第257話 第七章「澪の振動」前編
四月十九日 午前三時二十八分
風祭澪には、聞こえない音がある。
聞こえないことより厄介なのは、聞こえたふりができることだった。
地下搬入口で、細い笛が三度鳴った。
帰路班の隊員が一斉に左へ向く。
澪だけが動かなかった。
右耳には、薄い金属を擦る耳鳴りがある。
高い笛は、その奥へ消える。
「誰の笛」
澪が訊く。
返事が重なる。
「二番班です」
「屋上から」
「退避合図」
「違う、搬入口封鎖だ」
同じ三音に、三つの意味が付いていた。
敵は笛を盗んだのではない。
意味を散らした。
「全員、停止」
澪は一番太い真鍮笛を鳴らす。
低い一音。
自分にも聞こえる。
胸骨へ振動が来る。
隊員が止まる。
「復唱。動いた理由」
「高音三回。左路へ」
「誰から」
「見てない」
「二番班」
「二番班は今どこ」
「東病棟」
「屋上と言ったのは」
「反響で」
「推測を事実にするな」
澪は右耳を指で押さえない。
押さえれば聞こえるわけではない。
それでも疲れると触る。
今は両手が要る。
搬入口には、寝台が十四。
車両が三。
一号車は酸素配管あり。
二号車は揺れが少ない。
三号車は積載量が多いが、左後輪の板ばねが弱い。
患者の触覚札。
一角、三。
二角、六。
三角、五。
出発予定は一号、二号、三号。
ミソラから、新しい順が届く。
「二号だけ出す。一号は残す。三号の寝台を全部下ろす」
伝令が言った。
「理由」
「一号の酸素を病棟へ戻す。三号の振動で腹部患者が悪化」
「二号の行先」
「北端診療所。近江と、南階段の足首開放創。本人確認済み」
「ユキは」
「残留」
「藍」
「残留」
「腹部出血」
「残留」
澪は搬送板を握った。
板には、出発順が墨で書いてある。
一号。
二号。
三号。
四時間かけて、道路の穴、橋の幅、車輪の状態、受入れ先の寝台数を合わせた。
正しい計画だった。
患者の状態が変わるまでは。
「変更時刻」
「三時二十一分」
「誰の判断」
「時雨ミソラ」
「本人へ説明」
「近江は済み。足首の人は意識低下、同行者なし」
「代理判断」
「医療緊急」
「受入れ確認」
「二時五十二分。再確認はまだ」
「まだ?」
「回線が落ちた」
「では出さない」
「ミソラは出せと」
「受入れ先が閉じていたら帰れない」
「今いる場所も危険」
「どちらが危険か数字」
「分からない」
「分からないまま動かすな」
伝令が詰まる。
澪は板を裏返した。
白い面。
「私が確認する」
「回線が」
「人を走らせる」
「往復四十分」
「二十分で中継所。そこから旗」
「高音笛を偽装されてます」
「笛だけにしない」
澪は隊員を三人選ぶ。
一人は足が速い。
一人は手話ができる。
一人は受入れ先の職員の顔を知っている。
「確認は三つ。門の印、当直の呼び名、空き寝台数。答えを紙に書き、結び目を二つ。途中で一人欠けたら戻る」
「誰が責任」
「私」
「患者は待てる?」
隊員が訊く。
澪は答えかけて、止めた。
「医療者へ聞く」
以前なら、搬送者が移動可能時間を決めた。
今、澪は伝令へ言う。
「ミソラへ。再確認に四十分。待てるか。待てないなら、なぜ待てないか。私は経路を変える」
「受けた」
三人が走る。
高い笛がまた鳴った。
澪には聞こえない。
隊員の肩が動いたことで分かる。
「見ない」
澪が言う。
「何を」
「笛へ反応した人の方向。床を見ろ」
地下搬入口の床は、古い荷重板だった。
車両が乗ると沈む。
人が走ると、ボルトへ細い震えが来る。
澪は壁へ左掌を当てた。
振動。
近い足、二。
遠い足、一。
寝台車輪、一。
偽笛の音は高い。
吹く人間の足は、床へ残る。
「西壁、二人」
「見えません」
「私も。振動」
「どうする」
「挟まない。出口を一つ空ける」
「逃がす?」
「患者の間へ入れない」
隊員が荷箱を動かす。
西壁から中央への道を塞ぐ。
外への細い通路だけを残す。
侵入者の一人が走る。
床が揺れる。
澪は太い笛を一度。
進行ではない。
今夜だけの合図。
「外へ出る者、追わない。院内へ戻る者だけ止める」
隊員が復唱する。
「追わない?」
迅が搬入口へ来ていた。
「患者が優先」
「俺の台詞みたいだ」
「借りてない」
「運賃」
「高い」
塩路の車列で交わした会話が、暗い病院で別の形に使われる。
侵入者は外へ走る。
もう一人が、院内へ戻った。
迅が動く。
「追わないって」
「戻る方だけ」
「聞いてた」
「復唱」
「院内へ戻る者だけ止める。患者へ触れさせない」
「右手」
「使い方を決めるな」
「痺れ」
「少し」
「なら左」
「それは俺が決める」
迅が暗闇へ消える。
澪は追わない。
壁の振動を見る。
一歩。
二歩。
三歩。
途中で別の重い振動。
寝台が動いた。
「三号車」
隊員。
「誰が」
「家族二人。偽放送で出すと」
澪は三号車へ行く。
荷台には、足首開放創の患者が載っている。
意識が薄い。
家族ではない二人が、寝台を押している。
「止まって」
「搬送命令だ」
「誰から」
「白衣の女」
「呼び名」
「知らない」
「症状確認」
「急げと言われた」
「患者へ説明」
「意識がない」
「だから運ぶ?」
「死ぬぞ」
「三号車は振動が大きい。出血が増える」
「ここにいても死ぬ」
「今、医療者の判断を確認中」
「おまえが救難隊長だろ」
「搬送を止める責任はある。治療順位を決める権限はない」
「責任逃れだ」
「そう見える」
「王みたいなことを言うな」
「嫌」
澪は寝台を掴まない。
押している二人の手へ、低い笛を近づける。
「吹く。驚く。手を離して」
「何だ」
「先に言った」
ぶう、と低音。
二人の掌へ振動が伝わる。
反射で手が離れる。
隊員が車輪を固定する。
「騙したな」
「予告した」
「聞こえなかった」
「私も聞こえない音がある。だから、先に言う」
二人は怒る。
怒ったまま、寝台から離れる。
午前三時五十一分。
ミソラ本人が搬入口へ来た。
歩き方が硬い。
誓痕の反証で、右脇腹と左足首へ他人の痛みが残っている。
「足首の人、二号車へ変更」
「受入れ未確認」
「待てるのは二十五分。四十分は待てない」
「経路を変える。中継所で止め、確認後に北へ」
「中継所に医療者」
「いない」
「では私の補助を一人」
「病院から抜く?」
「この患者を動かすなら必要」
「人手が減る」
「動かさないなら、ここで処置」
「どちらが生存可能性を上げる」
「今の状態なら、動かす。ただし二号車。速度は通常の七割。十五分ごとに止めて出血確認」
「通常の七割だと中継所まで二十八分」
「二十五分を越える」
「経路短縮は段差が三つ」
「段差は不可」
「では出せない」
「出して」
「数字が合わない」
「合う経路を作るのが搬送」
「道は今、増えない」
「人は今、減る」
二人の声が低くなる。
喧嘩は大声で始まるとは限らない。
専門家同士の喧嘩は、数字が正しいほど深くなる。
「あなたは、出発後の二十八分を見てる」
澪。
「あなたは、ここにいる二十五分を見てる」
ミソラ。
「戻れない経路へ出したら、患者は車で悪化する」
「ここに残せば、手術室の順番が回らない」
「病院都合」
「医療資源」
「同じに聞こえる」
「違う。病院が楽になるためじゃない。手術室を必要な患者へ空ける」
「この人を外へ出せば空く」
「そう」
「追い出すのと何が違う」
「本人が選べない状態。だから私が署名する」
「私の車へ」
「あなたは拒否できる」
「拒否すれば」
「ここで処置する。別の患者の手術が遅れる」
「責任を載せるな」
「載せてる。隠さない」
澪は壁へ掌を当てた。
床の振動。
二号車のエンジン。
一定。
一号車の酸素機。
不規則。
三号車の板ばね。
右後輪だけ遅い。
搬送板の裏へ、白墨で線を引く。
病院から中継所までの通常路。
その途中に、旧料金所の検査床がある。
段差はない。
ただし幅が狭い。
「検査床を通す」
「車幅」
「左右三センチ」
「夜」
「暗い方が、側壁の触覚棒を使える」
「時間」
「二十三分」
「停止」
「一度、十一分地点。出血確認二分。合計二十五」
「受入れ確認は」
「中継所で待つ。閉じていれば戻さず、検査床の旧診察室を使う」
「旧診察室に何がある」
「何もない」
「医療者と物資」
「病院から載せる」
「誰」
「あなたが選ぶ」
ミソラはすぐ答えない。
「阿久津サナ」
「サナは病院の中心」
「だから、私」
「あなたが出る?」
「二十五分。戻り二十三分。病院から四十八分抜ける」
「無理」
「では患者を残す」
「別を」
「資格と処置範囲」
「職員二」
「縫合不可」
「必要なのは圧迫と観察」
「悪化したら」
「戻せない」
「誰なら」
澪は自分の隊員を見る。
搬送班は道を知る。
包帯も巻ける。
医療判断まではできない。
「ミソラ」
「何」
「順番を変える。二号車は出さない」
「患者は」
「搬送班を病棟へ入れる。車両の酸素、担架、毛布を下ろす。ここで手術室を空ける方法を作る」
「搬送の仕事を捨てる?」
「今夜だけ、運ばない」
「帰路班は」
「帰路を作る。道だけじゃない」
澪は搬送板の表を消した。
一号。
二号。
三号。
全部の順番を白布で擦る。
「主導権を渡す」
「誰へ」
「治療順はあなた。経路と車両安全は私。どちらか一人の命令で動かさない」
「遅くなる」
「そう」
「嫌い」
「私も」
和解ではない。
役割の境界を引き直しただけだった。
午前四時九分。
搬送班が、車から物を下ろした。
酸素瓶、六。
手動吸引器、二。
毛布、十九。
防輪材、十二。
担架、五。
飲料水、四十リットル。
車載工具、一箱。
運ぶために積んだ物が、運ばない判断で病院へ戻る。
「返却記録」
長谷部なら最初に言う、とタマキが言った。
「今ここにいない人の台詞を便利に使わない」
澪。
「でも要る」
「要る。書く」
搬送板の裏へ、品名と数を書く。
「期限」
「病院が通常搬送を再開するまで」
「曖昧」
「四月二十七日の日没まで。延長は再確認」
「返却場所」
「地下搬入口」
「壊れたら」
「使用者と病院と帰路班で状態を記録。善意の寄付へ変えない」
「よし」
「おまえが認定するな」
「言い直せる人はえらい」
「それも前に聞いた」
「便利だから」
隊員たちは、寝台の横へ入る。
道を測る人間が、呼吸を数える。
荷締めをする人間が、点滴架台を固定する。
車輪を替える人間が、患者の身体を動かさず敷布だけを引く。
「私たちは医療者じゃない」
二番班の隊員が言う。
「判断はしない」
澪。
「何をする」
「言われた数字を測る。変化を伝える。分からないを分からないまま返す」
「簡単そう」
「簡単なら、間違えた時に気づきにくい」
「怖いこと言うな」
「怖い仕事」
「救難より?」
「救難も怖い」
澪は隊員を東病棟へ送る。
低い笛を一度。
今夜だけの進行合図。
高い笛は使わない。
使えないからではない。
敵が意味を散らしたから、一度回収する。
三本の真鍮笛を外し、一本ずつ布へ包む。
「封印?」
迅が戻る。
「点検」
「笛も治療するのか」
「意味を洗う」
「水で?」
「記録で」
「七瀬みたいになった」
「嫌」
迅の右頬に擦り傷。
左袖へ油。
「捕まえた?」
「逃げた」
「患者」
「触らせてない」
「なら仕事はした」
「慰め?」
「評価」
「追えた」
「追えば、誰が患者を見た」
「おまえが言うと腹が立つ」
「私も」
同意は、仲良くするためだけにあるわけではない。
午前四時二十六分。
南野が意識を取り戻した。
四号車の運転手。
後頭部の裂傷は縫合済み。
吐き気がある。
「ここ」
「病院」
サナ。
「車」
「回収。酸素一本と担架一台がない」
「俺が」
「あなたが盗んだとは言ってない」
「鍵、渡した」
「誰へ」
「澪」
周囲が止まる。
澪は寝台の左側へ立つ。
右耳を患者へ向けない。
「私が受け取った?」
「おまえの声。後ろから」
「顔」
「暗かった」
「何を言った」
「北端へ緊急搬送。四号車だけ先行。復唱」
「復唱した?」
「した」
「内容」
「四号車、酸素二、空担架一、北端へ。乗員、南野一名」
「変更理由」
「病院内で呼吸器不足」
「誰の患者」
「聞かなかった」
「なぜ」
「おまえの命令だった」
澪は返事をしない。
自分の声を信用した運転手を責めれば、偽声の責任を運転手へ移せる。
「私の命令ではない」
「知ってる。殴られたから」
「確認手順が足りなかった」
「俺の?」
「私たちの」
「命令を疑うのか」
「変更は疑う」
「毎回?」
「毎回」
「遅れる」
「遅れる」
「死ぬかも」
「確認なしでも死ぬ」
「何を増やす」
「変更理由。受ける人の復唱。患者の呼び名か症状。私の声だけでは動かさない」
「本人の声を、本人の証明にしない?」
「しない」
「隊長なのに」
「隊長だから」
南野は目を閉じた。
「次は、顔を見る」
「暗ければ」
「触る」
「どこを」
「笛」
「盗まれる」
「じゃあ、手」
「私の手を知ってる?」
「知らない」
「それでは確認にならない」
「面倒だな」
「同感」
澪は南野の寝台柵を一度叩く。
「今夜の手順は、三つ。声、変更理由、別の人の復唱。明るくなったら見直す」
「永久にしない?」
「永久の命令はない」
「本当に?」
「目標」
南野は笑おうとして、吐き気に顔をしかめた。
「正直だな」
「今は」
午前四時四十三分。
地下搬入口の床へ、細い振動が来る。
走る足ではない。
一定の間隔。
とん。
二秒。
とん。
二秒。
澪は壁へ手を当てる。
「中継所から」
「旗?」
隊員。
「床打ち」
旧料金所の配管が、中継所までつながっている。
空気を送る管。
圧力が落ちた今、管を叩く振動だけは届く。
三回。
間。
二回。
間。
四回。
事前符号ではない。
「何の数字」
「三、二、四」
「時刻?」
「違う」
「寝台?」
澪は床へ同じように返す。
一回。
質問。
向こうから、二回。
否定。
もう一度、三、二、四。
「空き寝台」
タマキが言う。
「どうして」
「北端診療所、三室、各二床、予備四って前に聞いた」
「いつ」
「車列の時」
「覚えてた?」
「受取先だった」
澪は管を叩く。
二、質問。
次に、数字。
向こうから返る。
三、二、四。
そして一。
「一は何」
「受入れ一人?」
澪はさらに問う。
返答が遅い。
管の振動は、言葉ほど自由ではない。
だから、勝手に意味を足したくなる。
「推測で動かさない」
澪は言う。
「本人が言うんだ」
迅。
「聞こえないから」
「見えても同じだろ」
「腹が立つ」
「評価?」
「悪口」
中継所へ向かった三人が戻るまで、搬送は出さない。
その判断で、病院の手術順は遅れる。
ミソラが数字を受ける。
「待てる」
「さっき二十五分」
澪。
「搬送班が病棟へ入った。圧迫と固定が増えた。今は四十分」
「状態が変わった」
「人手で」
「車を出さなかったから?」
「そう」
「私の計画が役立った?」
「計画を捨てた判断が」
「褒めてない」
「評価」
「迅みたいな言い方」
「嫌」
午前五時六分。
東の空が薄くなる。
病院の中はまだ暗い。
澪は搬送板を、ユキの寝台脇へ置いた。
板の上へ、排液袋と呼吸記録紙を載せる。
道順を書いていた板が、今は小さな机になる。
「返す?」
タマキ。
「使い終わったら」
「道の板なのに」
「今は、ここが道」
「病院の中」
「患者が次の呼吸へ行く」
「今の、紙に書けそう」
「記録するな」
「録音、止まってる」
「人が覚える」
澪は右耳の耳鳴りを押さえた。
床から来る振動は、手のひらへまだ残っていた。
聞こえない音の代わりではない。
別の情報だった。
午前五時十八分。
三台の救難車は、搬入口で空になった。
空という言葉は正確ではない。
一号車には、使い終えた固定帯。
二号車には、戻せなかった血の付いた毛布。
三号車には、病院へ貸した酸素瓶の空き枠。
患者だけがいない。
車は軽くなった。
帰路班の仕事は、重くなった。
「予定、全取消ですか」
隊員の加納が訊く。
「今夜の便は」
澪。
「今夜だけ?」
「明日は、明日確認」
「受入先は待ってます」
「待たせる」
「信用を失います」
「失う」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃない」
加納は車体を蹴らない。
蹴りたい足を、床へ強く置く。
振動が澪の靴底へ来る。
「俺たちは、患者を運ぶために来た」
「運ばないと決めた」
「病院に閉じ込めた」
「動かせない患者を、道へ出さなかった」
「正しかった?」
「分からない」
「隊長でしょう」
「経路は判断する。治療は決めない」
「前は決めた」
「前は、間違えた」
「いつ」
「何度も」
加納は黙る。
澪は車両板を外した。
《到着予定》
《経路》
《帰還時刻》
三つの欄。
全部に斜線を引かない。
《中止》と書くと、誰かの仕事が無意味になったように見える。
澪は書く。
《患者状態変化により移送保留。車両・乗員を病棟補助へ転用。再確認時刻、正午》
「長い」
加納。
「短くすると」
「誰かのせいに見える」
「分かってるじゃない」
「隊長が長文を書くようになった」
「嫌?」
「少し」
「受けた」
「その言い方も」
「受けた」
加納は笑わなかった。
車両板を病院の壁へ掛ける。
予定表ではなく、保留理由の掲示。
搬送を待つ家族が見る。
受入先へも写しを送る。
計画を捨てたことを、成功した判断に言い換えない。
午前五時三十一分。
南野が目を開けた。
旧洗濯室から処置室へ移されている。
頭部の傷。
左足の靴だけ。
右足は毛布で包まれている。
「南野」
澪は左側から呼ぶ。
本人が顔を向ける。
「聞こえる」
「一回で、はい。二回で、いいえ。声は無理しない」
南野の右手が一度、寝台を叩く。
「四号車を運転していた」
一回。
「病院からの命令変更を受けた」
一回。
「無線」
二回。
「直接」
一回。
「誰の声」
南野の指が止まる。
選択肢を並べれば、記憶を誘導する。
澪は待つ。
南野が喉を鳴らす。
「……み、お」
澪の名。
「私の声」
一回。
「顔を見た」
二回。
「声だけ」
一回。
「内容」
南野は眉を寄せる。
口が動く。
「患者……一。外、へ。追跡、避ける」
「私が言いそうだった?」
一回。
「今の私より」
南野は、ゆっくり一回叩いた。
昔の澪なら言った。
患者一。
追跡を避ける。
理由は後。
短く、迷わせず、行先を決める。
偽声は、命令の癖まで知っていた。
「確認しなかった」
南野が掠れ声で言う。
「確認方法がなかった」
「俺が」
「方法を作らなかった。私の責任」
「運転した」
「南野の行為」
「同じ?」
「別」
「面倒」
「そう」
南野が目を閉じる。
「車」
「見つかった」
「壊れた?」
「左側面。前照灯。固定具一本」
「返す」
「何を」
「車」
「帰路班へ?」
「借りた」
「誰から」
「病院共同庫」
澪は知らなかった。
隊の車だと思っていた。
「所有記録」
「助手席、下」
「確認する」
「隊長、知らない」
「知らなかった」
「格好悪い」
「受けた」
南野の口元が少し動く。
「それ、便利」
「眠って」
「命令?」
「医療者の提案」
サナが横から言う。
「私が提案した覚えはない」
「眠る?」
澪が南野へ訊く。
一回。
「受けた」
澪は右耳を押さえた。
高い耳鳴り。
偽声の記憶が、聞こえない帯域へ入り込む。
「私の声、録音を作る」
澪。
「何のため」
サナ。
「本物確認」
「また奪われる」
「そう」
「では」