第339話 第十二章「名前で呼ぶ」前編
王冠の修理費は、零だった。
壊れていなかったからだ。
七月九日、十八時十二分。
伏見轟は、青銅の縁を右手の指で一周なぞり、布の上へ置いた。
「歪みなし。留め金、摩耗あり。内革、汗。清掃して保管」
「台座は」
迅が訊く。
「安全留めの油切れ。こっちは整備」
「王冠より台座が悪い」
「載せる物より、載せる方が壊れる」
「人も?」
「知らん」
轟は即答した。
「知ってる顔」
「顔で判断するな」
「七瀬に言われるぞ」
七瀬は少し離れた机で、記録映像の保管範囲を確認している。
左肩へ温熱布。
今日は撮影機を回さない。
「呼びました?」
「顔の専門家」
迅。
「違います」
「人の顔で分かるって」
「あなたたちより観察しています」
「認めた」
「観察と断定は別です」
轟が王冠の内側を布で拭く。
青銅には、凱の汗が残っていない。
昨夜、被らなかった。
手で持った跡だけ。
「箱」
轟が言う。
タマキが、鉄の保管箱を運んでくる。
配達用の鉄箱ではない。
旧白冠倉庫から、立会い二名で取り出した木芯入りの収納箱。
表には、《王冠》と書かれている。
タマキが札を剥がそうとする。
「待って」
真琴。
「もう王いない」
「物品名です」
「役職の名前」
「青銅冠と書き換えますか」
「それだと別の物みたい」
「何と書く」
迅が訊く。
タマキは箱を見て考える。
「昔、王冠だった物」
「長い」
真琴。
「王冠、使用停止」
七瀬。
「停止は、また使うかもしれない」
タマキ。
「保管物の名称と、制度の状態を分けます」
真琴は二枚の札を作る。
《物品名 旧白冠青銅冠》
《制度状態 能力保有を資格とする王位運用、終了》
「誰が開ける」
迅。
「現在、決まっていません」
「また空白」
「倉庫鍵管理が未決です。明日まで二重封印」
真琴は箱の左右へ封印紙を貼る。
一枚に審査局。
一枚に七瀬。
「私?」
七瀬。
「記録側の保全者として」
「凱は」
「当事者です。保管責任者にはしません」
凱は部屋の入口にいた。
いつから聞いていたのか。
白い長衣ではない。
紺の作業上着。
左膝の冷却帯。
右手に、左右の大きさが違う靴を一足ずつ持っている。
「俺の王冠を、俺へ預けないのか」
真琴が顔を上げる。
「《俺の》ですか」
凱は箱を見る。
「訂正する。俺が使用していた王冠」
「はい」
「預けないのか」
「預けません」
「正しい」
凱はあっさり言う。
タマキが不満そうに箱を見る。
「凱、最後に触る?」
「必要ない」
「返した感じ、しない」
「昨夜置いた」
「箱に入れるのは今日」
凱は少し考える。
「轟が検査した。真琴が状態を書いた。七瀬と審査局が封印する。俺が触る仕事はない」
「見送る?」
「箱は死なない」
「人も、見送らなくていい時ある?」
「ある」
「いつ」
「本人が見世物にされたくない時」
七瀬が、凱を見る。
妹のことを言っているのか。
十夜の搬送を言っているのか。
王冠を言っているのか。
訊かない。
凱は右の大きい靴を左手へ、左の小さい靴を右手へ持っている。
「それ、直った?」
タマキ。
「靴屋へ出す」
「返品不可」
「返品ではない。加工」
「お金」
「おまえが次の配達で払うと言った」
「いくら」
「見積もりを取る」
「凱が払わない?」
「贈り物を直す費用まで受け取る側が払えば、失敗を隠す」
「払わせるの、王みたい」
「依頼者の責任だ」
タマキは口を尖らせる。
「半分」
「なぜ」
「凱、左右同じって先に言わなかった」
「普通は同じだ」
「普通を紙に書かなかった」
真琴が小さく咳をする。
「タマキの主張に一理あります」
「おまえまで」
「注文書は、左右の足長と装具側を確認する欄がありませんでした」
「靴屋の責任もある?」
タマキ。
「確認手順の責任はあります。ただし注文どおり作った作業費を無償にするかは別です」
「三人で払う?」
「割合を協議」
凱は、左右違う靴を見る。
「王位より面倒だな」
「王位が雑だった」
迅。
凱が睨む。
「何だ」
「何でもない、凱」
役職を付けない。
凱は返事をしなかった。
否定もしなかった。
七瀬が、机の端に積んだ封筒を三つの山へ分ける。
二百十人の証者が、判定の後で選び直した公開範囲だった。
顔と声を残す者。
発言だけを匿名で残す者。
判定の確認にだけ使い、審理終了後は顔も声も閉じる者。
「試合は全部公開でいい」
凱が言う。
「あなたの身体については」
七瀬は封筒を動かさない。
「俺の失敗も」
「あなたの失敗を撮った画面に、他人の顔があります」
「俺が許可しても駄目か」
「あなたは他人の許可になれません」
凱は、すぐには答えなかった。
公開を拒めば、弱さを隠したと言われる。
すべて公開すれば、正直だと言われる。
どちらも、自分一人の話なら簡単だった。
「判定で負傷した証者は」
「氏名も顔も非公開。治療記録は封印して、事故審理に必要な範囲だけ残します」
「俺の謝罪は」
「公開できます。ただし、相手を特定する情報は付けない」
「名を呼ばずに謝るのか」
「名前を奪わずに謝ります」
七瀬は録音機を回さない。
まず、凱へ紙を渡す。
《何を認めるか》
《誰へ向けるか》
《相手に何を求めないか》
凱は三つ目で止まった。
「許しを求めない」
「それを書いてください」
凱は自分の名で書く。
《公開判定で、俺の発動遅延により登録証者一名を負傷させた。判定を続ける判断をした責任は俺にある。治療費と再発防止の審理へ応じる。被害者へ公開の返答も許しも求めない。獅堂凱》
七瀬は読み、余分な勇ましさがないことを確かめる。
「これだけを撮ります」
「試合の映像は」
「二百十通を処理してから」
「遅い」
「人を早く一つにするのを、昨日やめたでしょう」
凱は紙を持ったまま、黙る。
「分かった」
「一回で?」
「聞こえた」
「従ったのでは」
「同意した」
七瀬はそこで初めて録音機の栓を差した。
収納箱は、三人で持った。
轟が右側。
タマキが左前。
真琴が左後ろ。
凱は持たない。
迅も持たない。
倉庫までの通路は、十五段の階段がある。
「凱、来る?」
タマキ。
「階段禁止」
「箱と一緒に斜路」
「仕事がない」
「見たい?」
「見なくていい」
凱は答える。
箱が地下通路へ運ばれる。
王冠の最後の姿を、凱は見送らない。
見送らないことで、拒否しているのではない。
自分がいなくても保管されることを確かめる。
箱は角を曲がり、見えなくなる。
その後も、床は何も変わらない。
王冠を地下へ運んだ後、凱とタマキは靴屋へ行った。
迅は付き添わないと言いながら、三歩後ろを歩いた。
「来てる」
タマキ。
「道が同じ」
「目的は」
「飯」
「靴屋と反対」
「遠回り」
凱が振り向く。
「肋部は」
「医療者に、歩けって言われた」
「三歩後ろで?」
「おまえの歩幅に合わせると遅い」
「帰れ」
「命令、具体性がない」
タマキが笑う。
靴屋は、旧王環の外壁に沿った細い店だった。
看板には《靴・装具・底》とだけある。
王冠より、用途が分かりやすい。
店主は、凱の顔を見て立ち上がりかけた。
「陛――」
タマキが先に注文書を出す。
「依頼者、環玉樹。使用者、獅堂凱。目的、左右を履けるようにする。王冠は持ってません」
「最後の一文は要らない」
凱。
「店の人が立ったから」
「客が来れば立つ」
店主は途中まで伸ばした膝を戻し、座った。
「今日は、立たない方で」
「それも不自然だ」
「難しい客だね」
店主は靴を受け取る。
右二十八・五。
左二十七。
凱の足を測る。
「右二十八・一。左二十七・九。装具を入れる左は、内寸二十八・六必要」
「注文と逆」
タマキが小さくなる。
「逆だね」
店主は淡々と言う。
「右の大きい方は、左用へ作り替えられる。木型を削って、装具の逃げを作る。縫い目は一度ほどく」
「小さい方」
「右へは、革を伸ばしても足りない。先革を替える。形が少し変わる」
「同じ靴じゃなくなる?」
「元から左右で違う」
「もっと違う」
「履く足も違う」
店主は凱を見る。
「見た目を揃えるか、歩き方を揃えるか」
「歩き方」
凱は即答する。
「左膝を守る。右へ負担を寄せすぎない。外見は違っていい」
「王様の靴が左右違うと、絵にならないと言われたことがある」
「今は王ではない」
「じゃあ、凱さんの靴」
「それでいい」
店主は注文書へ書く。
《左右の外観差を許容》
《歩行安定を優先》
《左装具側、踵を四ミリ低く》
《右、先革交換》
「費用」
タマキ。
店主が計算する。
「材料八十。作業百六十。測定二十。合計二百六十」
「誰が払う」
凱。
「私」
タマキ。
「全部は払わせない」
「間違えたの私」
「注文書に左右の測定欄がなかった」
店主が言う。
「店の確認不足もある。測定二十と、作業の四十を店で持つ」
「善意?」
小麦がいないのに、タマキが警戒する。
「再作業責任」
「残り二百」
真琴がいないので、凱が暗算する。
「タマキ百二十。俺八十」
「なんで凱」
「使用者として、左右差を事前に伝えなかった」
「普通は両方同じって」
「普通を前提にした」
「店の人は六十」
「そう」
「迅は」
三歩後ろにいた迅が、店の戸口へもたれている。
「何で俺」
「直せるって言った」
「できるとは言った。やるとは言ってない」
「逃げた」
「職人がいるのに、素人が革を伸ばす方が危ない」
店主が頷く。
「正しい」
「初めて靴屋に褒められた」
「歩き方は悪い」
「取り消しが早い」
支払いは、その場で三つへ分けた。
タマキは百二十を一度に払えなかった。
「今、六十。残り、配達二件分で」
「店が配達を頼む?」
「頼むなら」
「仕事を作って借金を返させる形になる」
凱が言う。
「別にする。残りは三十日以内。利息なし。配達を頼む場合は通常賃金を払う」
店主は注文書の裏へ書く。
「元王様、帳簿に細かい」
「凱だ」
「凱さん、帳簿に細かい」
「王より長く続く」
迅が言う。
凱は返事をしなかった。
店主が、裸足の凱へ仮の木底を出す。
「試しに立って」
凱は立つ。
左の木底は四ミリ低い。
ほんの少し、視界が傾く。
「違和感」
「今まで右へ逃がしてた分を戻す。三分歩いて、痛みを言って」
「我慢できる」
「我慢は測定単位じゃない」
迅が笑う。
「よく言われるな」
「黙れ」
「痛み、十段階」
店主。
「二」
「場所」
「左膝外側。右踵、なし」
「三十歩」
狭い店を往復する。
一歩。
二歩。
タマキは数えない。
七まで来ても、誰も声を出さない。
十四。
二十一。
三十。
「痛み」
「二。変わらない」
「採用」
店主は木底へ鉛筆で線を引く。
凱は椅子へ戻る。
王冠を置いた時より、靴を脱ぐ方が時間が掛かった。
「完成、七月十二日」
「受け取りは」
タマキ。
「依頼者でも、使用者でもいい。代理なら受領札」
「誰が行く」
凱が答える。
「俺が来る」
「仕事、ある?」
「靴を受け取る」
「それだけ?」
「それだけで来る」
タマキは注文書を鉄箱へ入れた。
物を直す約束は、制度ほど大きくない。
大きくないから、日付まで決められた。
地下食堂では、誕生日会の残りが温められていた。
四日前の煮込みを、そのまま出したわけではない。
小麦は残った三人前を当日に急冷し、容器へ時刻を書き、今日の昼に再加熱した。検食を取り、中心温度を確認し、二度目の加熱なので持ち越さない。
「残り物って、説明が長い」
迅が言う。
「短くすると、古い物を出したみたいになる」
小麦。
「古いだろ」
「保存手順を守った物」
「味は」
「食べて判断」
長机に、豆煮が六皿。
蒸しパンの黒豆を刻んで入れた粥。
焼き葱。
卵はない。
小麦の前掛けには、今日の勤務終了時刻が書かれている。
《十四時》
既に過ぎている。
「終業」
イオが指す。
「今は食事」
小麦。
「片づけは」
「次の班」
「手を出さない?」
「出したい」
「出さない?」
「皿一枚だけ洗う」
「契約」
「自分の皿」
「許可」
小麦は豆煮を食べる。
足を椅子の下へ投げ出し、足底を床へ付けない。
低血糖を起こさないよう、食事を後回しにしない。
四日前なら、育ての料理人が生きていると知った直後だった。
今も、競技場の外で有料店を営んでいる。
小麦は声を掛けていない。
机の脇に、紙包みが一つある。
店で買った豆粥。
底へ《六十》と墨がある。
「また買った?」
タマキ。
「今日の分」
「会った?」
「店にいた」
「話した?」
「注文した」
「何て」
「豆粥、一つ」
「それだけ?」
「代金、六十」
「向こうは小麦って分かった?」
小麦は自分の皿を見る。
「分からない」
「顔、見た?」
「見た」
「向こうも?」
「見たかもしれない」
「聞かなかった?」
「聞かない」
タマキは次の質問を作る。
小麦が先に言う。
「今日は、再会する仕事じゃない」
「いつ」
「決めてない」
「届けない?」
「届けない」
タマキは鉄箱へ手を戻す。
届け物にも、送り主と受取人と目的が要る。
本人が送らないと決めたものを、善意で運ばない。
小麦は紙包みを開く。
自分の豆煮と、店の豆粥を一口ずつ食べる。
「違う?」
迅。
「違う」
「どっちがうまい」
「比べない」
「料理人なのに」
「味は比べる。人の生き方は、一口で順位にしない」
小麦はもう一口食べる。
「塩、向こうが少ない。豆、私が固い。油、向こうが古い。葱、私が多い」
「結構比べた」
「料理は」
小麦の声が少し柔らかくなる。
「店、続いてる味だった」
それ以上は言わない。
再会も、和解も、許しも、六十では買えない。
「元王様、豆煮を」
配膳に来た旧白冠の女が言った。
凱が顔を上げる。
「凱でいい」
「いきなりは」
「昨日から言っている」
「呼び捨てにできない」
「獅堂でもいい」
「獅堂様」
「様を外せ」
「無理」
女は豆煮を置く。
「じゃあ、凱さん」
「それでいい」
「元王じゃない?」
「元王だった事実は消えない。今の呼称にするな」
「昔、料理人だった人は元料理人って呼ばない?」
小麦が言う。
「今も料理するなら、料理人」
「今も王の仕事をするなら」
女が訊く。
「王の仕事って、何だ」
凱が返す。
「命令。守る。決める」
「今朝、配給の数量確認をした。医療連絡を受けた。命令は対象ごとに説明した。どれが王だけの仕事だ」
女は考える。
「みんなを、一つにする」
「しない」
「ばらばらになる」
「既に違う」
「同じ敵が来たら」
「その時、必要な範囲を決める」
「遅い」
「遅いかもしれない」
凱は認める。
「だから、事前の連絡と避難手順を作る。俺一人の声を早くするだけには戻さない」
女は納得していない。
「元王様」
もう一度言う。
「凱」
「凱さん」
「二度目で直った」
「子供みたいに数える」
「聞き返されても怒鳴らない練習だ」
凱は豆煮を一口食べる。
「冷めている」
小麦が見る。
「食べるのが遅い」
「話していた」
「再加熱しない。今日二回目」
「そのまま食べる」
「味は」
「悪くない」
「短い」
「豆が少し固い。葱が多い。塩は適切」
「合格」
迅が笑う。
「料理も公開判定」
「証者は」
タマキ。
「食べた人」
「観客は」
「匂いだけ」
「票に入れない?」
「入れない」
小麦が即答する。
凱も頷く。
同じ答えでも、同じ理由とは限らない。
水科イオは、十九時に競技場を出る予定だった。
十八時五十分、まだ相談表を数えている。
「終業」
タマキが言う。
「あと十分」
「何枚」
「四十三」
「十六枚、昨日より増えた」
「公開判定を見て来た人」
相談表には、元能力者の名前だけがあるのではない。
呼称を出さない人。
能力名だけ出す人。
能力を持っていたことを隠したい人。
まだ能力があるが、減衰を恐れる人。
家族が能力者だった人。
仕事を失った人。
仕事を続けたい人。
能力を使わない仕事へ移りたい人。
昔の能力を一度だけもう一度使いたい人。
同じ《元能力者》の欄へ入れれば、紙は短い。
イオは短くしない。
「凱の相談表」
タマキ。
「ある」
「元能力者?」
「まだ能力はある」
「じゃあ、何」
「減衰中。復旧指揮。医療連絡。左膝。家賃問題なし。役職変更あり」
「英雄経験」
「書かない」
「なぜ」
「仕事の資格にしない」
「凱、見た?」
「本人確認済み」
凱は食堂の端で、医療連絡表を閉じている。
「俺の家賃問題なしと、なぜ書く」
「相談者の生活差を隠さないため」
イオ。
「資産がある人と、今夜の宿がない人を同じ緊急度にしない」
「俺を後回しにするか」
「住居では」
「能力判定は」
「終わった」
「調査へ協力する」
「依頼する時、連絡する」
「空白の旗へ入れ」
食堂が静かになる。
迅が凱を見る。
凱は、自分が何を言ったか分かっている。
命令ではない。
勧誘。
それでも、役職を失った直後に、自分の周囲へ人を集めようとする。
王の癖。
「断る」
イオは一拍も置かない。
「理由は」
「調査対象に、あなたたちも入る。所属したら、依頼と監査が混ざる」
「協力者なら」
「案件ごと」
「報酬」
「有料」
「高いか」
「内容による」
「値切れるか」
「理由を聞く」
「強いな」
「腕は弱くなった」
「言葉の話だ」
「言葉は、能力じゃない」
イオは四十三枚を、目的ごとに分ける。
住居。
賃金。
医療。
差別。
再訓練。
契約。
英雄として語られたいという希望も、一枚ある。
イオは捨てない。
「それ、困る?」
タマキ。
「何が」
「英雄って呼ばれたい人」
「本人の希望」
「悪くない?」
「悪くない。仕事や住居の条件へされると困る」
「呼ぶだけ」
「本人が公開範囲を決める」
「凱は王って呼ばれたくない」
「だから直す」
「毎回?」
「疲れるまで」
「疲れたら」
「今日は直さないって言う」
凱が口を挟む。
「俺は直す」
イオが見る。
「ずっと?」
「必要な限り」
「それも能力みたいに使うと、先に身体が切れる」
「名前を訂正するだけだ」
「一日何回」
凱は数えていない。
タマキが答える。
「食堂で七。東門で四。広場で二。今一。十四」
「休止条件、作る?」
イオ。
「名前に休止はない」
「訂正作業にある」
凱は考える。
「俺が疲れた時は、隣の者が《本人は凱を希望》と伝える。ただし、俺の代わりに怒るな」
迅が手を挙げる。
「怒らない保証は」
「おまえには頼まない」
「残念」
イオは相談表の端へ書く。
《希望呼称 凱》
《訂正支援 可》
《代理抗議 不可》
「本当に書くな」
「使える」
十九時。
イオは筆を置く。
相談表を鞄へ入れる。
右腕で持たない。
左肩から鞄を掛け、身体の中央へ寄せる。
「どこへ」
タマキが訊く。
「今日は宿」
「明日」
「相談表の連絡」
「誰」
「公開を選んでいない」
「目的」
「住居と賃金」
「分かった」
タマキは、それ以上訊かない。
イオは競技場の出口で振り返る。
「凱」
呼ぶ。
凱が顔を上げる。
「何だ」
「二十歳、おめでとう」
「八日遅い」
「能力判定が長かった」
「誕生日と別だ」
「分けた」
イオは笑う。
「だから今」
左右違う靴で、外へ出る。
仲間にはならない。
同じ問題へ、別の住所から向かう。
鐘巻十夜からは、紙が一枚届いた。
本人の字ではない。
右手の点滴と胸痛で書きにくいため、看護担当が聞き取った。
《興行契約の停止に同意》
《競技復帰不可の説明を受けた》
《除細動器の治療に同意》
《借金は残る》
《出演料の支払い先は本人》
《犬飼豪をセコンドへ指名しない》
最後に、本人が左手で一行だけ書いている。
《零時一分の診察、十時間遅刻》
豪が読む。
「笑えねえ」
迅。
「本人は笑わせたい」
「笑わない」
「それでいい」
豪は紙を折らない。
「犬舎へ戻る」
「十夜は」
「医療班がいる。俺がいなくても治療は続く」
「次の仕事」
「犬の餌。二時間遅れた」
「待たせないって」
「代わりに頼んだ。俺が帰る時間は待ってる」
豪は右膝装具を締める。
「十夜に仕事、出す?」
タマキ。
「格闘じゃないやつ」
「本人が退院して、できることを確認して、賃金と時間を決めてから」
「実況」
「犬の試合はねえ」
「里親会」
「客を煽るな」
「十夜、得意」
「だから危ねえ」
豪は紙を透明封筒へ入れる。
「安全説明を読ませる仕事なら、考える」
「面白くする?」
「面白くして、止まるところは止める」
「難しい」
「仕事だ」
豪は競技場を出る。
救った相手のそばへ、最後まで残らない。
自分がいなくても続く手順を確認し、別の生き物の時間へ戻る。
夕食の後、凱は七日間だけ受けた医療連絡の仕事へ向かった。
仕事場は、王座ではない。
競技場南口の折り畳み机。
椅子二脚。
空床表。
搬送車の現在地。
終了時刻を書いた札。
《本日 二十時から二十時十分》
「十分?」
タマキが覗く。
「十分」
「短い」
「引継ぎ確認だけだ」
「終わらなかったら」
「次の担当へ渡す」
「凱が続けない?」
「続けない」
言い切るまで、一拍掛かった。
最初の連絡は、北医療路からだった。
《空床三。うち一床は酸素設備なし》
凱は復唱する。
「空床三。酸素設備あり二、なし一。受け入れ可能時刻」
《二十一時まで》
「患者条件」
《歩行一名、担架一名。感染隔離なし》
「記録した」
次。
西診療所。
《空床一。ただし夜間看護二名のうち一名が発熱》
「受け入れ停止を検討している?」
《判断を頼みたい》
以前なら、凱は即答した。
止めろ。
続けろ。
代わりを送る。
今は、委任範囲表を見る。
《搬送先の空床確認。薬の優先順位、病院の勤務判断は含まない》
「俺の範囲ではない」
《では、誰へ》
「勤務責任者と医療者。連絡先を送る。空床表には《判断保留》と書く」
《急患が来たら》
「到着前に、受け入れ可否を病院が決める。返事がなければ、別の搬送先を選ぶ。俺が空床一を使えると保証しない」
相手は沈黙する。
《前なら、決めてくれた》
「前の俺は、看護勤務まで決める権限があると思っていた」
《便利だった》
「便利だった」
認める。
《困る》
「困る」
《それでも、決めない?》
「決めない。連絡先は渡す」
凱は真琴が作った番号札を読む。
相手が復唱する。
通話が切れる。
タマキが訊く。
「助けなかった?」
「連絡を繋いだ」
「それだけ」
「それだけだ」
「王より少ない」
「少ない仕事を、終わらせる」
二十時十分。
札の時刻になる。
次の担当が来る。
零番街の女だった。
「引継ぎ。北、空床三。酸素二。西、空床一は勤務判断保留。責任者連絡済み。東、変化なし」
「受けた」
「未回答一件」