第251話 第四章「暗闇の足音」前編

四月十八日 午後八時二分

 暗闇では、敵の顔が見えない。

 迅にとって、それは大した問題ではなかった。

 顔を殴る必要がない時の方が多い。

 問題は、どこから暴力が始まったか見えないことだった。

 東病棟の廊下には、患者用寝台が十九台並んでいた。

 壁際に十台。

 中央へ九台。

 停電前の避難配置ではない。

 偽の移動指示で動かされた結果だった。

 車輪の向きは揃っていない。

 酸素管が二本、床を横切る。

 点滴架台が三本、寝台と寝台の間で鎖みたいに絡んでいる。

 敵を追う道ではなかった。

 追えば、患者を倒す道だった。

「中央三台、誰が動かした」

 迅が訊く。

「名前は」

 職員の声。

「名前じゃなくて、手順」

「放送が、北階段へ移せと」

「誰が押した」

「私と、白い腕章の人」

「顔」

「見えなかった」

「声」

「高くない。男か女かは」

「決めなくていい。靴」

「音がしなかった」

 迅は床へしゃがんだ。

 右掌をつかない。

 左の指先で、ゴム床を撫でる。

 粉。

 細かな塩。

 塩路を走った車列から持ち込まれたものが、靴裏に残っている。

 布靴の跡は薄い。

 だが、消えてはいない。

 足の外側へ重心が寄っている。

 歩幅は短い。

 止まる時、右足が半歩遅れる。

「ここを二度通ってる」

「同じ人?」

 タマキ。

「たぶん」

「七瀬が『たぶん』を嫌う」

「今いない」

「録音はいる」

 床に置かれた手回し録音機が、低く回っていた。

「訂正。同じ足の癖が二度」

「よし」

「おまえが認定するのか」

「言い直せる人はえらい」

「子どもみたいに褒めるな」

「十七も子ども」

「十四に言われたくない」

 タマキは、軋む床板へ小さな豆袋を置いた。

 一枚目。

 二枚目。

 三枚目。

「何してる」

「踏んだら音が変わる」

「患者が踏む」

「患者は今、ベッド」

「職員」

「通る人には言う」

「侵入者にも?」

「踏んだら分かる」

 迅は豆袋を一つ持ち上げた。

「軽すぎる」

「音を出すだけ」

「蹴られる」

「じゃあ、あなたが蹴られない場所へ置いて」

「仕事を増やすな」

「頼んだ」

 頼まれると、迅は弱い。

 命令には反発できる。

 仕事には出口がある。

 彼は寝台の下へ手を入れ、豆袋を車輪止めの裏へ挟んだ。

 動かせば、乾いた音がする。

「東一から東十九。車輪を固定する」

「敵は」

 轟の低い声。

「後」

「逃げる」

「患者も落ちる」

「先に重い方」

「人だろ」

「被害」

 轟は短く言い直した。

 左肩を頭上へ上げず、右手と腰で寝台を押さえる。

 手術から時間は経っている。

 治ったことと、元へ戻ったことは違う。

 迅の右手も同じだった。

 握れる。

 殴れる。

 それでも冷えた床の振動は、小指と薬指へ遅れて届く。

 遅れは、小さい。

 小さい遅れは、戦闘では人一人分になる。

「一台ずつ」

 轟。

「十九台」

「十九回」

「敵が十九回待つと思う?」

「待たせる」

 轟は東一床の車輪を固定した。

 かちり。

 東二床。

 かちり。

 東三床――橋の寝台。

「触る」

 迅が言う。

「足だけ」

 橋が答える。

「紙は」

「持ってる」

「落とすな」

「命令?」

「頼む」

「返す場所は」

「八番室」

「なら持つ」

 車輪が固定される。

 四台目へ移った時、廊下の奥で豆袋が鳴った。

 しゃら。

 一度。

 続けて二度。

 しゃら、しゃら。

「北へ三」

 タマキ。

 迅は走らない。

 走れば足音が一つ増える。

 今必要なのは、少ない音だった。

 踵を浮かせ、ゴム床を滑る。

 一歩。

 後ろから何かが来る。

 二歩。

 左肩の高さ。

 三歩。

 風。

 迅は上体を沈めた。

 短い棒が、髪を削る。

 相手の腕へ触れない。

 棒の柄へ左掌を当て、方向だけを変える。

 金属棚へ衝突。

 からん。

 敵は棒を捨てた。

 次の攻撃は低い。

 膝ではない。

 足首へ布が巻きつく。

 迅は後ろへ退いた。

 一歩。

 誓痕〈ヴァウ・スカー〉が、赤紐の下で熱を持つ。

 暴力の源〈ソース〉は、目の前の相手か。

 背後で寝台を押している別の誰かか。

 偽放送を流した声か。

 停電を作った手か。

 見えない。

 二歩。

 熱が増える。

 三歩。

 使える距離には入る。

 使える情報には届かない。

 迅は四歩目を踏まなかった。

 七歩を数えられることと、七歩を使っていいことは違う。

 足首の布を左手で外す。

 敵の肘が来る。

 右腕で受ける。

 痺れが一拍遅れた。

 骨は耐える。

 手袋の内側で、掌の傷が引きつる。

 迅は相手の肘を押し返さず、体を横へ逃がした。

 敵が前へ一歩出る。

 木床。

 ぎい。

「そこ」

 タマキの声。

 轟の掌が、壁から出た。

 敵の胸を掴まない。

 進行方向へ寝台のマットを立てる。

 柔らかい壁。

 敵が突っ込む。

 息が漏れる。

 迅は足首へ自分の踵を掛け、倒す。

 床へ頭を打たせない。

 肩から落とし、布を巻く。

「一」

 タマキ。

「人数?」

「捕まえた人」

「まだいる」

「じゃあ一人目」

 廊下の反対側で、別の豆袋が鳴った。

 しゃら。

 轟が振り向く。

「二」

「数えるな」

「数えないと帰れない」

 迅は捕らえた相手の両手を縛る。

 脈が速い。

 手首が細い。

 首元に金属札。

 指で触れる。

 表。

 白冠の刻印。

 裏返す。

 剛嶺の刻印。

 さらに薄い板が重なっている。

「何枚」

 タマキ。

「三」

「三つ目」

「病院中立」

「名前は」

 迅が訊く。

「白冠十二」

 捕らえた人物が答える。

「それは所属」

「名前」

「白冠十二」

「さっき剛嶺の札も付けてた」

「剛嶺六」

「今は」

「中立三」

 声は若い。

 喉の奥に何かを押し込めている。

「どれが呼び名」

「全部」

「本人が選んだのは」

「命令を選ぶ必要はない」

「質問は命令じゃない」

「答えを求める」

「拒否していい」

「拒否も記録される」

 迅は黙った。

 七瀬なら、今の言葉を拾う。

 迅は録音機を見た。

 黒い布の下でクランクが回っている。

「止める?」

 タマキが訊く。

 捕らえた人物は返事をしない。

「止めるなら柵二回」

「柵がない」

「床でいい」

 指先が床を二度叩く。

 こん、こん。

 タマキが録音機を止めた。

「名前」

 迅はもう一度訊かなかった。

「怪我」

「ない」

「嘘」

「根拠」

「右の呼吸が浅い」

「任務に影響なし」

「治療の話」

「不要」

 捕らえた人物の腹が、小さく鳴った。

 タマキが言う。

「ご飯は」

「不要」

「それ、三回目」

「何が」

「不要って言った回数」

「数えるな」

「数えないと、何を断ったか分からない」

 捕らえた人物が初めて黙り方を変えた。

 拒否の沈黙ではない。

 答えを探している沈黙。

 迅はその横へしゃがんだ。

「呼び名は後でいい。今は、ここから動くか」

「どこへ」

「診察」

「拘束」

「先に診察。逃げたら追う」

「順番が逆」

「病院だから」

「病院は、捕まえた人を治す?」

「ミソラに訊け」

「あなたは」

「俺は医者じゃない」

「何」

 迅は答えに詰まった。

 喧嘩屋。

 実戦指揮。

 空白の旗。

 逃げ足のジン。

 どれも今の仕事を正確には言わない。

「車輪止め係」

 タマキが代わりに答えた。

「勝手に決めるな」

「今やってる」

 捕らえた人物の喉から、空気だけの笑いが漏れた。

「車輪止め」

「呼び名にするな」

「拒否した」

「記録は止まってる」

「覚えた」

 迅は立ち上がった。

「轟、こいつを――」

「誰」

 タマキ。

「捕らえた人」

「呼びにくい」

「本人が選んでない名前は使わない」

「じゃあ質問。診察室へ行く時だけ使う呼び名、選ぶ?」

 返事はない。

 タマキは待った。

 十秒。

 二十秒。

 廊下では、残りの寝台の車輪を固定する音が続く。

 かちり。

 かちり。

「砂」

 捕らえた人物が言った。

「理由は」

「いらない」

「分かった。診察室まで砂」

「一回でいい」

 タマキは一度だけ呼んだ。

「砂。立てる?」

「立てる」

「触る?」

「腕は嫌」

「肩」

「嫌」

「背中」

「嫌」

「じゃあ、布を持つ」

 拘束布の端を本人へ持たせ、もう一端を轟が持つ。

 引かない。

 緩めない。

 逃げれば長さが変わる。

 連行ではない。

 自由でもない。

 不完全な方法だった。

「病院は面倒」

 砂が言う。

「同感」

 迅。

「でも、壊す時は簡単」

「壊しに来た?」

「答えは記録される」

「止まってる」

「人が覚える」

「それは止められない」

「だから、言わなくていい」

 砂はそれ以上話さなかった。

 午後八時四十三分。

 西待合では、凱が家族二十七人を三列へ分けていた。

 優先順位ではない。

 説明を聞く順番だった。

「王なら、うちの子を先にしろ」

 一人の男が言った。

「俺は王ではない」

「みんな知ってる。あんたが言えば通る」

「通るから言わない」

「何だそれは」

「医療判断を俺の声へ変えれば、次から医師は俺を見る。患者を見なくなる」

「今、死ぬかもしれない」

「その可能性を説明するのは医療者だ」

「医療者が来ない」

「だから、来る時間を作る」

 凱は長時間立たない。

 左膝の装具を曲げ、椅子へ座る。

 座ったまま声を届かせることは、白王だった頃にはしなかった。

「一人三分。質問は二つ。説明を聞いた後で追加を紙へ書ける。書けない者は俺が代筆する。ただし、俺は答えを作らない」

「三分で人の命を」

「三分で決めない。三分で、何を待っているか聞く」

「保証しろ」

「できない」

「王のくせに」

「王だったから、できない保証をした」

 怒声が上がる。

 凱は声を上げない。

「あなたの子の呼び名は」

「雪斗」

「公開していいか」

「何?」

「この場で呼んでいい名か」

 男が詰まる。

「……家では、ユキ」

「どちらを使う」

「ユキ」

「ユキが今受けている処置は、酸素と胸腔の観察。手術順位はまだ決まっていない。三分後、サナが説明へ来る。俺が保証できるのは、説明の場を他の要求で潰さないことだけだ」

「それだけか」

「それをする」

 男は納得しない。

 納得しないまま、列から出なかった。

 説明の場は、同意の場ではない。

 怒る人を静かにする場所でもない。

 怒ったまま質問できる場所だった。

 午後九時十一分。

 迅たちは十九台目の車輪を固定した。

 最後の止め具が、かちりと鳴る。

 その音に重なって、天井の放送器から声がした。

『東病棟の患者は全員、北階段へ移動してください』

 女性の声。

 職員に似せている。

『発電室火災。繰り返します――』

「火災は」

 迅。

 轟が床へ掌を当てる。

「振動なし」

「匂い」

「なし」

「偽放送」

 タマキが豆袋を握る。

 寝台の一つが動いた。

 固定したはずの車輪。

 違う。

 床ごと動いた。

 旧料金所の可動検査台。

 床板の下に車輪がある。

「轟」

「ここ、床が台だ」

「止められる?」

「支点が見えない」

 暗闇の奥から、掠れた声がした。

「床は止めてない」

 迅は声へ向いた。

 暴力の源が、今度こそそこにいるように聞こえる。

 だが同時に、東病棟の三か所で豆袋が鳴った。

 しゃら。

 しゃら。

 しゃら。

 源は一人ではない。

 迅は赤紐を押さえた。

「七歩は使わない」

「聞いてない」

 タマキ。

「自分に言った」

「じゃあ記録しない」

「録音、止まってる」

「人が覚える」

 砂が言った。

 迅は暗闇の中で笑った。

「面倒だろ」

「同感」

 可動床が、患者六人を載せたまま、ゆっくり北へ滑り始めた。

 可動床は、早くない。

 人が歩くより遅い。

 だから危険だった。

 速い物は、誰もが避ける。

 遅い物は、自分が動いていることへ気づくまで時間がかかる。

「北端まで何メートル」

 迅。

「十二」

 轟。

「段差」

「十八センチ」

「落ちたら」

「先頭二台が傾く。点滴架台が引く。六台全部」

「止める場所」

「側面の手動軸」

「どこ」

「床の下」

「見えない」

「見えても狭い」

 迅は可動床の前へ回った。

「押し返す」

「六人と床で一・四トン」

「無理って言え」

「壊すならできる」

「壊さない」

「なら一人では無理」

 轟はそう言って、床と壁の隙間へ右足を差し込んだ。

 左肩を使わない。

 右前腕を柱へ当て、腰で受ける。

 可動床が一瞬だけ遅くなる。

「一人でやってる」

 迅。

「時間を買った」

「値段」

「右踵」

「安くない」

「今払う」

 迅は床へ伏せた。

 暗い隙間。

 油の匂い。

 古い鉄粉。

 右手を入れると、小指がどこへ触れたか曖昧になる。

 左手を先に入れる。

 歯車。

 軸。

 安全爪。

 爪が上がっている。

 誰かが細い金具で固定した。

「工具」

「ない」

 タマキ。

「四号車に載ってた」

「盗られた」

「何か細い物」

「紙橋の針金」

 橋の声。

「折れる」

「二本ある」

「返せないかも」

「橋が落ちるよりいい」

「決めるのはおまえ」

「使って」

 タマキが紙橋の支柱を一本外した。

 針金が迅の左手へ渡る。

 安全爪の下へ差し込む。

 指先だけで角度を探る。

 敵の足音が近づいた。

 ゴム床。

 音が薄い。

「三人」

 タマキ。

「どうして分かる」

「豆が三つ、違う速さ」

「正面を頼む」

「誰に」

「轟は床。タマキは患者。砂は」

「拘束中」

「自分で言うな」

「事実」

「じゃあ俺」

 迅は床下へ左腕を入れたまま、右膝を立てる。

 最初の敵が蹴る。

 靴先が肋骨へ来る。

 迅は右肘で受けた。

 痛みが骨を通る。

 針金を離さない。

 二人目の棒が、床へ突き込まれる。

 迅の左手を狙っている。

 棒先を見ず、空気で避ける。

 手首の外側を擦る。

 三人目は轟へ向かった。

 砂が拘束布を引いた。

 轟の腰と柱の間へ、布が張る。

「何してる」

 迅。

「倒れたら床が動く」

「逃げる気は」

「今はない」

「今の範囲」

「床が止まるまで」

「十分」

 砂の足が、三人目の足首へ絡む。

 倒さない。

 踏み込みだけを遅らせる。

 轟が右肩で受け、壁へ流す。

「左、使うな」

「知ってる」

「今、上がった」

「二十度」

「三十あった」

「暗い」

「言い訳に使うな」

「おまえが言うな」

 可動床が段差まで四メートル。

 橋の紙が擦れる音。

 患者の一人が咳き込む。

「迅」

 タマキ。

「分かってる」

「何が」

「急げ」

「言ってない。東七床の管が張る」

 迅は急がなかった。

 針金を一度抜く。

 角度を変える。

 歯車の噛み合いが、左人差し指へ伝わる。

 ここだ。

 押す。

 安全爪が落ちる。

 がつん。

 可動床が止まった。

 患者六人の身体が前へ揺れる。

 轟が床から足を抜き、先頭寝台を受ける。

 迅は床下から転がり出た。

 敵の棒が落ちる。

 右手で掴まない。

 左前腕で軌道を外し、相手の腰へ肩を当てる。

 相手が倒れる。

 もう一人が逃げる。

 追える。

 だが東七床の酸素管が、床の縁で潰れていた。

「管」

 タマキ。

 迅は敵へ背を向けた。

 管を持ち上げる。

 呼吸音が戻る。

 逃げる足音が遠ざかった。

「二人逃げた」

 砂。

「数えた?」

「数えないと、任務が終わらない」

「任務は」

「言わない」

「終わった?」

 砂は拘束布を離した。

「まだ」

 迅は返事をしなかった。

 追わなかったことを正しいと言えば、逃げた二人が別の患者を傷つけた時に嘘になる。

 間違いだったと言えば、今呼吸を戻した患者を無視する。

 選択は、後から片方だけを正しく見せると、命令になる。

「東七床、呼吸」

 サナが駆けつける。

「十二。戻った。胸痛なし」

「誰が管を」

「床」

「床は署名しない」

「俺」

 迅が言う。

「追跡をやめて管を戻した。二人逃がした」

「記録する」

「顔は撮るな」

「撮影は止まってる」

 七瀬の声が暗闇から返る。

「聞いてたのか」

「人が覚える」

「みんな同じこと言うな」

「便利だから」

 捕らえた敵は二人になった。

 一人は砂。

 もう一人は、床へ倒れたまま返事をしない。

 首札には、南医療補助。

 袖には、剛嶺の縫い目。

 靴の内側には、白冠の白粉。

「呼び名」

 タマキが訊く。

 返事はない。

「聞こえる?」

 返事はない。

「痛い?」

 指が一度動く。

「どこ」

 腹へ触れようとしたサナの手を、指が払う。

「触るな、でいい?」

 一度動く。

「触らずに診られる範囲を見る。息を吸える?」

 浅い呼吸。

「吐ける?」

 途中で止まる。

「腹の中かも。ミソラを呼ぶ」

 砂が顔をそむける。

「仲間?」

 迅。

「所属を聞くな」

「関係を聞いた」

「同じ班ではない」

「知ってる」

「顔は」

「知らない」

「名前」

「知らない」

「任務」

「一部」

「何をする」

「答えない」

「何をされた」

 砂の呼吸が止まった。

 質問が違う場所へ入った。

 迅はそれ以上進めなかった。

 午後十時五分。

 可動床の下から、細い鍵が見つかった。

 四号車から消えた担架の固定鍵だった。

 鍵には、手術室の白い糸が巻いてある。

「目的地」

 轟。

「手術室」

 迅。