第252話 第四章「暗闇の足音」後編
「連れ出す患者がいる」
七瀬。
「誰」
タマキ。
誰も答えられなかった。
病院には、名前を出せない患者が多い。
それは守るためだった。
同じ暗がりを、敵も使っている。
砂が床へ座ったまま言う。
「名前がないと、守れない?」
「守れる」
迅。
「誰を」
「今、目の前にいるやつ」
「いなくなったら」
「探す」
「名前なしで」
「足跡、怪我、薬、声。残るもの全部」
「所属は」
「いらない」
「名前も」
「本人がいらないなら」
砂は首札を裏返した。
「それで、捕まえたまま」
「侵入した行為は消えない」
「患者なら」
「治療する。侵入も記録する」
「二つ」
「もっとある」
砂は黙った。
その沈黙の横で、倒れた侵入者の腹から、温い血が床へ広がった。
ミソラが来る。
「圧迫。三分以内に処置室」
「敵側」
職員が言いかける。
「腹部出血」
ミソラは言い直した。
触覚カードの角を指で折る。
一つ。
二つ。
三つ。
色は見えない。
角の数だけが、暗闇の中で治療の順番を持った。
午後十時十九分。
侵入者を処置室へ運んだ後も、東病棟の廊下は道にならなかった。
寝台、十七。
二台は病室へ戻した。
残る十七台のうち、酸素管がつながっているのは六。
点滴が外せないのは四。
自分で移動を選べる患者は三。
説明を理解しても、返事ができない患者が二。
数字を足しても、十七にはならない。
一人の患者が、いくつもの条件を持つからだ。
「右壁の五台を戻せば、中央が開く」
凱が言う。
「戻す先」
真琴。
「東二、東三」
「東三は酸素口が死んでいます」
「では東四」
「隔離希望」
「誰が」
「本人」
凱は黙った。
王だった頃なら、道を作れと命じたかもしれない。
道を塞ぐ人間を、どこかへ動かしたかもしれない。
今は、寝台にいる人間の希望が、一本の廊下より重い。
「中央を全部開けない」
凱。
「幅」
轟が暗闇の向こうから答える。
「七十八センチあれば、標準寝台は通る。酸素架台込みなら九十二」
「九十二を一本」
「曲がり角で百六」
「曲がり角だけ、二台を斜め」
「車輪を止めてからな」
「受けた」
迅が寝台の下へ手を入れる。
「触る」
患者へ先に言う。
「何を」
「車輪止め。寝台は動かさない」
「嘘だったら」
「怒鳴っていい」
「誰を」
「俺を」
「名前」
「迅」
「名字」
「今いる?」
「あとで殴る時」
「竜胆」
「知ってるじゃないか」
患者が鼻で笑う。
「触って」
「受けた」
車輪止めを一つずつ確認する。
金属。
ゴム。
欠け。
湿り。
目で見れば一秒のことを、指で確かめると四秒かかる。
四秒の間に、廊下の天井から何かが落ちた。
ひゅん。
細い風切り音。
「下がれ!」
迅は叫ばなかった。
叫べば、寝台の患者が一斉に動く。
右手を上げる。
金属棒が掌へ当たる。
点滴架台。
天井から振り子のように振られた。
衝撃が、古傷の右尺骨へ響く。
小指と薬指が、すぐに痺れた。
「迅」
凱。
「動かすな」
迅は低く言う。
点滴架台を掴まない。
掌で軌道だけを逸らす。
握れば、痺れた指が外れる。
外れた金属が患者へ落ちる。
架台は左へ流れ、壁へ当たる。
がん。
戻る。
振り子。
暴力は架台から来ている。
だが、源は架台ではない。
天井のどこかに、紐。
引く手。
滑車。
暗闇では、そのどれを《源》として数えるか決められない。
一歩。
迅が下がる。
架台が通る。
二歩。
もう一度。
三歩目を置く前に、引く方向が変わった。
源が移った。
七歩を続ければ、何へ返るか分からない。
迅は歩数を捨てた。
前へ出る。
「七つ、やらない?」
タマキの声。
「相手が引っ越した」
「家賃は」
「払ってない」
「悪い奴」
タマキが豆袋を床へ投げる。
一つではない。
五つ。
廊下の左。
右。
中央。
壁際。
寝台の下。
ころころ、と転がる音。
左壁の袋だけが、途中で止まった。
「紐」
タマキ。
「床から上へ」
迅は低く滑る。
架台の振り子をくぐる。
右手は使わない。
左前腕で床を押し、膝を寝台の脚の間へ通す。
左壁の豆袋へ触れる。
細い紐。
上へ張っている。
「切る物」
「刃は使うな」
真琴。
「病院だぞ」
「だから?」
「誰かの器具かもしれない」
「じゃあ、どうする」
凱が足元の金属盆を蹴る。
深く膝を曲げない。
左脚ではなく、右の踵で滑らせる。
盆が迅の左手へ届く。
「割れ」
「物を壊すのはいいのか」
「使用済み。縁が歪んでいる」
「許可」
サナが廊下の奥から叫ぶ。
「壊して!」
「受けた」
迅は盆を壁の角へ叩く。
金属が折れない。
曲がる。
尖った縁へ紐を押し当てる。
一度。
二度。
繊維が鳴る。
三度目で切れる。
点滴架台が床へ落ちる。
患者の胸へ向かって。
凱が前へ出る。
左膝は曲げない。
右足を軸に身体を回し、肩で架台を受ける。
金属が鎖骨へ当たる。
「凱!」
「寝台を」
迅は架台を蹴り出さない。
寝台の下へ押し込み、車輪止めで挟む。
「怪我」
「打撲だ」
「見えない」
「痛み方で分かる」
「患者みたいなこと言うな」
「私は患者ではない」
「病院では、みんなそう言うらしいぞ」
凱が息を吐く。
「誰から聞いた」
「未来の俺」
「意味が分からない」
「俺もだ」
切れた紐の先を辿る。
天井の換気格子。
轟が右手で外す。
左肩は上げず、長い工具を使う。
格子の向こうには、小さな滑車。
引き手はいない。
紐は壁の配管穴を通り、隣の病室へ続いていた。
誰かが離れた場所から引いていた。
「追う?」
タマキ。
「寝台が先」
迅。
「また逃げる」
「逃げる奴は、自分で足を使う。寝台は使えない」
「迅、たまに医療者みたい」
「嫌だ」
廊下を九十二センチだけ開ける。
一台ずつ、車輪の向きを揃える。
患者へ触る前に言う。
動かす距離を言う。
止める位置を言う。
誰かが拒めば、別の寝台を先にする。
敵を追うには遅い。
患者を運ぶには、必要な遅さだった。
午後十一時二分。
最後の寝台が、九十二センチの道を通る。
迅の右手は、まだ痺れている。
タマキが指を一本ずつ押す。
「小指」
「分かる」
「薬指」
「分かる」
「中指」
「うるさい」
「分かる」
「人差し指」
「お前をつつける」
「元気」
「判断が雑だ」
「ミソラに診てもらう?」
「患者が先」
「迅も患者」
「軽い」
「みんな、そう言う?」
「今日は流行ってる」
凱の右鎖骨には、冷却布。
左膝の装具は緩めている。
王ではなく、廊下の椅子へ座る一人の負傷者に見える。
「源を見失ったな」
凱。
「最初から見えてない」
「怖いか」
「殴る先が分からないのは、気持ち悪い」
「怖いとは違う?」
「怖いって言うと格好が悪い」
「では、怖いのだな」
「王は人の言葉を勝手に決めるな」
「王ではない」
「じゃあ、もっと駄目だ」
凱は少し笑った。
「見えない相手へ、七歩を使わなかった」
「使えなかった」
「結果は同じだ」
「違う。使わなかったなら俺が偉い。使えなかったなら相手が上手い」
「どちらを記録する」
七瀬の声が暗闇から来る。
「撮ってたのか」
「声だけ」
「止めろ」
「本人希望?」
「今すぐ」
「受けた」
録音機の回転が止まる。
静かになる。
廊下には、寝台の車輪止めが一つずつ落ちる音だけが残る。
かち。
かち。
かち。
敵の名札を裏返す音と同じだった。
同じ音でも、今は人を動かさないために使われている。
暗闇は、音の意味まで平等にはしなかった。