第336話 第十章「王冠を置く」後編

「それも、俺の選択を奪う」

 青年が黙る。

「力があれば王。力がなくても王。どちらも、俺を王から出さない」

「じゃあ、何て呼べばいい」

 上段の女性。

「名前」

「凱?」

 場内へ、初めて役職ではない呼び方が広がる。

 凱の妹が客席にいないことを、凱は知っている。

 彼女の話をしない。

 病人を守る王の物語へ戻らない。

「今夜の再戦について」

 凱は迅を見る。

 迅は椅子へ座ったまま、右脇腹を冷却布で押さえている。

「第二ラウンド二分十八秒、俺が停止した。第三ラウンドは行わない」

「勝者は!」

 客席。

 凱は答える前に、迅へ訊く。

「身体的には、おまえが優勢だった」

「聞いてない」

「俺が言っている」

「じゃあ、記録へ。勝敗欄じゃなく、身体所見」

「逃げるな」

「止めたの、おまえだろ」

 迅は冷却布を持ち直す。

「俺は六歩まで退いた。七歩目は踏めた。返す源を決められなかった。おまえは止めた。俺は殴らなかった。だから勝敗なし」

「俺が弱くなったから、情けを掛けたか」

「違う」

 迅の声は低い。

「おまえの《停止》を殴ったら、俺が勝っても、次から誰も止まれない」

 凱の目が細くなる。

「勝ちたかった」

 迅は言う。

「今も」

「なら、悔しいか」

「痛い」

「肋骨の話ではない」

「両方」

 迅は客席を見る。

「勝ちたいのに、勝たない方を選ぶと、立派に見える。そこが一番嫌だ」

「なぜ」

「次も選べると思われるから」

「選べないか」

「分からない」

 迅は嘘をつかない。

「だから、今夜の一回だけ記録しろ」

 七瀬が西画面へ出す。

《再戦結果 勝敗なし》

《第二ラウンド二分十八秒 獅堂凱が停止》

《竜胆迅 七退一還、六歩で解除》

《政治的地位の移譲 なし》

 最後の一行が、最も大きい。

 試合の勝者へ王冠は移らない。

 迅が王にならないのは、王になる力がないからではない。

 試合の勝敗を政治へ接続する契約が、ないからだ。

 宣言の後、審査主任は結論欄へ印を押そうとした。

《王位資格 失格》

「待て」

 真琴が筆先を紙へ差し入れる。

「何です」

「失格ではありません」

「能力出力が基準未達で、本人が資格運用を終了した」

「本人が終了した制度へ、制度側が失格判定を返すと、順序が逆になります」

「記録形式が」

「形式を直します」

「今夜、様式を変えるのですか」

「今夜、起きたことが様式にありません」

 イオが低い台から言う。

《能力判定》《役職終了》を別紙に」

「二枚にすると、同一案件の一体性が」

「一枚にすると、能力が落ちたから王を首になった、に見える」

「事実でしょう」

 審査主任の言葉へ、客席がざわつく。

 凱は椅子から立たない。

「違う」

「能力基準未達は」

「判定結果だ。王位運用の終了は、俺が選んだ。結果を受けて選んだが、結果そのものではない」

「因果関係があります」

「同一ではない」

 真琴が紙を二枚へ分ける。

 一枚目。

《成人能力判定》

《遅延、出力低下、反証増大》

《継続使用の安全性 未確認》

 二枚目。

《能力保有を王位資格とする運用の終了》

《申出人 獅堂凱》

《開始時刻 零時二十四分》

《白冠規約の審理を要する》

「署名」

 真琴が凱へ渡す。

 凱は右手を見る。

 震えている。

「左で書いてもいい」

 迅。

「公式署名は右だ」

 真琴が、わずかに眉を動かす。

 自分と同じ理由ではない。

 凱は右で署名してきた。変えるなら、変えた事実を別に書く必要がある。

「時間制限はありません」

 医療者。

 凱は右手で筆を持つ。

 最初の線が二重になる。

 書き直さない。

《獅堂凱》

 客席の上段から、女性が声を上げた。

「明日の配給は誰が決めるんですか」

 凱は顔を上げる。

「現在の配給担当は」

「あなたの承認待ちです」

「承認を不要にする」

「今、決めるんですか」

「今夜の分は、既存計画を維持。明日以降は担当者が自分の名で変更する」

「担当者が怖がったら」

「拒否できる」

「誰かはやらなきゃいけない」

「拒否した者へ責任を移さない。次の候補を出す」

「候補がいなければ」

 凱は即答しない。

「配給量を減らす。範囲を狭める。できる仕事へ直す」

「王なら、全部やった」

「全部やると言って、誰かへ無償で渡していた仕事もある」

 小麦が客席下で腕を組む。

「厨房とかね」

「聞こえている」

「聞かせた」

 別の男が立つ。

「警備は。敵が来た時、三十日の委任を取ってる暇があるか」

 凱は答える。

「緊急行動は、現場責任者が即時に始める。二十四時間以内に、範囲と停止条件を公開する。恒久権限へ変えない」

「誰が現場責任者を決める」

「その場所で、今、任務を担っている者」

「自称できる」

「できる。だから、記録と異議が要る」

「遅い」

「遅い」

 凱は認める。

「だが、速い一人へ全部渡す方が、止めるのは遅い」

 上段の男は座らない。

「俺は、まだ王だと思ってる」

「思うことは止めない」

「従ってもいいか」

「仕事の内容を聞け」

「王だから従いたい」

「それは断る」

 場内の空気が一度、硬くなる。

 支持を断られることは、反対されるより傷つく。

 男の顔が赤くなる。

「恩知らず」

「恩は受け取る」

 凱。

「服従は受け取らない」

 男は座った。

 泣いているかは、七瀬の画面に出ない。

 撮影同意区画ではなかった。

 零番街の女が、別の通路で手を上げる。

「凱に、七日だけ医療連絡を頼みたい」

「地区の誰が頼む」

「病院連絡班、七人」

「範囲」

「搬送先の空床確認。薬の優先順位は決めない」

「証者」

「病院二名、地区二名」

「終了日」

「七月十五日、日没」

「自動更新」

「なし」

「受ける」

 凱は答えた。

 客席がざわつく。

「結局、凱がやるじゃないか」

 誰か。

「仕事を受けた」

 凱。

「王位を戻したのではない」

「違いが分からない」

「七日後、終わる。範囲外を命じられない。拒否できる。異議を出せる」

「王だって異議は」

「俺へ届く前に、黙った者がいた」

 自分で言う。

 妹の顔を出さない。

 模擬判定で腕を下ろした男の名も出さない。

 事実だけを、自分の責任として言う。

「違いが分からないなら、七日間の仕事を見て判断してくれ」

 凱の声は、一度で上段へ届かない。

 誘導員が復唱する。

「七日間の仕事を見て判断!」

 復唱されると、少し乱暴になる。

 凱は言い直す。

「判断は、七日後でなくてもいい。途中で拒否できる」

 さらに復唱される。

 言葉は、人を渡るたびに形が変わる。

 王の圧なら、同じ形で届いた。

 今は、変わった時に直す仕事が残る。

 七瀬は時刻を記録する。

 零時三十一分。

 凱が初めて、王でない名で期限付きの仕事を受けた時刻だった。

 質問が途切れた時、最前列の遮光区画から、小さな手が上がった。

 子どもだった。

 顔は撮影されない。

 声も、本人の希望で場内放送へは乗せない。

 近くの誘導員が質問を聞き、凱へ復唱する。

《王様じゃなくなったら、前に王様がした悪いことは、誰が謝るの》

 場内が静かになる。

 凱はすぐに答えない。

 王位を終えれば、責任まで制度へ返せる。

 そう見える。

「俺がしたことは、俺が負う」

 誘導員が子どもへ伝える。

 子どもが、もう一度何か言う。

《次の王様が謝るんじゃないの》

「次の王は選ばない」

 復唱。

《じゃあ、凱が死んだら》

 迅が横目で凱を見る。

 十夜の心停止直後に、死を避けた答えは出せない。

「記録と、支払いと、返す物を残す」

 凱が言う。

「俺が生きている間に、できるだけ本人へ返す。終わらなければ、誰が続きをするかを、その仕事ごとに決める。王へまとめない」

 誘導員が復唱する。

 長い。

 子どもが途中で聞き返す。

 凱はもう一度、短くする。

「俺の悪いことは、俺の名前で残す。次の王へ渡さない」

 復唱。

 子どもの手が下がる。

 納得したかは分からない。

 七瀬は、質問者の顔を映さず、凱が答えを言い直した回数だけを記録する。

 二回。

 凱は王冠へ目を向ける。

 王冠には、過去の責任者の名が刻まれていない。

 傷だけがある。

 傷は、誰が付けたかを言わない。

「保管する時、使用者記録を付ける」

 凱が言う。

 真琴が顔を上げる。

「王冠へ?」

「箱へ。誰が、いつ、何の資格で使ったか。返却時の状態。未処理の責任」

「あなた以前も」

「分かる範囲で。分からない箇所は、不明と書く」

「歴史の再調査になります」

「今夜、全部はしない」

「期限」

「保管開始時に、最初の確認日を決める」

 タマキが記録席から言う。

「王冠、届け物?」

「送り主が多すぎる」

「受取人は」

「決まっていない」

「目的」

「使わず保管する」

「じゃあ、宛先は箱」

「物へ物を届けるのか」

「人が開ける時、また決める」

 凱は頷いた。

「今夜は、箱までだ」

 制度を終える宣言は大きい。

 箱へ入れる仕事は小さい。

 大きな宣言が本当に終わるかは、翌日、小さな仕事が行われるかで決まる。

「拍手していい?」

 タマキが、記録席から訊いた。

 客席が笑う。

 凱は考える。

「何へ」

「凱が言ったこと」

「同意として?」

「違う。言えたこと」

「それなら」

 凱は一度、手を上げる。

「拍手は、同意票ではない。祝福でも、委任でもない。聞いたという合図にしたい者だけ」

 タマキが一度、手を叩く。

 小さい音。

 轟が二度。

 真琴は叩かない。

 まだ文書が終わっていない。

 イオは心電図電極を付けたまま、左手で一度。

 迅は叩かない。

 右肋部が痛いからでもある。

 客席の拍手は、揃わない。

 立つ人もいる。

 黙る人もいる。

 退出する人もいる。

 録音は流れない。

 揃わない拍手は、弱い。

 弱いから、誰の音か分かる。

 凱は木卓の王冠を見る。

 青銅は、置かれたまま何も命令しない。

 王冠は、人を王にしない。

 人が王冠へ、王をさせていた。