第263話 第十章「選んだ名を呼ぶ」前編

四月十九日 午前十一時十二分

 本名は、鍵ではない。

 鍵に見える時ほど、誰かが扉の向こうへ人を閉じ込めようとしている。

 時雨ミソラは、手術室の扉を開けた。

 幅、二十センチ。

 人が通るためではない。

 酸素瓶を受け取るため。

「藍。処置終了。脈、百十八。不整、減少。意識あり」

 七瀬が時刻を言う。

「午前十一時十二分」

「録音」

「停止中」

「いつから」

「敵が戸籍名らしきものを叫んだ時から」

「らしき?」

 真琴。

「本人が確認してない」

「正しい」

「敵の発言を、こちらで本名へ変えない」

「正しい」

「二回言わなくていい」

「疲れてる」

 ミソラは扉から身体を出した。

 右脇腹と左足首に、他人の痛みが残っている。

 自分の傷ではない。

 だから周囲は軽く見る。

 痛みは、傷の有無を確認して消えるものではない。

「灰色の人」

 迅が廊下の右端を指す。

 呼び名ではない。

 見える衣服の説明。

 灰色の人物は、壁を背に座っていた。

 刃は床。

 手は膝の上。

 左目を閉じている。

 近江の寝台からは離れた。

 逃げ道はある。

 白布が一本、外への経路を示している。

「逃げない?」

 ミソラ。

「今は」

 掠れ声。

「今の範囲」

「話が終わるまで」

「誰の話」

「藍」

「本人が望んでない」

「命令は望みを聞かない」

「あなたは聞ける」

「任務」

「症状」

「ない」

「左目」

「光」

「手の震え」

「止められる」

「呼吸」

「足りる」

「食事」

「不要」

「不要は症状じゃない」

 砂に使った言葉を返す。

 灰色の人物が少し顔を上げる。

「同じにする」

「患者なら」

「侵入者」

「それも」

「分類が多い」

「生きてるから」

 迅と同じ答えになった。

 ミソラは嫌な顔をした。

「何」

 迅。

「あなたの言葉を借りた」

「運賃」

「払わない」

「高い」

「黙って」

 手術室の中から、藍が言う。

「その人と話す」

 声は弱い。

「今は休む」

 ミソラ。

「話す」

「脈がまだ速い」

「知ってる」

「十分」

「五分」

「八分」

「六」

「決めた」

「誰が」

「私」

「患者の希望は」

「入れた。だから六分」

 藍は息を吐く。

「先生みたい」

「先生じゃない」

「面倒」

「同感」

 ミソラは手術室前へ椅子を一脚置く。

 藍は寝台のまま、扉の内側。

 灰色の人物は廊下。

 間にミソラ。

 迅たちは離れない。

 だが、話へ入らない位置へ下がる。

 七瀬は録音機のクランクから手を離す。

「顔も撮らない」

 藍。

「今は」

「後で」

「聞く」

「私が死んだら」

「死後の希望を今聞く」

「撮らない」

「受けた」

「その人は」

「本人へ聞く」

 七瀬は灰色の人物へ向く。

「顔、撮らない。手元、傷、持ち物、行為は別に確認する」

「持ち物は任務」

「あなたの物?」

 灰色の人物が黙る。

 首の金属札へ手が行く。

「分からない」

「なら、今は撮らない」

「後で取る」

「必要性を説明して、もう一度聞く」

「拒否」

「その時、受けるかは未定。拒否したことは残す」

「弱い」

「そう」

 七瀬はカメラを床へ置いた。

 レンズを壁へ向ける。

 藍が言う。

「私は、重要人物じゃない」

 灰色の人物。

「記録を持つ」

「持ってない」

「覚えてる」

「全部じゃない」

「投薬番号、七三一。中止薬、二。死亡、三」

 藍の脈が上がる。

 ミソラが手首へ指を当てる。

「続ける?」

「続ける」

「あと四分」

 藍は暗い天井を見る。

「中央七局付属養成区で、薬の帳面を書いてた」

「年」

 真琴が訊きかける。

「今、尋問しない」

 ミソラ。

「でも事実の」

「六分は本人の話。質問は本人が許したら」

 真琴は口を閉じる。

「私は量を変えた」

 藍。

「命令で?」

 灰色の人物。

「最初は」

「後は」

「命令が来る前に、同じ数字へした」

「なぜ」

「前と違う数字を書くと、呼ばれるから」

「誰に」

「管理官。薬務教官。白い手袋の人」

「名」

「知らない」

「嘘」

「本当に。役職だけ」

「三人死んだ」

「知ってる」

「誰」

「番号だけ」

「名前を消した」

「私が消したんじゃない」

 藍の声が強くなる。

 心拍も上がる。

「一度、書き直した。二度目から、最初から間違った量を書いた。だから、私も消した」

 ミソラは話を止めない。

 責任の言葉は、治療に悪い時もある。

 言わないことで悪くなる時もある。

「なぜ写した」

 灰色の人物。

「逃げる前に、薬番号だけ覚えた。紙は燃やした」

「解毒」

「中止薬の組合せは分かる」

 灰色の人物の手が震える。

「教えろ」

「治療を受けるなら」

「取引」

「そう」

「命令と同じ」

「違う。断れる」

「断れば薬がない」

「私しか知らないわけじゃない」

「誰」

「言わない」

「嘘」

「分からない。私の記憶が正しいかも分からない」

 藍は息を整える。

「だから連れ去って、私だけに聞くのは危ない」

「任務」

「あなたの身体は?」

 灰色の人物は答えない。

「同じ甘い注射を打たれてる」

「知ってる?」

「手の震え。左目。呼吸。昔、帳面で見た」

「対象の観察」

「私も、あなたを番号で見てる」

 藍は目を閉じる。

「ごめん」

「謝罪は不要」

「私が決める」

「赦しを求める」

「求めてない。ごめんと言いたかった」

「同じ」

「違う」

「決める側が」

「そう。だから、あなたが受け取らなくていい」

 灰色の人物は首札を裏返した。

 六分が過ぎる。

「終わり」

 ミソラ。

「まだ」

 藍。

「脈、百三十六。終わり」

「命令」

「医療判断」

「同じに聞こえる」

「今は従って」

「なぜ」

「死なせたくない」

「それは希望」

「私の」

「責任は」

「私」

「……受ける」

 藍は目を閉じた。

 話は終わる。

 灰色の人物は、白布の出口を見た。

 逃げられる。

 迅は道を塞がない。

「追う?」

 七瀬が小声で訊く。

「逃げたら」

「今は」

「逃げてない」

「止めない?」

「治療を聞く」

 ミソラが灰色の人物へ言う。

「左目の痛み。手の震え。甘い薬。診る」

「任務後」

「任務は終わってない?」

「対象がいる」

「本人が拒否した」

「命令は残る」

「あなたの希望は」

「不要」

「不要は症状じゃない」

「覚えた」

「じゃあ答えて。治療を受けたい?」

 灰色の人物は、白布の出口を見続けた。

「分からない」

「分からないまま、診察だけ受ける?」

「触る」

「先に場所を言う。手首、瞳、呼吸。背中には触れない」

「拘束」

「しない。刃は離す」

「逃げる」

「診察を止めると言えば、止める。その後、侵入行為で追う」

「別」

「別」

「面倒」

「病院だから」

 灰色の人物は、白布の出口から目を離した。

「診察だけ」

「受けた」

 午前十一時三十一分。

 診察は、逃走路の横で始まった。

 ミソラは椅子を動かさない。

 灰色の人物にも座れとは言わない。

「右手首。触る」

「左」

「左を触る?」

「右は嫌」

「分かった。左手首」

 ミソラは指を当てる。

 脈、百二十六。

 速い。

 不規則ではない。

「瞳。左目を開けられる?」

「光がないなら」

 遮光布の隙間を隊員が閉じる。

「今、暗い」

 左目が開く。

 ミソラは手回し灯を使わない。

 指の影と、わずかな外光で左右差を見る。

「左、反応が遅い」

「知ってる」

「いつから」

「薬の後」

「何回」

「数えない」

「数えられない?」

「数えると、任務になる」

「じゃあ、たくさん?」

「たくさん」

「呼吸。上着を緩める。自分でできる?」

「できる」

 灰色の指が首元へ行く。

 金属札が邪魔になる。

 外さない。

「札、外す?」

「嫌」

「理由はいらない。紐だけ緩める?」

「自分で」

「受けた」

 紐が緩む。

 鎖骨下に、古い摘出痕。

 識別端末を取った跡。

 ミソラは見ても、何の組織か聞かない。

「深く吸う」

 途中で止まる。

「もう一回」

 同じ位置。

「胸の右下、痛い?」

「痛くない」

「感覚が鈍い?」

「分からない」

「背中へ触れず、横から聴診器。いい?」

「左」

「左側から」

 呼吸音。

 右下が弱い。

 肺そのものより、筋力と薬剤の可能性。

「血液を取る」

「嫌」

「薬の種類を調べる」

「残す」

「検体を?」

「名前」

「名前は付けない。医療鍵だけ。処分時刻も決める」

「誰が見る」

「私とサナ。必要なら本人が選んだ人」

「本人」

「あなた」

「呼び名がない」

「呼び名がなくても本人」

 灰色の人物はミソラを見る。

 左目を細める。

「呼び名がないと、記録できない」

「医療鍵は作れる。今の場所と身体特徴。あなたが後で呼び名を選んだら、つなぐか聞く」

「選ばない」

「それもいい」

「血は」

「嫌なら取らない」

「治療」

「今できるのは、甘い薬の投与停止、補液、暗所、心拍観察。中止薬の候補は藍へ確認する。でも、藍の記憶だけで投与しない」

「時間」

「数時間から数日。体内量による」

「任務に戻れない」

「そう」

「捕まえる」

「侵入行為の審理は別」

「治療が拘束」

「結果として、ここへいる時間は増える」

「同じ」

「違いを、あなたが信じなくてもいい」

「なら何のために」

「こちらが混ぜないため」

 ミソラは採血針を置く。

「取らない?」

「拒否した」

「取れば分かる」

「分かることと、取っていいことは別」

「死ぬかも」

「今すぐの危険は高くない。呼吸が落ちたら、もう一度聞く」

「命令なら取る」

「命令しない」

「なぜ」

「あなたの身体だから」

「任務の身体」

「今は、あなたが痛い身体」

 灰色の人物は返事をしない。

 午前十一時四十二分。

 南入口へ、女性が一人着く。

 藍の家族確認を求めた人。

 染料工房の防水前掛け。

 指先が青い。

 呼び名は志保。

 本名かどうかを、病院は尋ねない。

「関係」

 真琴が訊く。

「姉」

「証明」

「ない」

「合言葉」

「作ってない」

「藍さんがあなたを確認する材料」

「左の耳。小さい時に切った。誕生日に食べるのは、焦げた麩。母の裁縫箱、底に青い糸」

「それを記録してよいですか」

「だめ」

「受けました。ここでは記録しません」

「どうやって確認する」

「本人へ伝える。本人が姉だと認める。あなたが本人の本名を知っていても、公開しない」

「本名を言わないと、私だと分からない」

「限定の部屋で一度だけ。録音停止。立会いは本人が選ぶ」

「敵がもう叫んだ」

「叫ばれた語が正しいと、病院は確定していません」

「でも合ってる」

「今、ここで答えないでください」

 志保は口を閉じる。

「面倒ね」

「そう言う人が多いです」

「あなたは」

「面倒を作る仕事です」

「嫌われる」

「慣れてはいません」

 限定確認は、旧薬品庫で行う。

 窓がない。

 出入口は一つ。

 出口が一つの部屋を、迅は嫌う。

「俺も入る」

「本人が選べば」

 真琴。

 藍へ選択肢を伝える。

 立会い。

 ミソラ。

 真琴。

 七瀬。

 迅。

 誰も入れない。

「ミソラと、姉だけ」

 藍が選ぶ。

「記録者は」

「外」

「迅は」

「外」

「真琴」

「外」

「受けた」

 七瀬は録音機から巻を外す。

 空の巻も入れない。

 機械を旧薬品庫から十メートル離す。

「止めたことは記録する」

 藍。

「時刻だけ」

「理由」

「本人希望による限定家族確認」

「名前は」

「書かない」

「確認後」

「本人が公開範囲を決める」

「死んだら」

「今、決める?」

「記録しない」

「受けた」

 午前十一時五十一分。

 扉が閉じる。

 中の会話は、扉の外へ漏らさない。

 記録にも残さない。

 それでも、その場にいる人間には声がある。

 志保が、敵の叫んだ名を一度だけ呼ぶ。

 名取枝里。

 藍が返事をする。

「その名は、ここだけ」

「分かった」

「外では藍」

「分かった」

「姉でいい?」

「今は」

「今の範囲は」

「この病院を出るまで」

「その後は」

「聞き直して」

「分かった」

 左耳の傷。

 焦げた麩。

 青い糸。

 三つの記憶を確認する。

 戸籍書類ではない。

 家族だから絶対でもない。

 本人が今、姉として認めるための材料。

 ミソラは本名を復唱しない。

「確認できた?」

 藍。

「志保を、あなたが姉と認めたことを確認した」

「本名は」

「私の記憶には入った」

「消せる?」

「忘れる保証はできない。使わないことは選べる」

「敵が使う」

「止める」

「どうやって」

「本名を大声で呼び返さない」

「それだけ?」

「それも」

 扉の外で、灰色の人物は壁へ背を付けている。

 聞こえない距離。

 迅が白布の出口の横へ立つ。

「逃げるなら今」

「なぜ言う」

 掠れ声。

「後で、治療が拘束だったと言われたくない」

「追う」

「追う」

「同じ」

「逃げる選択と、追う選択が別」

「捕まれば同じ」

「そうかもな」

「正直」

「今は」

 灰色の人物は立つ。

 左足がわずかに遅れる。

 白布の出口へ一歩。

 迅は動かない。

 二歩。

 澪も笛へ触れない。

 三歩。

 人物の手が壁へ行く。

 目眩。

 膝が揺れる。

 それでも、進める。

 四歩。

 病院の外へ出れば、任務へ戻れる。

 五歩。

 針のいる処置室から、咳が聞こえる。

 砂の寝台から、排気の細い音。

 自分と同じ薬を受けた者たち。

 六歩。

 灰色の人物は止まった。

「七歩目」

 迅が言う。

「数えるな」

「俺の癖」

「任務」

「違う。戻るか、出るか」

「どちらも命令」

「どっちも選ばなくていい。そこに座ってもいい」

「道の途中」

「途中も場所だ」

「名言」

「俺が言うのはいい」

 灰色の人物は、白布の上へ座った。

 病院の内でも外でもない場所。

「診察の続き」

 ミソラが旧薬品庫から戻る。

「採血」

 掠れ声。

「受ける?」

「名前なし」

「医療鍵だけ」

「処分時刻」

「四月二十七日正午。延長は本人へ再確認」

「見る人」

「私とサナ。あなたが追加できる」

「追加なし」

「受けた」

「治療」

「受ける?」

 長い沈黙。

「今は」

「今の範囲」

「薬が抜けるまで」

「数日」

「長い」

「そう」

「任務は失敗」

「そう」

「対象は」

「本人が残ると選んだ」

「命令が」

「あなたが治療を選んだら、命令は消えない。でも、従わない時間ができる」

「同じ身体」

「そう」

「名前」

「なくても治療する」

 灰色の人物は首札を握った。

 金属の縁が掌へ食い込む。

「呼ぶ時」

「選べる」

「必要」

「なくてもいい」

「不便」

「そう」

「四季」

 人物の目が、廊下の古い換気盤へ向く。

 壊れた四季表示。

 春。

 夏。

 秋。

 冬。

 病室の空調を季節ごとに切り替える旧式の目盛り。

 四つとも止まっている。

「何」

 ミソラ。

「呼び名」

「四季?」

「シキ」

「どの範囲」

「治療中」

「使用回数」

「必要な時。一度ずつ」

「姓は」

「いらない」

「受けた」

 ミソラは一度だけ呼ぶ。

「シキ。採血する。左腕」

 シキは腕を出した。

 採血管は透明だった。

 中身だけが赤い。

 所属の色は入っていない。

 サナが管を受け取り、紙札へ二つの記号を書いた。

 SK。

 四月十九日。

 午前十一時二十七分。

「何の略」

 シキが訊く。

「医療鍵。呼び名の頭二つ」

「所属みたい」

「嫌なら変える」

「変えない」

「理由」

「同じに見えるか、見たい」

 ミソラは答えなかった。

 血圧帯を巻く。

 細い上腕だった。

 筋肉はある。

 必要なところだけ。

 肘の内側には、同じ間隔の針痕が並んでいる。

 訓練の痕ではない。

 投薬の痕だ。

「いつから」

「質問の範囲」

「治療に必要な範囲」

「十二の冬」

「最後は」

「三日前」

「何を入れた」

「番号だけ」

「言える」

「二十七、四、九。透明。苦い匂い」

 藍が、手術室の奥で息を呑んだ。

 その数字を知っている。

 ミソラは振り返らなかった。

「藍」

「聞いてる」

「推測は」

「ある」

「断定は」

「しない」

「検査前に薬を決めない」

「分かってる」

 藍の声は震えていた。

 罪悪感なのか、記憶なのか、恐怖なのか。

 病院で、震えの名前を勝手に決めてはいけない。

 ミソラはシキの瞳孔を確認した。

 右は黒。

 左は薄い茶。

 左目だけが、隙間から入る光を嫌って細くなる。

「左、痛い」

「昔から」

「遮光する」

「拘束」

「違う。光だけ止める。外せる」

「自分で」

「自分で」

 サナが黒布を渡す。

 シキは左目の上へ自分で当て、後頭部で結んだ。