第341話 第一章「母の映像」前編
八月九日 午前七時二十一分
火群七瀬は、母の声を三度止めた。
一度目は、偽物だと思ったから。
二度目は、本物だと思ったから。
三度目は、どちらでも困ると分かったからだ。
零番街記録室の窓は、朝から半分だけ開いている。
外では、昨夜の雨を吸った屋根布が、物干し索の上で重く垂れていた。部屋の中には、手回し撮影機、磁気証言テープ、返却待ちの声筒、未整理の事故票。どれも誰かの過去だが、勝手に鳴り出す物はない。
机の中央に置かれた六角形の記憶容器だけが、頼まれてもいないのに母の声を出した。
『もう一度だけ、そこから歩いてもらえますか』
少し低い、明るい声。
相手の最後の語を繰り返し、続きを促す癖。
高い音だけを聞き落とすため、遠くの警報へ半拍遅れて顔を上げる癖。
火群灯里だった。
少なくとも、灯里に似せることを仕事にした者が、七瀬より灯里を知っている。
容器の中で、画面は揺れていた。
黄色い防水外套。
濁った水。
古い共同住宅の西階段。
階段を上り終えた女性と、小さな子ども。
子どもは泣いている。
女性は片方の靴を失っている。
すでに安全な踊り場へ着いている。
『今のところ、撮れていなくて』
灯里の声。
『撮れていない?』
女性の声が返る。
『最後の三段だけです。危険なところへは戻しません。ここから、もう一度――』
『嫌です』
七瀬は再生輪を止めた。
午前七時二十一分三十八秒。
母が拒否された時刻ではない。
七瀬が拒否を聞いた時刻だ。
彼女は右手で机の縁をつかみ、左腕を腹へ寄せた。左肩の慢性炎症は、七月の公開試合から悪化してはいない。良くもなっていない。朝一番は、関節の奥へ細い錆釘が一本残っているように痛む。
記憶容器へ手を伸ばす。
触れる直前で止めた。
机の横に、薄い封筒がある。
《試聴見本》
《競売番号十一》
《閲覧期限 八月九日午前八時》
《未入札の場合、原権利者の指示により消去処理》
原権利者。
誰なのか書かれていない。
「七瀬」
窓の外から声がした。
竜胆迅は、扉を使わず窓枠へ片手を置いていた。
入ってはいない。
記録室では、呼ばれる前に敷居を越えない。七瀬が一度、機材泥棒と間違えて三脚で殴ったからではない。二度目も殴られたくないからだ。
「窓は入口ではありません」
「開いてる」
「換気です」
「人も換気される」
「外へ出てください」
「まだ外」
迅は窓枠の向こうで、濡れた黒髪を指で払った。右手の環指と小指だけ動きが少し遅い。気温は高いが、雨の翌日は古傷が痺れる。
「声、灯里さん?」
七瀬は答えなかった。
答えないまま、容器の再生輪を戻す。
「入って」
「窓から?」
「扉から」
「遠い」
「四歩です」
「数えた?」
「あなたが毎回、窓から入ろうとするので」
迅は一度姿を消し、六秒後に扉から入った。
四歩ではなかった。廊下の桶を避けたから五歩だ。
七瀬は言わない。
記憶容器を再生する。
『嫌です』
女性の拒否。
画面の中で灯里は、撮影機を下ろさなかった。
レンズが少しだけ左へ傾く。子どもの泣き顔を外し、女性の濡れた手だけを入れる。
『嫌、ですね』
灯里は相手の語を繰り返す。
取材の技術だった。
相手に、もう一言を言わせる技術。
『歩きません。撮らないでください』
そこで見本映像は切れた。
黒い画面へ、白文字が浮かぶ。
《競売番号十一》
《推定市場価格 二十八万~七十四万環》
《火群灯里・未公開災害記憶》
迅が椅子を引いた。
座らず、背へ手を置く。
「最後、切ってる」
「見れば分かります」
「切る前に何があった」
「見れば分かりません」
「誰が送った」
「差出人欄は空白。配送印は蔵座」
「売るところ?」
「競売所です」
「同じ」
「同じではありません。売る意思、所有権、競売資格、閲覧権が別です」
「巴みたい」
「褒め言葉として受け取ります」
「本人が聞いたら訂正される」
「それも褒め言葉です」
七瀬は封筒を裏返した。
封蝋の代わりに、薄い透明札が貼られている。
そこへ十二の小さな点。
十二ロット。
その一つだけ、黄色に光っている。
「母の物は、これだけではありません」
「どうして分かる」
「見本の識別音が二重です。背景音の下に、別の容器番号が混じっている。少なくとも二つ。たぶん――」
七瀬は口を閉じた。
たぶんを嫌う。
特に、自分が期待している時は。
「少なくとも二つ」
言い直した。
迅は容器を見た。
「買う?」
「所有者を確認します」
「買わない?」
「質問の順番が違います」
「期限、四十分」
「試聴見本の期限です。競売は八月十四日」
「消されるって」
「《原権利者の指示により》です。誰が指示したか確認します」
「四十分で?」
「三十九分になりました」
迅は扉の方を見た。
「誰を呼ぶ」
「全員ではありません」
「聞いてない」
「顔が全員を呼ぶ顔でした」
「顔で責任は分からない」
「凱の台詞を盗らないでください」
「王、やめたから余ってる」
「台詞に王位はありません」
迅は椅子へ座った。
七瀬は撮影機を机へ載せる。
左肩へ掛けない。
腰高の固定台へねじ止めする。
「撮る?」
「見本容器の外観、封筒、配送印、再生時刻。内容は撮りません」
「どうして」
「記憶内の女性が撮影を拒否している」
「今の容器を見てないかもしれない」
「見ていない可能性が高いです。だから、拒否を無効にはしません」
「灯里さんの記録でも?」
七瀬は撮影機の高さを一目盛り下げた。
「母の記録だから、私が見ていいとは限りません」
「今、見た」
「送られてきました」
「開いた」
「開きました」
「責任は」
「私です」
迅は何も言わなかった。
責めない沈黙は、慰めより長く残る。
七瀬は映像の内容ではなく、容器のラベルを撮った。
《十一》
《所有者欄 非公開》
《出品者欄 代理》
《破棄権 落札者へ移転》
最後の一行で、クランクが止まった。
「破棄権まで売る」
迅。
「書いてあります」
「買った奴が消せる」
「買わなければ、今朝消される可能性がある」
「二択?」
「二択に見せています」
「三つ目」
「競売の外で、所有者へ返す」
「四つ目」
「共同保管」
「五つ目」
「限定閲覧」
「六つ目」
「本人が自分で破棄する」
「もうある」
「何が」
「答え」
「選択肢です。答えではありません」
迅は赤い七結びを親指で押した。
「じゃあ、選べる奴を探す」
「その前に、誰が選べるかを確認します」
「遅い」
「速く間違えるよりは」
「遅く間違えることもある」
「知っています」
七瀬は通信筒を取った。
最初に呼んだのは、凱でも巴でもない。
外環共同病院だった。
八番室ではなく、限定照合担当。
記憶内の人物が誰かを公開せず、生存確認と本人連絡の可否だけを調べる窓口だ。
返答まで十二分。
七瀬は待つ間に、封筒の紙を斜め光へ当てた。
透かしは旧金融区の質蔵組合。
下端に、微細な数字。
《手数料 落札額の二十二%》
「高い」
迅。
「市場手数料としては異常ではありません」
「母親を買う手数料?」
七瀬の右手が止まった。
「母を買うのではありません」
声が細くなる。
「記録です」
「ごめん」
迅は短く言った。
「謝罪、早いですね」
「間違えた」
「私もです」
「何が」
「いま、記録と言えば私情ではないように聞こえると思いました」
容器の中には、母の声がある。
母ではない。
では、母でないなら失っていいのか。
そうではない。
物と人を分けることは、物を軽くすることではなかった。
通信筒が鳴った。
《対象候補一名、生存確認。現在連絡の可否を本人へ照会中。映像内容、氏名、所在は伝達不可。返答見込み、午前八時三十五分以後》
試聴見本の期限は午前八時。
「間に合わない」
迅。
「本人へ連絡する方が先です」
「消されたら」
「消去した者の責任を追います」
「戻らない」
「戻りません」
「だから止める?」
「止めます。ただし、私が所有者になるためではありません」
七瀬は蔵座へ通信をつないだ。
三度呼び出し音。
『蔵座、記憶競売場〈メモリー・フロア〉の事前取引窓口です。入札、委託、査定、消去のどちらでしょう』
「四択ですね」
『現在の受付分類です』
「競売番号十一。試聴見本の消去停止を求めます」
『入札保証金を』
「所有権を主張していません。本人照合中です」
『保証金なしの保全は、保管費が発生します』
「金額」
『一時間、三千二百環』
「根拠」
『冷却、封印、逸失利益』
「消去予定の物へ、逸失利益を計上するのですか」
向こうで、紙をめくる音がした。
『落札可能性です』
「支払います。六時間」
迅が顔を上げる。
七瀬は手で止めた。
『一万九千二百環。返金なし』
「請求名義は火群七瀬。支払目的は所有取得ではなく、本人照合のための時限保全。領収書へそのまま記載してください」
『競売参加は』
「まだ決めません」
『保全費は落札代金へ充当できません』
「承知しました」
通信が切れた。
迅は机へ小銭袋を置いた。
「足りる?」
「あなたの金は受け取りません」
「どうして」
「目的を聞いていないからです」
「消させない」
「誰のために」
「今、決める?」
「今、聞きます」
迅は窓の外を見た。
「七瀬が、あとで見なかったことを後悔しないため」
「本人のためではない」
「本人が見せたくないなら、見ない」
「では、何のため」
「選べる時刻を残すため」
七瀬は小銭袋を見た。
「貸付です」
「返さなくていい」
「受け取りません」
「じゃあ、貸す」
「利息」
「一環」
「期限」
「競売が終わるまで」
「何が終わった状態ですか」
「誰が見るか、誰が持つか、誰が消すかが別になった時」
迅は、何かの正解を先に知っていたわけではない。
ただ、目の前の容器を殴れないと分かっている。
「借ります」
七瀬は言った。
「記録します」
「金を貸した記録?」
「目的も」
「恥ずかしい方は」
「どちらですか」
「一環」
迅は椅子の背へ顔を伏せた。
午前七時五十六分。
試聴容器の消去表示が、赤から灰へ変わった。
《保全中 六時間》
その下へ、新しい文字が出る。
《競売見本 二》
机の反対側に、もう一つの容器が自動で開いた。
火群灯里の声ではなかった。
男の声。
弱く、遠い。
『迅。七歩目は――』
椅子が倒れた。
迅が立っていた。
画面には、濁流の向こうへ消えた竜胆岳の横顔が映っている。
白文字。
《競売番号十二》
《竜胆岳 最後の命令》
《推定市場価格 百二十万~三百八十万環》
迅は容器へ手を伸ばした。
七瀬が、その手首をつかんだ。
「触らないで」
「声」
「似ています」
「兄貴だ」
「まだ、分かりません」
『七歩目は――』
音声はそこで切れた。
岳の口元と声が、二枚の刃のように別々の時刻で止まる。
七瀬には見えた。
迅には、まだ見えない。
見えないことを、七瀬は勝利だと思わなかった。
午前七時五十九分五十八秒。
二つの記憶容器は、同時に灰色へ変わった。
《保全中》
母の声。
兄の声。
どちらも、持ち主の名前をまだ書かれていなかった。
迅は倒れた椅子を起こさなかった。
床へ落ちたままの椅子は、足の向きで七瀬の固定台へ触れそうになっている。七瀬は右足で三センチだけ押し戻した。
「もう一度、再生する」
迅が言う。
「しません」
「一回じゃ分からない」
「だから、今は分からないと記録します」
「兄貴の声だ」
「声紋照合はします」
「口が動いてる」
「音と口形が一致するかも照合します」
「俺は分かる」
「分かることと、証明できることは別です」
「証明できなきゃ、兄貴じゃない?」
「あなたの兄であることを、私が決める話ではありません」
迅の右手が、容器の上で震えた。
古傷の痺れだけではない。
「最後の命令って、何だ」
「題名です」
「誰が付けた」
「まだ分かりません」
「兄貴は、最後だと知ってた?」
「分かりません」
「何なら分かる」
七瀬は容器の側面を見た。
音声採取番号。
映像採取番号。
封印時刻。
編集履歴欄は、黒く塗り潰されている。
「音声と映像が、同じ番号ではありません」
「別の機械で撮った?」
「別の時刻かもしれない。別の場所かもしれない。単に管理番号の体系が違う可能性もあります」
「また、可能性」
「可能性を一つへするために、時間が要る」
「時間を買った」
「選ぶ時間を借りました」
「金で」
「あなたからも」
迅は小銭袋を見た。
「兄貴の声を買う金じゃない」
「そう記録しました」
「記録したら、違わなくなる?」
「違った時に、誰が嘘をついたか追えます」
「俺が嘘ついたら」
「追います」
「七瀬が」
「追います」
「灯里さんが」
七瀬の呼吸が一度だけ止まった。
「追います」
迅はようやく容器から手を離した。
「母親でも?」
「母親だから、追わないと私が決める権利はありません」
「追って、嫌いになったら」
「その時、考えます」
「長いな」
「短くすると、先に結論になります」
迅は倒れた椅子を起こした。
座らない。
今度は、七瀬の固定台から一歩離して置く。
「俺、ここにいる」
「何のため」
「触らないため」
「一人では触る?」
「たぶん」
「たぶんは嫌いです」
「じゃあ、触る」
「言い切らないでください」
「だからいる」
七瀬は二つの容器の間へ、白い紙を置いた。
《内容再生停止》
《外装照合のみ》
《本人確認前の公開禁止》
紙は、母と兄を同じ物にしない。
ただ、二つとも今は開かないという、同じ手順を置いた。
人は違う。
止める理由も違う。
同じなのは、急いで答えにしないことだけだった。
午前八時四分。
環玉樹が、返事より先に領収書を持ってきた。
「火群七瀬、誰へ、何のため」
緑のニット帽。
胸より大きい鉄箱。
左右で色の違う靴紐。
雨の後でも、封筒の角は濡れていない。
「蔵座から私へ。競売番号十一と十二の六時間保全。本人照合と真正性確認のため」
「十二も?」
「追加費用なしで二つ目が開きました」
「無料?」
「抱き合わせです」
「無料より嫌なやつ」
タマキは領収書を机へ置いた。
《一万九千二百環》
《時限保全》
《所有取得ではない》
最後の一行を、指で二度なぞる。
「誰が払った」
「私と迅。貸付」
「僕も出す」
「目的」
「消される前に、受取人へ聞く」
「受取人は」
「分からない」
「では、受け取れません」
「迅のは受けた」
「貸付条件を決めました」
「僕も決める。五百環。利息、切手一枚。期限、返す人が決まるまで」
「現金は足りています」
「お金じゃなくて仕事を貸す」
「配達?」
「十二個、誰から誰へを調べる。中身は開けない」
タマキは記憶容器へ顔を近づけなかった。
荷物の中身を知らずに運んだ過去がある。
だから、何も見ないことを中立とは呼ばない。
目的だけは聞く。
「依頼します」
七瀬は言った。
「報酬は通常料金。危険区域加算は、蔵座の構造を確認してから」
「受けた」
タマキは鉄箱から小さな鏡を出した。
「十二の声、岳?」
「真正性未確認」
「迅は」
「本人だと思っています」
「七瀬は」
「偽物の可能性が高いと考えています」
迅が顔を上げる。
「高い?」
「口元と音がずれています」
「水門の映像は、遠い」
「距離による遅延は一定です。最初の《迅》は合っている。次の《七歩目》だけ、〇・一三秒遅い」
「兄貴が言い直した」
「可能性はあります」
「じゃあ本物」
「可能性があることと、確定は違います」
「声紋は」
「零番街に残る岳の記録と照合します。ただし、声紋が同じでも文章を継ぎ合わせられる」
「映像は」
「岳の既存映像に、別の口元を重ねられる」
「何で分かる」
「私が、母の映像を直す時に同じ技術を使います」
迅の目が細くなる。
「使う?」
「破損した駒を補うためです。使った箇所は記録します」
「偽物作れる」
「作れます」
七瀬は逃げなかった。
「だから、作られた物を見つける責任もあります」
タマキは二つの容器の間へ、白い紙片を置いた。
《まだ分からない》
「売る人は、分かってる?」
「分かっていると言うでしょう」
「買う人は」
「分かりたいと言うでしょう」
「どっちが持ち主?」
七瀬は答えなかった。
記憶は、物のように持てる。
だから物より簡単に、人の内側へ入り込む。
午前八時十八分。
獅堂凱が来た。
白い長外套は着ていない。
灰色の作業上着。左膝の黒い装具。胸の割れた青銅鐘も、今日はない。
王位を終えたから外したのではなく、外装板撤去の仕事で金属が引っかかるから置いてきた。
「緊急と聞いた」
「緊急という言葉は使っていません」
七瀬。
「タマキが《午前八時までに母と兄が売られる》と言った」
「要約」
「間違ってる?」
タマキ。
「人物そのものは売られません」
「記憶」
「所有者未確認」
「だから長くなる」
タマキは鉄箱へ座った。
凱は倒れた椅子を起こし、脚の曲がりを確認した。
直さずには通れない。
「競売を停止させる」
「誰の権限で」
七瀬が訊く。
凱は椅子を置いた手を離した。
二十歳になり、王をやめてから一か月。
命令の最初に主語を探す癖は、まだ新しい。
「蔵座の営業許可を出した旧金融区管理会へ、所有者照合が終わるまでの停止を申請する」
「申請者」
「獅堂凱。期限付き医療連絡の仕事は七月で終わった。現在の役職はない」
「空白の旗は」
「所有権争いへ組織名を使わない」
「受けました」
凱は十二番の見本を見た。
岳の口が止まっている。
「再生しないのか」
迅が言う。
「俺へ聞くな」
「岳、知ってる」
「知っていた。持ってはいない」
「命令の続き、覚えてる?」
凱は画面へ近づかなかった。
「七歩目は、源を見ろ。似た言葉は聞いた」
「いつ」
「第七水門の前。映像の場面ではない」
「じゃあ継ぎはぎ」
「それも確定ではない。岳は同じことを何度も言った」
「何で黙ってた」
「聞かれなかった」
迅の手が椅子の背を握った。
右小指が遅れた。
「兄貴の言葉、他に」
「今、全部を出せば、売り物と競争する」
「競争?」
「どちらが本物らしいかを、俺と容器で争うことになる。しない」
凱は、十二番の容器へ背を向けた。
「真正性の確認へ、俺の記憶は出す。ただし公開も所有移転も許可しない。照合者と範囲を決めろ」
「分かりました」
七瀬は記録した。
凱は一度、窓の外へ目をやる。
「入札資金が必要なら」
「買う前提にしないでください」
「停止申請が却下された場合、場内へ入る資格が要る」
「保証金は一人三万環です」
「高いな」
「元王割引を求めますか」
「求めない」
「冗談です」
「分かりにくい」
「能力減衰より先に、冗談理解を検査すべきでした」
凱は眉を寄せた。
迅が笑った。
「今のは分かった」
「黙れ」
言い合いが一つ入ると、容器の声が少し遠くなる。
遠くなっても、消えない。
午前八時三十六分。
病院から二度目の返答が来た。
《対象候補本人と接触》
《見本内容の追加再生を拒否》
《現在の希望:消去しない/公開しない/連絡先を競売所へ渡さない》
《本人が次の選択を行うまで、保全のみ》
「三つ」
タマキが読む。
「消さない。見せない。名前を渡さない」
「同時に成立します」
七瀬は答えた。
「競売所は、買うか消すかしか書いてない」
「だから、止める理由になります」
迅が十一番の容器を見る。
「本人、母さんの映像の人?」
「確認していません」
七瀬。
「病院は知ってる?」
「候補本人とだけ書いてあります」
「会える?」
「本人が連絡先を渡さないと選んでいます」
「じゃあ、どうやって守る」
「会わずに守る方法を作ります」
「難しい」
「はい」
七瀬は、難しいと言った。
できるとは言わない。
八時四十二分。
蔵座から、十二ロットの出品目録が届いた。
内容は題名だけ。
《一 母の椅子》
《二 右腕の終業》
《三 朝四時の別れ》
《四 赤錆炉の三分》
《五 借りた名字の夕食》
《六 青い薬包四十二》
《七 灰色廊下の投与列》
《八 七番水門・声だけ》
《九 編集卓十五分》
《十 黒雨前夜の配給会議》
《十一 西階段の二度目》
《十二 竜胆岳・最後の命令》
七瀬は、題名を一つずつ撮った。
内容は撮らない。
九番で、クランクの速度が一度落ちた。
《編集卓十五分》
母は撮影者だった。
編集を他人へ渡すことを嫌った。
それでも、十五分を誰かと共有している。
「知ってる名前、何個」
タマキ。
「題名からは、三つ」
「中身を見たら」
「増えるかもしれません」
「見ないと分からない」
「見たら、戻せない」
凱が目録を受け取る。
「競売停止申請へ添付する」
「題名を公開しますか」