第264話 第十章「選んだ名を呼ぶ」後編

 その瞬間、廊下の奥から短い金属音が三つ響いた。

 首札。

 捕らえられた侵入者たちの金属札が、一斉に床へ触れた音だった。

 命令の合図。

 砂が息を止めた。

 針の肩が強張った。

 手術室前の防火扉の向こうで、誰かが低く告げる。

「灰四。離脱経路、南」

 呼ばれたのは、シキではない。

 それでも、シキの左手が首札を握った。

 掌の筋肉が動く。

 膝がわずかに落ちる。

 立つ準備。

 ミソラは止めなかった。

「歩ける」

「歩ける」

「出る」

「命令」

「従う?」

 シキの喉が動く。

 南の廊下には、まだ外へ出る道がある。

 灰色の服なら、壁へ溶ける。

 武器も一つ、靴の内側に残っている。

 ミソラは知っていた。

 取り上げなかったのではない。

 触れれば凍りつくことを、さっき見た。

「治療を受けるなら、刃物は預かる」

「条件」

「治療室では全員」

「返却」

「退室時。行為記録の判断とは別」

「判断」

「侵入したこと。人を傷つけたこと。運んだこと。命令したこと」

「治療で消える?」

「消えない」

「治療を選んだことは」

「残る」

「罪が軽くなる?」

「私が決めない」

「なら、何になる」

「今、死なない理由」

 シキは南を見た。

 また金属音。

「灰四」

 呼ぶ声。

 古い名札が、シキの指の間で鳴る。

 無所属は、所属を捨てた者を透明にする誓痕ではない。

 所属を条件に届く命令と攻撃から、身体を外す。

 旗へ結びついた誓いは、シキを見失う。

 だが、シキ自身が選んだ行為までは消せない。

 治療を受ける。

 刃を預ける。

 この場所へ残る。

 それは、どの旗にも属さない。

 シキの行為だった。

 首札の灰色が、少しだけ薄くなる。

 誓痕の縁が、皮膚から離れる。

 消えたのではない。

 身体の輪郭へ戻った。

「シキ」

 ミソラは一度だけ呼ぶ。

「治療を続ける?」

 シキは靴の内側へ指を入れた。

 薄い刃。

 柄のない、爪ほどの金属片。

 床へ置かない。

 サナが差し出した腎臓皿へ、自分で落とす。

 ちん。

 軽い音だった。

「続ける」

「誰が選んだ」

「シキ」

「受けた」

 南の廊下で、誰かが走り出す。

 澪の低い笛が一度鳴る。

 高音ではない。

 床を震わせる短い音。

 撤退路の閉鎖ではなく、患者移動の停止。

 凱の声が続く。

「走る者を追うな。寝台を止めろ」

 昔の凱なら、逃がすなと言ったかもしれない。

 今の凱は、先に寝台を止めた。

 廊下の向こうで、車輪止めが落ちる音が連続する。

 砂が、壁際から言った。

「灰四が残るなら、命令は失効」

 真琴がすぐに返す。

「あなたの命令規則は、あなた方の内部記録へ。ここでは、シキが治療を選んだ事実だけを残す」

「同じ」

「違う。同じにすると、あなた方の規則を病院が承認したことになる」

「面倒」

「法律は、面倒を他人へ押しつけた時に一番速くなる」

 迅が廊下の壁へ背を預けたまま笑う。

「真琴、それ、名言にするには長い」

「名言は判例にならない」

「名言の立場が悪いな」

「立場で届くものは、今日は信用しない方がいい」

 シキの口元が、ほんの少し動いた。

 笑ったのか、痛んだのか。

 ミソラは診断しなかった。

「藍」

「いる」

「番号二十七、四、九。候補を言って」

「鎮静促進剤、循環抑制剤、痛覚閾値上昇剤の混合かもしれない。けど、配列が古い。四が溶媒番号なら逆」

「確認できる物」

「旧薬庫の青箱。底に、試験紙がある。私が隠した」

「いつ」

「帳簿を直し始めた後」

「どうして」

「いつか、誰かが私を信じなくても調べられるように」

「今、あなたを信じて使わない」

「うん」

「試験紙を調べて、血液反応と合わせる」

「うん」

 藍は泣かなかった。

 代わりに、呼吸を一つ長く吐いた。

 信じられないことと、役に立たないことは同じではない。

 ミソラは、藍の記憶を証言として受け、薬としては受けなかった。

「サナ。青箱」

「行く」

「一人で行かない。タマキ」

「呼ばれた」

「床音を見て」

「音は見るものじゃない」

「あなたは見る」

「褒め方が雑」

 タマキの靴音が遠ざかる。

 シキの腕へ点滴針を入れる。

 皮膚を破る瞬間、肩が固まった。

「触る」

 ミソラが言う。

「もう触った」

「次は先に言う」

「遅い」

「そう」

「謝らない」

「謝る。今のは私の失敗」

「医者」

「資格はない」

「白衣」

「借り物」

「命令」

「治療の提案。断れる」

「全部、名前が違う」

「違うものを同じ名前で呼ぶと、速くなるから」

「速い方がいい」

「出血してる時はね」

「今は」

「少し遅くていい」

 点滴液が一滴落ちた。

 透明だった。

 次も透明。

 血液の色を変えず、所属の色も足さない。

 廊下の南で、最後の足音が消えた。

 追う者はいなかった。

 代わりに、誰かが寝台の名前ではなく、角を切った札の数を復唱している。

「二つ角、一本線。呼吸十二」

「復唱。二つ角、一本線。呼吸十二」

 シキはその声を聞いた。

「名前なし」

「名前以外もある」

「少ない」

「少ない方が、間違えにくい時もある」

「シキは」

「何」

「治療中だけ」

「受けた」

「終わったら」

「その時、また選ぶ」

 ミソラは採血管を灯りのない窓へ掲げなかった。

 光へ透かせば、きれいに見える。

 きれいに見えることと、正しく分かることは違う。

 紙で包み、医療鍵の箱へ入れる。

 箱の蓋には、旗の印がない。

 小さく、二文字だけ。

 SK。

 所属ではなく、今ここで治療を選んだ一人分の印だった。

 午後零時四分。

 青箱が戻った。

 タマキが両手で抱えている。

 サナはその後ろ。

 箱の底に、試験紙。

 藍の言った場所。

「見つけたから正しい、ではない」

 ミソラ。

「分かってる」

 藍。

「言う前に言われた」

「先に言わないと、後であなたの記憶を信用して薬を使ったことになる」

「信用しないのに、使う?」

「情報は使う。人を丸ごと信用したことにはしない」

「便利ね」

「不便」

「どっち」

「人は便利。情報だけ分けるのは不便」

「私が便利な人みたい」

「役に立ったことと、使っていい人は別」

 藍は答えない。

 タマキが青箱を机へ置く。

「底、二重」

「見れば分かる」

 藍。

「暗い」

「触れば」

「みんな、触ればって言うようになった」

「病院が暗いから」

「明るくなったら忘れる」

「忘れないように、角を削る」

 タマキは青箱の底板の端を指でなぞる。

 小さな切れ込み。

 藍が以前、自分で付けた印だった。

「これ、あなた?」

「そう」

「何の印」

「試験紙が残ってる」

「誰かに伝えた?」

「誰にも」

「じゃあ、自分用」

「自分が忘れた時、触れば分かるように」

「忘れると思った?」

「忘れたかった」

 藍の指が切れ込みへ触れる。

 記憶は、残したいものだけ残らない。

 消したいから、物へ預けることもある。

 ミソラは試験紙を三つに分けた。

 一つはシキの血液反応。

 一つは対照。

 一つは未使用のまま保全。

 藍へ手順を見せる。

「触らない?」

「今は見て」

「暗い」

「説明する」

 試験紙へ一滴。

 色は見えない。

 反応液の匂いが変わる。

 甘い金属臭。

 ミソラは時間を数える。

「二十七が鎮静促進。四は溶媒。九が循環抑制」

 藍。

「候補」

「候補」

「解毒薬」

「拮抗剤の在庫は一種類。全量を使うと他の患者へ回らない」

「シキに使う?」

 藍が初めて、その呼び名を口にした。

 シキの右手がわずかに動く。

「本人へ説明する」

 ミソラ。

「少量で反応を見る。使わない選択もある」

「死ぬ?」

 シキ。

「今すぐではない。心拍と呼吸に変動。薬が抜けるまで、急変の可能性」

「使えば」

「苦痛が増える可能性。痙攣。記憶混乱」

「使わなければ」

「時間。監視。急変時に処置」

「任務」

「治療と別」

「全部、別」

 藍。

「違うものだから」

 ミソラ。

 シキは、黒布の下で目を閉じている。

「少量」

「誰が選んだ」

「シキ」

「受けた」

 拮抗剤を全量使わない。

 奇跡の薬ではない。

 試験紙も、藍の贖罪を証明する紙ではない。

 一滴ずつ、反応を見る。

 シキの脈が速くなる。

「止める?」

「続ける」

「理由」

「薬が、命令みたいに残る」

「消したい?」

「薄くしたい」

「受けた」

 二滴目。

 左肩が震える。

 ミソラは触る前に言う。

「肩を支える」

「右」

「右から」

 サナが支える。

 ミソラは脈を数える。

 藍が数字を言いそうになり、止める。

 自分の記憶を、治療命令にしない。

 午後零時二十二分。

 南廊下へ逃げた無標班の一人が、戻ってきた。

 武器は持っていない。

 両手を上げてもいない。

 右足を引きずっている。

「止まれ」

 警備員。

「医療」

 戻った者。

「所属」

「聞かない」

 ミソラが言う。

「呼び名」

「なし」

「医療鍵」

「右足」

「時間を足す」

「右足、零二二二」

「受けた」

 警備員が割って入る。

「逃げた奴だ」

「戻った」

「シキを助けに来たかもしれない」

「右足を診る」

「拘束」

「治療台では、必要範囲だけ」

 戻った者はシキを見る。

「灰四」

 シキの首札が、かすかに鳴る。

 呼ばれた名前が、昔の身体を引く。

「離脱」

 戻った者。

「命令、継続」

 シキは答えない。

「灰四」

「その呼び名は使わない」

 ミソラ。

「班の識別」

「ここでは、本人が選んでいない」

「本人は、班」

「本人が決める」

 戻った者が首札を握る。

「選択は、命令の後」

 シキが、掠れた声で言う。

「今は、治療が先」

「灰四」

「シキ」

 小さな二音。

 命令へ反抗する宣言ではない。

 班を裏切る演説でもない。

 治療中に呼ばれる形を、本人が言い直しただけ。

 無所属の縁が、また皮膚へ戻る。

 戻った者の首札が灰色に曇る。

「任務失敗」

「そう」

 シキ。

「戻れない」

「分からない」

「ここに残る?」

「今は」

 戻った者は右足を見た。

「治療」

 ミソラ。

「受ける?」

「受ける」

「誰が選んだ」

 長い間。

「……右足」

「呼び名として?」

「今は」

「受けた」

 その人間も治療台へ座った。

 隊は、一人の決定で全員が同じ方向へ動かなかった。

 シキが残ったから、残る。

 シキが名を選んだから、同じ名を選ぶ。

 そうはならない。

 戻った者は、自分の傷で、自分の治療を選んだ。

 午後一時七分。

 七瀬は、手術室前の床を撮った。

 刃を入れた腎臓皿。

 首札の透明袋。

 医療鍵の箱。

 試験紙の青箱。

 人の顔はない。

「事件の終わりに見えない」

 迅。

「終わってない」

「連れ去りは止めた」

「治療中。行為記録未整理。逃げた人もいる」

「じゃあ、勝ってない?」

「何に」

「敵」

「敵の一人は治療を受けてる」

「ややこしいな」

「生きてるから」

「死ぬと簡単?」

「簡単にしてはいけない」

「真琴みたいになってきた」

「嫌?」

「少し」

 七瀬は撮影機を止める。

「迅の右手」

「軽い」

「見せて」

「撮る?」

「診せる」

「言い方がミソラだ」

「嫌?」

「みんな嫌がり合ってるな」

 迅は包帯を外す。

 掌の古い裂傷。

 新しい擦過傷。

 小指と薬指を曲げる時だけ、わずかに遅い。

 サナが診る。

「戦闘は」

「終わった」

「今日」

「今日は」

「固定しない。冷やす。握り込みを減らす」

「殴るのは」

「減らす」

「禁止じゃない?」

「禁止すると、隠す」

「信用がない」

「実績」

 迅は笑う。

 手術室前の暗闇には、勝者の姿がない。

 治療を受ける人。

 記録を分ける人。

 逃げた人を追わず、寝台を数える人。

 壊れた物を直す人。

 名前を選んだことは、結末ではなかった。

 ただ、命令以外の文へ、自分を主語として置いた最初の一行だった。