第261話 第九章「手術室前の乱闘」前編
四月十九日 午前十時三十一分
暗闇での戦いは、静かではない。
見えない分だけ、人は物へぶつかる。
物は、誰の味方でもなく大きな音を出す。
手術室前の廊下で、最初に倒れたのは、誰でもなかった。
金属の洗面器だった。
からん。
一度跳ねる。
から、から。
縁で回る。
迅は音へ向かなかった。
音が派手すぎる。
向かせるために落とした音だ。
右側から、息。
左側から、布。
正面から、寝台の車輪。
「三」
タマキが後ろで言う。
「人数か」
「音」
「人数は」
「分からない」
「正しい」
「褒めるな」
「言い直せる人は」
「今それやめろ」
迅は右へ半歩。
短刃が、学ランの袖を裂く。
刃を持つ手へ触れない。
手首の前へ自分の前腕を置き、肘の角度だけを崩す。
相手が刃を引く。
引いた先に轟の肩がある。
左ではない。
右肩。
轟は刃を受けない。
廊下の壁へ金属盆を立て、刃先を滑らせる。
きん。
高い音。
澪の右耳には届きにくい。
彼女は音ではなく、轟の足が床を踏んだ振動を読む。
「右壁、一」
低い笛が一度。
迅はしゃがむ。
轟の右腕が頭上を通る。
拳ではない。
手術室前のカーテン棒を掴み、横へ倒す。
布が一人を包む。
「止める」
轟。
「誰を」
「布の中」
「呼び名」
「なし」
「なら、布一」
タマキ。
「勝手に付けるな」
「今だけ」
布の中から蹴り。
轟の左膝へ来る。
彼は腰を引き、右手でカーテン棒を床へ固定する。
左肩を上げない。
「肩」
迅。
「使ってない」
「今、外へ開いた」
「十五度」
「二十」
「暗い」
「言い訳にするな」
同じ会話を、今度は迅が返す。
手術室の中では、ミソラとサナが藍の準備をしている。
手術ではない。
薬剤性の心拍異常へ、中心静脈から処置を入れる。
それでも、清潔域が要る。
光が要る。
発電機はまだ動かない。
手回し灯を、職員二人が交代で回している。
扉が開けば、光が廊下へ漏れる。
漏れれば、侵入者が位置を知る。
閉じれば、迅たちが中の状態を知らない。
「扉、開けない」
ミソラの声が内側からする。
「何があっても?」
迅。
「煙、火、酸素停止なら三回叩く。それ以外は開けない」
「敵が入ったら」
「入れないで」
「簡単に言う」
「難しく言う時間ない」
扉の内側から三回。
どん、どん、どん。
全員が止まる。
「今の三回は」
タマキ。
「呼出し?」
澪。
「合図を決めた直後」
迅。
もう三回。
どん、どん、どん。
「内側」
轟が扉へ掌を当てる。
「違う。扉の向こうの壁」
「偽」
迅。
合図は、決めた瞬間から盗める。
「開けない」
ミソラ本人の声。
「声も偽かもしれない」
タマキ。
「質問」
迅は扉へ言う。
「中の手回し灯、回してるのは何人」
「二人」
「交代は」
「一分」
「藍の脈」
「百四十四、不整」
「最後に渡した器具」
「サナから私へ、細い鉗子」
見えない記録と一致する。
「本物」
タマキ。
「今の範囲では」
迅。
「面倒」
「病院だから」
廊下の奥で、掠れた声がした。
「藍。家族が来た」
手術室の中で、何かが止まる。
「反応しないで」
ミソラ。
「藍、姉の名は志保」
掠れ声。
藍の呼吸が、扉越しにも乱れた。
敵は呼び名だけでなく、限定照合に使う家族情報を知っている。
「記録漏れ」
七瀬。
「今、追わない」
真琴。
「誰が知っていた」
「本人、ミソラ、薬品室の照合札。家族名はまだ書いていない」
「なら本人から」
「または過去の記録」
掠れた声が続ける。
「名取枝里。中央七局付属養成区、投薬記録係」
手術室の中で、金属が落ちた。
七瀬の録音機は回っていない。
家族名と戸籍名を、本人の同意なしに記録しないためだ。
だが廊下の全員が聞いた。
記録機を止めても、人の記憶は止まらない。
「聞かなかったことにはできない」
七瀬が低く言う。
「使わないことはできる」
真琴。
「迅」
ミソラが扉越しに呼ぶ。
「何」
「その人を黙らせるために、本名を呼び返さないで」
「呼び名を知らない」
「なら呼ばなくていい」
「止める」
「行為を」
「分かってる」
掠れ声が、廊下の別の場所からする。
「竜胆迅」
名前を明瞭に呼ぶ。
「右掌、傷。右小指、薬指、遅い」
「よく知ってる」
「七歩。暗いと使えない」
「そうでもない」
「源が見えない」
「今、声が源かも」
「声は刃ではない」
「名前も刃にした」
「あなたたちが先」
掠れ声は複数の所属札を床へ投げた。
かち、かち、かち。
白冠。
剛嶺。
中立。
暗闇では字は見えない。
音だけが同じ。
警備に入っていた二人の誓痕が反応する。
「白冠侵入者を拘束」
「剛嶺侵入者を排除」
対象条件がぶつかる。
掠れ声の人物は、札を踏み替える。
どちらの拘束からも滑る。
無所属。
誰の所属名で呼んでも、次の札へ移る。
「誓痕に任せるな」
迅。
「では何で」
警備員。
「足」
「見えない」
「床」
タマキが豆袋を蹴る。
しゃら。
一つ。
しゃら、しゃら。
二つ。
掠れ声の人物が、豆袋を避ける。
避けた場所に、澪が白布を敷いていた。
布は音を消す。
同時に、足裏へ厚みを伝える。
「中央」
澪。
迅は中央へ入る。
短刃。
右から。
見えない。
刃が来る前に、肩の空気が動く。
迅は左手で相手の前腕へ触れる。
細い。
硬い。
触れた瞬間、相手の身体が硬直した。
迅ではない。
相手が。
背後から触れられることへの反応。
一瞬だけ、完全に止まる。
迅はその隙を使わなかった。
腕を離す。
「触るなと言う?」
「遅い」
掠れ声。
「今、聞いた」
「敵へ」
「患者かもしれない」
「侵入者」
「それも」
「分類が多い」
「生きてるから」
相手が再び動く。
低い姿勢。
壁と迅の隙間へ入る。
刃は迅ではなく、手術室扉の蝶番へ向いた。
「扉」
迅が叫ぶ。
轟が右足で下の蝶番を押さえる。
刃が金属へ入る。
ぎり、と嫌な音。
轟は左肩を使わず、右手で扉枠を支える。
「一枚、切られた」
「残り」
「二」
「持つ?」
「三分」
「短い」
「長い」
戦闘では、三分は長い。
手術では、三分は短い。
同じ時間が、扉の両側で別の値段になる。
午前十時四十一分。
手術室前へ、敵が集まる。
人数は分からない。
足音で五。
呼吸で七。
投げられた金属札で九。
同じ人物が音を重ねている可能性がある。
患者の呼吸も混ざる。
「七人以上」
澪。
「根拠」
七瀬。
「床へ別の重さ、六。壁の振動、一」
「重複」
「ある」
「記録、七人以上。未確定」
「今それ要る?」
迅。
「後で九人倒したと言わせないため」
「まだ一人も倒してない」
「だから」
廊下の照明は落ちたまま。
窓の遮光布の端から、細い朝の光が入る。
床まで届かない。
光は、金属盆の縁だけを一瞬白くした。
敵が盆を蹴る。
反射が走る。
迅の目に、手だけが見えた。
灰色の袖。
細い指。
指紋を削った痕。
手は、壁際の搬送台へ結んだ細紐を引いている。
源は声ではない。
搬送台を手術室へぶつけ、扉を開かせる動作。
「台車」
迅。
紐が切られる。
重い搬送台が動く。
下り勾配。
扉へ向かう。
上には酸素瓶二本。
空担架。
四号車から消えた物だ。
瓶の弁が開かれている。
ぶつかれば、扉が壊れるだけではない。
酸素が漏れ、手回し灯の火花へ触れる。
「距離」
轟。
「十五」
迅。
「止める」
「重量、二百四十」
「車輪」
「左前、歪み。右後、固定なし」
「道」
患者用寝台が二台、廊下へはみ出している。
直線ではない。
迅は台車の前へ入らない。
後ろへ退く。
一歩。
台車が加速する。
右側の敵が棒を振る。
二歩。
棒を避ける。
左の寝台へ肩が触れそうになる。
「患者」
タマキ。
「分かってる」
三歩。
寝台の車輪止めを左踵で踏む。
かちり。
台車は近づく。
四歩。
右掌へ振動。
傷の端は閉じている。
小指と薬指が、金属の細かな震えを遅れて返す。
五歩。
廊下は曲がる。
直線で退けば、酸素管を踏む。
迅は壁へ右足を当て、半円を描く。
歩数は、距離ではない。
暴力から退いた判断の数だ。
六歩。
灰色の袖がもう一度見える。
相手は別の紐を引く。
台車の左前輪が外側へ振れる。
患者の寝台へ向かう。
源が確定する。
灰色の手が、台車を患者へぶつけるために動かした。
七歩。
赤紐の下で、誓痕が焼ける。
七退一還〈セブン・リターン〉。
迅は人を殴らない。
左拳を、搬送台の右後輪固定レバーへ叩き込む。
一撃。
金属が沈む。
固定レバーが落ちる。
右後輪だけが止まる。
台車の慣性は消えない。
止まった一点を軸に、二百四十キロが回る。
酸素瓶が外側へ傾く。
「轟」
「受ける」
轟は正面から止めない。
柱へ掛けた担架布を引く。
回転した台車の横腹へ布が当たる。
力が壁の三本の支柱へ分かれる。
澪が低い笛を二度。
「床、空ける」
隊員が寝台を動かさない。
患者の足元から点滴架台だけを引く。
台車は扉の手前、一・三メートルで止まった。
酸素瓶が一本、落ちる。
迅が受けない。
右手で掴めば落とす可能性がある。
足の甲で瓶の向きを変え、毛布へ転がす。
弁を轟が閉める。
しゅう、と漏れた酸素が止まる。
《七退一還》が解いたのは、台車の進路だけだった。
扉の蝶番は切られたまま。
敵は残っている。
患者の処置も終わっていない。
迅の右前腕に、反証の痺れが走る。
暴力の源を、人ではなく動作へ絞った代償。
手首が一瞬、開かない。
灰色の人物がその隙へ入る。
短刃が迅の喉へ来る。
澪の笛。
一度。
迅は聞く。
低い。
右へ沈む。
刃が首筋を擦る。
皮膚が切れる。
浅い。
迅は相手の腕を掴まない。
灰色の袖を、自分の肩と壁の間へ挟む。
「止まれ」
「命令」
掠れ声。
「提案」
「選択肢」
「動かない。刃を落とす。後ろへ戻る」
「全部、あなたに得」
「患者にも」
「患者は連れていく」
「望んでない」
「知らない」
「聞いた?」
「命令に不要」
「ここでは要る」
相手が身体を捻る。
細い。
軽い。
迅の肩と壁の隙間を抜ける。
刃を捨てない。
代わりに、金属札を迅の胸へ押しつける。
白冠。
警備誓痕が反応しかける。
迅には所属拘束の誓痕がない。
「それ、俺には効かない」
「知ってる」
「じゃあ何で」
「あなたが、私を白冠と見る」
「見ない」
「剛嶺」
札が裏返る。
「見ない」
「中立」
「見ない」
「無所属」
「それも札」
掠れ声の呼吸が、初めて乱れた。
「何を見る」
「刃。足。呼吸。今したこと」
「名前」
「いらない」
「嘘」
「捕まえるには要るかもしれない。止めるには要らない」
相手の刃が迅の脇腹へ入る。
迅は半歩退く。
八歩目にはならない。
能力は終わっている。
左手で刃の腹を押す。
相手の肘を、轟が壁へ当てた布で挟む。
澪が足首へ白布を投げる。
三人の動作は揃っていない。
揃っていないから、同じ偽合図で崩れない。
灰色の人物は刃を離した。
床へ落ちる。
からん。
最初の洗面器より小さい音。
「捕まえた?」
タマキ。
「まだ」
迅。
灰色の人物は、轟の布と澪の白布の間へ身体を落とし、床を転がる。
患者寝台の下へ入る。
「追うな」
ミソラの声が扉の内側からする。
「患者の下」
迅は止まる。
灰色の人物は、寝台の反対側から出ない。
患者の呼吸が速くなる。
「寝台の人。呼び名」
タマキ。
「近江」
澪が答える。
「近江、下に人がいる。寝台を動かさない。触られた?」
「足」
「どこ」
「左の踵」
「痛い?」
「冷たい」
「刃は」
「ない」
迅は床へ伏せる。
暗い隙間。
「出て」
「命令」
「近江の踵から手を離して」
「人質」
「そうする?」
返事がない。
「今、あなたが決める。踵を持ったまま刃を取る。手を離して別の路へ行く。そこで治療を受ける」
「治療」
「呼吸、変だ」
「あなたの?」
「そっち」
寝台下の呼吸は浅い。
長い戦闘。
薬物。
栄養不良。
迅は症状を知らない。
「ミソラ」
「今、藍から離れられない」
「呼吸が浅い」
「本人へ聞いて」
「聞いた。答えない」
「胸痛、目眩、手の震え。選択肢を一つずつ」
迅は訊く。
「胸、痛い?」
「ない」
「目眩」
沈黙。
「ある?」
「少し」
「手」
「動く」
「震える?」
寝台の金属へ、細い震えが伝わる。
「ある」
「治療」
「任務後」
「任務は今、止まってる」
「止まってない」
別の敵が廊下の奥から来る。
灰色の人物を回収するためではない。
手術室へ向かう。
澪が低い笛を三度。
今夜の合図ではない。
事前の三声。
進路、人数、帰路を分ける。
ただし誓痕は発動させない。
「正面、二」
隊員が復唱。
轟が扉前を守る。
迅は寝台下から離れられない。
「行って」
掠れ声が言う。
「誰へ」
「仲間」
「名前」
「ない」
「止める?」
「任務」
「患者を傷つける」
「対象だけ」
「対象も患者」
「証拠を消す」
「人だ」
「同じ」
「違う」
「決める側が言う」
病院中で繰り返された言葉だった。
迅は答える。
「そう。だから、そっちも決める」
「何を」
「仲間を進ませる。止める。何もしない」
「命令がある」
「選択肢に入れろ」
「できない」
「今、俺と喋ってる」
寝台下の手が、近江の踵から離れた。
床へ二度触れる。
こん、こん。
録音停止の合図ではない。
近くに録音機はない。
「意味」
迅。
「動くな」
「誰が」
「仲間」
掠れ声が、初めて大きく息を吸った。
「止まれ」
声は小さい。
それでも固有の命令だった。
廊下を進んでいた二人の足が、一瞬だけ止まる。
命令へ従ったからか。
本人の声に驚いたからか。
分からない。
澪と轟は、その一瞬を使う。
白布で足を分ける。
扉の前へ寝台用の防輪材を並べる。
二人は倒されない。
手術室へ届かなくなる。
午前十時五十四分。
手術室前の戦いは、止まったように見えた。
見えないから、見えたように思っただけだった。
廊下の各所から、声が上がる。
「ユキ、北へ」
「近江、二号車」
「サチ、酸素停止」
「橋、薬を変える」
「藍、家族確認」
すべて、病院で使われている呼び名。
職員の身体が反応する。
名前を聞けば、顔を向ける。
患者を呼ばれれば、動く。
訓練より前の反射。
「名前だけで動かない」
真琴が叫ぶ。
「照合鍵」
タマキが触覚札の角を読む。
「ユキ、一角、東六。移動指示なし」
「近江、二角、手術室前。移動本人保留」
「サチは呼び名の使用範囲、家族待合だけ」
「橋は東三。この部屋を出たら聞き直し」
「藍は手術室。本人の移動希望なし」
名前が命令から外れる。
ただの呼びかけへ戻る。
灰色の人物は寝台の下から、次々に名を出す。
「名取枝里」
誰も動かない。
「白冠二十三」
誰も動かない。
「剛嶺九」
誰も動かない。
「灰四」
最後の一つだけ、廊下の敵が反応した。
布一が身を捩る。
針が処置室で息を止める。
砂の手が左裾の札へ行く。
灰四は本人の名ではない。
それでも、班の中では命令の中心を示す符号だった。
「その呼び方を、本人が選んだ?」
真琴。
「選択は不要」
掠れ声。
「今、本人が答えています」
「任務」
「呼び名の話です」
「任務が先」
「病院では治療が先」
「ここは病院だけではない」
「そうですね。侵入現場でもある。だから、行為記録を残す」
「名前なしで」
「名前なしでも」
「誰を裁く」
「今したことをした人」
「同じ体が別の任務をした」
「分けて記録する。責任を消さずに」
「できない」