第259話 第八章「偽名の侵入者」前編

四月十九日 午前六時十二分

 朽葉真琴は、暗闇が嫌いだった。

 怖いからではない。

 文字が読めないからだ。

 強い近視の眼鏡へ、夜明けの光が薄く入る。

 外は明るくなり始めている。

 病院の窓には遮光布。

 患者の休息と外からの狙撃を避けるため、昼になっても全部は開けられない。

「あと五センチ」

 真琴が言う。

「何が」

 タマキ。

「紙」

「近すぎない?」

「文字が遠い」

「眼鏡」

「掛けてる」

「もっと強いの」

「頭が痛くなる」

「じゃあ読まない」

「仕事を消すな」

 真琴は職員台帳を鼻先まで寄せた。

 紙は三種類。

 病院職員の勤務表。

 外部医療者の臨時札。

 搬送班の入退場表。

 さらに、患者の所属札。

 それが多すぎた。

 白冠。

 剛嶺。

 無所属。

 病院中立。

 南市場。

 北工区。

 所属を問わない病院なのに、所属札が入口から寝台まで付いている。

「矛盾しています」

 真琴。

「何が」

 サナ。

「問わないのに記録している」

「薬代、連絡先、遺体返還、支払元」

「便利だから残した」

「必要だから」

「同じ?」

「違います。便利は、なくても仕事ができる。必要は、ないと患者が危険になる」

「所属札はどっち」

「項目ごとに違う」

「面倒」

「制度は、面倒を誰に押しつけたかの記録です」

「今の、格好つけた」

 迅が入口で言った。

「あなたの所有ではありません」

「みんな使うな」

「便利ですから」

 真琴は札を一枚ずつ裏返す。

 裏に小さな穴。

 角に違う傷。

 紐の結び方。

「灰四」

 首札の一つに、薄い刻印があった。

「名前?」

 タマキ。

「番号です」

「灰色の四番」

「たぶん」

「七瀬が嫌う」

「刻印は《灰四》。意味は未確定」

「言い直せる人は」

「えらい、と言ったら怒ります」

「分かってる」

 真琴は札を時刻順へ並べた。

 午後四時十二分。

 病院中立の札が、東入口で使われる。

 午後四時十九分。

 白冠補助員の札が、酸素庫で使われる。

 午後四時二十三分。

 剛嶺搬送兵の札が、南階段で使われる。

 午後四時三十五分。

 無所属薬品係の札が、手術室前で使われる。

 歩いて移動できる。

 その後。

 午後五時二分、病院中立の札が地下搬入口。

 五時四分、白冠補助員が東病棟。

 同じ人物には無理な距離。

「複数人」

 タマキ。

「または、札だけを渡している」

「首ごと?」

「札だけです」

「冗談」

「分かりにくい」

「真琴の冗談も」

「今しました?」

「首ごと、って答えなかった」

「事実確認です」

「冗談は、事実じゃない?」

「話を戻します」

 複数人が同じ札を使っている。

 同じ人が複数の札を使っている。

 どちらも成立している。

 所属を条件にした照合は、最初から破られていた。

「顔写真を付ける?」

 職員が訊く。

「しません」

「なぜ。顔は一人一つだ」

 七瀬が横から言う。

「一人一つとは限らない。変装、負傷、成長、双子。あと、顔を残したくない患者」

「指紋」

「削られている人もいる」

「血液」

「医療情報」

「本名」

 真琴は眼鏡を押し上げた。

「最も危険です」

「本人確認なのに?」

「本名を知れば、病院の外で探せる。家族、住居、過去の所属へつながる。ここには、名前を隠すことで生きている患者がいる」

「侵入者も隠す」

「隠します」

 職員が息を呑む。

「守るのか」

「公開からは。侵入行為の責任からは守りません」

「どう分ける」

「今から作ります」

「また今から」

「停電も今からでした」

 誰かと同じ言い方になった。

 真琴は少し嫌な顔をした。

「一つ目。本人が選ぶ呼び名」

 紙の左へ大きな欄。

「二つ目。医療照合鍵。薬歴、アレルギー、血液、手術歴へつなぐ。ただし名前は書かない」

 中央に記号欄。

「三つ目。行為記録。いつ、どこへ入り、何をしたか」

 右へ時刻欄。

「四つ目。公開範囲」

「四つある」

 タマキ。

「三つ目まで言ってから増えました」

「規則が途中で変わった」

「必要なら変えます」

「記録」

「変更時刻、午前六時二十一分」

「よし」

「認定しないでください」

 真琴は欄の間に太い線を引いた。

「一枚に全部書かない」

「今、同じ紙」

「見本です」

「本番は」

「呼び名札は患者。医療鍵は薬品室。行為記録は記録室。公開範囲は本人か、本人が選んだ保管者」

「全部必要な時」

「一人で開けない」

「緊急時」

「医療鍵だけで治療する。名前は要らない」

「犯罪審理」

「行為記録と本人の出席。顔や本名は必要性を別に審理」

「逃げたら」

「行為記録に身体特徴と音声鍵。追跡の公開範囲は被害の危険と比較」

「遅い」

 迅。

「早く人を間違えるより」

「間違えても早い方がいい時がある」

「医療」

「そう」

「なら医療鍵だけ先に」

「同意します」

「珍しい」

「あなたが正しい時もあります」

「記録しておけ」

「録音は止まっています」

「人が覚える」

「それを流行らせないでください」

 午前六時三十四分。

 最初に新しい札を使うことになったのは、患者ではなく侵入者だった。

 腹部出血の処置を受けた人物が目を覚ます。

 薄い呼吸。

 腹へ厚い包帯。

 両手は拘束されていない。

 逃げられないからではない。

 逃げれば縫合が開くと説明し、本人が寝台に残ると答えたからだ。

「呼び名」

 真琴が訊く。

 人物は目を開けない。

「今は、答えなくていいです」

「なら聞くな」

 声は低い。

 砂より年上に聞こえる。

「使ってよい呼び名がないことを確認しました」

「確認すると、あることになる」

「何が」

「空欄」

「空欄はあります」

「書いた」

「書きます」

「命令」

「記録」

「同じ」

「違います」

「決める側が言う」

 真琴は反論を止めた。

 自分が規則を作っている。

 違いを説明するだけでなく、違わなくなる時を想定しなければならない。

「では、あなたの札は作りません」

「治療」

「医療鍵だけ作ります。アレルギー、薬歴、傷の状態。呼び名欄とは結びません」

「番号」

「病床位置の番号は使います。移動すれば変える。人物番号にはしない」

「逃げる」

「あなたが?」

「番号が」

「番号は逃げません。人を追わせない」

「なら、何で追う」

「行為」

「顔なし、名なしで」

「あなたがしたことは、あなたの名がなくても起きています」

 人物のまぶたが少し動いた。

「何をした」

「可動床の安全爪を上げた。短棒で迅の左手を狙った。東七床の酸素管を潰す結果を作った。あなた自身は腹部を負傷した」

「誰が見た」

「迅、轟、タマキ、患者二人。音声記録は停止中でした」

「証拠が弱い」

「そうです」

「逃げられる」

「かもしれません」

「捕まえたいのに」

「間違った人を捕まえないために、弱さも残す」

「損」

「制度は、損を誰へ配るかです」

「また短くした」

 迅が入口から言う。

「聞いていたんですか」

「声が大きい」

「あなたよりは小さい」

「俺は短い」

「短ければ小さいわけではありません」

 寝台の人物が、腹を押さえながら息だけで笑った。

「呼び名」

 真琴がもう一度訊かない。

 人物の方から言う。

「針」

「どの範囲で使いますか」

「この寝台」

「移動したら」

「聞き直す」

「使用回数」

「必要な時だけ」

「曖昧です」

「嫌なら呼ぶな」

「受けます。この寝台で、必要な時だけ」

 真琴は一度だけ呼ぶ。

「針。医療鍵を作ってよいですか」

「薬だけ」

「血液型」

「知らない」

「過去の手術」

「ない」

「薬物投与」

 沈黙。

 ミソラが寝台の反対側へ立つ。

「答えたくない?」

「知らない」

「眠らされたこと」

「ある」

「口が渇く、左目が痛む、手が震える薬」

 針の呼吸が変わる。

「ある」

「いつ」

「任務前」

「何色」

「透明」

「匂い」

「甘い」

 ミソラの指が止まる。

「藍の薬歴と似てる」

 真琴。

「名前を一緒にしない」

「分かっています。薬剤特徴だけ」

「同じ投与元かもしれない」

「推測」

「記録します。未確定」

 針が言う。

「藍って誰」

「答えません」

「さっき放送した」

「だから答えません」

「対象」

「あなたが言った?」

「聞いた」

「誰から」

「答えない」

 針の脈が速くなる。

 ミソラは質問を止める。

「今は治療。真琴、出て」

「情報が」

「脈が上がった。腹が開く」

「質問一つ」

「出て」

 真琴は従う。

 規則を作る側ほど、現場から出る命令に従いにくい。

 自分がいない間に例外が生まれる気がするからだ。

 例外は、真琴が見ていても生まれる。

 午前六時五十一分。

 砂は診察室の戸口で、触覚札を指でなぞっていた。

「一角」

「意味を知っている?」

「今」

「どこで」

「廊下」

「誰から」

「みんな」

「みんなって誰です」

 タマキが即座に訊く。

「病院」

「病院は喋らない」

「床、職員、家族、患者」

「四つある」

「全部」

 砂は札を裏返す。

「札を付ければ、運ばれる」

「状態による」

 真琴。

「一角なら先」

「先に治療。必ず搬送ではない」

「では一角を付ける」

「自分で?」

「痛い」

「どこ」

「肋骨」

「呼吸」

「できる」

「歩行」

「できる」

「出血」

「ない」

「一角ではありません」

「本人の選択」

「治療方法は選べます。優先度の医学評価を、希望だけで変えません」

「名前は選べるのに」

「名前と症状は違います」

「決める側が言う」

 同じ言葉。

 真琴は眼鏡を外した。

 見えない。

 暗闇でなくても、世界が滲む。

「そうです。今は、私たちが決めています」

 砂が首を傾ける気配。

「認める」

「隠してもなくなりません」

「なら、何が違う」

「変えられる手順を残す。誰が決めたかを残す。拒否しても治療から外さない」

「拒否したら一角にならない」

「拒否と症状は別」

「全部、別」

「混ぜると、誰かが楽になります」

「誰」

「今は、侵入者です」

 真琴は札を並べる。

 白冠札を付ければ白冠の扉が開く。

 剛嶺札を付ければ剛嶺の搬送車へ乗れる。

 中立札を付ければ病院の検問を通れる。

 無所属札なら、誰の名簿にも照合されない。

 一枚の札へ、名前、薬、行先、支払元、警備権限を詰め込んだ側が、侵入者へ道具を渡した。

「制度の穴」

 七瀬が言う。

「人の悪意だけではありません」

 真琴。

「悪意が使った」

「使えるようにしていた」

「責任は」

「分ける。薄めない」

「どうやって」

「札を作った病院。照合を省いた職員。偽札を使った侵入者。命令した者。全部別に」

「多すぎる」

「多い責任を、一人へ集める方が嘘です」

 凱が遠くでくしゃみをした。

「聞こえました?」

「聞こえた」

「感想は」

「ない」

「王へ集める話です」

「今、呼吸数を運んでいる」

「逃げましたね」

「仕事中だ」

 真琴は少し笑った。

 午前七時八分。

 南野の四枚札、砂の三枚札、針の二枚札、放送器の偽声時刻を並べる。

 七瀬の見えない記録から、名札が裏返った音を拾う。

 かち。

 東。

 かち。

 西。

 かち。

 地下。

 同じ金属音だが、響きが違う。

 首札の材質は同じ。

 付けている身体が違う。

「無標班〈ノー・マークス〉

 針が処置室から言った。

 真琴たちは振り向く。

「それは所属?」

「違う」

「では何です」

「所属を替える仕事」

「人数」

「知らない」

「命令者」

「知らない」

「目的」

「知らない」

「あなたの任務」

「動く床を開ける」

「誰のため」

「灰四」

「灰四は人の名?」

「番号」

「本人が選んだ呼び名」

「ない」

 針の声には、確信がなかった。

「ないと命じられている?」

 真琴。

「質問が多い」

「仕事です」

「治療は」

「ミソラ」

「審理」

「私」

「別?」

「別です」

「分けたら、逃げる」

「混ぜたら、治療が罰になります」

 針は目を閉じる。

「灰四は、名を持つと動けない」

「能力」

「知らない」

「所属名で呼ばれると」

「外れる」

「何から」

「追うもの」

「誓痕?」

 返事はない。

 真琴は断片を紙へ書く。

《灰四。番号。所属名を替える。名を持つと動けない――発言者の理解。未確定》

「本名を探せば止まる」

 職員が言う。

「禁止です」

 真琴と七瀬が同時に答えた。

「どうして。能力を止められる」

 職員。

「本名かどうか分からない」

 真琴。

「本人が拒む情報を武器にする」

 七瀬。

「でも患者を守る」

「名前を公開された患者は」

「灰四だけだ」

「その区別を誰が決める」

 職員が黙る。

 真琴は紙へ新しい線を引いた。

「呼び名は、鍵ではありません」

「でも能力解除に」

「なっても、それを目的に強制しない」

「敵へ甘い」

「患者へ厳しくする仕組みは、敵だけで止まりません」

「また決めた顔をした」

 迅。

「あなた、本当に暇ですね」

「廊下を守ってる」

「口も?」

「無料」

「価値相応です」

 午前七時二十六分。

 砂が倒れた。

 前触れは、小さかった。

 呼吸の終わりに笛のような音。

 右肩を上げて息を吸う。

 質問への返事が一語遅れる。

 本人は「不要」と言っていた。

 不要は、症状ではない。

「砂。聞こえる?」

 タマキが一度だけ呼ぶ。

 返事がない。

「この部屋では、その呼び名を使う範囲だった?」

 真琴。

「診察室まで」

 タマキ。

「ここは」

「診察室の入口」

「境界です」

「今それ?」

「呼び名の範囲です」

「じゃあ聞き直す。今、呼ぶ音を選べる?」

 砂の指が床を擦る。

「同じ」

「一回だけ呼ぶ。砂、右胸へ触っていい?」

「……嫌」

「服の上から聴診器」

「嫌」

「背中」

「嫌」

「音を聞かないと、肺が潰れているか分からない」

「分からなくていい」

「息が止まるかもしれない」

「任務」

「任務を続けたい?」

 返事がない。

「生きたい?」

 ミソラが来る。

「質問が大きい」

 砂。

「今、必要」

「分からない」

「分からないを選べる。でも身体は待たない。胸へ針を入れる可能性がある。先に音を聞かせて」

「拘束」

「治療中は動かない約束。破れば、傷へ触れない範囲で止める」

「信用」

「してない。説明した」

「同じ?」

「違う」

「決める側が」

「そう。今は私が決める側。でも、触るかはあなた」

 砂は目を閉じる。

「背中」

「服の上?」

「上」

「受けた」

 ミソラは左手で聴診器を当てる。

 右肺の音が弱い。

「気胸の疑い。一角」

 タマキが触覚札を取る。

 角一つ。

 砂の胸へ付けようとして、止める。

「札、どこなら」

「首は嫌」

「腕」

「嫌」

「寝台」

「自分と離れる」

「手に持つ?」

「落とす」

「服の裾」

 砂は考える。

「左」

「縫っていい?」

「穴は嫌」

「安全ピン」

「針」

 処置室の針が、息だけで笑う。

「私ではない」

「分かってる」

 タマキは布紐で札を結ぶ。

 左裾。

 真琴は記録する。

《呼び名:砂。使用範囲:診察室と処置中。医療鍵:右気胸疑い。行為記録:別保管。公開範囲:未確認。札位置:左裾。首・腕・穴あけ拒否》

「長い」

 迅。

「患者が長い」

「人だろ」

「患者でもあり、侵入行為者でもある」

「それを一行に書くから長い」

「分けています」

「紙は一枚」

「今、見本です」

「いつまで見本なんだ」

「紙が来るまで」

 タマキが手を上げる。

「紙、ある」

「種類が」

「新聞、薬袋、配給券、未使用の投票紙」

「投票紙は使いません」

「どうして」

「選択を治療へ流用した印象になる」

「新聞」

「記事が透ける」

「薬袋」

「医療鍵にはいい」

「配給券」

「呼び名札にすると、名前と食料がつながる」

「面倒」

「知っています」

 真琴は自分の手帳を破った。

「それ、規則ノート」

 迅。

「規則を作るために使います」

「もったいない」

「あなたに言われたくない」

 十二枚に分ける。

 左利きで大きな字を書く。

 公式署名だけは右で書く癖がある。

 今の札は公式ではない。

 左でいい。

 午前七時四十三分。

 砂の胸へ針を入れる処置が始まる。

 侵入者が使った短刃を、消毒して医療へ流用しない。

 病院の器具を使う。

 足りない器具を、敵の装備で補う誘惑はある。

 速い。

 合理的。

「その針、使える」

 迅が短刃の鞘に隠された中空針を見つける。

 ミソラは首を振る。

「薬が付いてる可能性」

「洗う」

「洗っても不明」

「病院の針は」

「細い。時間がかかる」

「患者が悪くなる」

「敵の器具で治して、毒が入ったら」

「使った責任は」

「私」

「なら決めろ」

「病院の針」

「遅い」

「知ってる」

「何分」

「二分多い」

「二分で」

「息はまだある」

「保証」

「しない」

 ミソラは病院の太さの足りない針を二本組み合わせる。

 サナが接続管を切る。

 佐渡が金属筒を絶縁布で固定する。

 即席器具。

 砂の胸へ入れる。

 空気が抜ける。

 細い音。

 砂の肩が下がる。

「呼吸」

「できる」

「痛み」

「八」

「数字でいい?」

「今は」

 侵入者も、触覚札の一角だった。

 家族待合から怒声が来る。

「敵を先にした」

 真琴は返事をしない。

 ミソラが治療理由を言う。

「右肺が潰れかけていた。二分以内に処置。所属は使っていない」

「うちの父は三角だ」

「呼吸安定。足の骨折。痛み止め待ち」

「痛がってる」

「知ってる。後にする」

「敵より」

「気胸より」

「同じだ」

「違う」

「決める側が言う」

 砂が寝台から言った。

 ミソラは振り向かない。

「そう。だから記録する」

「記録すればいい」

「よくない。でも、隠すよりは」

 家族は納得しない。

 それでも、自分の父の札を引きちぎらなかった。

 午前八時五分。

 真琴は、複数札の移動表を完成させる。

 灰四の首札は、少なくとも四人の手を通っている。

 だが、掠れた声の人物自身は、札へ所属名が書かれている間だけ、その所属を条件にした警備誓痕から外れている。

 白冠札を付ける。

 白冠だけを守る結界は、味方として通す。

 剛嶺札へ替える。

 剛嶺を捕らえる拘束は、所属照合のずれで外れる。

 無所属札へ替える。

 所属者を追う誓いは、対象を失う。

「能力名は」

 真琴。

 針が答える。

「無所属〈ノー・フラッグ〉

「本人がそう呼ぶ?」

「教官」

「本人の呼び名ではない」

「能力は本人より先にある」

「そんなことはありません」

「作られた」

 真琴は紙へ書く。

《能力呼称:無所属。命名者、教官とされる。本人同意未確認》

「呼び名を本人が選べば、能力が消える?」

 職員。

「未確定」

 真琴。

「本名なら」

「禁止」

「またか」

「能力解除のために名前を強制しません」

「患者が連れ去られる」

「別の方法で止めます」

「あるのか」

「今から作ります」

「今からばかりだ」

「生きている制度は、今に追いつく仕事です」

「覚えやすい」

 迅。

「廊下を守ってください」

「守ってる」

 真琴は二つの鍵を作った。

 一つは、本人が選んだ呼び名と希望範囲。

 一つは、医療情報への照合。

 同じ人が両方を持たない。

 呼び名札は患者か本人の選んだ保管者。

 医療鍵はサナとミソラ。

 行為記録は七瀬。

 誰も、人を全部持てない。

「面倒」

 砂。

「生きている人は、欄が多いんです」

 真琴。

「死んだら」

「減らしません」

「なぜ」

「死者を簡単にすると、生きていた時も簡単だったことになる」

「短い」

 迅。

 真琴は紙束を投げた。

 迅は左手で受けた。

「右を庇いましたね」

「紙だから」

「記録します」

「やめろ」

 病棟に、初めて少しだけ朝の光が入る。

 呼び名札の文字は読める。

 だが、窓へ近い札だけだった。

 遠い患者の名は、まだ見えない。

 真琴は見える札から読み上げず、手で触れた順に照合を続けた。

 明るくなった人から先に人間になる制度を、作らないためだった。

 午前八時二十二分。

 二つの鍵を入れる箱は、薬箱だった。

 薬は入っていない。

 古い木箱。

 内側に十二の仕切り。

 蓋の蝶番が一つ曲がっている。

「人の情報を、空の薬箱へ入れるんですか」

 真琴。

「病院にある、鍵が掛かる箱がこれ」

 サナ。

「薬と間違えます」

「赤い線を引く」

「暗闇で見えません」

「角を削る」

 タマキが箱の左上を指す。

「一つ削ったら呼び名札。二つ削ったら医療鍵」

「箱を二つにする?」

「同じ箱の別室では、持つ人が同じになる」

 真琴。

「じゃあ、一つはこれ。もう一つは何」

 轟が工具箱を持ってくる。

「釘の箱」

「医療情報を釘箱へ?」

「洗った」

「そういう問題では」

「鍵は別」

 古い薬箱の鍵はサナ。

 釘箱の鍵は、本人が選んだ保管者か本人。

 どちらが呼び名で、どちらが医療鍵か。

 タマキが言う。

「薬箱が医療」

「分かりやすすぎる」

 真琴。

「どうして駄目」

「奪う側にも分かりやすい」

「じゃあ逆」

「後で私たちが間違える」

「目印」

「外から分からず、触る人には分かる物」

 八番室の少年が、紙の橋を持ってくる。

「中に置く」

「何を」

「切れ込み」

 紙の小片。

 一つの切れ込み。

 二つの切れ込み。

 箱を開けた人だけが、どちらか触って分かる。

「外からは同じ」

 少年。

「採用」

 真琴。

「報酬」

 タマキ。

「何がいい」

「紙」

「また橋?」

「鳥は、いらない」

 ミソラが遠くで聞いている。

 何も言わない。

 紙の鳥は、彼女の安定印だ。

 少年は、それを自分の物にしない。

 サナが箱へ鍵を掛ける。

「正式な制度にする?」

「今夜の病院だけ」

 真琴。

「うまくいったら」

「その時、見直す」

「名前を付けない?」

「名前を付けると、成功した気になる」

 迅。

「あなたは成功してなくても技名を付けますね」

「俺が付けたんじゃない」

「七歩、数えやすい」

 タマキ。

「八歩にしたら」

「弱くなる」

「どうして」

「七だから」

「説明になってない」

「能力は、説明より先に困る」

 真琴が咳をした。

 一度。

 二度。

 粉塵と消毒液の匂い。