第258話 第七章「澪の振動」後編

「声を鍵にしない。過去の命令と比べるため」

「何が変わったか」

「誰が確認する」

「私。隊員。患者。三者」

「患者があなたを知らなければ」

「内容で確認」

「内容も偽られた」

「だから、一つを鍵にしない」

 サナが南野の点滴を確認する。

「鍵束ね」

「鍵束は、持つ人が強い」

「じゃあ」

「別々の人が一本ずつ」

「開くのに時間」

「かかる」

「今夜は、みんなそれ」

「そう」

 午前五時四十八分。

 受入先への通信がつながった。

 雑音が多い。

『到着予定、五時十分。現在、三十八分遅延』

「到着しない」

 澪。

『患者は』

「全員、病院内。移送保留」

『経路は安全と報告を受けた』

「経路は安全。患者が安全ではない」

『空床を確保している』

「解除していい」

『次の患者を入れれば、こちらは再受入できない』

「受けた」

『本当に解除する?』

 澪は一秒、迷った。

 空床を握っておけば、病院の患者を後で運べる。

 受入先は、今ここにいない別の患者を待たせる。

「解除」

『責任者名』

「風祭澪」

『理由』

「移送の確実性がない状態で、空床を占有しないため」

『記録する』

「受けた」

 通信が切れる。

 加納が壁際で聞いていた。

「空床、失いました」

「そう」

「正午に運べても、行先がない」

「その時、別の受入先を探す」

「見つからなかったら」

「ここに残る」

「俺たち、何しに来た」

 澪は答える。

「患者を、行ける場所へ運ぶため」

「運んでない」

「行けない場所へ運ばなかった」

「言い訳」

「記録して」

「俺が?」

「反対した人が書く方がいい」

「どうして」

「私の判断を、私だけの文で残さない」

 加納は紙を取る。

 怒った字で書く。

《受入空床解除に反対。正午以降の移送先を失う危険あり》

 署名。

 澪はその下へ書く。

《反対を確認。解除を実施。再探索担当、風祭澪》

 計画を捨てる判断は、きれいではない。

 誰かの不満と、失った可能性が残る。

 それでも、車両板を白紙にはしなかった。

 午前六時三分。

 東の空は明るい。

 病院の中は暗い。

 空になった三号車の床へ、搬送板が一枚残っている。

 澪はそれをユキの寝台へ持っていく。

 道順を書く板が、排液袋と呼吸記録紙を支える机になる。

 帰路が消えたのではない。

 今は、患者が次の呼吸へ戻るための、短い場所になった。

 午前六時七分。

 小麦が紙杯を二つ持ってきた。

「汁」

 澪。

「豆と塩」

「患者用?」

「働いてる人用」

「金」

「後」

「後は、いつ」

「寝てから」

「順番が逆」

「じゃあ、飲んでから」

 澪は紙杯を受け取る。

 右耳側から、小麦が何か言う。

「聞こえない」

「わざと」

「どうして」

「言えるか試した」

「何を」

「聞こえないって」

「仕事中に試すな」

「今は汁」

 小麦は澪の左側へ移る。

「高い笛、捨てる?」

「捨てない」

「聞こえないのに」

「他の人は聞こえる」

「澪の道具」

「班の道具」

「自分だけ聞こえない命令を持つの、怖くない?」

「怖い」

「捨てない?」

「聞こえる人を明記する。私の確認には使わない」

「格好悪い」

「そう」

「簡単に言う」

「右耳は、言い張っても戻らない」

 澪は三本の真鍮笛を膝へ並べた。

 細い笛。

 中間。

 太い笛。

 細い笛へ、布紐を一本結ぶ。

《隊長確認には使用不可》

 字ではなく、触って分かる印。

「誰が決めた」

 小麦。

「私」

「班は」

「正午に確認」

「勝手」

「暫定」

「言葉を変えると格好よくなる?」

「ならない」

 汁を飲む。

 温かい。

 味は薄い。

「働いてる人用、薄い」

「病院の塩、少ない」

「先に言って」

「飲まない?」

「飲む」

「じゃあ、同じ」

「違う。選ぶ前に知りたかった」

「病院に染まった」

「嫌」

 小麦が笑う。

 澪は細い笛を胸へ戻す。

 聞こえない音を、なかったことにしない。

 自分に届かない命令は、誰かに届く。

 だから捨てるのではなく、誰が受け、誰が確認できないかを結び目にした。

 病院の内側で、朝の光が窓布の端へ触れる。

 灯りはまだ戻らない。

 澪は汁を飲み切り、紙杯の底を三度叩いた。

 空。

 今度の振動は、右耳にも左耳にも関係なく、手のひらへ届いた。