第337話 第十一章「二十歳の署名」前編

王位が終わった翌朝、配給車は王位の終了を知らなかった。

 七月九日、午前六時二十分。

 旧王環競技場の東門に、乾燥豆一・八トン、飲料水三・二トン、医療用酸素十二本を積んだ車が着いた。

 運転手は伝票を出す。

「受取責任者、獅堂凱」

 朽葉真琴は、伝票を受け取らなかった。

「その委任は、零時二十四分に終了しました」

「荷物は終了しない」

 運転手。

「承知しています」

「じゃあ、誰が受ける」

「現在、決まっていません」

「持って帰る?」

「それは困ります」

「こっちも困る」

 豆は、書類を待たない。

 水も、制度が整うまで腐らないとは限らない。

 酸素は、名札がなくても必要な人間へ届かなければならない。

 代表権を空白にすることは、権力を消すことではない。

 誰が鍵を開けるか。

 誰が荷を数えるか。

 誰が足りないと言うか。

 誰が盗難の責任を負うか。

 空白の中で、仕事だけが先に人を選ぶ。

「暫定受領を作ります」

 真琴が言う。

「何分」

「十五分」

「水、日が当たる」

「東壁の日陰へ移動してください」

「移動の責任者は」

 真琴は答えられない。

 運転手が荷台の扉へ手を置く。

「俺が運転してきた。日陰へ動かす。荷は開けない。それでいい?」

「お願いします。移動時刻と車両番号を記録します」

「名前も?」

「公開範囲は」

「伝票にはある。掲示には出すな」

「承知しました」

 運転手は車を動かす。

 王がいなくても、荷は日陰へ入った。

 ただし、その一つの判断に、三つの確認が必要だった。

 遅い。

 遅さは、失敗ではない。

 急ぐ理由がある時、どこを短くするかを選ばなければ失敗になる。

 午前六時三十一分。

 真琴は東門の折り畳み机へ、白紙を五枚置いた。

 旧委任状をそのまま使わない。

 上段には、こう書いてある。

《旗主名》

《誓痕名》

《大誓》

《領域》

《永久責任》

 今朝、その五つは使えない。

 使わないと決めた。

 真琴は一枚目を裏返す。

「裏へ書くの?」

 タマキが訊く。

「新しい紙が足りません」

「古い言葉、透ける」

「厚紙を重ねます」

「消した方がいい」

「原本を消すと、変更履歴が失われます」

「じゃあ、見えないけど残る?」

「そうです」

「悪いことみたい」

「良いことでもあります」

 真琴は黒い紙を旧欄の上へ置き、その上から新しい欄を貼る。

《仕事》

《対象範囲》

《開始時刻》

《終了時刻》

《責任者》

《共同確認者》

《拒否できる人》

《変更窓口》

《費用》

《事故時の連絡》

 水科イオが椅子へ座ったまま見る。

 昨夜の能力使用後から、立位は短時間に制限されている。

 胸へ付けた電極の跡が、襟元に二つ見える。

「能力欄」

「削除しました」

 真琴。

「身体技能」

「仕事欄へ書きます」

「今できることと、支援があればできることを分けて」

「欄が増えます」

「増やす」

「紙幅が」

 タマキが別の紙を横へ貼る。

「長くする」

「また?」

 真琴は南環市場で作った平文契約を思い出す。

 紙は、長くなる。

 人を一語へ入れないために。

 イオが項目を言う。

《現在できる作業》《支援があればできる作業》。《本人が拒否する作業》。《勤務可能時間》。《休止条件》。《連絡方法》。《住居へ影響するか》」

「最後は委任状に必要ですか」

「夜勤を受けると宿を失う人がいる」

「賃金」

「費用欄に埋めないで、独立」

「なぜ」

「材料費と人件費を混ぜるから」

 小麦が豆の荷台から来る。

「賛成」

 山吹色の前掛け。

 足底の痛みを減らす厚い中敷き。

 昨夜からの勤務札を、新しい札へ付け替えている。

《有給食事班 七月九日 六時から十四時》

「料理人の賃金を豆の値段に隠すと、豆が高いって言われる」

「では、《材料費》《設備費》《人件費》を分けます」

「休憩費」

「休憩に費用が掛かりますか」

「交代する人の賃金」

「人件費では」

「休憩する人が、自分の代わりを無料で探すことになる」

 真琴は新しい欄を作る。

《交代・休憩費》

 紙の端が机から落ちる。

 タマキが鉄箱で押さえる。

「王冠より重い?」

「まだ軽いです」

 真琴。

「責任は、持つと重い?」

「書くと、分かれます」

「軽くなる?」

「一人分は」

 真琴はそこで止まる。

 全体の重さは減らない。

 誰か一人の肩から、別の人の手へ移る。

「軽くなる人もいます」

 言い直す。

 最初の暫定委任は、東門配給受領だった。

 期限は七月九日十四時。

 八時間にも満たない。

 責任者を誰にするか。

 旧白冠の支持者は、凱を指した。

「昨日までやっていた」

「数量も倉庫も知っている」

「王をやめても、仕事はできる」

 どれも事実だ。

 凱は左膝へ冷却帯を巻き、椅子に座っている。

 立候補しない。

「受けろ」

 支持者の一人が言う。

「王じゃなくても、責任者だ」

「東門地区が選ぶ」

 凱。

「俺たちが選んでいる」

「おまえは東門の住民か」

「白冠の」

「地区を訊いた」

 男は答えない。

 東門の倉庫係が、手を挙げる。

 五十代の女性。

 名前の公開は拒否。

 右耳へ鉛筆を挟んでいる。

「私は凱さんへ頼まない」

 場が固まる。

 凱の支持者が前へ出る。

「何が不満だ」

 凱が手を上げる。

「本人へ言わせろ」

 圧はない。

 支持者は、すぐには止まらない。

 凱は説明を足す。

「今、東門の受領者を決めている。東門の住民が、俺へ委任しない理由を話す。白冠の者は遮るな。反対は後で、氏名と担当範囲を示して言え」

 支持者が下がる。

 女性は鉛筆を耳から取る。

「凱さんは、荷が足りない時、自分で別地区から取ってくる」

「以前は」

「助かった。でも、返す交渉まで凱さんが持っていく。うちの倉庫係は、数量を知ってても、他地区と話したことがない」

「今回は話すか」

「私が受ける。足りなかったら、私が連絡する」

「経験は」

「ない」

 女は認める。

「だから共同確認に、凱さんを入れたい。責任者じゃなく」

 凱は用紙を見る。

《責任者》ではない。

《共同確認者》

 以前なら、補佐と呼んだ。

 主従の下側。

 同じ仕事でも、位置が違う。

「受ける」

 凱が言う。

「期限は十四時。倉庫の鍵は持たない。数量確認と不足時の連絡先提示まで」

 真琴が書く。

「凱、署名を」

 凱は右手で筆を持つ。

 震えが残る。

「共同確認者の欄は、責任者より下か」

 訊く。

「今は下です」

「横へ」

「用紙を作り直します」

「今、直せ」

 真琴は糊を剥がし、欄を横へ置く。

《責任者》 《共同確認者》

 同じ高さ。

 権限は同じではない。

 文字の高さが同じでも、仕事は別だ。

 それでも、上下の癖を一つ外す。

 凱は署名する。

《獅堂凱》

 王位終了後、最初の署名。

 役職欄には、《数量確認》と書かれた。

 年齢欄はない。

 二十歳であることは、豆を数える資格にならない。

 午前八時。

 暫定委任を求める人が、競技場の地下食堂へ集まった。

 王位が終わって八時間。

 必要な仕事は十一あった。

 配給受領。

 給水弁の夜間確認。

 医療連絡。

 北通路の警備。

 復旧資材の貸出。

 王環の排水。

 記録保全。

 返金窓口。

 競技場の安全点検。

 旧白冠倉庫の鍵管理。

 能力判定原本の保管。

 十一の仕事に、十一人の責任者が必要とは限らない。

 一人が二つ受けることもできる。

 二人で一つを受けることもできる。

 誰も受けない仕事もある。

 真琴は黒板へ、仕事だけを書く。

 人の名を先に書かない。

「最長三十日」

 凱が言う。

「最長です」

 真琴。

「一日でもよい」

「三時間でも」

 イオ。

「作業終了で失効でも」

 轟。

「自動更新なし」

 タマキ。

「更新するなら、新しい委任」

 真琴が黒板の下へ書く。

 旧白冠の幹部だった男が手を挙げる。

「警備は三十日では短い」

「では、三十日後に再度、必要性と範囲を確認してください」

「敵は期限を待たない」

「権限も、敵を理由に期限を消します」

「毎月同じ会議をするのか」

「同じ状況なら、同じ人へ同じ範囲を再委任できます」

「手間だ」

「手間を省くために王がいた」

 凱が言う。

 男が見る。

「おまえが言うのか」

「俺が言う」

「王は、決めるためにいた」

「決めるのを早くした。間違いを戻すのは遅くした」

「おまえが間違えたと言うのか」

「ある」

 凱は具体を言う。

「第六門の夜間封鎖。病院線の配給優先。旧王環の徴収。迅の母親の記録。俺の命令で助かった者がいる。俺の命令で選べなくなった者もいる」

 会場の空気が重くなる。

 真琴は、凱が自分の過去を一つの謝罪へまとめないことに気づく。

 謝れば終わると考えない。

「三十日は短い」

 男がもう一度言う。

「だから、次に選び直せる」

 凱。

「敵へ弱さを見せる」

「期限を持つことが弱さなら、期限のない人間だけが強いことになる」

「王は期限がなかった」

「終わった」

 声は大きくない。

 聞き返す者はいなかった。

 北通路の警備は、凱へ委任されなかった。

 北通路の住民は、犬飼豪を指した。

「俺?」

 豪は食堂の入口で止まる。

 昨夜から寝ていない。

 赤茶の髪が潰れ、右膝装具の帯が一つ緩んでいる。

「犬舎がある」

「夜だけでいい」

「夜は犬舎へいる」

「じゃあ、誰」

 豪は考える。

「警備って、何をする」

 住民代表が答える。

「外から来る者を止める」

「全員?」

「怪しい者」

「怪しいって」

「武器を持つ者」

「工具は」

「申告」

「病院へ急ぐ家族は」

「通す」

「名前を言わない患者は」

 住民代表が黙る。

 外環共同病院で作られた白衣路。

 所属を聞かない。

 本人確認はする。

「警備じゃなく、通行確認だ」

 豪が言う。

「俺は受けない。夜、二時間だけ、確認手順を教える。受ける人を三人選んで。腕力で止める訓練じゃない。何を持ってるか、どこへ行くか、言いたくないことは何か、緊急なら誰へ繋ぐか」

「豪が立てば早い」

「俺が立つと、俺よりでかい奴が来た時に終わる」

「そんな奴、少ない」

「少ないから、仕組みにする」

 豪は凱を見ない。

 凱も口を出さない。

 北通路の住民は三人を選ぶ。

 豪の名は《責任者》ではなく、《訓練提供者》へ入る。

 期限、七月九日二十時から二十二時。

 二時間。

 豪が署名する。

「短いな」

 タマキ。

「犬の餌、二十二時半」

「遅れる」

「だから二十二時で終わる」

「犬、待つ?」

「待たせない」

 豪は自分の終了時刻へ丸を付ける。

 英雄の責任より、犬の夕食が先に締切を持つ。

 その方が、仕事は終わる。

 医療連絡は、凱へ委任された。

 ただし、全地区ではない。

 王環中央と北塔だけ。

 南市場は、一文字巴へ依頼する意見を出したが、巴は今ここにいない。

 本人の同意なしに名前を入れない。

 市場は、午前中だけ現行の診療所連絡係が続ける。

 西工区は、伏見轟を選ぶ。

「俺は医者じゃない」

「設備故障の連絡」

「医療判断はしない」

「分かってる」

「分かってることを紙へ」

 轟は、自分の範囲を狭くする。

《設備停止、通路閉鎖、電源異常の連絡のみ。患者優先順位、搬送先、治療内容を決めない》

 凱の委任にも、不利な条件が付く。

《期間 七月九日八時から七月十六日八時》

《対象 王環中央・北塔》

《権限 医療機関への空床照会、搬送経路の調整、設備班への復旧依頼》

《禁止 患者本人の希望を上書きする搬送、所属による優先順位変更、診療情報の公開》

《停止条件 本人、医療機関、地区連絡者のいずれかが停止を申し出た時》

《自動更新 なし》

「七日だけ?」

 支持者。

「最長三十日です」

 真琴。

「凱は三十日受けられる」

「七日を希望した」

「なぜ」

 凱が答える。

「左膝の再診が七日後だ。身体状態が変わる」

「王なら」

「王ではない」

 同じ訂正を、今朝だけで六度している。

 七度目も、声を荒げない。

「再診後、必要なら新しく委任を求める」

「弱さを申告するのか」

「現在の身体を申告する」

 イオが言う。

「弱さって書く欄は、消した」

 男がイオを見る。

「元能力者に、王環を決められる筋合いはない」

「決めてない。欄を作った」

「同じだ」

「違う」

 真琴が割って入る。

「欄は選択肢を示します。委任を決めるのは対象地区です。欄の作成責任は私とイオにあります。内容への異議は、項目ごとに受けます」

「名前だけ変えた王だ」

 男が吐き捨てる。

 真琴は反論を急がない。

 その可能性はある。

 期限付き委任が、毎月同じ人へ更新される。

 共同確認者が、名目だけになる。

 終了条件を言い出した人が村八分になる。

 紙へ書けば防げるわけではない。

「そうならない保証はありません」

 真琴が言う。

「では意味がない」

「保証がないことと、戻す手順がないことは別です」

「また言葉だ」

「はい。言葉です。言葉だけでは足りません。だから時刻、鍵、費用、署名を付けます」

 男は納得しない。

 納得しないまま、異議欄へ自分の名を書く。

 真琴は消さない。

 午前十時七分。

 鐘巻十夜は、地下医療区画の白い天井を見ていた。

 意識が戻ってから、最初に言った言葉は《勝者は》ではなかった。

「何時」

 だった。

「十時七分」

 イオが答えた。

 壁の椅子へ座っている。

 心電図の携帯記録器を胸へ付けたまま。

 十夜は目を細める。

「朝?」

「朝」

「九日?」

「九日」

「閉店後、十時間」

「途中で心停止、二分四十二秒」

「長居したね」

 声は掠れている。

 挿管はされなかった。

 気道器具で喉が傷み、言葉の最後が薄い。

 右腕に点滴。

 胸に十二誘導。

 指に酸素飽和度計。

 黒い手袋は外され、机の透明袋へ入っている。

「試合は」

 十夜が訊く。

「停止」

 イオ。

「勝者」

「なし」

「客、怒った?」

「複数種類」

「売上」

「返金処理中」

「俺の取り分」

「第一部じゃない。あなたの第二部の基本出演料は支払う。勝者加算も支払う。第三部の終了鐘管理料は、契約違反の審理まで保留」

 真琴が答える。

 病室の入口に立ち、支払い明細を持っている。

「医療費、出演料から引く?」

「引きません」

「優しい」

「賃金と損害賠償を相殺しない規定です」

「規則か」

「規則です」

「優しくない」

「それで結構です」

 十夜は笑おうとし、胸へ痛みが走る。

 顔が歪む。

「痛み、十段階」

 看護担当。

「六。胸の真ん中。押された感じ」

「実際に押しています」

 犬飼豪が窓際から言う。

 腕を組まない。

 右手の指を開いたり閉じたりしている。

 胸骨圧迫の疲労が残っている。

「肋骨は」

 十夜。

「画像では骨折なし。圧迫痛は出る」

「上手だった?」

「採点すんな」

「格闘家の蘇生、売れるかな」

「次、売ろうとしたら殴る」

「救護が?」

「試合の外で」

「暴行」

「同意取る」

 十夜は少し笑う。

 豪は笑わない。

「セコンド、断ってよかった」

 十夜が言う。

「何で」

「受けてたら、勝たせようとした?」

「止める」

「セコンドなのに」

「選手を帰す仕事だ」

「俺、帰った?」

「途中」

 豪は透明袋の黒い手袋を見る。

「心臓は帰ってきた。おまえがどこへ帰るかは、これから」

「名言っぽい」

「嫌なら忘れろ」

「実況席、保存しました」

「撮ってねえ」

「記憶」

 十夜の顔が、ほんの少し真顔になる。

「昨日、俺、格好よかった?」

 豪は答えない。

「聞いてる」

「危なかった」

「質問と違う」

「客に最後を売って、止められても鐘を鳴らそうとして、脈なくして倒れた」

「説明」

「格好よくねえ」

 十夜の笑いが消える。

 豪は続ける。

「青札との試合は上手かった。止められた時に止まらなかったのは下手だった。蘇生はおまえの技じゃねえ。医療班の仕事だ」

「一個くらい、英雄にして」

「生きてるだけで、今日の仕事が増えた」

「借金も」

「残ってる」

「現実的」

「頼まれた」

 イオが、膝の相談表を上げる。

《翌日の住居》

《未払い賃金》

《医療費》

《契約停止》

《競技以外の技能》

「住所」

 イオ。

「能力者最後市の二階」

「興行停止中、住める?」

「家賃は店の売上から」

「停止なら払えない」

「借りる」

「誰から」

「貸す人」

「利率」

「聞かないで」

「聞く」

 十夜は目を閉じる。

「月二割」

 豪が罵声を飲み込む。

 真琴は明細へ書く。

「違法性の審理対象です」

「借りた時は、他にいなかった」