第334話 第九章「観客が待つ」後編

 七瀬は西画面へ、時刻を並べた。

《本人停止宣言 二十三時五十八分十八秒》

《録音拍手停止 二十三時五十八分三十秒》

《停止後再生 十二秒》

「今それを出すのか」

 乱馬が言う。

「今起きたことです」

「事故だ」

「誰の」

「音響の」

「再生条件を決めたのは」

 乱馬の喉が動く。

「俺だ」

「なら、出します」

「今、客席へ責任者を渡せば、俺が敵役になる」

「既に演出家です」

「同じじゃない」

「責任者と悪役は別です」

 乱馬は西画面を見る。

 自分の名は、まだ出ていない。

 七瀬は待つ。

 他人の責任を、本人より先に告発することはできる。

 早い。

 分かりやすい。

 だが、責任を引き受ける言葉まで奪う。

「出して」

 乱馬が言った。

「文言は」

《再生条件設定・紅城乱馬。停止連動を確認せず》

「改善措置」

「全自動煽り映像を停止。再開しない」

「時刻」

 乱馬は場内時計を見る。

「二十三時五十八分四十六秒」

 七瀬はそのまま表示する。

 乱馬が主卓の鍵を回す。

 赤い字幕が消えた。

《最後の王戦》

《LAST SHOW》

《決着まであと》

 全部消える。

 画面が黒くなる。

 観客の声だけが残る。

「続けろ!」

「王は止まるな!」

「止めていい!」

「能力がなくても王だ!」

「能力がないなら辞めろ!」

 正反対の声が、同じ力で凱を押す。

 凱は右拳を下ろしている。

 迅も構えを解いた。

 六歩分の力は、行き場を失って背中に残る。

 返さない。

 返さなかった動きは、消えない。

 筋肉へ疲労として残る。

 呼吸へ重さとして残る。

 迅は右脇腹を押さえた。

「停止、聞いた」

 凱へ言う。

「聞こえた」

 凱。

「じゃあ終わり」

「勝敗は」

「つけてない」

「おまえが優勢だった」

「身体の話」

「試合の話だ」

「停止した試合に、後から最後の拳を足すな」

 凱は客席を見る。

 右側から《王》

 左側から《辞任》

 中央から《続行》

 停止条件の第一。

《本人が停止を選んだ時》

 選んだ。

 その後も、周囲は理由を求める。

 停止理由は説明不要と書いた人々まで、顔で答えを待っている。

 凱は言わない。

 言わないまま立つ。

 沈黙は、説明を拒否する動作だ。

 声を出さないだけではない。

 真琴は、王位規約の原本を持って試合場へ入った。

 止められなかった。

 誰にも止める理由がなかった。

 契約書には、停止後の説明を強制しないとある。

 しかし、規約の公開読み上げを禁じる条項はない。

 禁じられていないから行うのではない。

 今、必要だと自分で判断した。

「王位規約を読みます」

 真琴の声が場内へ通る。

 録音拍手が消えたため、よく聞こえる。

「第一条。旗主は、領域、構成員、生活線を守るに足る力を有し、その責任を退かず負う」

 客席が静まる。

「第二条。旗主は公開の証者の前で決定理由を示し、反証を引き受ける」

「能力って書いてある!」

 観客が叫ぶ。

「書いてありません」

 真琴。

「力だろ!」

《力》と書いてあります。誓痕、身体技能、財産、組織、知識のいずれかを限定する定義はありません」

「じゃあ能力がなくても王だ!」

 別の声。

「それも、規約から自動的には決まりません」

「どっちだ!」

「決めていなかった、です」

 真琴は原本を開いた手を下げない。

「私が起草しました。誓痕保有を明記しませんでした。明記しなくても、全員が獅堂凱の《王路不退》を意味すると理解すると考えたからです」

「なら、能力が根拠だ!」

「実質的には、そう運用されました」

「じゃあ辞めろ!」

「その結論も、規約へ書いてありません」

「逃げるな!」

「逃げていたのは、文書です」

 真琴は自分の名前を言う。

「朽葉真琴が、能力保有を当然視する文書を書きました。能力がある間は明記を避け、消え始めた今になって曖昧だと説明しています。起草責任は私にあります」

 客席の声が、わずかに落ちる。

 誰か一人を悪役にすれば、群衆は一方向へ向ける。

 真琴はそれを知っている。

 知っていて、自分の名を出す。

 責任は、群衆のための的ではない。

 次に同じ文書を書かないための位置情報だ。

「今夜の試合結果で、規約の欠落を埋めません」

 真琴が言う。

「勝者へ王位が移る条項もありません。能力が不発なら即時失格となる条項もありません。能力が出れば自動継続となる条項もありません」

「何も決まらないじゃないか!」

「はい」

 真琴は認める。

「今夜、一試合で決めないと決めることはできます」

 観客は、その答えを好まない。

 試合のために金を払った。

 時間を使った。

 座席へ座った。

 結末がないなら、損をした気がする。

 損をした気持ちは、他人の身体を延長料金へ変える。

「返金しろ!」

 声が飛ぶ。

 乱馬が、すぐに答える。

「第三部の停止による返金規定を適用する。全額ではない。三部のうち第三部の未実施分、三分の一」

「三部はやっただろ!」

 別の観客。

「第三ラウンドをやってない!」

「そのための返金だ」

「俺は続けろって言ってる!」

「続行を買う券は売っていない」

 乱馬は自分の言葉に驚いたように、口を閉じる。

 客が買ったのは入場。

 勝者ではない。

 死でもない。

 売った側が、売っていないものまで渡そうとしていた。

「まだ終わってない」

 鐘巻十夜が言った。

 北側の終了鐘から、試合場へ一歩入る。

 豪が救護席を離れる。

「下がれ」

 豪。

「セコンドじゃないんでしょ」

「救護だ」

「まだ倒れてない」

「だから止まれる」

「止まったら、倒れたことになる」

「ならねえ」

 十夜は笑う。

「お客さんは、最後まで見たい」

「客を盾にすんな」

「盾じゃない。店」

 十夜は胸の札を見せる。

《全三部の終了鐘を管理する》

「終了鐘を鳴らすのが、俺の仕事。まだ鳴らしてない」

「本人が止めた」

 豪。

「選手が止めた。興行は俺が閉める」

「閉めろ」

「勝敗を出してから」

 迅が十夜と凱の間へ立つ。

「どけ」

 十夜。

「鐘を鳴らすなら通る」

「再開鐘」

「通さない」

「第三ラウンド、開始予定まで二十六秒」

「ない」

「契約にはある」

「停止にもある」

「解釈が違うね」

「拳で決める?」

 迅が訊く。

「暴力的だなあ」

 十夜は嬉しそうに言う。

 懐中時計を開く。

 二十三時五十九分零二秒。

 実際より三分進んでいる時計は、零時二分を示している。

「俺の時計では、もう翌日」

「じゃあ帰れ」

「でも場内時計は、まだ閉店前」

 十夜の左足が、床を擦る。

 動きが始まる前の音。

 迅は右脇腹の痛みを六へ下げるため、息を浅くした。

 十夜が前へ出る。

 速い。

 青札戦より速いのではない。

 無駄がない。

 観客の《最後》が、足の置き場所を絞っている。

 迅の右肩へ掌底。

 迅は左へ外す。

 十夜の右足が、迅の逃げ先へ既にある。

 足首を刈る。

 迅は転ばず、七段差へ右手をつく。

 小指が遅れる。

 十夜の左肘が首へ来る。

 迅は頭を下げ、胸へ入る。

 組もうとする。

 十夜は組ませない。

 腰を引かない。

 半歩前へ出る。

 迅の抱えた空間を潰し、右膝を脇腹へ。

 凱が打った場所。

 迅の呼吸が切れる。

 七。

 豪が停止札を上げる。

「迅、下がれ!」

「下がると鐘へ行く」

「怪我を増やすな!」

「止めるなら、十夜も」

「当然だ!」

 豪は試合場へ入る。

 十夜が指を一本立てる。

「救護は接触前に確認」

「今から触るぞ」

「拒否」

「意識あり、判断力――」

「あり」

「胸痛」

「なし」

「動悸」

「いつも」

「呼吸」

「商売中」

「答えろ!」

 豪の声が、客席の声を切る。

 十夜の笑いが一瞬消える。

「苦しい」

「止まれ」

「零時まで」

「あと四十秒で、何が買える」

「最後」

「翌日を売るな」

 十夜は迅へ向き直る。

「そこ、どいて」

 迅は右脇腹を押さえず立つ。

「嫌だ」

「王様でもないのに命令を聞かない」

「王様でも聞かない」

「知ってる」

 十夜が笑う。

 その笑いは、本当に少し嬉しそうだった。

 拳が来る。

 迅は受けない。

 左手で手首を払う。

 十夜の精度は高い。

 払われる角度まで計算し、肘へ変える。

 迅は後ろへ退く。

 一歩。

 能力の歩数には入れない。

 守る対象は鐘ではない。

 十夜の最後でもない。

 止まった試合の停止そのものだ。

 十夜が二歩進む。

 迅は七段差の横へ回る。

 十夜の視線が一瞬、北の鐘へ動く。

 迅はその視線を追う。

 拳を打たない。

 鐘木の縄を蹴る。

 縄が高く跳ね、十夜の手の届かない位置へ掛かる。

「器物損壊」

 十夜。

「縄は切ってない」

「営業妨害」

「停止補助」

「言葉、真琴に習った?」

「嫌味だけ」

 十夜の右手が胸へ触れる。

 初めて、動作の精度がずれる。

 指先が札を外し、空を掴む。

 場内時計。

 二十三時五十九分三十八秒。

 残り二十二秒。

 残り二十二秒。

 紅城乱馬は、主卓の前で指を止めていた。

 全自動煽り映像は切った。

 録音拍手も切った。

 だが、場内にはまだ三種類の記録が動いている。

 七瀬の検証映像。

 審査局の能力計測。

 興行契約の販売記録。

 止めたつもりで、止まっていない。

「乱馬」

 カナタが呼ぶ。

 舞台袖の安全盤へ立っている。

「今、何を残す?」

「事故記録」

「誰のため」

「後で争うため」

「何を」

「停止時刻。再生時刻。契約違反。救護指示」

「客の顔は?」

 乱馬は客席を見る。

 立ち上がる人。

 退場する人。

 携帯鏡で試合場を映す人。

 顔を隠す人。

 泣いている人。

 笑っている人。

 興行の熱は、全員の表情を同じ物語へ入れる。

「切る」

「自分で」

「分かってる」

 乱馬は観客向け撮影回線の主鍵を抜いた。

 二十三時五十九分四十二秒。

 西画面へ、自分で表示する。

《観客向け興行撮影 停止》

《停止操作 紅城乱馬》

《理由 本人停止後の決着要求を増幅したため》

 文が長い。

 演出家の字幕としては、格好が悪い。

 格好の悪い責任は、短い名言より長く残る。

「録音は」

 七瀬。

「安全放送だけ残す」

「販売利用」

「停止」

「再編集」

「本人と関係者の再同意まで禁止」

「時刻」

「四十四秒」

 七瀬は記録した。

 乱馬が自分の名を消さないことも。

 残り十六秒。

 北側の観客が、医療通路へ押し寄せた。

 十夜へ近づこうとしたのか。

 出口を求めたのか。

 騒ぎから離れたかったのか。

 一人ずつ理由は違う。

 結果として、同じ狭い通路へ百人近くが向かった。

 非常遮断扉は、零時に閉じる設定だった。

 興行区画と医療区画を分けるため。

 扉が閉まる前に、人を通路から出さなければならない。

「北通路、逆流!」

 カナタが叫ぶ。

「出口は東!」

 通常照明の矢印が東を示す。

 だが、観客は十夜を見ている。

 矢印を見ない。

 十夜の《最後》を見届けたい。

 見届けることが、本人を助けるとは限らない。

「止まって!」

 誘導員が言う。

 止まらない。

 凱が振り向く。

「北列、止まれ!」

 声が通る。

 圧は出ない。

 先頭の十人だけが止まり、後ろから押される。

 一人が転ぶ。

 凱は試合場を出ようとする。

 左膝が沈む。

 迅が肩を貸そうとする。

「要らん」

「命令?」

「希望だ」

「却下」

 迅は凱の右側へ入り、左膝へ体重が乗らない角度で身体を支える。

「離せ」

「通路まで」

「俺は歩ける」

「歩ける人も支えられる」

 凱は一度、迅の肩を押す。

 右手が震え、力が入らない。

 押し切れない。

 受け入れる。

 二人で北へ向かう。

 水科イオは、非常遮断扉の制御箱を開けていた。

 機械式の時計歯車。

 接点。

 落下錘。

 扉は、零時に閉じる。

 はずだった。

 録音拍手回線と同じ電源箱から迂回線を取ったため、接点が熱を持ち、落下錘の解除爪が半分しか抜けていない。

「閉じない」

 技師が言う。

「手動は」

 イオ。

「重い。二人で三十秒」

「残り」

「十二秒」

「今閉めたら、通路に人がいる」

「開けたままだと、医療区画へ流れ込む」

 イオは通路を見る。

 転倒者一人。

 その上へ倒れかける二人。

 誘導員。

 凱と迅。

 救護席から走る豪。

 扉の下へ、人はいない。

 閉鎖線の内側に、まだ六人いる。

「六人、医療側へ入れる」

 イオ。

「閉じた後、戻せないぞ」

「医療区画で保護。本人確認して東出口へ回す」

「勝手に」

「今、本人へ聞く」

 イオは六人へ声を張る。

「この扉、十二秒で閉じる。医療側へ入るか、今、後ろへ戻るか。押さない。走らない。選べない人は医療側へ」

「何で閉じる!」

 一人が叫ぶ。

「医療通路へ群衆を入れないため」

「十夜を見たい!」

「見られない」

「金払った!」

「見る権利に、治療通路は含まれない」

 男は迷う。

 残り九秒。

「後ろへ」

 選ぶ。

 別の女は、足を捻っている。

「動けない」

「医療側」

 豪が女を抱えない。

「肩と膝、触るぞ」

「はい」

 支えて医療側へ。

 残り七秒。

 技師が解除爪を叩く。

 動かない。

 イオは左腕の真鍮装具へ、終了時刻を合わせる。

「能力を使う」

 言う。

 近くの医療者が見る。

「不整脈歴」

「薬剤性。増強剤使用時。今も期外収縮あり」

「中止を推奨」

「記録」

「代替は」

「手動三十秒。間に合わない」

「使用後、座位、検脈、心電図」

「同意」

 隠さない。

 能力者は、能力を使う時だけ患者でなくなるわけではない。

 イオは左手を解除爪へ当てた。

 終業刻〈ラスト・シフト〉

 選んだ終了時刻まで、開始と停止の動きを正確に合わせる。

 強くする力ではない。

 他人の能力を消す力でもない。

 閉じる動作を、閉じる時刻へ合わせる。

 零時まで、五秒。

 解除爪が動く。

 一ミリ。

 二ミリ。

 落下錘の重さは変わらない。

 摩擦も消えない。

 イオの左腕が震える。

 右腕は使わない。

 以前の強さを真似ない。

「三」

 技師が数える。

「二」

 北通路の最後の誘導員が、閉鎖線を越える。

「一」

 零時零分零秒。

 解除爪が外れた。

 遮断扉が落ちる。

 床から三十センチで、一度減速。

 十センチ。

 五センチ。

 閉鎖。

 金属音が、場内のすべての声を一度切った。

 イオは手を離す。

 右腕へ力が戻ることはない。

 左手で自分の頸動脈へ触れる。

「脈、百二十六。二拍抜け」

 言う。

 その場へ座る。

「胸痛なし。息切れ、二。眩暈、一」

 医療者が心電図電極を貼る。

「立つな」

「立たない」

「仕事は」

「終業」

 装具の針が、零時を示して止まった。

 同じ零時。

 鐘巻十夜の精度が消えた。

 消え方は、静かだった。

 光が爆ぜない。

 床も割れない。

 右手が、胸の札へ届かなかった。

 指が空を掴む。

 十夜は、少し不思議そうに自分の手を見る。

「閉店」

 言った。

 遅れていた反証が、まとめて身体へ戻る。

 青札戦で受けた拳。

 呼吸を削った膝。

 動悸。

 脱水。

 興奮。

 零時まで送った一つ一つの借金。

 胸が一度、大きく跳ねる。

 二度目は、細かく震える。

 十夜の膝が折れた。

 豪が間に合う。

 後頭部を床へ打たせず、肩と腰を受ける。

「十夜」

「閉店後の、片づけ……」

 言葉が切れる。

 目が上を向く。

 豪は頬を叩かない。

 肩へ触れる。

「聞こえるか」

 返事なし。

「呼吸」

 胸が動かない。

「脈」

 頸動脈へ二本指。

 ない。

「心停止!」

 豪の声が、役職ではなく手順を動かす。

「除細動器。医療班、北。時刻、零時零分七秒。迅、下がれ。凱、通路を空けろ。七瀬、顔を撮るな。真琴、興行停止を確定。乱馬、場内へ静止指示」

 全員へ違う命令。

 誰も、王だから従ったのではない。

 豪は胸骨圧迫を始める。

 一。

 二。

 三。

 大きな掌を重ね、胸が五センチ沈む位置を選ぶ。

 十夜の黒い手袋が、床へ開く。

 銀の秒針模様は、もうどこも指していない。

 除細動器が届く。

 電極を貼る。

《解析中》

 機械の声。

《心室頻拍。ショック適応》

 豪が周囲を見る。

「離れて!」

 迅が凱を一歩下げる。

 医療者が十夜の腕から離れる。

 カナタが鐘木の縄を放す。

 七瀬は中央映像を黒へ切り替えた。

 西画面には、時刻と手順だけを残す。

《零時零分七秒 心停止確認》

《零時零分二十二秒 除細動適応》

「充電」

 機械の音が高くなる。

 客席は、誰も拍手しなかった。