第262話 第九章「手術室前の乱闘」後編
「今から作ります」
掠れ声が、かすかに笑う。
「そればかり」
「生きている制度は、今に――」
「名言みたいに言うな」
迅が先に止めた。
「あなたは黙ってください」
「戦闘中だ」
「今、会話です」
「相手は刃を持ってる」
「床へ落ちています」
「もう一本ある」
寝台の下から、銀色が出る。
迅は手を伸ばさない。
「近江。足を引ける?」
「左は無理。右だけ」
「右を引いて。三つ数える」
「一」
タマキ。
「おまえが数えるな」
「二」
「聞け」
「三」
近江の右足が寝台へ上がる。
同時に、灰色の手が刃を投げる。
迅は刃を避ける。
避けた先に、轟が立てた毛布。
刃は毛布へ刺さり、床へ落ちない。
金属音が出ない。
敵は音を合図に使えない。
澪が床へ白布を引く。
「出口、右」
低い声。
灰色の人物へ逃げ道を一つ残す。
「逃がすのか」
警備員。
「患者の下から出す」
澪。
「出たら捕まえる」
「誰が」
「あなたは所属でしか拘束できない。下がって」
警備員が怒る。
「役に立たないと言うのか」
「今の能力条件が合わない」
「俺自身は」
「寝台を守って」
澪は仕事を切り替える。
灰色の人物が、白布の出口へ滑る。
迅は追う。
前へ一歩。
能力は使わない。
もう使った。
普通の足。
普通の拳。
相手は壁際の器具棚へ手を入れる。
薬瓶。
投げる。
迅は瓶を叩かない。
避ける。
床で割れる。
甘い匂い。
「吸うな」
ミソラが扉の内側から叫ぶ。
「鎮静薬。窓を」
「遮光布」
轟。
「上半分だけ」
澪の隊員が布を下げる。
朝の光が、細い帯で入る。
灰色の人物は左目を閉じた。
一瞬、顔の輪郭が見えかける。
七瀬は撮らない。
人物の左手が、壁を探る。
羞明。
薬剤性か、負傷か。
迅はその弱点へ攻めない。
光の帯から外れるよう、白布の出口を半歩ずらす。
「どうして」
掠れ声。
「患者の下から出す」
「捕まえる」
「それも」
「光は使える」
「治療に使う光だ」
相手が立ち止まる。
後ろでは、手術室の扉が一度だけ開く。
サナが酸素瓶を受け取る。
すぐ閉じる。
藍の処置は続いている。
敵の目的は、まだ終わっていない。
掠れ声の人物が、手術室へ向く。
迅が道を塞ぐ。
「通さない」
「命令」
「俺の位置」
「退かせる」
「やってみろ」
「患者を使う」
「今、言った」
「記録は」
「人が覚える」
相手は初めて、はっきり嫌な顔をしたようだった。
顔は見えない。
呼吸で分かる。
「その言葉、嫌い」
「俺も飽きた」
「なら忘れろ」
「無理だ」
「名前も」
「本人が選んだら覚える」
「選ばない」
「それも覚える」
灰色の人物は、迅へ向かわなかった。
床へ落ちていた複数の札を蹴り上げる。
金属音が廊下中へ散る。
かち。
かち。
かち。
その音に紛れ、別の侵入者が手術室脇の器材口へ入る。
「左」
タマキ。
轟が器材口を押さえる。
遅い。
細い身体が半分入る。
轟は閉め切らない。
挟めば背骨を折る。
隙間を十センチ残す。
「出るか、入るか」
「入る」
「中に患者」
「対象」
「患者」
轟は扉を止めたまま言う。
「なら、入れない」
相手の腕が刃を振る。
轟の右前腕を切る。
浅くない。
血が落ちる。
それでも左肩を使わない。
「轟」
迅。
「持つ」
「血」
「後」
「ミソラが怒る」
「今いない」
「扉の向こう」
「聞こえる」
「轟、圧迫。二分」
ミソラの声。
「持つ」
「扉は他へ渡す」
「誰」
「澪」
「肩」
「澪は扉でなく楔を使う」
白布が隙間へ入る。
中に防輪材。
轟が力を少し抜く。
扉の重さを楔と床へ渡す。
自分だけで持たない。
迅が侵入者の手首を足で押さえる。
刃を離す。
相手は倒れない。
自分から床へ腹這いになり、両手を見える位置へ出した。
「降伏?」
警備員。
「呼吸」
相手。
「何」
「苦しい」
ミソラが扉越しに答える。
「治療を求めるなら、刃を離す。器材口から下がる。呼び名は後」
相手は刃から手を離す。
灰色の人物が言う。
「任務を続けろ」
床の侵入者は動かない。
「聞こえないのか」
「聞こえる」
「なら」
「苦しい」
敵側にも、選択がある。
命令へ従うことだけが合理ではない。
灰色の人物の呼吸が、もう一度乱れた。
手術室の中から、ミソラが言う。
「藍、処置に入る。扉は開けない」
廊下では、触覚札が一枚ずつ確かめられる。
誰かが名を叫んでも、職員は走らない。
札の角。
医療鍵。
本人の選択。
三つが揃うまで、寝台は動かない。
灰色の人物は、名前を武器にしても、病院を動かせなくなった。
それでも、本人はまだ名前を選ばなかった。
午前十時五十六分。
暴走搬送台は、壁際で止まっていた。
酸素瓶、四本。
三本は固定帯の中。
一本は半分抜け、弁が床へ向いている。
迅の一撃で壊れたのは、固定レバーの根元だった。
止めるために壊した。
止まった後は、その壊れた部分が新しい危険になる。
「触るな」
轟が言う。
「俺が止めた」
迅。
「だから触るな」
「理屈は」
「止めた人間が、その後も安全にできるとは限らん」
「感じが悪い」
「正しい」
轟は右手で酸素瓶を押さえる。
左肩は上げない。
腰を搬送台の縁へ当て、体重で傾きを止める。
「固定帯」
凱が一本渡す。
「下から」
轟。
「分かっている」
「膝」
「分かっている」
「二人とも、自分の怪我だけは説明が短いね」
タマキ。
「作業中だ」
轟と凱の声が重なる。
タマキが笑う。
「仲良し」
「違う」
また重なる。
轟が固定帯を瓶の下へ通す。
防火扉の縁が、右前腕を擦った。
薄い痛み。
気にしない。
もう一度、帯を引く。
今度は熱い。
「血」
タマキ。
「軽い」
「流行語」
「あと一本」
「私が引く」
「力が足りん」
「足りない分、二人」
タマキが近くの職員を呼ぶ。
一人の力で速く引くより、三人で同じ長さをゆっくり引く。
轟は手を離した。
自分が勝った形を残さない。
三人の手で固定帯が締まる。
「確認」
轟。
タマキが結び目へ指を入れる。
「一本入る。二本入らない」
「受けた」
轟の右前腕から、血が手首へ流れる。
サナが布を投げる。
「巻いて」
「あと」
「今」
「患者」
「酸素瓶は固定した。次の患者は雷蔵」
「軽い」
「はい、みんな言う」
轟は包帯を受け取った。
手術室前では、捕らえられた侵入者が器材口から腕を出していた。
脈を取るため。
刃を持たないことを見せるためではない。
ミソラが先に言った。
「触る」
「どこ」
「手首」
「一回」
「一回」
指を置く。
脈、速い。
「呼び名」
「いらない」
「治療だけなら、医療鍵でもいい」
「番号」
「本人が選べる」
「二」
「別の二と混じる」
「二、右」
「使用範囲」
「今」
「受けた」
真琴が書く。
《医療鍵 二・右。午前十時五十八分から、本処置まで》
「所属」
警備員。
「聞かない」
ミソラ。
「侵入経路を知ってる」
「治療後に、本人が答える範囲」
「逃げるぞ」
「今、呼吸が苦しい」
「逃げるための演技かも」
「演技でも、酸素飽和が下がってる」
「暗くて測れない」
「唇の温度。爪の戻り。呼吸音」
「間違えたら」
「私の判断」
二・右が言う。
「同じ」
「何が」
「訓練。爪。呼吸。薬」
「灰色の人と?」
「質問、治療?」
「違う」
「答えない」
「受けた」
警備員が苛立つ。
「敵同士で口裏を合わせる」
ミソラは振り返らない。
「治療中に答えさせれば、病院が尋問室になる」
「病院を襲った」
「だから、病院の仕事を変えさせない」
器材口から吸入管を渡す。
二・右は自分で口へ当てた。
命令に従ったのではない。
治療を選んだ。
灰色の人物は、手術室から七歩の位置にいた。
迅は数えなかった。
七歩を使った後だからではない。
使った誓痕は、一度で身体を空にする。
今、七歩を踏んでも戻る力はない。
それでも距離は見える。
一歩目、床の洗面器。
二歩目、切れた酸素管。
三歩目、患者札。
四歩目、防火扉の蝶番。
五歩目、轟の血。
六歩目、灰色の靴。
七歩目、本人。
灰色の人物が、左目を庇う。
防火扉の隙間から、朝の光が細く入った。
迅は扉を開ければいい。
光を広げれば、相手の視界を奪える。
影から出せる。
足を止められる。
右手を扉へかける。
「触るな」
ミソラ。
「敵がいる」
「左目、光過敏」
「知ってるのか」
「今見えた」
「使える」
「症状を武器にしない」
「病院を襲ってる」
「病院だから」
迅は扉から手を離した。
灰色の人物が、初めて迅を正面から見る。
「なぜ」
掠れ声。
「何が」
「光」
「嫌なんだろ」
「敵」
「そうだな」
「なら」
「嫌がることを全部していいなら、敵って便利な名前だ」
「殴る」
「必要なら」
「光は」
「今は必要じゃない」
「甘い」
「よく言われる」
「嘘」
「それも、よく言われる」
灰色の人物は一歩下がる。
迅は追わない。
その背後に、寝台がある。
藍。
名前を叫ばなくても、位置は分かる。
呼吸。
車輪止め。
医療鍵。
灰色の人物の手が、首札へ触れる。
「対象」
低い声。
「本人は、移動を選んでない」
迅。
「任務」
「本人より先に決めるな」
「お前も、止める」
「止める。連れていかせない」
「同じ」
「戻れるかどうかが違う」
「戻る?」
「藍が後で行くと選べば、道は開ける。あんたが連れていけば、選び直せない」
「選択は、遅い」
「そうだな」
「任務は速い」
「だから間違いも速い」
灰色の人物の呼吸が乱れる。
怒りではない。
薬か、傷か、疲労。
左手の震え。
ミソラが扉の向こうから言う。
「治療を求めるなら、道はある」
「罠」
「治療と行為記録を分ける」
「名前」
「なくても始める」
「終わりは」
「本人と決める」
「本人」
灰色の人物が、その言葉を繰り返す。
自分へ向けられたことがないみたいに。
廊下の奥で、逃げた侵入者の足音が一つ消える。
追跡班は出ない。
患者札の確認が続く。
灰色の人物には、まだ三つの道がある。
逃げる。
任務を続ける。
治療を選ぶ。
どれも、名前がなくても選べる。
午前十一時九分。
手術室の中で、器具が置かれる音がした。
藍の処置が終わる。
灰色の人物は廊下に残った。
名を呼ばれたからではない。
まだ、自分で呼ばれる形を選んでいないからだった。