第266話 第十一章「夜明けの発電機」後編
二段。
患者が息を吐く。
三段。
踊り場へ着いた。
「遅い」
患者が言う。
「待つのは得意だ」
「嘘だ」
「最近、練習してる」
患者は迅を見ないで、廊下へ進んだ。
轟は横を通る。
「助けたな」
「触ってない」
「助けた」
「本人が歩いた」
「面倒な言い方を覚えたな」
「病院は教育にいい」
「退院しろ」
「患者じゃない」
「手が裂けてる」
「軽い」
「患者はみんなそう言う」
轟は階段を上がった。
左肩が、三階で重くなる。
止まる。
タマキが先へ行かない。
「待たなくていい」
「触らずに助ける方法、考えてる」
「いらん」
「じゃあ、待つ」
「勝手にしろ」
十秒。
轟は上がった。
午前七時二十六分。
手術室前の灯りが戻る。
壁へ向けた一灯だけ。
白い光は壁で砕け、床へ薄く落ちる。
暗闇の中で作られた札が、初めて見えた。
角を一つ切った札。
二つ切った札。
穴を一つ開けた札。
糸を結んだ札。
字のない札は、貧しい記録に見えた。
明るい場所では、名前、年齢、所属、病名、家族、住所を一枚へ書きたくなる。
だが、昨夜、人を動かしたのは角だった。
脈を数えたのは穴だった。
録音を止めたのは結び目だった。
真琴が机へ三種類の記録を並べる。
触覚札。
仮名台帳。
七瀬の音声記録。
「照合は、上書きしない」
真琴が言う。
「間違っていても?」
サナ。
「間違いは訂正する。消さない」
「どう違う」
「昨夜《二つ角》と呼ばれた人が、明るくなって《三つ角》だったと分かっても、昨夜の判断は二つ角で行われた。その事実を三つ角へ直すと、誰が何を見て決めたか消える」
「面倒」
砂が壁際から言う。
「面倒だから、やる」
真琴。
「簡単なら、あなた方も破れなかった」
砂は返さない。
治療を終えた右脇腹に厚い包帯。
両手は前に置かれている。
縛られてはいない。
逃げない保証ではない。
歩けば、床の砂袋が鳴る。
廊下には澪の隊員と病院職員が、別々の位置にいる。
監視と治療は分けたまま、同じ場所にある。
七瀬が録音機を机へ置く。
「午前七時三十一分。照合開始。映像は、机上のみ」
「顔を撮らない?」
白冠の使者。
「本人同意と行為記録の必要範囲がない限り」
「侵入者だぞ」
「侵入行為は記録する。顔を晒すことは、別の行為」
「逃げた時は」
「その時、必要範囲を再検討する」
「遅い」
「速さは、後から取り消せない公開と相性が悪い」
七瀬の左肩には、幅の広い固定帯。
撮影機は胸で持たず、腰高の台へ載せている。
レンズは手元だけを向く。
照合が始まる。
「一つ角、横線二。仮名、ユキ。医療鍵、YK・一九・零一一九」
「音声、午前一時二十一分。本人応答あり」
「一致」
「二つ角、穴一。仮名、藍。医療鍵、AI・一九・一〇四八」
「公開範囲、病棟内のみ」
「法的氏名の限定照合あり。公開せず」
白冠の使者が口を開く。
凱が先に言った。
「限定照合の内容を求めるなら、本人へ求めろ。私へではない」
「王なら保証できるだろう」
「王だったから、保証してはいけないことが分かる」
「逃げ道だ」
「保証は、他人の疑問を閉じる。説明場所を作ることはできる。疑問を閉じることは、私の仕事ではない」
凱は左膝を曲げない。
机の端へ腰を預けている。
長く立てないことを、王の威厳で隠さない。
照合は続く。
昨夜の判断が、光の下で一つずつ姿を持つ。
間違いも出た。
三階の患者《橋》の札は、角が一つ多く切られていた。
暗闇でタマキが鋏を取り違えた。
「私」
タマキが手を上げる。
「呼吸数は合ってた。角だけ間違えた」
「訂正者」
「タマキ」
「確認者」
患者《橋》が、自分で言った。
「私」
「公開範囲」
「病棟内。名前は橋のまま」
「訂正理由」
「暗かったから」
「それだけ?」
「急いでたから」
タマキが付け加える。
「どっちを残す」
「両方」
真琴が書く。
暗闇は理由になる。
急いだことも理由になる。
理由は、責任を消すためだけにあるのではない。
次に、同じ手がどこで止まるか決めるためにある。
轟は配電盤の小型計器を見た。
出力、五割八分。
病院側の使用が増えた。
「次、点けられる?」
タマキ。
「一系統」
「どこ」
「病室は二つ待ち。薬庫は点いた。家族待合か、処置室」
「処置室」
ミソラが言う。
家族待合から、不満の声が上がる。
「いつまで暗いんだ」
「家族の顔も見せないのか」
轟は配電盤のレバーへ手を置く。
家族待合を点ければ、声は少し静かになる。
処置室を点ければ、縫合が速くなる。
どちらが大切か。
機械は答えない。
「処置室」
轟はレバーを上げた。
家族待合から罵声が飛ぶ。
轟は受けた。
ミソラの半分ではない。
自分で選んだ一系統分だった。
午前八時四分。
シキの顔に、最初の光が触れた。
処置室の灯りではない。
廊下の反射光。
白い壁から返った薄い光が、頬の輪郭を作る。
灰色の短い髪。
右の黒い瞳。
黒布の下に隠れた左目。
頬骨の下に、栄養不足の影。
十六歳に見える。
十六歳という数字が、正しいかは分からない。
暗闇では、声と足音と刃だった。
光の中では、包帯を巻かれている細い手だった。
どちらも同じ人間だ。
どちらか一方だけを写せば、分かりやすい物語になる。
七瀬が撮影機を動かす。
レンズが上がりかける。
白冠の使者が息を呑む。
「撮れ」
七瀬は、シキへ訊いた。
「映像。どこまで」
「手」
「左右」
「右。包帯から下」
「顔は」
「なし」
「声」
「なし」
「行為記録への連結」
「刃を置いた時刻だけ」
「受けた」
レンズは上がらなかった。
包帯から出た右手だけを映す。
指先に消毒液の黄色。
爪の下に黒い油。
掌に、首札の縁が作った赤い線。
英雄の顔にも、悪役の顔にもならない。
治療を受けた手。
刃を置いた手。
それ以上でも、それ以下でもない。
「顔がなければ、誰か分からない」
使者。
「分からないことを、分からないまま記録します」
七瀬。
「逃がす気か」
「治療中です」
「終わったら」
「行為記録の判断へ移る。公開処分とは別」
「全部、別だな」
迅が言った。
「別のものだから」
七瀬。
「世界は、もっと一枚の札で済むと思ってた」
「どんな札」
「いい奴、悪い奴、殴っていい奴」
「最後だけ都合がいい」
「三枚に分けるか」
「殴っていい札は作らない」
「残念だ」
「残念そうじゃない」
迅はシキを見る。
シキは見返さない。
「昨日、俺を刺したの、あんた?」
迅。
「左袖」
「俺の?」
「切った。皮膚は浅い」
「よく覚えてるな」
「行為」
「覚えるんだ」
「名前より」
「俺も、その方が助かる」
「どうして」
「名前を間違えても、殴られた場所は痛いから」
シキの右手が、ほんの少し握られる。
「治ったら」
迅が言いかける。
ミソラが遮る。
「治る範囲を決めない」
「分かった。薬が抜けたら、話を聞く」
「本人が話すと選べば」
「分かったよ」
「二回言った」
「病院は教育にいい」
「退院して」
「患者じゃない」
「手」
「軽い」
轟は笑った。
「患者はみんなそう言うぞ」
迅が振り返る。
「さっき聞いた」
「正しいから二回言った」
「決め台詞にするには普通だ」
「普通のことを守るのが一番重い」
「それは少し覚えやすい」
「工具を持て」
轟は迅へ予備灯を渡した。
「何する」
「西廊下。一本ずつ」
「全部つけないのか」
「つけられる」
「つけない?」
「今日は、そればっかりだ」
午前八時三十七分。
発電機の音が、一段高くなった。
轟は顔を上げる。
会話の声ではない。
床から来る回転音。
正常な低音の上に、細い擦過音が混じっている。
「ベルト」
タマキも言った。
「分かるか」
「床が、さっきより歯を食いしばってる」
「変な言い方だ」
「分かるならいい」
二人で地下へ戻る。
階段を下りる間に、配電計の針が五割四分へ落ちた。
処置室で、吸引器が止まりかける。
家族待合の灯りが一度瞬く。
「全部落とす?」
タマキ。
「手術室と酸素だけ残す」
「今から言う?」
「言ってる間に切れる」
「じゃあ勝手に?」
轟は配電盤を見た。
即時停止。
説明後停止。
機械の故障は、待ってくれない。
だが、説明を待てないことを理由に、後から何も言わなくていいわけではない。
「切る。時刻を言え」
「八時三十九分」
「家族待合、東階段、西病室三、厨房保温」
「切断」
レバーを下げる。
四区画の灯りが消える。
上から声が落ちてくる。
「また停電!」
「違う!」
轟は階段へ向かって叫ぶ。
「発電機保護のため四系統停止! 手術室、酸素、処置室は継続! 説明、五分後!」
「今してる」
タマキ。
「短い」
「長いと発電機が止まる」
「今日は格好よくまとまらないね」
「工具を取れ」
点検蓋を開ける。
駆動ベルトが右へ寄っている。
張り調整のボルトが緩み、縁が熱を持つ。
轟は左手を伸ばしかける。
肩より上。
止める。
「支え棒」
タマキが長い棒を渡す。
「短い」
「もう一本つなぐ」
「継ぎ目が滑る」
「布」
呼び線を外した時の古布を巻く。
二本を固定する。
「私が押す」
「力」
「さっき三人なら足りた」
「今は二人だ」
タマキが床を三度叩く。
上で誰かが返す。
少しして、迅が下りてくる。
「殴る?」
「押す」
「珍しい」
「言われた長さだけ」
「何センチ」
「十二」
タマキ。
「十一」
轟。
「また?」
迅。
「十一・五」
タマキ。
「機械は妥協で」
「十一・五」
轟は言い直した。
「平和的解決」
タマキ。
三人で支え棒を押す。
迅は右手を使わない。
左の掌と肩で、指定された長さだけ。
轟は右手で調整ボルトを締める。
左肩は低い位置へ保つ。
「止め」
十一・五センチ。
ベルトが中央へ戻る。
擦過音が下がる。
電圧計の針は、五割九分。
「灯り、戻す?」
「五分待つ」
「どうして」
「熱」
「上は怒ってる」
「怒りは、ベルトを冷やさない」
迅が言う。
「それ、決め台詞?」
「作業指示だ」
「短い」
「黙れ」
五分後、轟は四系統のうち二つだけ戻した。
東階段。
厨房保温。
家族待合と西病室三は、さらに十二分待つ。
上へ戻ると、家族二人が待っていた。
「なぜこっちを消した」
「発電機のベルトが外れかけた」
「手術室を消せばよかった」
「消さなかった」
「家族はどうでもいい?」
「灯りの順位では、手術室を先にした」
「誰が決めた」
「俺」
「医者じゃない」
「機械の出力を見た」
「ミソラに聞いた?」
「聞く時間がなかった。後で伝えた」
「正しかった?」
「発電機は止まらなかった」
「それは結果」
「そうだ」
「謝らないの」
「暗くして、不安にさせた。説明が五分後になった。すまない」
「判断は」
「取り消さない」
家族は納得しない。
轟は納得させた顔をしない。
修理屋は、動いた機械を見せれば勝てる。
病院では、動かすために何を止めたかまで残さなければ、責任を負ったことにならない。
配電板へ追記する。
《八時三十九分、発電機ベルト偏位。轟判断で四系統停止。事前説明なし。五分後説明。二系統復旧、二系統待機》
タマキが横へ書く。
《十一・五センチ》
「必要か」
「次に直す人へ」
「受けた」
午前九時十九分。
発電機の音は安定していた。
病院の灯りは、安定していなかった。
つく部屋。
消える部屋。
一度ついて、本人の希望でまた消える部屋。
轟は配電盤へ、現在の出力を書いた。
《復旧》とは書かない。
《暫定運転・六割二分》
その下へ、借用した呼び線の返却期限。
焼けた接点の交換必要。
燃料濾しの再点検時刻。
右前腕負傷により、締付確認はサナと二名で再実施。
「自分の怪我まで書く?」
タマキ。
「作業条件だ」
「格好悪くない?」
「格好でナットは締まらん」
「映画になったら消されそう」
「映画にするな」
「雷蔵、画面からはみ出すもんね」
「そこじゃない」
最後の回路を上げる。
家族待合。
白い灯りではない。
低い橙色。
待っていた人々の顔が、ゆっくり浮かぶ。
誰かが泣く。
誰かが怒ったまま目を細める。
誰かは、灯りがついても眠っている。
歓声は起きなかった。
病院で灯りが戻ることは、勝利ではない。
次に何が見えるか分かるだけだ。
血の跡。
壊れた壁。
空になった寝台。
生きている顔。
戻らない人の荷物。
轟は配電盤の蓋を閉めた。
全部の灯りは、つけなかった。
西の休息区画。
左目を遮光している患者の部屋。
夜を越えて眠り始めた隊員たちの廊下。
そこだけは暗い。
暗闇の奥で、誰かの呼吸が一定に続いている。
発電機は夜明けを知らない。
だから人間が、どこへ朝を入れるか決めた。