第256話 第六章「トリアージ」後編

 午前二時二十五分。

 南階段から、二人の患者を運ぶという連絡が来る。

 一人は意識あり。

 一人は返事なし。

「一角を二枚」

 職員。

「まだ付けない」

 ミソラ。

「急変」

「見る前に結論へしない」

「下で一角と言われた」

「下の判断を消さない。ここで再確認する」

「同じ患者なのに」

「場所が変わった。時間が変わった。状態も変わる」

 触覚札は、人そのものではない。

 その時、その場所で、誰がどう見たかの札だ。

 ミソラは一角札を二枚、手に持ったまま南階段へ向かった。

 付けるかどうかは、まだ決めない。

 午前二時二十九分。

 南階段で、二人の患者が同時に運ばれてきた。

 一人は白冠の縫い目。

 一人は剛嶺の赤索。

 家族同士が押し合う。

「こっちが先だ」

「そいつらが車列を襲った」

「おまえらが道を閉じた」

 所属が治療台へ乗る。

 ミソラは二人の間へ入った。

 右手で一人の頸動脈。

 左手でもう一人の腹部。

「黙って」

「敵を先に――」

「症状」

「うちの者だ」

「症状」

 家族の一人の手首に誓痕が光る。

 旗に属する者だけを引き寄せる、弱い運搬系の誓い。

 患者の寝台が数センチ動く。

 酸素管が張る。

 ミソラの背中に痛みが走った。

 誓痕が反応する。

「病院では、敵味方なし〈ノー・カラーズ〉

 言葉は小さい。

 病院の床に置かれた二つの所属札が、同時に熱を失う。

 旗を条件にした引力が消える。

 寝台が止まる。

 解けたのは、所属を使う誓いだけだった。

 患者の出血は止まらない。

 酸素も増えない。

 家族の怒りも消えない。

 代わりに、二人分の痛みがミソラへ返る。

 右脇腹に裂ける痛み。

 左足首に潰れる痛み。

 本人の傷はない。

 痛みだけが本物だった。

 膝が落ちる。

「ミソラ」

 澪の声。

「触らないで」

「倒れる」

「痛いだけ」

「だけではない」

「患者、先」

 澪はミソラを起こさない。

 代わりに右側の患者の寝台を固定する。

「状態」

「右、呼吸二十二、胸部変形なし、足首開放創。二角。左、腹部硬い、脈速い、一角」

「搬送」

「左を処置室。右はここで固定」

「受けた」

 澪は自分の判断を足さない。

 ミソラの言葉を復唱し、搬送班へ渡す。

 ミソラは床へ片手をついた。

「能力を使えば、平等にできるんじゃないのか」

 家族が言う。

「旗を外しただけ」

「痛みも消せ」

「できない」

「医者なら」

「医者でも、できない」

「先生じゃないんだろ」

「そう」

「何ならできる」

「順番を決める。間違えたら、私の名で残す」

「それだけか」

「それをする」

 凱と同じ答えになった。

 ミソラは嫌だった。

 同じ答えだから正しいわけではない。

 それでも、今は他の答えがなかった。

 午前三時二分。

 カナメの娘が、待合の端へ座っている。

 凱が隣へ行く。

「王命を出していれば、母は先だった」

 娘が言う。

「そうかもしれない」

「出せた?」

「声は出せた」

「なぜ出さなかった」

「あなたの母だけを先にする理由を、俺が医学では作れない」

「王なら理由なんて作れる」

「作ったことがある」

「その方が助かった人もいる」

「いる」

「じゃあ何が悪い」

「助からなかった人の順番を、俺の正しさへ隠した」

 娘は泣かない。

「ミソラは隠してない?」

「今のところ」

「これから隠すかも」

「だから記録がある」

「記録が母を戻す?」

「戻さない」

「何にもならない」

「あなたが、何にもならないと言ったことも残る」

「残してどうする」

「俺には決められない」

「役に立たない王」

「そうだ」

 凱は謝罪しなかった。

 自分が決めなかったことを、謝って自分の決定へ変えなかった。

「三分、過ぎてる」

 榎木が声をかける。

「交代だ」

「受ける」

 凱は立つ。

 左膝が一度、鳴る。

 娘が言う。

「座ってれば」

「交代の場所まで」

「命令じゃない。膝」

 凱は止まった。

「……受ける」

 再び座る。

 榎木が呼吸数を運ぶ。

 王ではない男の代わりを、王へ従わない男が務める。

 午前三時十二分。

 触覚札は、二十七枚になった。

 一角、五。

 二角、九。

 三角、十一。

 四角、二。

 数字は人を小さくする。

 だからミソラは、札を確かめるたび呼び名も一度言う。

 呼び名は人を全部には戻さない。

 それでも、数字だけにしないための手間になった。

 ミソラは二十七枚を、色では分けなかった。

 暗くて見えないからではない。

 明るくなっても、色を順位にしないためだ。

 角の数。

 穴の位置。

 糸の結び方。

 指で分かるものだけ。

「三角、十一って、多すぎない」

 サナ。

「変動が早い人を三角へ上げた」

「誰」

「ユキ。砂。腹部出血の人。東二の高熱。近江」

「砂は侵入者」

 カナメの娘が言った。

 まだ家族待合へ戻っていない。

「腹部出血」

 ミソラ。

「母より先?」

「今は」

「答えて」

「午前一時十九分、砂はお母さんより後。別の侵入者は先」

「どうして」

「戻せる可能性が高かった」

「敵なのに」

「腹部出血」

「そればっかり」

「所属を言わないため」

「母は、味方だった」

「私の味方ではない」

 娘の手が上がる。

 さっきと同じ右手。

 ミソラは避けなかった。

 今度は、頬の手前で止まる。

「避けて」

 娘。

「叩く?」

「分からない」

「なら、私は動かない」

「どうして」

「避けたら、あなたが叩くと決めたことになる」

「面倒」

「そう」

 娘は手を下ろす。

「母の名前、札にない」

「本人が希望した呼び名だけ」

「家族なのに」

「あなたが呼ぶ名前は、あなたの関係。治療札は治療の範囲」

「死んだ後も?」

「本人が生きている時に選んだ範囲は、死んでも勝手に広げない」

「私が広げたいと言ったら」

「話す。今は決めない」

「いつ」

「今日の午後四時」

「遅い」

「今、私は次の順位を決めてる」

「また誰かを後にする」

「する」

「怖くないの」

 ミソラは一秒、答えなかった。

「怖い」

「見えない」

「見せるために怖がってない」

「医者じゃないくせに」

「そう」

「資格がないなら、決めないで」

「資格を持つ人が、今ここにいない。決めないと、順番は声の大きさになる」

「あなたの声も小さい」

「だから近くへ行く」

 ミソラは三角札を一枚取った。

「東二。呼吸三十。次、見る」

「逃げる」

「午後四時」

「来なかったら」

「記録して」

 娘は何も言わない。

 七瀬が遠くで録音機を持っている。

「今の会話」

 娘。

「録っていません」

 七瀬。

「どうして」

「あなたの希望を聞いていない」

「じゃあ、ミソラが逃げても証拠がない」

「約束時刻だけ記録できます」

「それは録って」

「受けました。四月十九日、午後四時。説明席」

 娘は長椅子へ座った。

 帰らない。

 ミソラは東二へ行く。

 午前三時十六分。

 東二の高熱患者は、呼吸二十八。

 冷却。

 水分。

 抗菌薬は保留。

 薬歴が分からない。

「所属を聞けば、使ってる薬が分かるかも」

 職員。

「所属と薬歴は同じじゃない」

「同じ診療所なら」

「診療所名を聞く。所属は聞かない」

「それ、違う?」

「診療所は医療情報。旗団は違う」

「本人、意識がない」

「持ち物」

「首札だけ」

「服の縫い目」

「何」

「薬袋を隠す人がいる」

 職員と二人で、衣服の外側を触る。

 左袖の内側に、硬い物。

 紙片。

 薬名ではない。

 三桁の数字。

「何の番号」

「分からない」

「使えない」

「捨てない」

 医療鍵の袋へ入れる。

 分からない情報は、無価値ではない。

 今すぐ使えないだけだ。

 患者の手首に、三角札を結ぶ。

 ミソラの胸の奥に、鈍い痛みが走った。

 誓痕の反証。

 敵味方なしを使った代償は、色を消した時間だけでは終わらない。

 左脇腹から背中へ、焼けた針を通すような痛み。

 ミソラは壁へ手を付く。

「座る」

 サナ。

「次」

「座る」

「東三」

「榎木が見る」

「資格」

「あなたと同じ。十分で戻る」

「十八分」

「何」

「寝る時間。いつも十八分」

「今、十一分しかない」

「十一分寝る」

「半端」

「倒れるより、まし」

 ミソラは反論しない。

 処置室横の床へ座る。

 壁へ背を付ける。

「鎮痛」

 サナ。

「受ける」

「珍しい」

「痛い」

「正直」

「診療」

 薬を飲む。

 眠る前に、細い紙を一枚取る。

 端を折る。

 反対側を折る。

 小さな鳥。

 安定した患者の札へ付けるための印。

「カナメの分?」

 サナ。

「違う。ユキ。呼吸が落ち着いた」

「亡くなった人には」

「折らない」

「どうして」

「安定の印だから」

「冷たい」

「別の物を作るなら、家族と決める」

 ミソラは鳥をユキの札へ置く。

 死者へ、勝手に美しい形を与えない。

「十一分」

 サナが言う。

「起こして」

「十七分にする?」

「十一」

「頑固」

「時間」

 目を閉じる。

 暗闇は変わらない。

 眠る時の暗闇と、襲われる時の暗闇は、目を閉じた本人にしか区別できない。

 午前三時二十七分。

 サナが肩ではなく、床を二度叩いた。

 ミソラは目を開ける。

「十一分」

「受けた」

「東三」

「行く」

 立つ時、脇腹はまだ痛い。

 休んだから消えたのではない。

 痛いまま、次に何をするか選べる程度へ戻った。

 ミソラは三角札を一枚持つ。

 廊下の端で、紙の鳥が、誰の息にも飛ばされず止まっていた。