第338話 第十一章「二十歳の署名」後編
「返済義務の有無と、生活の場所は別に検討します」
「みんな欄を増やす」
十夜は目を開ける。
「紙で、心臓も増やせる?」
医師が入ってきた。
「増やせません」
十夜の軽口を、軽口で返さない。
「昨夜の心室頻拍と心停止、既往歴、心筋の瘢痕から、植込み型除細動器の適応があります」
十夜が天井を見る。
「胸に機械」
「鎖骨下へ本体。心臓へ電極。致死性不整脈を検知し、必要なら治療します」
「試合中に電気?」
「競技復帰は認めません」
病室の空気が、音を失う。
十夜は笑おうとする。
「治ったら」
「治療後も、接触格闘と能力使用を含む競技復帰は認めません」
「医者が、興行を決める?」
「医学的な許可を出さない。契約上の判断は別ですが、許可なしで出場すれば、主催者と本人の責任になります」
「俺の仕事」
「競技以外を考える必要があります」
十夜は右手を動かそうとする。
点滴管が引かれる。
「実況」
「可能性はあります。心臓負荷、勤務時間、夜間、興奮誘発を評価する」
「実況で興奮するなって、魚に泳ぐな」
「魚も休みます」
タマキが入口から言った。
鉄箱を抱えている。
「入っていい?」
「患者の同意」
看護担当。
「何を持ってる」
十夜。
「朝ご飯。小麦から。塩分、医者に確認した。粥。六十じゃない」
「値段?」
「賃金込み百二十」
「高い」
「昨日の出演料、出るって」
「財布は」
「乱馬が預かってる。触っていい?」
「右の内ポケット」
タマキは豪を見る。
「患者が言った」
「ゆっくり」
豪が立会う。
財布を出す。
十夜は左手で硬貨を数えようとする。
指が震える。
タマキが待つ。
代わりに数えない。
「百……十」
「あと十」
「一枚、薄い」
「それ、遊技場札」
「使えない?」
「小麦へは」
十夜は笑う。
「借り」
「利率」
「なし」
タマキは自分の硬貨を一枚足す。
「立替。今日中」
「厳しい配達員」
「明日でもいい。今日中って言うと、忘れない」
粥を机へ置く。
十夜は匂いを嗅ぐ。
「閉店後の味」
「朝の味」
タマキ。
「違う?」
「時間が違う」
十夜は医師を見る。
「除細動器、入れたら、零時を越えられる?」
「機械が翌日を保証するわけではありません」
「正しい答え、嫌いだな」
「同意しますか」
十夜は、すぐには答えない。
観客はいない。
録音拍手もない。
最後だと信じる人間もいない。
普通の朝。
粥の湯気。
未払いの借金。
胸の痛み。
競技復帰不可。
格好の悪い翌日。
「説明、もう一回」
十夜が言う。
「同じ内容を?」
「危険と、できないこと。手術後の生活。仕事。費用」
医師は座る。
最初から説明する。
十夜は途中で三度、訊き返した。
四度目に、同意書へ署名した。
字は、いつもの派手な払いがなかった。
《鐘巻十夜》
零時を越えた名前だった。
午後十三時四十分。
公開判定の損害表が、地下食堂の長机いっぱいに広がった。
試合場の石板、二枚。
七段差の縁、一か所。
北通路の遮断扉、解除爪と接点。
転倒した観客の診療、四人。
迅と凱の診療。
十夜の救急処置、入院、検査。
返金。
録音拍手を止めるまでの十二秒に対する追加返金申立て。
音響回線の再工事。
「王をやめたら、払わなくていい?」
タマキが訊く。
「逆です」
真琴。
「役職で負った責任を、辞任によって消さない」
「凱のお金?」
「凱本人、興行主催、審査局、各担当者の責任を分けます」
「十夜は」
「再開行為の責任はあります。ただし、救急医療費を本人の出演料から差し引きません」
「乱馬」
「録音拍手と宣伝」
「七瀬」
「記録の担当。損害原因は現在なし」
「俺」
「贈り物の靴は別会計です」
「聞いてない」
「顔が」
「顔で分かるって言うの、七瀬だけじゃない」
真琴は損害表へ戻る。
凱が、自分の欄を読む。
《公開再戦の提案》
《能力減衰を認識しながら参加》
《第一ラウンドで石板一枚を破損》
《第二ラウンドで迅へ右肋部打撲》
《停止宣言を行った》
《停止後の再開には同意していない》
「打撲は試合契約内だ」
凱。
「医療費も契約内です」
「迅の取り分から払え」
「傷を負った人の報酬から治療費を引くのですか」
「違う。俺の出演料からだ」
「あなたの出演料は、ありません」
「なぜ」
「判定申請者です」
凱の眉が上がる。
「乱馬」
「王様は客を呼ぶから無料出演、という契約だった」
乱馬は正直に言う。
「王ではない」
「契約時は」
「無料にしたのは誰だ」
「凱」
「なら、今から請求する」
真琴が止める。
「完成した役務へ、後から報酬を設定すると利益相反になります」
「では、俺の資産から払う」
「支払う範囲を決めます」
「全部だ」
イオが、用紙を凱から取る。
「全部って言う人、信用しない」
「なぜ」
「計算してないから」
「払える」
「払えることと、原因は別」
「俺の再戦だ」
「十夜が再開しようとしたのも?」
「止めきれなかった」
「録音拍手の回線も?」
「確認しなかった」
「遮断扉の接点も?」
「会場を選んだ」
「観客が北通路へ押したのも?」
「俺の試合を見に来た」
イオは紙を机へ置く。
「何でも自分へ戻す。王をやめても、王の癖は残る」
凱の顔が硬くなる。
「責任を逃げない」
「他人の責任を奪うのも、逃げ」
乱馬が椅子へ座り直す。
「それは俺の分だ」
録音拍手。
最後の字幕。
客席へ決着を求めさせた宣伝。
「十夜を最終興行として売ったのも、俺だ。凱の資産で払われたら、次もやる」
「やるのか」
凱。
「払わなかった責任は、忘れる」
乱馬は自分の欄へ署名する。
「俺は、録音系統の再工事、停止後十二秒分の返金、観客向け映像の保管停止費を負う」
審査主任も書く。
「審査局は、能力判定と興行回線を同じ主卓へ接続した監督責任、部分発動欄を設けなかった規格責任を負います」
音響担当者が、自分の確認不足を書く。
技師が、遮断扉の迂回電源を記録する。
十夜の責任欄は、本人が判断できる状態になるまで保留。
「保留は免責ではありません」
真琴が言う。
「医療同意中の本人へ、今すぐ署名を取りに行かないという意味です」
凱は残った自分の範囲を見る。
公開再戦の申請。
能力低下を把握しながら開催を求めたこと。
石板破損。
自分と迅の診療費。
王冠台座の安全確認を事前に依頼しなかったこと。
「俺の資産から」
「金額は、査定後」
「上限を付けるな」
「上限ではなく、原因範囲です」
凱は署名する。
王をやめた宣言より、小さい字。
それでも、こちらの方が長く残る。
宣言は一度で終わる。
支払いは、何度も続く。
乱馬は署名した紙の下から、薄い音声箱を出した。
赤い布が巻かれている。
題名の欄は、黒墨で潰されていた。
「録音拍手の原盤を全部提出した時、同じ箱から出た」
カナタの指が、半面の紐へ触れる。
「いつの?」
「五年前」
答えだけで分かった。
母代わりの座長が、舞台裏で倒れた夜。
幕を下ろさなかった夜。
七瀬は音声箱を手に取らない。
「公開資料ですか」
「違う」
乱馬。
「じゃあ、なぜここへ」
「本人へ返す」
カナタは椅子へ座らない。
右足首を庇い、机へ片手をつく。
「聞く」
「撮影は」
「なし」
「記録は」
「聞いた時刻と、保管先だけ」
七瀬が紙へ時刻を書く。
音声箱を小型再生機へ入れる。
最初に、舞台の床を走る足音。
次に、客席の拍手。
近すぎる呼吸。
女の声が入る。
《幕を、下ろして》
細い。
それでも、命令だった。
数秒の空白。
幼いカナタの声。
《だめ。次の場面まで。お客さん、待ってる。続けて》
今より高い。
舞台の声と私語の区別が、まだない。
続いて、十四歳の乱馬の声。
《続行》
拍子木。
歓声。
女の呼吸は、その音の下で聞こえなくなる。
七瀬は停止する。
カナタは面を外さない。
「僕が言った」
「言った」
乱馬は否定しない。
「兄ちゃんが隠したんじゃなかった」
「隠した」
「今、音が」
「おまえの声を隠したんじゃない。あの人が《下ろして》と言った方を、聞こえなかったことにした」
「僕が続けてって」
「舞台監督の腕章を着けて、続行と言ったのは俺だ」
「十四歳だった」
「おまえはもっと小さかった」
二人とも、年齢を免責にはしない。
罪の大きさを競うためにも使わない。
カナタが再生機を見る。
「兄ちゃんだけの話じゃなくなった」
「軽くなったか」
「重い場所が増えた」
乱馬は笑わない。
「公開する?」
「しない。今は」
「俺の責任を隠すことになる」
「公開しないのは、許すことじゃない。僕が、自分の声を客席へ売るか決めてない」
七瀬が二枚の封印紙を出す。
一枚をカナタ。
一枚を乱馬。
「どちらか一人が開けても、再生しません。保全確認だけです」
「仲良しの鍵だ」
乱馬が言う。
「そういう演出、要らない」
カナタが答えた時、声が途中で割れた。
高い音だけが抜ける。
咳ではない。
喉を守ろうとして、声帯が閉じきらない音。
乱馬が面を見る。
「いつから」
「三回前の稽古」
「聞いてない」
「言ってない」
「能力は」
カナタは、少し長く黙る。
「予告拍手〈コール・アンド・クラップ〉も、三つ目が遅れた。次は二つ目。昨日は、呼ばなかった」
次の三動作を告げ、観客が覚えて待つほど精度を上げる誓痕。
動作を予告する声が保たなければ、能力以前に舞台が崩れる。
「減衰か」
乱馬。
「能力側は減衰所見。喉は発声疲労。今朝、別々に診てもらった」
「今日の本番前に言え」
「言ったら、僕まで《最後》にしたでしょ」
乱馬は反論しかける。
自分が十夜へ付けた字幕を思い出し、口を閉じる。
「何と書く」
「休演」
「期間」
「空欄。診察して、声が戻って、能力がなくても舞台へ立つか自分で決めるまで」
「長いな」
「短く見せない」
カナタは真琴から用紙を受け取る。
《歌唱・予告演技・誓痕使用を休止》
《再開日 未定》
《医療再評価と本人同意を要する》
《代役、公演中止、返金を演者本人の負債へしない》
右手で署名する。
乱馬は隣へ署名しない。
「主催者欄」
真琴が指す。
「俺が書くと、休ませてやったみたいになる」
「主催者として休演条件を受領した責任です」
乱馬は署名する。
カナタは紙を見て言う。
「幕を下ろすの、五年遅い」
「下ろした後も、片づけがある」
「それ、名言にしないで」
「もう言った」
七瀬は撮っていない。
言葉は、拍手も映像もなく、三人の間だけに残った。
夕方までに、十一の仕事のうち九つへ責任者が決まった。
二つは決まらない。
旧白冠倉庫の鍵管理。
能力判定原本の保管。
鍵を持ちたい者は多い。
持たせたい者が一致しない。
原本を公開したい者と、個人情報を守りたい者も一致しない。
「今日中に決める」
凱が言う。
「決めません」
真琴。
「倉庫は夜になる」
「封印して、明日まで開けない。必要な医療物資は、立会い二名で別に取り出す」
「原本は」
「審査局と七瀬の二重封印。閲覧停止。明日、公開範囲を審理」
「空白を残すのか」
「空白へ、期限と保全手順を書きます」
真琴は未決の欄へ赤い線を引く。
《未決》
《次回審理 七月十日九時》
《保全責任 審査局一名/記録側一名》
《緊急開封 双方立会い》
決まらないことを、決まったふりにしない。
空欄は無責任ではない。
誰も決めていないと読める空欄なら、次に決める人を待てる。
凱は最後の委任状へ署名する。
王環中央・北塔の医療連絡。
七日間。
右手の震えは、朝より少ない。
名前の払いは、まだ揃わない。
「二十歳の署名」
タマキが言う。
「年齢は関係ない」
凱。
「昨日までと違う」
「役職が」
「名前は同じ」
凱は署名を見た。
《獅堂凱》
王の時も、同じ四文字を書いた。
同じ名前が、違う範囲へ責任を持つ。
人は役職を失っても、別人にはならない。
同じ人間のまま、できることと、してよいことを選び直す。
真琴は委任状を九枚重ねる。
全部を一つの旗芯へ留めない。
仕事ごとに別の封筒へ入れる。
封筒の厚さは違う。
終了日も違う。
同じ時刻に、同じ王へ集まらない書類だった。