第249話 第三章「名前のない患者」前編
四月十八日 午後六時三十八分
暗闇を撮ると、黒が写る。
当たり前の話だった。
当たり前の話は、現場ではだいたい役に立たない。
火群七瀬は手回し式撮影機のクランクを半回転させ、止めた。
ファインダーの中には何もない。
病室の窓。
患者の顔。
壁の名札。
どれも同じ黒だった。
「映像、取れてる?」
タマキが訊く。
「取れてる。何も見えない映像が」
「それ、何の証拠」
「午後六時三十八分に、照明がなかった証拠」
「ずっと回す?」
「ずっとは無理」
左肩が答えた。
鈍い熱が、鎖骨の下から肩甲骨へ広がる。
七瀬は撮影機を腰高の三脚へ下ろした。
暗闇では、重い機材を持っている人間から先に転ぶ。
転んだ映像は撮れる。
転んだ理由は、たぶん撮れない。
「赤外線灯ならある」
佐渡が言った。
声は若く聞こえる。
疑っている時だけ、語尾が妙に丁寧になる。
「医療機器配送所の旧型です。目には見えない。受像板だけ拾う」
「患者の顔も拾う」
「そうですね」
「包帯の位置も」
「拾います」
「寝台の番号も」
「角度次第で」
「拒否した時の処理は」
佐渡は胸ポケットの絶縁布を折り畳んだ。
「それを聞くために、こっちが言ったんですけど」
「先に答えて」
「断った寝台を外す。外した部分は記録する。赤外線灯の照射範囲も時刻で残す」
「病棟全体を撮る必要は」
「ない」
「侵入者がいる」
「いる」
「患者の顔を全部見せれば、侵入者を一人見つけやすい」
「患者を全員、見つけやすくする」
七瀬は答えた。
佐渡は少し黙った。
「正解みたいに言わないでください」
「正解じゃない。交換条件」
「侵入者を逃す条件にもなる」
「なる」
七瀬は赤外線灯の箱を開けなかった。
撮影しない保護〈カメラ・ダウン〉という言葉は、カメラを持っている側にしか言えない。
持っていない人間は、最初から下ろす機械がない。
「じゃあ、何を残す?」
タマキ。
七瀬は床へ指を置いた。
細い振動がある。
病院の奥で、手動酸素袋を押す周期。
搬入口の戸が風で鳴る周期。
誰かが鉄製の寝台へ肘をぶつけた一度きりの音。
「見えないもの」
「全部じゃないよね」
「全部は最初から無理」
「それ、前より早く言えるようになった」
「記録しておく?」
「やめて。照れる」
「午後六時四十分。環玉樹、照れる」
「名前まで要る?」
「今のは要る」
「基準が変」
「生きてる人の基準は変わる」
佐渡が咳払いをした。
「会話を録音するなら、停止手順を決めます」
「二回叩く」
寝台の方から声がした。
細い。熱で擦れている。
八番室の少年だった。
昨年七月の薬品搬送で免疫製剤を受けた少年は、外環共同病院の定期診療へ来ていた。急変ではない。検査のための一泊だった。
それが停電に当たった。
運が悪い、と言うと、彼はたぶん首を振る。
病院へ来た日に病院が壊れたのではない。
壊れかけていた病院へ、たまたま灯りが消えたのだ。
「何を二回?」
七瀬が訊く。
「ベッドの柵。こう」
こん、こん。
「止めて、の合図?」
「薬を飲んだ時にも二回叩く」
「混ざる」
「薬の時は箱。録音は柵」
「分かる?」
「僕は」
「他の人」
少年は黙った。
「じゃあ、三回」
こん、こん、こん。
「三回は看護の呼出し」
阿久津サナが暗がりから言った。
「この病院、叩きすぎ」
タマキ。
「機械が壊れると、人間が机になるから」
サナは赤黄緑の触覚カードを指で弾いた。
「停止は柵を二回。薬箱は底を二回。呼出しは三回。間違えたら声で止める。声が出なければ、手を開いて上へ」
「見えない」
「触れた時に分かる」
「触る前の同意は」
佐渡。
「声。声がなければ、柵。柵がなければ床。床も無理なら、近くの人へ伝える」
「近くの人が侵入者なら」
「だから一つにしない」
サナの敬語が深くなっていた。
「医療は、完璧な方法を待ってから始められません。だから不完全な方法を一つだけにしないんです」
七瀬は手回し録音機を床へ置いた。
撮影機より軽い。
音孔へ、黒い布を一枚掛ける。
「午後六時四十四分。外環共同病院、東病棟二階。映像記録を停止。音声、床材、金属音、接触器具、時計振動を分けて記録する」
「誰が言ったかは」
佐渡。
「本人が希望した呼び名。希望しなければ役割。役割も危険なら声番号」
「声番号って」
「一、二、三」
「番号点呼みたいで嫌だと言う人は」
「自分で選ぶ」
「選べない人は」
「選べるまで、症状で呼ぶ」
「症状が公開情報になる」
「録音を分ける」
「どこまで分けるんです」
「必要なだけ」
「ずるい答えですね」
「便利な答え」
「決め台詞みたいに言わないでください」
迅が戻ってきた時、同じ言葉を使った。
「それ、俺の台詞」
「所有権を主張するほどの台詞じゃない」
七瀬は声の方向を見た。
見えない。
それでも、右足を少し引いて立つ気配が迅だと分かる。
「四号車」
「空。南野はいない。血は運転席から外へ。足跡は病院に戻った」
「血の量」
「手のひら二枚分より少ない」
「少ない、は評価」
「床板三枚に飛沫。引きずった跡なし」
「靴底」
「布。踵が薄い。歩幅、五十六から五十八」
「身長」
「百六十前後」
「幅が広い」
「暗いんだから我慢しろ」
「暗いから、狭く言わない」
迅が鼻を鳴らす。
右手の厚い手袋が、三脚へ軽く当たった。
「痛む?」
「何が」
「右」
「質問が広い」
「掌。小指。薬指」
「掌は閉じた。小指と薬指は少し鈍い」
「握力」
「左より弱い」
「数字」
「今測る?」
「測らない。床を掴む予定はないから」
「人は」
「掴む前に聞く」
迅がそう言った直後、暗闇の向こうで金属が擦れた。
小さな音。
寝台の車輪が、止め具を外された音。
「東三床」
サナ。
迅が動く。
床を一度、踵で擦った。
七瀬は録音機のクランクを回した。
「午後六時四十七分。東三床、車輪音。南側」
「近づく」
迅。
「声を先に」
ミソラの低い声が廊下から飛ぶ。
「東三床。触る。嫌なら柵を二回」
返事はない。
寝台の向こうで、布が張る。
迅の手が伸びたらしい。
ぱし、と乾いた音。
「触るな」
患者の声。
若い。男とも女とも決められない。
迅の足が止まる。
「分かった」
「追わないの」
七瀬は訊いた。
「患者が動いてる」
「侵入者かもしれない」
「それでも、触るなと言った」
「寝台は動く」
「止めたい?」
患者へ問う。
息が二つ。
三つ。
「止めて」
「どこを触る」
「足。ベッドの足」
「あなたには触らない」
「うん」
迅はしゃがんだ。
右手を使わず、左手で車輪止めを踏み込む。
かちり。
寝台が止まる。
その瞬間、反対側を何かが走った。
布靴。
音がないのではない。
音を出す場所を選んでいる。
木床の継ぎ目だけを踏み、鉄板を避ける。
迅が立つ。
「追う」
「患者へ確認」
七瀬。
「何を」
「今、誰かが寝台を動かした?」
「知らない」
「手は触れた?」
「札」
「首の札?」
「取られた」
サナが息を吸う。
「呼び名は」
患者は答えない。
「記録名でなくていい。今、あなたを呼ぶ時に使っていい音」
ミソラが言う。
「ない」
「作っていい」
「嘘になる」
「嘘と仮名は違う」
「どう違う」
「誰が決めたか」
沈黙。
七瀬は録音機を止めなかった。
止める合図は来ていない。
だからこそ、急いで質問しない。
八番室の少年が、紙を折る音がした。
ぱり。
ぱり。
爪で折り目をつける小さな音。
「これ、触る?」
少年が訊く。
「何」
「橋」
「いらない」
「名前じゃなくて、選ぶ物」
「何を」
「行きか帰り」
「どっちも嫌」
「じゃあ、真ん中」
少年は紙橋を寝台の柵へ置いた。
患者の指が、ゆっくり紙へ触れる。
折り目を二つ越え、中央で止まった。
「橋」
タマキが言う。
「呼び名にする?」
患者は紙を握る。
「今だけ」
「どこまでが今」
「この部屋」
「部屋を出たら」
「聞き直して」
「分かった。東三床、この部屋では橋」
「東三床はいらない」
「じゃあ、橋」
「一回でいい」
「分かった」
タマキは呼び名を一度だけ復唱した。
七瀬はその声を記録した。
名前がない患者ではない。
名前を他人へ渡していない患者だった。
その違いは、暗闇では形にならない。
だから手順にするしかない。
七瀬は録音機の横へ、三つの小箱を並べた。
一つ目に、本人が選んだ呼び名。
二つ目に、薬歴と身体情報へつなぐ照合鍵。
三つ目に、公開してよい範囲。
「箱に入れるだけ?」
迅。
「箱は分かりやすいから」
「盗られる」
「一つ盗っても足りない」
「三つ盗られたら」
「置き場所を分ける」
「全部知ってる人間が狙われる」
「全部知る人を作らない」
「面倒だな」
「安全はだいたい面倒」
「格好よくまとめて――」
「所有権はない」
タマキが笑った。
笑い声は一秒半。
七瀬は時刻だけを記した。
午後七時十二分。
病棟の西端で、誰かが名札を三回裏返した。
かち。
かち。
かち。
金属の薄い音。
同じ音が、東端の録音機にも入っていた。
距離が合わない。
「二人いる」
七瀬が言う。
「何が」
迅。
「同じ札を使ってる人。少なくとも二人」
「足音は一人分だった」
「車から戻ったのが一人。最初から中にいたのが一人」
暗闇の向こうで、誰かが名を呼んだ。
「西四床、灰四。処置室へ」
返事はなかった。
別の場所から、低く掠れた声がした。
「その名では、行かない」
七瀬は録音機を回し続けた。
黒い画面には何も映らない。
だが、何もない場所で、呼ばれた名だけが拒まれた。
午後七時十五分。
拒まれた名は、誰かが拾わないと、命令へ戻る。
七瀬は録音機を抱え、声のした西廊下へ向かった。
「一人で行くな」
迅が言う。
「一人じゃない。音がいる」
「音は殴られない」
「私もなるべく」
「なるべくを作戦に入れるな」
「右手八割の人に言われたくない」
「八割なら多い」
「残り二割が何を落とすか、知ってる?」
「今は録音機」
「正解」
迅は七瀬の右後ろへ付いた。
七瀬の左肩にぶつからない位置。
頼んでいない配慮だった。
頼んでいないと口にすれば、今度は彼が離れすぎる。
人間関係は、三脚の高さより調整が難しい。
目盛りがないからだ。
西廊下は旧料金所の構造を残していた。
床材が三種類ある。
病室前は木。
中央は擦れたゴム。
処置室前だけ、血液を流せる鉄板。
七瀬は床材が変わるたび、声に出す。
「午後七時十六分。木床、北へ七歩」
「七歩って言うな」
迅。
「あなたの能力じゃなくて距離」
「暗い所で聞くと紛らわしい」
「じゃあ六歩と一足」
「余計に嫌だ」
「記録へ感想を入れないで」
「おまえが先に入れた」
鉄板の上で、靴が一度鳴った。
軽い。
体重を乗せていない。
「止まって」
七瀬。
迅が止まる。
向こうの足音も止まった。
「記録する。午後七時十七分。鉄板上、単独。呼び名を選べる?」
返事はない。
「医療者?」
返事はない。
「患者?」
返事はない。
「侵入者?」
「分類が多い」
掠れた声が返った。
「必要だから」
「必要な人は」
「患者と職員。あなたも、治療が必要なら患者」
「撮ってる」
「撮影は止めた。録音してる」
「同じ」
「違う」
「持っていく」
「何を」
「声」
「止められる」
「止めても、聞いた」
「聞いたことは消せない。持ち出さない選択はできる」
「誰が決める」
「あなたの声は、あなた。病院で起きた侵入の時刻は、病院。分ける」
「分けたふり」
七瀬は返事をしなかった。
反論を急ぐ時は、自分が負けている時だ。
録音機のクランクを止める。
向こうで、布がわずかに擦れた。
「止めた」
「嘘かも」
「そう」
「証明は」
「今はない」
「記録屋なのに」
「記録屋だから、ない証明を作らない」
迅が小さく息を吐いた。
「また短くまとめた」
「黙って」
「録音止まってる」
「だから黙って」
向こうの誰かが、ほんの少し笑ったように聞こえた。
笑いというより、空気が喉で引っかかった音だった。
「呼び名」
七瀬は訊く。
「いらない」
「あなたへ呼びかける時だけでも」
「不要」
「では、呼ばない。質問だけする」
「質問は呼ぶ」
「面倒な人」
「正確」
「気が合いそう」
迅が言った。
布靴が動いた。
一歩。
二歩。
鉄板を外れ、ゴム床へ。
音が消える。
迅が追おうとした。
七瀬は上着の裾を掴む。
「待って」
「逃げる」
「録音を止めた直後に追ったら、停止が罠になる」
「向こうは侵入者だ」
「止めてと言った人間を、止めたふりで追う記録者にはなりたくない」
「俺は記録者じゃない」
「一緒に来た」
迅の上着が、指の中で止まった。
ゴム床の先に二つの扉がある。
一つは処置室。
一つは物品庫。
どちらかがゆっくり閉じた。
蝶番音がない。
油を差してある。
「準備して入った」
迅。
「病院の中を知ってる」
「職員か、職員から聞いた」
「両方かも」
「追わない?」
「今は」
「珍しい」
「おまえが止めた」
「責任を人に渡さないで」
「じゃあ、俺が止まった」
「記録する」
「録音、止めたんじゃないのか」
「頭に」
「公開範囲」
「未定」
「便利だな」
「不便だから人間がやってる」
病室から、柵を二回叩く音。
こん、こん。
録音停止の合図ではない。
録音機は止まっている。
薬箱でもない。
音は東三床――橋の寝台からだった。
七瀬と迅は戻った。
橋の呼吸が速い。
「胸?」
サナが訊く。
「違う」
「痛い?」
「違う」
「何が必要」
「薬」
「何の」
「分からない」
「錠剤? 粉? 注射?」
「青い蓋」
サナが薬品箱へ手を伸ばし、止めた。
「青い蓋は七種類ある」
「朝と夜」
「大きさ」
「小さい」
「形」
「半分」
「割って飲む?」
「うん」
「味」
「鉄」
暗闇の中で、サナが瓶を三本選ぶ。
振った音が違う。
「照合鍵がない」
「首札を取られた」
「本人の薬袋は」
「ない」
「所属台帳なら薬歴がある」
職員の一人が言った。
「所属は聞かない」
ミソラ。
「でも薬が必要です」
「だから薬歴を聞く。旗を聞かない」
「台帳が旗ごとに分かれてる」
「分けた側の都合」
「今、作り直せません」
「今だから作り直す」
ミソラの声は静かだった。
静かな声は、怒鳴り声より遠くまで責任を運ぶ。
「七瀬。記録、戻して」
「本人の声は止めた」
「戻す範囲を聞く」
七瀬は橋の寝台へ近づいた。
「薬の照合だけ、声を残していい?」
「顔は」
「撮らない」
「名前は」
「今の呼び名も、薬の箱には入れない。照合番号だけ」
「誰が聞く」
「サナ。ミソラ。私。佐渡が停止処理を確認する」
「迅は」
「廊下」
「追わない?」
橋が迅へ訊いた。
「今は薬」
「侵入者、逃げる」
「おまえも苦しくなる」
「どっちを」
「薬」
「すぐ決めるんだ」
「今は」
橋は紙を握り直した。
「録って」
七瀬はクランクを回した。
午後七時二十三分。
朝と夜。
青い蓋。
半錠。
鉄の味。
服用後に水を多く飲む。
腕の内側が痒くなる薬は中止された。
前回の投与は三日前。
所属台帳を三冊、別々の職員が持ってくる。
白冠系診療所。
剛嶺避難区。
無所属共同薬庫。
同じ薬歴が二冊にあり、片方には中止薬が残っていた。
「本人情報が二人分ある」
佐渡。
「違う。同じ人を二人にした記録」
七瀬。
「どっちを信じる」
サナ。
「本人が言った中止反応」
ミソラ。
「記録より?」
「記録を選ぶ材料として」
瓶が決まる。
サナは錠剤を割り、橋の掌へ置かなかった。
「手へ触れていい?」
「紙の上」
紙橋の中央へ半錠を置く。
橋は自分で取った。
空箱の底を二回叩く。
こん、こん。
「飲んだ」
「記録した」
七瀬は答えた。
その時、廊下の奥で何かが倒れた。
人の身体。
金属でなく、布と骨の重い音。
迅が先に走る。
今度は七瀬も止めなかった。
旧洗濯室の入口で、南野が見つかった。
四号車の運転手。
後頭部から血。
両手は自分の帯で前へ縛られている。
呼吸はある。
胸元には、四つの所属札が重ねて留められていた。
白冠。
剛嶺。
空白。
病院中立。
どれも南野のものではない。
札の一番下に、細い金属片が挟まっていた。
名前を書き換えられる首札の欠片。
七瀬は撮影機へ手を伸ばし、止めた。
「撮らない?」
迅。
「顔は」
「証拠は」
「札、結び方、血の位置、床の音。顔じゃなくていい」
「本人が起きたら」
「聞く」
七瀬は南野の顔へレンズを向けず、縛られた手と四枚の札だけを撮った。
暗闇の映像には、札の字は写らない。
それでも、四枚の金属がぶつかる音は残った。
かち。
かち。
かち。
かち。
所属は四つ。
倒れていた人間は、一人だった。
七瀬は、四枚の札を袋へ入れなかった。
「どうして」
迅。
「一緒に入れたら、最初から一組だったみたいになる」
「重ねて付いてた」
「付けた時刻が同じとは限らない」
「面倒だな」
「証拠は、面倒に耐えた分だけ、人の都合から離れる」
「今のは覚えやすい」
「拾わないで」
七瀬は札を一枚ずつ、別の布へ置いた。
白冠の札。
縁に乾いた石灰。
剛嶺の札。
赤い砂。
空白の札。
白布の糸ではない、灰色の繊維。
病院中立の札。
消毒液の匂いが強い。
「四つ、全部、違う場所から持ってきた」
タマキが鼻を近づける。
「触るな」
「嗅ぐだけ」
「鼻も触れる」
「それ、法律?」
「衛生」
真琴なら、もっと長く言う。
七瀬は札の位置を、紙へ描く。
字は見えにくい。
手元の小さな蝋燭を点ければ読める。
だが、窓の外からも見える。
七瀬は火を点けなかった。
「映らないのに、描く?」
迅。
「明るくなってから、今見えなかったことを思い出すため」
「見えなかった物を描けるのか」
「触った順。音。匂い。置かれていた距離」
「絵じゃないな」
「記録」
タマキが南野の靴底へ豆袋を当てた。
「同じ布」
「何と」
「病院へ戻った足跡。音が出ないやつ」
「南野が歩いた?」
「この人は裸足」
南野の右足から靴がなくなっている。
左だけ残る。
「靴を使った」
迅。
「サイズ」
七瀬。
「南野より小さい人なら詰め物。大きい人は無理」
タマキが左靴へ指を入れる。
「踵に布」
「元から?」
「擦り減り補修」
「南野の癖か、使った人の詰め物か」
「起きたら聞く」
七瀬は撮影機を低くする。
レンズは南野の顔を避け、左靴の踵だけを捉える。
撮影しない保護は、機械を床へ置くことではない。
何を残さないかを、撮る側が先に決める。
残さないことで、何を失うかも記録する。
「映像なし、南野の顔。理由、意識なし。本人同意を取れない」
七瀬は音声へ入れる。
「映像あり、左靴。理由、侵入経路の照合。公開範囲、捜索班と医療班」
「そこまで声にする?」
迅。
「後の私が、今の私を都合よく編集しないため」
「自分を信用してない?」
「編集する人間だから」
「俺は殴る人間だけど、いつも自分を疑わないぞ」
「それは自慢にならない」
「七瀬は、迅を撮る時も同意を取る?」
タマキ。
「公開場所にいる時は、行為記録を優先することがある」
「寝てる時」
「撮らない」
「食べてる時」
「聞く」
「殴られてる時」
「撮る」
「不公平だ」
迅。
「殴られ方は公共性が高い」
「どんな公共だよ」
南野が小さく呻いた。
会話が止まる。
サナが瞼を開く。
「南野。聞こえる?」
返事はない。
「痛む場所」
右手の指が動く。
一度。
「一は頭?」
動かない。
「一は、はい?」
一度。
「名前、南野?」
一度。
「職業、運転手?」
一度。
「今、声を出せる?」
動かない。
「無理」
サナ。
「見た人を聞く?」
迅。
「今はしない」
「どうして」
「頭を打ってる。選択肢を入れると、言われた像を記憶にする」
「じゃあ、何を」
「痛み。吐き気。見え方。自分の状態」
サナは南野へ問いを続ける。
七瀬は録音しない。
医療の質問を、そのまま捜査記録へ流さない。
「記録しない?」
迅。
「診療記録はサナ」
「犯人につながるかも」
「患者の頭の中を、証拠倉庫にしない」
「起きたら」
「本人と範囲を決める」
迅は黙る。
床へ座り、南野から二歩離れる。
待つことを覚えている。