第335話 第十章「王冠を置く」前編
「ショック」
犬飼豪の声で、電流が流れた。
鐘巻十夜の身体が、一度だけ床から浮く。
肩が落ちる。
胸骨圧迫を再開。
一。
二。
三。
豪は数を声に出さない。
口で数えると、周囲の指示が遅れる。
頭の中で三十まで刻みながら、別の言葉を出す。
「気道、確保。換気二回。静脈路。投薬準備。時刻を言え」
「零時零分二十六秒、第一回ショック」
医療者。
「脈、まだ取るな。圧迫続行」
十夜の胸骨は、押すたびに沈む。
人を蘇生する動きは、格闘に似て見える。
上から力を加える。
肘を伸ばす。
重心を落とす。
一定の速度を守る。
似ているから、違いを忘れてはいけない。
拳は相手の身体を止める。
圧迫は、止まった身体へ時間を渡す。
豪の額から汗が落ちる。
右膝装具の下で、膝が震える。
自分の体重を、十夜の胸へ正しく載せ続ける。
「交代、十五秒後」
医療者が言う。
「十秒で」
豪。
「疲労」
「分かってる」
「だから十秒」
豪は三十回を終え、身体を横へずらす。
医療者が一拍も空けず入る。
豪は息を吸う。
立ち上がらない。
十夜の足側へ移り、胸の札を外す。
《零時まで》
紙は汗で濡れている。
豪は破らない。
医療袋へ入れる。
後で必要だ。
契約の証拠にもなる。
本人が、どこまで終わりを売っていたかを確認する物にもなる。
「解析」
圧迫が止まる。
《心室頻拍。ショック適応》
「二回目、離れて」
豪は十夜の右手が誰にも触れていないことを確認する。
「ショック」
二度目。
身体が跳ねる。
「圧迫再開」
今度は豪が入らない。
交代した医療者へ任せる。
強い人間ほど、続けられると思われる。
続けられる人間ほど、交代が遅れる。
救護は、最後まで一人でやり切る競技ではない。
豪は右手の痺れを振り、呼吸を整える。
「薬剤、投与」
「零時一分十二秒」
七瀬の西画面へ、手順が出る。
十夜の顔は映らない。
胸も映らない。
床へ置かれた黒い手袋と、医療者の靴だけが中央画面の端へ入る。
観客から声が飛ぶ。
「見せろ!」
「生きてるのか!」
「何が起きた!」
乱馬が放送卓へ立つ。
いつもの舞台声を使わない。
「医療処置中です」
場内が静まらない。
「静かにしてください」
言う。
静まらない。
乱馬は凱を見る。
頼む目だった。
王の声を。
凱は北通路の手前に立っている。
迅の肩から離れ、自分の右脚へ体重を置く。
左膝は腫れている。
手は震えている。
客席を見上げる。
「北側の通路から離れろ」
大声。
先頭の人間が振り向く。
後ろは動かない。
圧は出ない。
凱は言い直す。
「北側は医療搬送に使う。座席番号一から六十は、その場で座れ。六十一から百二十は東通路へ一列で移動。百二十一以降は立つな。転倒者一名を先に出す」
言葉が長い。
一度で全員へ届かない。
「聞こえない!」
上段から声。
凱は怒鳴らない。
「繰り返す」
同じ文を、二度言う。
今度は、誘導員が区画ごとに復唱する。
「一から六十、座る!」
「六十一から百二十、東へ一列!」
「百二十一以降、立たない!」
観客が動く。
王路ではない。
人から人へ、内容が渡る。
遅い。
北通路は空く。
医療班が搬送台を持って入る。
十夜を載せる準備。
「まだ脈なし」
医療者。
「圧迫継続」
豪は場内の静けさを聞かない。
十夜の口元だけを見る。
換気で胸が上がる。
自発呼吸ではない。
機械の指示。
人間の手。
借りた呼吸。
「解析」
三回目。
圧迫停止。
《ショック非適応。脈を確認してください》
豪の指が、頸動脈へ触れる。
ない。
もう一度、位置を変える。
ある。
細い。
不規則。
だが、指へ返ってくる。
「脈あり」
豪が言う。
「零時二分四十九秒。自発循環再開」
医療者が復唱する。
客席が息を吸う。
拍手が起きかける。
乱馬が放送を入れる。
「拍手はしないでください」
自分の演出で観客に覚えさせた反応を、自分で止める。
「蘇生は勝利演出ではありません。医療者の声が聞こえるよう、静かに」
拍手は、三つだけ鳴った。
すぐに止まる。
十夜の目は開かない。
酸素。
静脈路。
心電図。
搬送。
終わっていない。
脈が戻ることは、物語の結末ではない。
次の処置へ進める状態になっただけだ。
零時五分。
十夜は地下医療区画へ搬送された。
一般観客のうち、退場を選んだ者は一千百八十二人。
その場へ残る者は二千四百十人。
判断を保留し、通路へ立たず座った者が残り。
退出者の入場料を返すか。
第三部未実施分だけか。
医療中断を興行側の責任とするか。
乱馬の卓へ質問が積まれる。
「今、答えない」
乱馬は言う。
以前なら、舞台上で即答した。
迷いを見せないことが演出家の技術だった。
「返金窓口は明日十時。今夜は氏名を取らない。券番号だけ。口座のない人は現金。医療費と設備損害を先に分離する」
「決めたの?」
カナタ。
「今、決めた」
「一人で?」
乱馬は黙る。
「興行責任者は俺だ」
「全部の責任を一人へ集めると、また役になる」
「じゃあ、誰へ」
「音響、契約、医療連絡、席配置。担当を出す。乱馬は再生条件と宣伝文句」
「細かいな」
「細かくない責任は、だいたい誰も払わない」
乱馬は紙を四つへ分ける。
自分の欄へ書く。
《録音拍手の自動再生》
《最後の王戦の字幕》
《鐘巻十夜の最終興行を宣伝》
《停止条件と演出停止の連動未確認》
字が、舞台上の署名より小さい。
カナタが見る。
「読めない」
「後で清書」
「今、読める字で」
「君、七瀬に似てきた」
「嫌?」
「怖い」
「進歩」
乱馬は大きく書き直す。
迅は医療区画の入口で、肋部を診てもらった。
「骨折所見なし」
医療者が言う。
「圧痛あり。右第八から第十肋骨周囲。呼吸音左右差なし。打撲」
「続けられる」
迅。
「何を」
「公開判定」
「格闘は終了」
「格闘じゃない方」
医療者は迅を見る。
「座って参加」
「立てる」
「立てる人へ座る指示を出しています」
「凱にも?」
「当然」
隣の診察台で、凱が左膝の冷却を受けている。
上着を脱ぎ、黒い手袋も外している。
右手の振戦が、隠せない。
「新規靱帯断裂所見なし」
別の医療者。
「腫脹増大。荷重制限。今夜は階段禁止」
「試合場へ戻る」
「階段は使わない。搬送斜路。椅子」
「歩く」
「椅子」
「命令か」
「医療上の指示。拒否できます。拒否した場合、記録し、試合場へは医療停止を勧告」
凱は迅を見る。
「笑うな」
「笑ってない」
「口が」
「痛い時、こうなる」
「性格だ」
迅は椅子へ座る。
凱も座る。
二人並んで、搬送斜路を上がる。
車輪付きの椅子ではない。
折り畳みの普通の椅子を、作業台車へ固定したものだ。
轟が右手で押す。
「王の凱旋にしては、低いな」
迅。
「黙れ」
「命令、具体性がない」
「会話を止めろ」
「拒否」
轟が言う。
「揺れる。喋るなら舌噛むな」
「俺たちが悪いみたいに」
「押す方からは、全員荷物だ」
「人を荷物と言うな」
「壊すなって意味だ」
斜路の途中で、北医療区画の扉が開く。
豪が出てくる。
手袋を外している。
指の間に汗が溜まっている。
「十夜は」
凱。
「脈戻った。意識はまだ。心室頻拍。今、薬で整えてる。次にまた止まる可能性ある」
「会えるか」
「会えねえ」
「状態の公開は」
「本人の事前同意は《試合中の状態は公開》まで。蘇生後の診療情報は別だ。今言った範囲で止めろ」
七瀬が後ろから頷く。
「記録します」
豪は迅の脇腹を見る。
「七」から、今は五。
「骨は」
「ない」
「凱」
「靱帯は切れていない」
「誰も勝ってねえ顔だな」
豪が言う。
「勝敗はない」
凱。
「良かった」
「なぜ」
「勝者の治療、面倒なんだ。勝ったから平気って言う」
迅が凱を見る。
「言いそう」
「言わん」
「さっき椅子を拒否した」
「勝っていない」
「負けてないから?」
「医療者が止めると言った」
「三回目で」
豪は短く笑う。
「十夜は、零時一分の予約へ来なかった」
イオの言葉を思い出している。
「診察室の方が、あいつのところへ来た」
笑いは、すぐ消える。
「最後にすんなよ」
誰へ言ったのか。
十夜か。
凱か。
興行か。
自分か。
豪は答えを指定しなかった。
零時十八分。
試合場へ戻った時、客席は半分ほどになっていた。
退場した人。
返金窓口へ並ぶ人。
医療処置の結果を待つ人。
第三部の続きを待つ人。
王位の結論だけ聞く人。
残った理由は、席の数から分からない。
乱馬は照明を半分に落としていた。
試合場だけを明るくしない。
客席も同じ明るさへする。
「舞台を平らにした」
カナタが言う。
「照明だけだ」
乱馬。
「人は明るい方を見る」
「では、全員を明るく?」
「全員を舞台へ上げるわけじゃない。見る側が暗闇に隠れないだけ」
乱馬は上段の照明を一つ点ける。
客席の顔が見える。
撮影はしていない。
見えることと、記録されることは別だ。
凱と迅の椅子は、試合場の南端へ置かれた。
医療者が、二人の横に立つ。
「立つ場合、一分以内」
凱へ。
「王冠を外す」
「一分で」
「宣言もある」
「座って」
「立って言う」
「二分。途中で座る」
「交渉か」
「医療」
凱は不満そうに頷く。
迅が椅子の背へ寄りかかる。
「俺は?」
「座って」
「立つ予定ない」
「優秀」
医療者が言う。
凱が迅を見る。
「勝った顔をするな」
「座ってるだけ」
「それが腹立つ」
「膝へ悪い」
医療者。
「怒るなとは言っていない。立つな」
凱は怒ったまま座る。
水科イオは西側の低い台へ座っていた。
左胸へ簡易心電図の電極。
左手首へ脈拍帯。
右手は膝の上。
「百一。期外収縮、散発」
自分で読み上げる。
「胸痛なし。眩暈なし。能力後休止十八分」
医療者が横から言う。
「一人で読み上げなくていい」
「自分の状態を、自分が先に知る」
「こちらも見ています」
「二人で見る」
イオは凱へ顔を向ける。
「王冠、いつ」
「十夜の状態を確認した」
「何を待ってた?」
「生存」
「死んでたら?」
場内が静かになる。
凱は答えを選ばない。
「今夜は延期した」
「なぜ」
「人の死の直後に制度を変えれば、死を理由にしたと受け取られる」
「生きてたから、変える?」
「違う」
「じゃあ、十夜の状態と制度は別」
「医療を優先した」
「それは別じゃない。時間の優先順位」
イオは脈拍帯の数字を見る。
「何かが起きた後、全部を原因と結果で繋ぐと、当事者の仕事が消える。十夜が倒れたから王位をやめるんじゃない。あなたが止めたから。規約が曖昧だったから。能力と代表権を分ける必要があるから」
「分かっている」
「言える?」
「おまえは、俺に言わせるのが好きだな」
「言わないと、他人が見出しを付ける」
乱馬が手を挙げる。
「耳が痛い」
「仕事」
「はい」
凱は客席を見る。
王冠台座は、北端にある。
青銅の王冠。
古い。
内側の革は何度も交換されている。
外側の傷は残されている。
白冠連の旗主が代替わりするたび、頭へ載せた。
凱のためだけに作られた物ではない。
だが、今の客席にとっては、凱の頭以外を知らない。
「台座へ行く」
凱が立つ。
医療者が時計を押す。
「開始」
凱は一歩進む。
左膝が痛む。
右足を先に。
左は装具ごと運ぶ。
客席から声が出る。
「王!」
「凱様!」
「降りるな!」
「もう終われ!」
凱は立ち止まらない。
圧は出ない。
声は、背中へ当たって落ちる。
以前なら、呼ばれるほど強くなった。
今は、呼ばれるほど手が震える。
王冠台座まで、十二歩。
七ではない。
迅の能力へ合わせた数でもない。
一歩ごとに、左膝へ体重が移る。
八歩目。
医療者が言う。
「四十秒」
「分かっている」
「返事、明瞭」
「試験するな」
「状態確認」
十歩。
伏見轟が台座の横へ立っている。
橙色の工事ベスト。
左肩は上げない。
「安全留め、外すぞ」
凱。
「頼む」
「何の留めだと思ってる」
「王冠固定」
「演出用の跳ね上げ防止。昔、勝者が台座を蹴って、王冠が客席へ飛んだ」
「誰だ」
「記録はある。今は要らん」
轟は台座の裏へ右手を入れる。
鉄の爪を二つ外す。
一つ目。
固い。
左手を添えようとして、止める。
腰を台座へ当て、右手だけで回す。
二つ目。
外れる。
「持ち上げられる」
轟が言う。
「落とすな。投げるな。踏むな。台座を蹴るな」
「子供へ言うな」
「興行は、大人を子供にする」
乱馬が遠くで咳をする。
「反論できない」
凱は王冠へ手を伸ばす。
右手が震える。
片手で持てる重さだ。
以前なら、片手で取った。
軽く見せるために。
今日は、両手を使う。
左手を冠の左へ。
右手を右へ。
持ち上げる。
青銅の重さが、両腕へ均等に来ない。
右手の震えが細かく伝わる。
冠の縁が鳴る。
客席が息を呑む。
凱は落とさない。
頭へ載せない。
床へ投げない。
踏まない。
台座の前に置いた低い木卓へ、ゆっくり下ろす。
木と青銅の音。
小さい。
四千人を従わせる音ではない。
物を一つ、所定の場所へ置いた音だった。
「二分」
医療者。
「座って」
凱は木卓の横に用意された椅子へ座る。
立ったまま宣言しない。
客席がざわめく。
「座って王位を捨てるのか!」
声。
凱はその方向を見る。
「膝が腫れているから座る」
笑いは起きない。
「座ったことを、象徴にするな」
乱馬が、少しだけ笑う。
「演出を先回りされた」
カナタ。
「悔しい?」
「勉強になる」
凱は黒い手袋を外した。
右手の震えが、客席から見える。
七瀬は拡大しない。
見える距離にいる人には見える。
見えない席のために身体を巨大化させれば、震えだけが人物になる。
凱は自分の名を言う。
「獅堂凱」
客席が静まる。
役職を先に言わない。
「本日、二十歳到達後の成人能力判定を受けた。王路不退は二度発動した」
一度目。
事前試行で、遅れて発動し、証者を巻き込んだ。
二度目。
第一ラウンドで部分発動し、反証によって視野が狭まった。
「出力は低下した。発動は遅れた。反証は増えた。次に同じ条件を揃えても、同じ結果になる保証はない」
「まだ出る!」
客席。
「王だ!」
別の区画。
凱は声を待つ。
止まってから続ける。
「出ることと、王であることを同じにしてきた」
真琴が原本を持つ手を下げる。
「規約には、能力保有を明記していない。だが、俺も、白冠も、支持者も、能力を根拠として扱った。俺が退かないから、人へ退くなと言えた。俺が進めるから、人へ進めと言えた」
「守っただろ!」
「守った」
凱は否定しない。
「守れなかった者もいる。守ったことは、今後も王である契約ではない」
「恩を忘れるのか!」
「恩は、任期ではない」
言葉が客席へ落ちる。
凱の声に圧はない。
聞き逃した者が、隣へ訊く。
「何て?」
隣の人間が復唱する。
《恩は、任期ではない》
凱が言った声より、小さい。
だが、他人の口で続く。
「本日零時二十四分をもって、能力保有を王位資格とする運用を終了する」
真琴が時刻を記す。
「終了するな!」
「おまえ一人で決めるな!」
「王が王をやめるのは勝手だ!」
「次の王を選べ!」
四つの声。
凱は一つずつ分ける。
「第一。俺自身が能力を王位の根拠として使うことは、俺が終えられる」
指を一本上げる。
「第二。白冠規約の運用終了は、起草者、現行担当者、公開証者へ審理を求める。今夜の拍手を同意とみなさない」
二本目。
「第三。俺の辞任と、新しい王を選ぶことは別だ。今夜、新しい王を選ばない」
三本目。
「第四。復旧、配給、警備、医療連絡、記録保全の仕事は止めない。仕事ごとに、範囲、責任者、証者、終了日を決める。最長三十日。自動更新はしない」
四本目。
右手が震える。
指を下ろす。
「俺へ委任しない地区を認める。俺へ委任する地区も、能力ではなく、仕事の内容と期間を示せ」
「そんなの、王じゃない!」
「そうだ」
凱が言う。
「王ではない」
客席の一部が立ち上がる。
怒って退出する者。
泣く者。
座ったまま、手を握る者。
「能力がなくても王だ!」
青年が叫ぶ。
凱はそちらを見る。