第255話 第六章「トリアージ」前編
四月十九日 午前一時十九分
病院で一番危険な嘘は、「順番に診ます」だった。
順番は、並んだ時にしか存在しない。
人は同じ速さで悪くならない。
時雨ミソラは、手術室前で三人の脈を同時に取っていた。
左手の人差し指と中指で、藍の橈骨動脈。
右膝で、腹部出血の侵入者の大腿を圧迫。
右手は、ユキの胸腔排液管を押さえている。
三人の所属は知らない。
三人の状態は、同じではない。
「藍、聞こえる」
「聞こえる」
「胸が速い。息苦しさ、さっきより」
「少し」
「少しは、歩ける少し、喋れる少し、死にそうな少し」
「喋れる」
「痛み」
「四」
「数字でいい?」
「今は」
「分かった。ユキ、返事」
「……いる」
「右胸の痛み」
「七」
「さっき六」
「上がった」
「分かった。腹の人、聞こえるなら床を一回」
指が床を擦る。
一回。
「名前はいらない。腹が痛いなら二回」
二回。
「吐き気」
一回。
「息苦しい」
二回。
ミソラは手袋の色を見ない。
暗闇では赤も青もない。
それでも右手は圧迫、左手は器具という役割だけは身体へ残っている。
「ミソラ」
サナが来る。
「西一床、意識低下。東十二床、痙攣。南階段で転倒二人。手術室の酸素残量、十七分」
「発電室」
「轟と佐渡。燃料はある。始動回路が切られてる」
「澪」
「搬入口の混乱」
「凱」
「家族説明」
「迅」
「藍の寝台を止めた。小型拡声器を追ってる」
「追わせないで」
「言った」
「止まる?」
「たぶん」
「たぶんを患者へ使わないで」
「迅の行動です」
「なお悪い」
サナが短く笑う。
笑っている場合ではない。
笑える時に笑わないと、次に笑える時刻を誰も保証しない。
「誰を手術室へ」
サナが訊く。
ミソラは答えない。
救命優先順位〈トリアージ〉は、命の値段を付けることではない。
今ある手と時間で、生存可能性を変えられる順を決めることだ。
そう説明すると、たいてい綺麗に聞こえる。
実際には、後にする人へ、あなたを後にしますと言う仕事だった。
「ユキを先」
「胸腔」
「管が詰まりかけ。今なら手術室を使わず処置できる。東十二床の痙攣はサナ。西一床は私が三分後」
「腹の人」
「圧迫継続。血圧が保ててる間に簡易縫合。藍はモニターなしで脈を取る。酸素はユキへ」
「藍の搬送要求」
「拒否」
「家族確認と放送が」
「偽物。本人は移動を望んでない」
「藍、望んでない?」
「今は、ここ」
藍が答える。
「聞いた」
ミソラは言う。
「西一床は」
サナ。
「三分後」
「三分で悪くなったら」
「私の判断」
「正しかったら」
「私の判断」
「どっちでも?」
「どっちでも」
サナは一度だけ息を吸い、東十二床へ走った。
午前一時二十二分。
東病棟の寝台がまた動く。
偽放送を信じたのではない。
信じていないが、待つのが怖くなった家族が押している。
待つ人間には、待つ理由が要る。
理由は、治療より安く見えて、医療者の時間を奪う。
奪うから説明しない、という選択もできる。
その選択で、家族は寝台を勝手に動かす。
説明は治療の外ではない。
「凱を呼んで」
「王命?」
職員。
「説明場所を守る人」
「同じでは」
「同じにしたら帰って」
ミソラの語尾が幼くなる。
疲労が限界へ近い。
「だめ。言い直す。凱へ、家族を止める命令ではなく、医療者が一人ずつ理由を言う時間を作ってと伝えて」
「何分」
「一人二分。質問一つ。追加は紙」
「短い」
「短い。今は」
伝令が走る。
ミソラはユキの胸へ耳を当てた。
右の呼吸音が弱い。
排液管の中で、血が動かない。
「ユキ。今から管を触る。痛い」
「やだ」
「やらないと、もっと息ができなくなる」
「どのくらい」
「今、返事が三語。十分後、一語になるかもしれない」
「死ぬ?」
「可能性はある」
「やって」
「サチさん、聞いた?」
母親の家族が答える。
「聞いた」
「本人が決めた。押さえるなら肩でなく手首。右側には触れない」
「私が?」
「嫌なら別の人」
「やる」
ミソラは管を指でしごく。
詰まった血塊が動く。
ユキの身体が弓なりになる。
叫び声。
廊下の向こうで、誰かが「敵を先にするな」と叫ぶ。
ミソラは管から手を離さない。
「ユキ、息」
吸う。
浅い。
「もう一回」
吸う。
少し深い。
「もう一回」
右胸が上がる。
排液袋へ、暗い液が落ちる。
「戻った」
サチの家族が泣く。
「まだ。戻り始めた」
ミソラは感動を許さない。
許さないのではない。
今、感動を終わりにすると、次の観察が止まる。
「呼吸二十六。三分後に再確認。酸素継続」
「ありがとう」
「後で」
「今言わせて」
ミソラは一瞬だけ止まる。
「聞いた」
それだけ答えた。
午前一時二十六分。
西一床へ向かう。
三分を越えている。
四分二十秒。
待たせた人の時間は、医療者の時計より長い。
西一床の呼び名は、カナメ。
六十代の女性。
塩路で車体の下敷きになり、骨盤を損傷している。
到着時から血圧が低い。
暗闇の中で、娘が手を握っている。
「カナメ、聞こえる」
返事がない。
「頸動脈」
サナが戻っている。
「触れない」
「呼吸」
「ない」
「時計」
「一時二十七分」
ミソラは胸骨圧迫を始めなかった。
娘が声を上げる。
「何してるの。早く」
「出血が大きい。今、圧迫を始めても、手術と輸血がない」
「手術室がある」
「ユキの処置。腹の人。東十二床。酸素十七分」
「敵を治してるんでしょう」
「腹部出血を治してる」
「母を先にして」
「今から入れ替えても、カナメの血は戻せない」
「やってみないと」
「やるために、他の三人の処置を止める」
「止めて」
娘は即答した。
当然だった。
誰だって、自分の大切な一人を、多数決へ出したくない。
ミソラは娘の手を取らない。
「止めない」
「どうして」
「私が順を決めた」
「間違えた」
「そうかもしれない」
「なら直して」
「今直すと、別の人を後にする」
「それが何」
「その人の家族も、同じことを言う」
「私はその人の家族じゃない」
「分かってる」
分かっているから、苦しい。
「胸を押して。何もしないで死なせないで」
ミソラはカナメの胸へ手を置く。
温度が残っている。
押せる。
動作としてはできる。
救命としては届かない。
「胸骨圧迫はしない。そばにいる。痛みが残っている可能性へ薬を使う」
「死ぬ人に薬?」
「死ぬまで患者」
「助けてよ」
「助けられない」
娘の手が、ミソラの頬を打った。
暗闇で、乾いた音。
ミソラは避けなかった。
「もう一回は、手を止める」
「最低」
「そう」
「医者じゃない」
「そう」
「先生じゃない」
「そう」
ミソラはカナメへ鎮痛薬を使う。
脈は戻らない。
死亡確認の時刻を言う。
午前一時三十二分。
最後に、本人が選んだ呼び名を一度だけ復唱する。
「カナメ」
それが祈りだった。
祈りは、順番を正しくしない。
ただ、待たせた人を無名にしない。
午前一時三十九分。
死亡確認の後にも、病院は止まらない。
止まらないことは残酷に見える。
止まれば優しいわけでもない。
ミソラは手袋を外した。
右の赤。
左の青。
色ではなく、汚染の少ない方から外す。
指が震えていた。
「十八分、寝て」
サナ。
「今は無理」
「いつなら」
「患者が減ったら」
「死んで減るのを待つ?」
ミソラはサナを見る。
見えない。
「言い方」
「今、やめる」
「私も」
「何を」
「自分を人数へ入れないこと」
「入れたら、誰を減らす」
「私の仕事」
「それが患者へ行く」
「分かってる」
「分かってない」
二人とも正しい部分がある。
正しい部分は、刃物みたいに使いやすい。
ミソラは壁へ背を預けた。
「六分」
「十八」
「九」
「十五」
「十二」
「決めた」
「誰が」
「私」
「患者の順番は」
「あなたと共有」
「なら十二分。横になる」
「受けた」
ミソラは床へ座った。
眠れない。
背中の担架痕が痛む。
頬は打たれた熱を持つ。
目を閉じると、十三歳の時に後回しへした少年の顔が出る。
目を開けても暗い。
「眠れてない」
タマキ。
「見えないのに分かる?」
「歯」
「何」
「噛んでる音」
ミソラは顎を緩めた。
「あなた、どうしてここにいる」
「札を作る」
「何の」
「色が見えないから」
タマキが床へ厚紙を広げている。
赤黄緑の既存札。
暗闇では同じ薄板。
「角を切る」
「角」
「一番急ぐ札は一つ。次は二つ。待てる人は三つ。触れば分かる」
「四つ目は」
「今は動かさない?」
「死亡ではない」
「違うの」
「救命処置の効果が極めて低い。苦痛を減らす。家族を呼ぶ。見捨てる札にしない」
「何て呼ぶ」
「呼び名は作らない」
「角四つ」
「それでいい」
タマキは鋏を入れる。
ぱち。
一角。
ぱち、ぱち。
二角。
三角は、元の四隅のうち三つへ切れ込みを入れる。
「形を変えると、裏表が分からない人もいる」
八番室の少年が言った。
「どうする」
タマキ。
「穴」
「穴あけ、ない」
「点滴針」
「医療器具を工作に使わない」
サナ。
「じゃあ、糸」
「糸は引っかかる」
「折り目」
少年は紙橋を指で折る。
「角だけじゃなく、真ん中を一回、二回、三回」
「濡れたら戻る」
「蝋」
「火がない」
「薬瓶の封蝋」
サナが小さな瓶を出す。
「それなら感染区画でも拭ける」
タマキと少年とサナが、触覚札を作る。
ミソラが作ったのではない。
後に誰かが「時雨式」と呼んだら、三人の手が消える。
「記録して」
ミソラ。
「何を」
七瀬。
「作った人」
「環玉樹、八番室の少年、阿久津サナ」
「少年の名は」
「非公開」
「本人に聞く」
少年が柵を二回叩いた。
「録音停止?」
「違う。薬箱じゃない。今は、名前を聞かない」
「新しい合図を増やさないで」
「じゃあ声で」
「記録した。名前は聞かない」
十二分が過ぎる。
ミソラは立つ。
震えは少し減っていた。
痛みは残っている。
「札を付ける前に、本人へ説明」
「一人ずつ?」
タマキ。
「意識があれば」
「急ぐ人ほど説明に時間がない」
「短くする。『一角、今。二角、次。三角、観察。四角、苦痛を減らす』」
「四角の人が嫌だと言ったら」
「聞く」
「変える?」
「医学的な可能性は変わらない。処置の希望は変えられる」
「胸を押してほしいって」
ミソラはカナメの娘の声を思い出す。
「効果と害を言う。それでも望む時は、できる範囲をもう一度考える」
「何でも選べるわけじゃない」
「そう」
「本人の選択って、便利じゃないね」
「便利にすると、責任を患者へ押す」
触覚札が配られる。
一角。
二角。
三角。
四角。
色は残した。
明かりが戻った時、既存手順と照合できるように。
暗闇のために作った仕組みが、明るくなった瞬間に過去を消さないように。
午前二時十一分。
東十二床の痙攣が止まる。
腹部出血の侵入者は簡易縫合へ入る。
ユキの呼吸は二十。
藍の脈は、まだ速い。
別の二人が悪くなる。
南階段の転倒者、一角。
西七床、二角から一角へ。
札は結論ではない。
状態が変われば付け替える。
付け替えた時刻も残す。
「また一角が増えた」
職員が言う。
「一角は人数制限じゃない」
「手は増えない」
「だから、誰が何分離れるか言う」
ミソラは割り振る。
「サナ、東十二床から西七床。東十二床は職員三、呼吸と側臥位。私は南階段。ユキは三分ごとに家族が呼吸数、異常なら柵三回」
「家族に観察をさせる?」
「治療判断はさせない。回数だけ」
「間違えたら」
「サナが再確認」
「サナが西七床」
「だから伝令」
「誰」
「凱」
「王を伝令に」
「膝がある。走れない」
「なら遅い」
「遅い人には、遅くても切れない仕事」
凱は、家族待合の中央で座っていた。
左膝の装具へ冷却布。
周囲に質問札。
「凱」
「症状」
「あなたじゃない。仕事」
「言え」
「三分ごとにユキの呼吸数をサナへ。途中で西七床に一角札が移ったことも伝える。家族へ理由を説明する時間を守る」
「受ける。期限」
「二時四十分まで。交代を置く」
「俺が続けられる」
「膝」
「座る」
「声も疲れる」
「続けられる」
「交代を置く」
凱が黙る。
「命令か」
「医療上の条件」
「誰が交代」
「榎木」
顔を照らせと迫った白冠の使者が、驚いた声を出す。
「俺?」
「肩は待てる。声は出る。呼吸数を数字で伝えるだけ。判断しない」
「敵の患者も?」
「所属を言わない」
「白冠の俺が」
「肩を打った榎木が」
「呼び方が」
「病院で選んだ名」
榎木が黙る。
凱は彼を見る。
「俺が頼む」
「王命なら」
「王命ではない」
「なら断れる」
「断れる」
「断ったら」
「別を探す」
「時間がかかる」
「そうだ」
榎木は肩を押さえた。
「……二時四十分から、二十分」
「受けた」
「俺の旗は」
「聞かない」
「知ってるだろ」
「知っていても、今の仕事に使わない」
凱は質問札を一枚渡した。
「あなたは、俺の代わりではない。呼吸数の伝令だ」
「王の代わりじゃないなら安いな」
「賃金は病院へ請求しろ」
「金を取るのか」
「労働だ」
小麦がいれば、先に言っただろう。
凱は少しだけ笑った。
午前二時十八分。
ユキの家族が、呼吸を数え間違えた。
「十八」
凱が伝える。
三十秒後。
「二十六」
サナが西七床から返す。
「変化が大きい。再確認」
凱は家族へ戻る。
「もう一度」
「さっき数えた」
「二十六だった」
「そんなに増えてない」
「数え方」
「胸が上がったら一」
「片道だけ?」
「何」
家族は、胸が上がる時と下がる時を別々に数えていた。
十八ではない。
九。
「少ない」
凱。
「私が間違えた?」
「数え方を説明しなかった」
「誰が」
「ミソラ」
「医者の間違い」
「俺も確認しなかった」
「王が?」
「伝令が」
「じゃあ、どうする」
凱はユキの胸へ手を置かない。
家族へ言う。
「胸が上がって、下がる。そこで一。十五秒数えて、四倍」
「四倍、できない」
「俺が時間を測る。あなたは回数だけ」
「間違えたら」
「サナが再確認する」
「私、役に立たない?」
「一人で治療判断をしない仕事だ」
「それ、役に立つ?」
「今、サナは西七床から動けない。あなたの数字がなければ、変化を知るのが三分遅れる」
「三分」
「長い」
家族はユキの胸元へ耳を近づける。
凱が十五秒を数える。
「一」
家族。
「二」
間が空く。
「三」
十五秒。
「三。四倍で十二」
凱はサナへ伝える。
「ユキ、呼吸十二。家族再計測。前回十八は往復を二回計上。二十六は別の寝台の音を含んだ可能性」
「受けた。ミソラへ。三分待たず再診」
凱はミソラを呼ぶ。
ミソラは南階段から戻る途中だった。
「ユキ、十二」
「呼吸の深さ」
家族が答える。
「浅い。時々止まる」
「どれくらい」
「二つ数えるくらい」
「秒で」
「分からない」
「受けた」
ミソラはユキの胸へ触る前に言う。
「触る。胸、首」
本人の反応はない。
家族が言う。
「触って」
「家族の同意は、本人の代わりにならない。緊急。生命維持に必要な範囲で触る」
「同じじゃないの」
「違う。今は本人へ確認できないから、私が理由を残す」
胸郭の動き。
頸の脈。
皮膚の温度。
呼吸は十。
「気道、落ちてる。顎を上げる。酸素流量、一上げる」
「一って」
「一リットル」
「もっと上げれば」
「急に上げない」
「苦しいのに」
「ユキの肺は、強い流れで悪くなる可能性」
「分からないことばかり」
「そう」
「それで決める?」
「決める」
「怖い」
「私も」
顎を上げる。
気道が開く。
ユキが一度、大きく息を吸う。
家族が泣く。
「助かった?」
「今、息が入った」
「助かったとは」
「言わない」
「どうして言ってくれないの」
「次の呼吸は、まだ来てない」
待つ。
一秒。
二秒。
次の呼吸。
また次。
ミソラは紙の鳥を折らない。
安定していない。
「呼吸を数える仕事、続ける?」
家族へ訊く。
「怖い」
「やめられる」
「やめたら」
「別の人を探す」
「続ける」
「期限」
「榎木へ交代するまで」
「受けた」
家族は、今度は往復を一つに数える。
凱が時刻を測る。
ミソラは次の寝台へ移る。
家族へ治療判断を押しつけない。
家族の目と声を、ただの見舞いにも戻さない。
役割は小さい。
小さいから、誰か一人の命を背負わせずに済む。