第254話 第五章「七瀬の見えない記録」後編

「では、一問ずつ」

 七瀬が言う。

「今の命令を出したのは誰」

「凱」

 家族。

「凱本人が、今ここで認める?」

「認めない」

 凱。

「次。移動する本人は、聞いて選んだ?」

「聞いていない」

「次。医療者は移動可と言った?」

「知らない」

「次。搬送路は確保された?」

「知らない」

「なら、動かない」

 七瀬。

「遅い」

 女。

「遅いです」

 凱。

「急いでいる時に」

「一問ずつなら、同時に叫ぶより速い」

 タマキ。

「それでも間に合わなかったら」

 凱は、保証しなかった。

「間に合わないことがある」

「王なら、言い切って」

「言い切れば、間に合うわけではない」

「安心はする」

「安心させる嘘は、動かす力が強い」

 女が凱へ近づく。

「じゃあ、あなたは何のためにいるの」

 凱は左膝を伸ばしたまま、立ち上がる。

「私の声で動かないようにするため」

「それだけ?」

「今夜は」

 女は鼻で笑った。

「役に立たない王」

「そうだ」

「王じゃないって言ったでしょう」

「では、役に立たない凱だ」

「少しだけ腹が立たない」

「評価として受ける」

 天井の別の場所から、今度は澪の声が響いた。

『一番車、全患者を南門へ。命令変更。直ちに』

 澪本人が、廊下の角から現れる。

「偽物」

「どうして」

 隊員。

「私は《全患者》と言わない」

「声は」

「似てる」

「命令変更の言い方も」

「昔の私なら言う」

 澪は低い笛を一度鳴らす。

「今の変更は無効。患者ごとに確認」

「本物の証拠」

 家族の男。

「ない」

「では」

「私だから従うな。近くの医療者、搬送担当、本人へ一問ずつ」

「隊長の意味がない」

「意味を減らしてる」

「どうして」

「奪われるから」

 澪は右耳を壁から離し、左を放送器へ向ける。

 偽声は高い帯域が少し強い。

 澪には一部が聞こえない。

 聞こえないからこそ、声紋の似ている部分に騙されない。

 床を通る振動は、実際の話者の位置と合わない。

「携帯器。西側。床振動、二点」

 澪。

「追う?」

 迅。

「追わない。患者確認を先」

「みんな、追わないな」

「不満?」

「少し」

「敵は、追わせたい」

「もっと不満だ」

 タマキが三つの豆袋を拾う。

「一問ずつの名前、何にする」

「名前を付けると、それだけ覚えて終わる」

 七瀬。

「じゃあ、毎回説明する?」

「最初は」

「長い」

「長いまま始める」

「名言に向かない」

 迅。

「今夜は、名言で患者を動かさない」

 七瀬は切断された放送線、家族待合の証言、凱と澪の否定を別々の巻へ記録した。

 偽物の声を、偽物という一枚の札にまとめない。

 声が似ていた。

 内容が昔の本人らしかった。

 病院の放送制度が、一方向の命令を前提にしていた。

 受け手に確認方法がなかった。

 侵入者の技術だけでなく、信じやすい道が元から敷かれていた。

 その道を壊すのではなく、一問ずつ横断歩道を置く。

 遅い。

 だが、誰か一人の声だけで全員が走るよりは、戻れる。

 午前一時十八分。

 切ったはずの放送器とは別の場所から、声が流れた。

 携帯式の小型拡声器。

『手術室前、藍。家族確認のため移動』

 病院内だけの呼び名が使われた。

 見えない記録の声を、誰かが聞いていた。

 藍の寝台の車輪が、暗闇で一つ鳴った。

 かちり。