十時五十八分」
「いちいち残すな」
「貴重だから」
凱は水を飲んだ。
英雄の兜は、床へ置かれている。
誰もかぶっていない。
それでも、人は兜を踏まないよう避けて歩いた。
役は身体から外れても、床に残る。
凱は立ち上がり、兜を壁際へ移した。
出口を塞がない場所へ。
「持つんだ」
迅が言った。
「片づけただけだ」
「同じこと言う奴、知ってる」
「岳か」
「お前も」
凱は兜を置いた。
「違う」
「どこが」
「戻ってくる」
「何時に」
イオが訊いた。
凱は一瞬、言葉に詰まった。
「十七時までに」
「よし」
「何が」
「帰る時間を言った」
イオは別の靴で歩き出した。
左右で音が違う。
凱は、その不揃いな音を聞いた。
英雄の行進より、長く耳に残った。
午後一時から、六十四人の配役歩行が始まった。
床へ描かれた街路は、黒雨当日の推定地図だった。
確定した道は実線。
映像から補った道は破線。
誰かの証言だけにある道は点線。
英雄役は実線だけを歩く。
生活技能役は破線へ入れる。
避難者役は、英雄の袖から一メートル以上離れない。
「点線は」
凱が訊く。
「再現対象外です」
槙司。
「なぜ」
「位置が確定していない」
「救助があった可能性は」
「あります」
「人は」
「名簿に欠落があります」
「欠落した人は、訓練でもいない?」
「存在を断定できません」
「不明と書けば、存在を断定せず残せる」
「役を割り当てられません」
「役がないと、人ではないのか」
槙司は筆を止めた。
「制度上の処理を問われているなら、違います。演習上の処理なら、役がない参加者は配置できません」
「配置できない人を作る制度だ」
「そういう批判は受けます」
「受けた後」
「定義を修正します」
「人は戻るか」
槙司の左手が紙の端で滑った。
触覚が薄い。
本人は見て修正する。
「戻りません」
「なら、修正は免責じゃない」
「承知しています」
「承知を何へ使う」
「次の文言へ」
「今回の人へは」
「異議欄」
「小さい」
凱は配役札の余白へ、自分で書いた。
《点線上の人員は不明。ゼロではない》
係員が消そうとする。
「公認札へ追記は」
「俺の胸だ」
「札は貸与品です」
「では紙を重ねる」
凱は小さな白紙を上から結んだ。
貸与品へ書かない。
自分の情報を、見える位置へ足す。
イオがその横で、元能力者役の姿勢を教えられていた。
「右腕を垂らし、歩幅を半分。救助者へ依存する視線」
動作指導員が言う。
「依存する視線、どこに売ってる」
「比喩です」
「禁止語ではないけど、雑」
「能力を失った直後の混乱を表現します」
「誰の記録」
「複数の元能力者」
「私も入ってる?」
「あなたの公開資料は」
「聞いてない」
「公開済みです」
「公開と、私の身体へ使う許可は別」
イオは左腕を垂らさない。
真鍮器具を胸の前へ上げ、留め具を自分で締める。
「私は救助される役を断る」
「配役変更は」
「救助されることじゃない。救助される時の姿勢を、他人が決めることを断る」
「役の要件が」
「歩けないふりはしない。助けが必要なら言う。いまは歩ける」
凱が隣へ来る。
「俺が救助者役だ」
「助けたい?」
「必要なら」
「いま必要?」
「ない」
「じゃあ離れて」
「役の距離が」
「一メートル?」
「そうだ」
「一・一メートルへ」
イオが一歩ずれる。
「認証外」
「一歩で資格なくなる?」
「距離条件です」
「人間関係として健全」
「演習としては」
「不健全でいい」
凱は距離を一・一メートルへ保った。
動作指導員が赤印を付ける。
《不成立》
イオが自分の札へ書く。
《本人による距離変更》