第253話 第五章「七瀬の見えない記録」前編

四月十九日 午前零時十一分

 見えない記録は、見えないから公平なのではない。

 声の大きい人間は大きく残る。

 機械の近くにいた人間は明瞭に残る。

 息を潜めた人間は、いなかったように残る。

 七瀬は録音機を病院の中央卓へ置かなかった。

 三台に分けた。

 一台は東病棟。

 一台は手術室前。

 一台は家族待合。

 中央へ集めれば管理は楽になる。

 奪う側にも楽になる。

「捕まえた二人の顔を照らせ」

 白冠の救護使者が言った。

「照らさない」

「患者じゃない。侵入者だ」

「一人は腹部出血で処置中。もう一人も肋骨損傷の疑い」

「それで患者になるのか」

「病院では」

「犯罪が消える?」

「消えない」

「なら顔を記録しろ」

「医療中の顔を公開資料へしない」

「公開しなくていい。こちらだけに見せろ」

「こちらって誰」

 タマキが訊いた。

 使者が振り向く。

「白冠だ」

「何人」

「組織のことだ」

「顔を見る人は何人」

「必要な者」

「必要って誰が決める」

「子どもは黙れ」

「今、質問の担当」

 タマキは胸へ小さな板を下げていた。

 《質問》と書いてある。

 裏には《休み》

 自分で作った札だった。

「火群。おまえは記録者だろう」

「そう」

「敵の顔を残すのが仕事だ」

「何を残すか決めるのも仕事」

「都合がいい」

「都合を隠すよりは」

 七瀬の敬語が増えかけた。

 怒っている。

 左肩の痛みも強い。

 痛みと怒りを同じ声にすると、どちらも相手へ使ってしまう。

 彼女は三脚の高さを一段下げた。

「条件を揃えます」

「何の」

「捕らえた二人だけ照らすなら、病院にいる全員へ、医療中の顔を同じ基準で照らす必要がある」

「患者は別だ」

「誰が患者かを、あなたが決めました」

「侵入して人を傷つけた」

「その行為を記録します。顔は行為ではない」

「顔で探せる」

「顔で、探されたくない患者も探せる」

「敵を守るのか」

「患者を守ります。侵入者の行為も守らず残します」

「言葉遊びだ」

「区別です」

 ミソラが処置室から出てきた。

 右手の赤い手袋へ血。

 左の青い手袋へ薬液。

「白冠の人」

「名がある」

「病院で使う名は」

「榎木」

「榎木。東六床の家族が、あなたの声で血圧を上げてる。話を続けるなら外」

「俺を追い出すのか」

「患者を守る。所属は聞いてない」

「俺も怪我をしている」

「症状」

「肩を打った」

「動く?」

「動く」

「指先の痺れ」

「ない」

「呼吸痛」

「ない」

「待って。順番は後」

「敵も同じ順番か」

「腹の中で出血している人が先」

「そいつが敵でも」

「腹の中は旗を見ない」

 ミソラは榎木を説得しなかった。

 待たせた。

 待たせることへ、名前を付けた。

「七瀬。顔は撮らないでいい。手順は残して」

「誰が決めた」

「医療中の撮影制限は私。公開は本人とあなた。犯罪記録は別の担当を置く」

「別の担当がいない」

「作る」

「今から?」

「停電も今からだった」

 七瀬は録音機の横へ、薄い木片を並べた。

 一本目。

 二本目。

 三本目。

「見えない記録の手順を読み上げる」

「誰が名付けたの」

 タマキ。

「私」

「格好いい名前にすると、ずっと使うと思う人がいる」

「仮称。四月十九日、外環共同病院の停電中だけ」

「期限、入った」

「満足?」

「少し」

 七瀬は録音を始める。

「一。時刻を言う」

 木片を一本、机へ置く。

「二。触れた器具を言う」

 二本目。

「三。患者が選んだ呼び名、または症状呼称を使う。所属名は使わない」

 三本目。

「四。録音停止は柵二回。停止中に起きたことは、再開後、本人の許可がある範囲だけ要約する」

 四本目。

「五。聞き取れなかった音を推測で埋めない」

 五本目。

「六。器具の受渡しは、渡した人と受けた人が復唱する」

 六本目。

「七。呼び名と薬歴鍵は別の箱」

 七本目。

 迅が廊下の壁にもたれている。

「七を狙った?」

「偶然」

「嘘」

「証拠は」

「性格」

「記録に不採用」

 佐渡が絶縁布を折りながら言った。

「停止中の音を機械が拾っていた場合は」

「記録媒体を分けて封印」

「誰が開けられる」

「本人と医療責任者。犯罪審理へ必要なら、公開範囲をもう一度聞く」

「本人が意識不明なら」

「開けない」

「それで他の患者が危険でも」

 七瀬は止まった。

「その場合の答えは、まだない」

「決めない?」

「今、勝手に決めない」

「逃げですね」

「保留」

「便利な言葉」

「便利だから制度に要る」

 迅が口を挟む。

「名言みたいに言うな」

「あなた、今夜それ何回目」

「数えてない」

「タマキ」

「四回」

「記録しなくていい」

「人が覚える」

 砂は診察室の壁際に座っていた。

 拘束布は両手ではなく、腰の輪へ通されている。

 呼吸を妨げない。

 逃げれば長さが変わる。

「記録は、止められる?」

 砂。

「止められる」

「停止したことは残る」

「残る」

「止めた理由は」

「言わなくていい」

「疑われる」

「疑う人はいる」

「守れない」

「疑われないことまでは守れない」

「弱い」

「記録は武器だから、弱くしてる」

「武器は弱いと、持ってる人が死ぬ」

「強いと、向けられた人が死ぬ」

 砂は首札を裏返した。

「どっちが正しい」

「今は決めない」

「また保留」

「便利だから」

 今度は迅が何も言わなかった。

 午前零時四十七分。

 見えない記録が動き始めた。

「東二床、呼び名ユキ。酸素袋、サナからミソラ」

「受けた。流量、毎分四」

「西一床、呼び名なし。右足固定具、職員一から轟」

「受けた。重さ三・二」

「手術室、呼び名藍。輸液瓶、ミソラから職員二」

「受けた。残量百二十」

 藍。

 七瀬はその一音だけ、別の箱へ入れるように意識した。

 患者が病院内だけで選んだ呼び名。

 誰かに追われていることは、まだ本人の言葉になっていない。

 呼び名を記録することと、呼び名から人を探せるようにすることは違う。

 違うようにする作業が必要だった。

 午前一時三分。

 天井の放送器が、ざり、と鳴った。

 全員の手が止まる。

 女の声。

『発電室で燃料漏れ。東病棟、南病棟の患者は、直ちに北搬入口へ移動してください』

 澪が顔を上げる。

「私の声」

 高音域が削れた録音。

 短い命令。

 復唱を求める間。

 似ている。

『移動順、赤札、黄札、緑札。白衣車両四号へ。復唱』

「四号車はない」

 タマキ。

「偽放送」

 澪が太い笛へ手をかける。

 ミソラが止めた。

「待って。患者がもう動いてる」

 病棟の奥で寝台が鳴る。

 一台。

 二台。

 放送の内容が偽でも、聞いた人の移動は本物だった。

 偽命令を否定するだけでは止まらない。

 七瀬は録音機を持ち上げた。

 左肩が刺す。

 タマキが機械の反対側を持つ。

「委任」

「頼む」

「期限」

「この放送が止まるまで」

「返却場所」

「中央卓」

「受けた」

 見えない記録は、動き始めた病棟を追った。

 放送器から、澪に似た声がもう一度言う。

『赤札を先に』

 暗闇では、赤も黄も緑も見えない。

 それでも、色の名だけが人を動かした。

 最初に動いたのは、家族だった。

 患者ではない。

 職員でもない。

 聞こえた言葉の中から、自分ができる仕事だけを拾った。

「赤札だ。うちの母は赤だった」

「北へ運ぶぞ」

「四号車は外にあるんだろ」

「さっき戻ったんじゃないのか」

 誰かが寝台の柵を掴む。

 車輪止めが鳴る。

 かち。

 止め具を外す音。

「待って」

 ミソラの声は届かない。

 病棟全体が、放送器の一つの声へ向いている。

 見えない場所では、大きい声が方向になる。

 方向になる声は、内容が正しいかより先に人を動かす。

 七瀬は三脚を倒した。

 故意に。

 がしゃん。

 金属音が廊下を切る。

「今の音へ寄らないでください」

 怒ると敬語が増える。

「火群七瀬です。四号車は午後六時二十五分に廃洗濯路外で発見。現在使用不能。放送は偽です」

「証拠は」

 家族の誰か。

「車両を確認した迅と轟。録音時刻。澪本人」

「澪の声に聞こえた」

「似せています」

「本人だって間違える」

「そう」

「じゃあ、どっちだ」

「動かす前に、今いる職員へ聞いて」

「その職員が偽物かもしれない」

 正しい疑いだった。

 七瀬は答えを急がない。

「一つの確認で決めないでください」

「何個ならいい」

「三つ」

「なぜ三つ」

「今、三つ用意できるから」

「規則じゃないのか」

「今夜の暫定です」

 タマキが録音機を支えながら、指を三本立てた。

 見えない。

「一、近くの医療者が患者の状態を言う。二、搬送担当が経路を言う。三、患者か家族が行先を聞いたと確認する」

「患者が話せない時は」

「本人が先に決めた人。いなければ、医療上の緊急だけ動かす」

「それで間に合わなかったら」

「間に合わなかった理由も残す」

「残せば死んでいいのか」

「よくない」

「じゃあ保証しろ」

 その言葉は、凱へ向いた。

 凱は座ったまま答える。

「保証しない。今の三つを確認する時間を、俺が作る」

「またそれだけか」

「それ以上を言えば、医師の判断を盗む」

「王が盗むなよ」

「王だった時に盗んだ。だから今はしない」

 放送器が、再びざり、と鳴る。

『北搬入口、受入れ確認済み。遅延は患者の生命を危険にします』

 今度は凱の声だった。

 深いバリトン。

 主語と固有名が明瞭。

『俺が移動を命じる。責任は俺が負う』

 待合の空気が変わる。

 凱の本物の声より、偽物の方が白王らしかった。

「俺は命じていない」

 凱が言う。

「同じ声だ」

「同じではない」

「どう違う」

「今の俺は、患者の移動を医師より先に決めない」

「声の話をしてる」

「内容で確認しろ」

「内容を変えた偽物なら」

「その時は、俺も三つで確認される」

 凱は胸の割れた鐘へ触れなかった。

 命令前の癖を、偽声が利用したかもしれないからだ。

「俺の声を証明にするな」

 それは、王だった少年が言うには、ずいぶん遅い言葉だった。

 遅いから無価値になるわけではない。

 遅い言葉には、遅れた分だけ仕事が残る。

 佐渡が放送器の下へ椅子を置いた。

「配線を切ります」

「全部?」

 七瀬。

「東病棟だけ」

「本物の緊急放送も消える」

「偽物が使ってます」

「切った後の代替は」

「人が走る」

「誰が」

「……今から決める」

「切る前に」

「でも、放送で患者が動く」

「だから、先に伝令を置く」

「遅い」

「知ってる」

「反対するんですか」

「切断に反対じゃない。切断だけに反対」

 佐渡の左掌が絶縁布を強く握った。

 植皮した部分は、湿気で痺れる。

「確認している間に、また偽放送が来ます」

「来る」

「あなたは、記録を優先して」

「患者を止める」

「どっちです」

「両方できないなら、患者」

「記録者なのに」

「記録者だから、記録を捨てる時刻も残す」

 七瀬は録音機をタマキへ完全に渡した。

「午前一時八分。火群七瀬、記録機の保持を環玉樹へ委任。理由、移動寝台の停止」

「受けた。返却は中央卓」

「肩」

 迅。

「使わない」

 七瀬は三脚だけを持つ。

 棒術の長さ。

 先端を寝台の車輪へ差し込む。

 家族が外そうとしていた止め具を、逆に押し込む。

「どいてくれ」

「患者へ聞いた?」

「母だ」

「あなたが?」

「違う、寝ているのが」

「お母さんは移動したいと言った?」

「意識がない」

「医療者は」

「まだ来ない」

「なら、今は動かさない」

「おまえに決める権利があるのか」

「ない。だから、放送にも決めさせない」

 男が三脚を掴む。

 左肩に力が掛かる。

 痛みが目の奥へ突き抜ける。

 七瀬は手を離した。

 三脚を取られる。

 負けた。

 機材を守らなかったのではない。

 肩を壊さない方を選んだ。

 男が車輪止めへ三脚を差し込む。

 迅が間へ入る。

「触るな」

 男が言う。

 迅は止まった。

「分かった。三脚を置いて」

「母を運ぶ」

「あなたには触らない。車輪も今は触らない。質問する」

「時間がない」

「母親の呼吸、何回」

「知らない」

「胸は左右同じに動く?」

「見えない」

「手を当てていい?」

 男は黙る。

「俺じゃなくて、あなたが」

「分からない」

「じゃあサナを待つ」

「待って死んだら」

「俺のせいにもなる」

「保証しろ」

「できない」

「何ならできる」

「サナが来るまで、この寝台を誰にも動かさせない」

 男の手から三脚が少し下がる。

「敵にも?」

「敵かどうか知らないやつにも」

「俺にも?」

「あなたにも」

 迅は男を説得しない。

 寝台の横へ座った。

 出口を塞がない位置。

 右手を床へつかない。

 男も三脚を持ったまま座る。

 母親の呼吸音を数え始める。

「一分で十五」

「次、左右」

「右が小さい」

「サナに言う」

「名前は」

「公開していい呼び名」

「サチ」

「サチ。右の胸が小さい。呼吸十五」

 タマキが離れた録音機へ読み上げた。

 午前一時十一分。

 佐渡が放送配線を切る準備を終える。

 伝令は六人。

 一人目、澪の帰路班。

 二人目、病院職員。

 三人目、タマキが選んだ家族代表。

 四人目、砂。

「どうして私」

 砂。

「声を聞き分ける」

 タマキ。

「逃げる」

「拘束布は轟が持つ」

「伝令は信用が要る」

「信用してない。確認できる仕事にした」

「違いは」

「一人で決められない」

 砂は少し考えた。

「どこまで」

「診察室と東病棟の間。伝える文は一つ。『放送停止。移動は近くの医療者と搬送担当へ確認』」

「名前は」

「使わない」

「私の」

「使わない」

「誰が言ったか」

「拘束中の伝令。聞く側にはそれも言う」

「信用されない」

「だから一人にしない」

 砂は拘束布の端を持った。

「命令ではない?」

「頼む」

「拒否したら」

「別の人を探す」

「時間がかかる」

「かかる」

「……行く」

 佐渡が配線を切った。

 ぱちん。

 放送器の雑音が消える。

 病院から、大きな声が一つなくなった。

 代わりに六人が、廊下を別々の速度で走る。

 同じ文を、同じ声ではなく運ぶ。

 伝令が散った後、七瀬は三台の録音機の位置を確かめた。

 東病棟。

 手術室前。

 家族待合。

 東病棟の一台だけ、壁から二十センチ離れている。

「動かした?」

 タマキ。

「私は動かしてない」

「誰かが蹴った」

「向きは」

「分からない」

 暗闇で録音機の取っ手を触る。

 温かい。

 誰かが握ったばかり。

「録音、止まってる?」

「回ってる」

「じゃあ、触った音がある」

「巻き戻さない」

「どうして」

「今ここで再生すると、患者の声を廊下へ流す」

「後で」

「本人範囲を確認してから」

「犯人の手がかり」

「患者の声も入ってる」

「犯人と患者、同じ巻?」

「だから分けるべきだった」

「失敗?」

「失敗」

 七瀬は簡単に言った。

 記録者が失敗を認めると、記録全体が弱く見える。

 だから、多くの記録者は失敗を編集する。

 七瀬は編集しなかった。

「午前一時十三分。東病棟録音機、位置移動を確認。移動者不明。録音継続。内容は未確認」

 別の小型記録器へ、状況だけを入れる。

「これも盗まれたら」

「また記録する」

「全部盗まれたら」

「人が覚える」

「人が嘘をついたら」

「食い違いを残す」

「最後に一つの本当を決めない?」

「決める必要がある時に、根拠を並べる」

「世界、遅いね」

「速い世界で、名前を盗まれた」

 タマキは録音機の下へ豆袋を一つ置いた。

「動かしたら鳴る」

「録音へ入る」

「犯人の音」

「患者がぶつかっても鳴る」

「じゃあ、二つ」

 左右へ置く。

「方向が分かる」

「患者が二つ踏んだら」

「歩いてる」

「犯人も歩く」

「難しい」

「記録は、罠じゃない」

「でも、守る」

「人が避けられるようにする」

 七瀬は豆袋の位置を、触覚札で示した。

 録音機の前に一本線。

 左右に丸い袋。

 目が見えなくても、杖が先に触れる。

「これなら、動かした人も気づく」

 タマキ。

「気づいていい」

「逃げる」

「記録されない場所を選べるようにする」

「侵入者も?」

「録音を避ける行為は、侵入行為の証拠になるかもしれない。でも、録音を避けたこと自体を罪にしない」

「長い」

「短くすると、録られたくない人が犯人になる」

 家族待合から、女の嗚咽が聞こえた。

 低い。

 録音機の近く。

「止めて」

 声。

 七瀬は走らない。

 歩いて、声の方向へ近づく。

「どの録音」

「全部」

「病院全体の記録を止める権限は、私にはない。あなたの声が入る範囲は止められる」

「今、泣いてるのを残さないで」

「受けた」

 家族待合の録音機を止める。

 時刻札を置く。

「再開は」

「私がいなくなってから」

「何分後」

「分からない」

「では、再開前に周囲へ確認する」

「それまで偽放送が来たら」

「別の二台と伝令が残る」

「私のせいで証拠がなくなる?」

「あなたが泣いたことを記録しない選択と、偽放送を記録する仕事は別」

「同じ機械なのに」

「機械は同じ。使う範囲を分ける」

 女は暗闇で鼻を啜る。

「面倒ね」

「そうです」

「あなた、迷惑そう」

「左肩が痛いだけ」

「それを先に言って」

「記録に関係ない」

「人には関係ある」

 七瀬は少し黙った。

「左肩が痛いです。でも、止める判断は変わりません」

「なら、座って」

 女が長椅子の端を叩く。

 七瀬は録音機を止めたまま、三十秒だけ座った。

 暗闇では顔が見えない。

 女の名も聞かない。

 泣き声は記録されない。

 代わりに、録音停止の時刻と、再開前確認が必要だという札が、機械の上へ残る。

「三十秒」

 七瀬が立つ。

「短い」

 女。

「仕事」

「正直を仕事にすると嫌われるわよ」

「もう」

「誰に」

「多い」

 どこかで聞いた会話だった。

 同じ言葉が、別の人の口から出る。

 録音していないから、証明はできない。

 七瀬はそれでよかった。

 すべてを証明できる世界は、すべてを撮られる世界とよく似ている。

 午前一時十四分。

 七瀬は中央卓へ戻った。

 タマキから録音機を受け取る。

「返却」

「受けた」

「壊してない」

「確認する」

「信用して」

「確認は信用の反対じゃない」

「佐渡みたい」

「聞かれたくない」

 録音を巻き戻さず、別の巻へ交換する。

 偽放送の声を、すぐ再生しない。

 患者の前で繰り返せば、もう一度命令になる。

 七瀬は放送器の線だけを撮る。

 切断面。

 絶縁布。

 佐渡の左掌。

 切った時刻を書いた札。

 顔は撮らない。

「火群」

 天井の放送器ではない。

 壁の向こう。

 掠れた声。

「まだ録ってる」

「今は撮ってる」

「同じ」

「違う」

「何が」

「あなたが、今どこにいるかを撮れない」

「困る?」

「困る」

「なら灯りをつける」

「あなたが?」

「みんなが」

「発電機を壊したのは」

「壊したと決めた?」

「停電に合わせて入った」

「停電は前から壊れていた」

「だから使った?」

「病院も使っていた」

「何を」

「暗い所に、名前を置く」

 声が遠ざかる。

 七瀬は追わない。

「あなたの呼び名は」

 返事が遅れて来る。

「今は、いらない」

「それを記録していい?」

「もうした」

「質問に答えて」

「答えは、持っていく」

 床の向こうで、金属札が一度だけ鳴った。

 かち。

 午前一時十六分。

 切断された放送器の下で、凱は自分の声を聞いていた。

 録音ではない。

 家族待合にいた三人が、さっきの偽放送を復唱している。

《王環の安全を保証する。東病棟の全員は中央へ》

「違う」

 凱。

「声は同じだった」

 男。

「内容が違う」

「あなたなら言いそうだった」

 凱は答えなかった。

 それが一番痛いところだった。

 数か月前の凱なら、言ったかもしれない。

 安全を保証する。

 全員、中央へ。

 自分が退かないことで、他人の行先まで一つにする。

 偽物は、現在の凱より、皆が覚えている凱に似ていた。

「どうして偽物だと分かる」

 女が訊く。

「私が言っていない」

「私たちは聞いた」

「だから、声だけでは足りない」

「王の声でも?」

「特に、王の声は」

「自分を信用しないの」

「私一人を信用して全員が動く仕組みを、信用しない」

「では、何を聞けばいい」

 凱は、答えを持っていなかった。

 合言葉を決めるのは簡単だ。

 王しか知らない言葉。

 空白の旗だけが使える符丁。

 だが、その言葉を持つ者が命令権を持つ。

 奪われた時、また同じことが起きる。

 タマキが床へ豆袋を三つ置いた。

「送り主」

 一つ。

「受け取る人」

 二つ。

「何のため」

 三つ。

「何」

 男。

「三つ答えられたら動く」

「偽物も答える」

「一人で答えたら駄目」

「誰が」

「送り主は自分の範囲。受け取る人は、自分が受け取るか。何のためかは、近くの仕事の人」

「仕事の人?」

「患者を動かすなら、医療と搬送」

「二人いる」

「だから三つじゃなくて四つ?」

「増やすな」

 迅が言う。

「増えた方が安全」

 真琴。

「覚えられないと危険」

 タマキ。