第250話 第三章「名前のない患者」後編

 午後七時十一分。

 八番室の少年は、暗い病室で紙を折っていた。

 紙は診療伝票の裏。

 折り目だけで形を作る。

「何」

 タマキ。

「橋」

「鳥じゃない」

「鳥は飛ぶから、いなくなる」

「橋も渡るといなくなるよ」

「橋は残る」

 少年は細長い紙を二つの寝台柵へ渡した。

 真ん中が沈む。

「弱い橋」

「紙だから」

「強くする?」

「名前を書かないなら」

「どうして」

「名前があると、誰の橋か取り合う」

 タマキは答えず、紙の両端を一度折り返した。

 橋が少し強くなる。

「これ、誰のやり方」

「私」

「名前ある」

「じゃあ、今だけない」

「変」

「よく言われる」

 七瀬は入口で撮影機を持っていた。

「撮る?」

 少年が訊く。

「橋だけ」

「手は」

「入る」

「顔は」

「入れない」

「声」

「入れない」

「何に使う」

「暗い病室で、二人が紙を折って通路を作った記録」

「それ、役に立つ?」

「今は分からない」

「分からないのに撮る?」

「分からないから、聞いた」

 少年は考える。

「橋だけ」

「受けた」

 七瀬は紙の橋を撮る。

 画面は暗い。

 形はほとんど見えない。

 それでも、タマキの指が紙を折る音が入る。

 少年の呼吸。

 遠くの車輪。

 病院の壁を叩く三回の合図。

「録音、止めて」

 少年。

 七瀬はすぐ止める。

「どうした」

「今から、秘密を言う」

 タマキが身を乗り出す。

「何」

「息が苦しい時、三回叩く。でも、本当に怖い時は、叩けない」

「どうして」

「聞かれたら来るから」

「来てほしくない?」

「知らない人は」

「じゃあ、誰なら」

 少年は答えない。

 七瀬は録音を再開しない。

 タマキも、名前を聞かない。

 代わりに、紙の橋の端へ、三つの小さな切れ込みを入れた。

「これ、触ったら私」

「名前じゃない」

「今日の私」

「明日は」

「また決める」

 少年は切れ込みを指でなぞる。

「じゃあ、怖い時は」

「紙を落として」

「音、小さい」

「私が近くにいる時だけ」

「いなかったら」

「三回。知らない人が来たら、嫌って言っていい」

「言えなかったら」

「紙を握る」

 少年は橋を握った。

 潰れない程度に。

 七瀬は撮らなかった。

 記録されない約束も、存在する。

 病室を出る時、南野の四枚の札が廊下の机へ並んでいた。

 所属は四つ。

 だが、病室の紙の橋には、一つも書かれていない。

 暗闇で人を見分けるために必要だったのは、所属を増やすことではなく、本人が今選んだ小さな印だった。