第260話 第八章「偽名の侵入者」後編

 眼鏡の奥で目を細める。

「吸入」

 サナ。

「軽い」

「患者はみんな」

「分かりました」

 真琴は左手で胸元の吸入器を探す。

 見つける前に、タマキが机の右側から左側へ滑らせた。

「勝手に触らないで」

「置いただけ」

「私の物」

「触ってない」

「屁理屈」

「迅から習った」

「俺はそんな細かい屁理屈を言わない」

「大きい屁理屈?」

 真琴は吸入する。

 呼吸が落ち着くまで、署名しない。

 公的な署名は右手。

 喘息で指が震える時は、後へ回す。

 急いだ字を、正常な判断の印にしない。

 午前八時五十七分。

 白冠の使者が、真琴へ小声で言った。

「灰四の本名を探せばいい」

「誰のことです」

「灰色の侵入者。所属を捨てる誓痕なら、本人の名を呼べば身体へ戻る」

「根拠」

「名がないから逃げられる」

「逆です」

「何が」

「名を奪われた経験があるから、所属を切る能力になった可能性もある」

「なら、本名を返す」

「本人が受け取らない名を、返したとは言いません」

「侵入者の希望を聞くのか」

「治療と本人確認では」

「敵だぞ」

「行為記録では、侵入者です。医療では負傷者です。呼び名では、未選択です」

「欄を増やして逃げている」

「一つの欄へ全部押し込むと、殴りやすくなるからです」

「本名が分かれば、能力を止められる」

「止めるために、本名を暴露しない」

「人が死ぬ」

「本名を暴けば必ず助かる根拠がありません」

「試せば」

「人間で試験をしない」

「誓痕者だ」

「人間です」

 使者が手を伸ばす。

 二つの箱の鍵へ。

 真琴は左手で鍵束を払い、右手で紙を押さえた。

 利き手は左。

 署名は右。

 右手は制度を止める時に使う。

「触らないでください」

「何を隠してる」

「本人が隠すと選んだ範囲」

「王へ言う」

「どうぞ」

 凱は三歩離れた場所にいた。

「聞こえている」

「なら命じろ」

「何を」

「鍵を開けさせろ」

「私には権限がない」

「空白の旗の代表だろう」

「期限付きの仕事ごとに責任者がいる。今、記録鍵の責任者は真琴と本人たちだ」

「王路を使えば、誰も退けない」

「使わない」

「なぜ」

「鍵を開けるために人を退けなくするのは、強盗だ」

「言葉遊び」

「強盗は、言葉が短い」

 使者は鍵から手を離した。

 納得したわけではない。

 凱の身体と、真琴の右手と、周囲の視線を計算した。

 それも選択だった。

 真琴は記録する。

《午前九時二分。白冠使者、限定鍵の開示を要求。拒否。実力行使なし》

「私の名前は」

「公開していいですか」

「……使者でいい」

「受けました」

「敵だけ匿名にするのかと思った」

「あなたも選べます」

「公平を演じてる」

「公平なら、同じ方法を全員へ押しつけません。選べる範囲を同じにします」

「長い」

「法律ですから」

「決め台詞にならない」

 迅。

「まだいたんですか」

「鍵を守ってた」

「頼んでません」

「勝手に責任を持つのが、うちの流行らしい」

「流行で法務をしないでください」

 午前九時三十八分。

 朝の光が少し強くなる。

 窓に近い札から、文字が読める。

 職員の一人が言う。

「見える人から、正式名簿へ写します」

「しない」

 真琴。

「どうして」

「見える位置にいる人から、正式になるから」

「では、どうする」

「暗闇で触った順を保つ。見えた情報は追記」

「効率が」

「夜に受けた治療が、朝になって非公式になる方が危険です」

 呼び名札を一枚ずつ触る。

 角。

 穴。

 糸。

 それから、見える字を読む。

 暗闇で人間だった者を、光が当たった順に認定し直さない。

 二つの箱は、机の両端へ置かれた。

 一人では同時に持てない距離。

 箱の間には、八番室の少年が作った紙の橋。

 誰の名前も書かれていない。

 橋だけが、二つの情報が同じ人へつながる可能性を示していた。