第340話 第十二章「名前で呼ぶ」後編

「私が聞く」

「俺へ戻すな」

「七日間の担当でしょう」

「今夜の十分は終わった」

 女は凱を見る。

「不安じゃない?」

「不安だ」

「残りたい?」

「残りたい」

「じゃあ、なぜ帰る」

「残ることを、仕事の質と混ぜないためだ」

 女は空床表へ自分の名を書く。

 凱は席を立つ。

 王だった頃、机を離れる時は、誰かが椅子を引いた。

 今日は、自分で折り畳む。

「それ、使う」

 女。

「椅子?」

「次の十分」

 凱は椅子を戻す。

「受けた」

 机の向こうから、もう凱へ命令が来る。

「帰って休んで」

「命令か」

「医療連絡担当から、委任外の人へ助言」

「具体性は」

「左膝を冷やす。水を飲む。今夜は階段を使わない」

 凱は頷いた。

「受けた」

 二十時三十分。

 南広場に、外装板が三枚残っていた。

 七月六日の外装撤去で、予定どおり外せなかった板。

 あの日、人を落とさず六枚を下ろし、三枚を翌日へ送った。

 翌日は公開判定の準備で延びた。

 さらに判定。

 再戦。

 医療。

 委任。

 板は、予定を責めずに残っている。

 凱は作業上着を着る。

「今から?」

 迅が訊く。

「検査だけだ。撤去は明日八時」

「医療者、夜間立位を」

「十分以内」

「覚えてる」

「忘れない」

「能力より便利」

「記憶か?」

「人の注意」

 凱は図板を持つ。

 作業員は七人。

 以前の二十七人より少ない。

 凱は全員の名前を知らない。

「明日の作業を説明する」

 七人が見る。

 すぐに背筋は揃わない。

「一班、二人。北の吊り索。板を下ろすまで離さない。二班、三人。南の仮支柱。合図の後、右へ倒す。三班、二人。外周で通行止め。作業区画へ入る人へ、理由と終了予定を伝える」

 一人が手を挙げる。

「一班、螺子が落ちた時は」

「作業停止。《螺子》と声を出す。吊り索は離さない」

「板が鳴った時」

《板》。作業停止。両方なら《両方》

「南の支柱、右って、作業員から見て?」

 凱は図を見る。

「違う。俺から見て右と言った。訂正する。東側へ倒す」

 作業員が頷く。

「もう一回、最初から」

 別の一人が言う。

 凱の口が、一瞬だけ硬くなる。

 以前なら、《今説明した》と怒鳴った。

 今も、言いたい。

 疲れている。

 左膝が痛い。

 手が震える。

 王と呼ばれるたび訂正した。

 説明を二度することは、能力減衰への罰ではない。

 最初の説明が、一人へ届かなかったという事実だ。

「繰り返す」

 凱が言う。

 一班。

 二班。

 三班。

 同じ言葉を使わない。

 聞き返した人の位置から、方向を言い直す。

「一班二人。北側の吊り索を持つ。板が床へ下りるまで、手を離さない」

 七人が聞く。

 途中で一度、質問が入る。

 凱は止まり、答える。

 続きを言う。

 最後まで説明する。

「分からないところは」

 凱が訊く。

 一人が手を挙げる。

 凱は怒鳴らない。

 迅は広場の端に座っている。

 右肋部へ冷却布。

 赤い紐をほどき、七つの結び目を一つずつ確かめている。

「凱」

 呼ぶ。

 凱が振り向く。

「何だ」

「十分」

 医療者に言われた立位の上限。

 凱は時計を見る。

 十時ではない。

 零時でもない。

 二十時四十分。

「今日は終了」

 作業員へ言う。

「続きは明日八時。今日の説明で不明点が出たら、紙へ書くか、明日開始前に言え。今夜の連絡先は、俺ではなく南広場の当番」

 当番の名を言う。

 自分へ集めない。

 図板を渡す。

 椅子へ座る。

 作業員たちは、ばらばらの歩幅で帰る。

 凱は誰も呼び止めない。

「呼び方、慣れたか」

 迅が訊く。

「何の」

「凱」

「元から名前だ」

「王より短い」

「字数は同じだ」

「声が」

 迅は赤い紐を結び直す。

「呼びやすい」

 凱は返事をしない。

 南広場の仮設灯が、一つずつ消える。

 最後に残るのは、外装板三枚。

 明日、人の手で下ろす物。

 誰か一人の声へ、急いで従う必要のない夜だった。