第265話 第十一章「夜明けの発電機」前編
四月二十日 午前五時三分
発電機は、夜明けを知らない。
外が明るくなろうと、燃料が尽きれば止まる。
誰かが祈ろうと、焼けた接点はつながらない。
機械は冷たいと言われる。
轟雷蔵は、そうでもないと思っていた。
機械は、できない理由を隠さない。
人間より、よほど親切だ。
「親切な相手が、煙を吐いてるけど」
タマキが言った。
「機嫌が悪いだけだ」
「煙を吐く人に同じこと言ったら、病院では怒られるよ」
「ここは発電機室だ」
「病院の地下にある発電機室」
「細かいな」
「細かくないと直らないんでしょ」
正しかった。
正しい言葉は、工具箱の一番下にある重いレンチに似ている。
必要だが、持ち上げると腹が立つ。
轟は点検蓋を開けた。
右前腕の包帯が金属縁へ触れそうになる。
昨日、手術室前で裂いた傷だ。
深くはない。
だが、油と金属粉を入れれば、深さは後から増える。
左肩は、頭より上へ上げない。
急に外へ捻らない。
重い物を腕だけで保持しない。
手術後に覚えた三つの規則は、戦う時より修理する時の方が守りにくい。
壊れた物は、こちらの古傷を気遣ってくれないからだ。
「灯り」
タマキが紙片を読む。
「病棟側から催促、七件。階段灯、二件。手術室、三件。家族待合、四件。厨房、一件」
「厨房は一件か」
「小麦さんが、灯りがなくても包丁は切れるって」
「怖いことを言う」
「灯りがあっても切れるとも言ってた」
「もっと怖い」
轟は発電機の回転軸へ指を当てた。
冷たい。
昨日の停電直後、補助発電機は十一分だけ動いた。
その後、出力が乱れ、停止した。
燃料はある。
冷却水も、最低線の二センチ上。
油圧は低いが、始動不能になる値ではない。
問題は一つではなかった。
スターターの接点が焼けている。
燃料弁の表示板が逆向きに付け直されている。
制御箱から、細い銅線が一本抜かれている。
人の手が入った跡。
それだけではない。
点検日を示す札は、三か月前から同じ位置だった。
焼けた接点の縁には、昨日以前からの炭化がある。
侵入者は壊れかけた機械へ、最後の指を置いただけだ。
「誰かが壊した?」
タマキ。
「誰かだけじゃない」
「どういう意味」
「銅線を抜いた奴はいる。表示板を逆にした奴もな。だが、接点は前から焼けてた。燃料濾しも詰まってる」
「犯人を捕まえても、灯りは戻らない」
「犯人を殴ると、接点が新品になるなら迅を呼ぶ」
「迅なら接点を殴るよ」
「だから呼ばない」
タマキが笑った。
笑った後で、床へ耳を近づける。
「上、車輪二台。東から西。急いでない」
「分かるのか」
「昨日から、分かるようになった」
「能力か」
「耳」
「便利だな」
「最初から付いてた」
タマキは床に落ちていた二本の銅線を並べた。
長さが違う。
「こっちは抜かれたやつ?」
「違う。古い予備だ」
「色、同じ」
「中の本数が違う」
「見える?」
「触れば」
轟は切断面を爪で押した。
一本は柔らかい。
一本は固い。
必要なのは固い方ではない。
振動で折れる。
「予備が使えない?」
「そのままじゃな」
「じゃあ、何を持ってくる」
「旧配膳昇降機の呼び線」
「使ってない?」
「使ってない」
「誰に聞く」
「病院」
「病院の誰」
轟は黙った。
機械を直す時、壊れた物だけ見ていると楽だ。
使われていない線を一本抜く。
発電機へつなぐ。
灯りが戻る。
英雄の仕事は早い。
責任の仕事は、持ち主を探すところから始まる。
「サナだ」
轟は答えた。
「昇降機を最後に管理した人間と、今使う可能性のある人間も聞く」
「時間かかるよ」
「かかる」
「患者、暗いまま」
「勝手に抜けば、次に飯を運ぶ時、昇降機が動かない」
「今は動いてない」
「今と、いらないは違う」
タマキは予備線を指先で転がした。
「人も?」
「何が」
「今動けない人と、いらない人」
「違うに決まってる」
「機械だと分かりやすいんだね」
タマキは立ち上がった。
「聞いてくる」
「一人で階段を上がるな」
「どうして」
「暗い」
「昨日からずっと暗い」
「疲れてる」
「雷蔵も」
「俺はでかい」
「転ぶ音も?」
「でかい」
「じゃあ、見つけやすいね」
タマキは戸口の金属棒を二度叩いた。
同行を求める合図。
少しして、床の向こうから二度返る。
誰かと一緒に行く。
轟は発電機へ戻った。
点検蓋の奥へ右手を入れる。
狭い。
左肩を使えば早い角度がある。
使わない。
腰を落とし、右肘を脇へ固定し、長いレンチを短く持つ。
一度。
動かない。
二度。
固着したナットが、ほんの少し鳴る。
三度目で、右前腕の傷が熱くなった。
轟は止めた。
痛みに勝てないわけではない。
勝った後に、血で部品を汚す必要がない。
包帯を巻き直す。
機械の前で休むのは、負けではない。
休まないで壊す方が、修理屋としては負けだ。
午前五時四十二分。
旧配膳昇降機の呼び線は、サナと厨房係二人の許可で外された。
条件が三つ付いた。
代替線を四月二十三日までに戻す。
昇降機の手動停止札を、各階へ置く。
病棟食の搬送増加時には、発電機より先に昇降機へ返す。
「発電機より先?」
タマキが訊いた。
厨房係の女は言った。
「灯りは窓から入る。粥は窓から上がらない」
轟は署名した。
左手ではなく、右手で。
右前腕が痛む。
だから字が乱れた。
乱れた署名を、書き直さなかった。
痛みのない字へ直せば、作業条件から傷が消える。
呼び線を発電機へ通す。
タマキが小さな手で線を送り、轟が奥で受ける。
「あと十二センチ」
「九」
「十二」
「見えてるのは俺だ」
「外で測ってるのは私」
「十」
「十一」
「間を取るな」
「平和的解決」
「機械は妥協でつながらない」
「人は?」
「つながる時もある」
「機械より面倒」
「今さらだな」
十一センチで端子へ届いた。
タマキが得意そうに鼻を鳴らす。
「十と十二の間」
「黙れ」
接点を磨く。
燃料濾しを外す。
黒い泥が、受け皿へ落ちる。
表示板を正しい向きへ戻す前に、轟は裏側へ日付を書いた。
四月十九日、逆向き確認。
四月二十日、復旧。
誰が逆にしたかは書かない。
分からないからだ。
分からないことを空欄にすると、後で誰かの都合のいい名前が入る。
轟は《不明》と書いた。
「始動できる?」
「できる」
「全部つく?」
「つけられる」
「違う?」
「違う」
階段から足音が下りてくる。
ミソラ。
白衣の裾に、乾いた血が付いている。
左右で色の違う手袋は外していた。
「出力」
「六割一分。安定すれば六割八分」
「一斉点灯は」
「できる」
「しない」
「理由」
「暗順応中。眼科処置後三名。痙攣既往二名。左目遮光一名。睡眠中、二十七」
「階段は」
「最初。床際だけ」
「手術室」
「次。反射板を壁へ」
「病室」
「本人へ説明して、一室ずつ」
「家族待合」
「最後」
「文句が出るぞ」
「出る」
「俺へ?」
「私へ」
「半分もらう」
「どうして」
「機械の順番でもある」
ミソラは一度だけ頷いた。
「では、半分」
「感謝しろ」
「責任を分けて感謝を要求する人、初めて見た」
「珍しい物を見たな」
「病院では毎日」
ミソラが戻る。
タマキは始動把手へ手を置いた。
「回す?」
「まだ」
「何待ち」
「上の準備」
「機械は直った」
「人が直ってない」
「人、直るの?」
轟は答えなかった。
病院にいると、《直る》という言葉は乱暴だった。
傷が閉じても、元へ戻らないものがある。
元へ戻らないから、壊れたとは限らないものもある。
六時十三分。
上から低い笛が一度。
床を通ってくる振動。
準備完了。
「回せ」
タマキが把手を回す。
一回。
二回。
三回。
発電機が咳をした。
四回目。
轟が燃料弁を開く。
低い爆発音。
軸が回る。
床が震える。
病院全体が、眠りの底で歯を鳴らしたみたいだった。
電圧計の針が上がる。
四十。
五十五。
六十三。
六十一で止まる。
「六割一分」
タマキ。
「予定どおりだ」
「もっと上げられる?」
「上げられる」
「上げない?」
「上げない」
「今日は、そればっかり」
「できることを全部やるのは、壊す時の考え方だ」
最初に戻った灯りは、天井ではなかった。
階段の床際。
細い橙色の線が、一段ずつ浮かぶ。
轟とタマキは、配電盤の前で回路を一つずつ上げた。
東階段、一。
西階段、一。
手術室前、反射灯。
薬庫、卓上灯。
灯りがつくたび、上から確認が返る。
「東階段、眩暈なし」
「西階段、停止」
「理由」
「三階、覚醒。本人説明待ち」
止める。
一度ついた灯りを、消す。
直した機械を止めることに、轟は前なら苛立った。
今は、灯りの方が待てばいいと思った。
配電盤の横に、白い布がかかっている。
黒雨記念日の中央台決闘から、何度も形を変えた布。
旗ではない。
今日は回路表だ。
赤い糸が、点灯済み。
青い糸が、説明待ち。
結び目なしが、消灯維持。
「病院、だんだん裁縫箱みたいになってきた」
タマキが言う。
「お前が豆袋を持ち込んだせいだ」
「患者を転ばせなかった」
「認めてる」
「珍しい」
「今日は珍しい日だ」
二人で上へ上がる。
階段の橙色は、足首より低い。
顔を照らさない。
二階踊り場で、迅が一人の患者の前にしゃがんでいた。
患者は壁へ背を付け、右手を胸へ抱えている。
左手だけで、手すりを探していた。
「持つ」
迅が言う。
「触るな」
患者。
「分かった」
迅は手を引いた。
患者の膝が震える。
あと三段。
「落ちるぞ」
「触るな」
「分かった」
「言うだけか」
「触るなって言われたからな」
「助けろ」
「どっちだ」
「触らずに」
「難題だな」
迅は自分の袖を肘までまくり、手すりへ二本の指を置いた。
「俺の指を目印にする。手すりは触る。俺には触らない」
「動かすな」
「動かさない」
患者の左手が、迅の指の一センチ手前で止まる。
そこから手すりを掴む。
一段。
迅は動かない。