第333話 第九章「観客が待つ」前編

第二ラウンド、一分三十五秒。

 火群七瀬は、迅と凱ではなく、画面の外を見ていた。

 中央映像には、二人の全身。

 東映像には、足元と七段差。

 西映像には、時刻、停止条件、能力所見、身体技能。

 どの画面も、真実の一部だった。

 一部を三枚並べても、全部にはならない。

「旧映像コメント、増加」

 補助記録員が言う。

 公開回線の横へ、黒雨記念日の中央台決闘を見た観客の短文が流れている。

《七歩目を待て》

《王を殴れ》

《今度は決着》

《昔と同じ構図》

《あの台詞を言え》

 七瀬はコメント欄を閉じない。

「重ねないでください」

「非表示?」

「試合映像へ重ねない。別画面へ、時刻付きで保存」

「煽りが見えなくなります」

 乱馬の音響担当が言う。

「見せ物としては?」

「検証として、誰が何を期待したか残します」

「同じじゃないですか」

「迅の顔に文字を貼るのと、文字の送り主を別に記録するのは違います」

 中央画面で、凱が前へ出た。

 迅が斜めへ退く。

 一歩。

 客席が数える。

「一!」

 七瀬は歩数表示を出さない。

「出した方が分かりやすい」

 乱馬が背後から言う。

 いつの間にか記録台へ来ている。

「認定されていません」

「観客が認定してる」

「観客は迅の条件を知りません」

「知ってるよ。有名だ」

「知っているつもりと、成立は別です」

 迅は二歩目を退く。

 ただし、凱の拳を受けてではない。

 七段差の角を避けるため、自分で位置を変えた。

 客席は《二》と叫ぶ。

 七瀬は西画面へ文字を出す。

《観客の数唱 二歩》

《能力条件上の退路 未判定》

「冷める」

 乱馬。

「冷めて選べるなら、冷めてもらいます」

「興行は熱い間に終わらせる」

「人間は、終わった後も残ります」

 乱馬の目が、北側の鐘巻十夜へ動く。

 十夜は終了鐘の脇に立っている。

 黒い手袋。

 銀の秒針模様。

 胸の札。

《零時まで》

 顔色は、第一部の時より白い。

 口元だけが、いつもの形を保っている。

「残る人へ、最後を売る」

 乱馬が言う。

「最後なら高く売れる。何度も売れないから」

「本人の翌日は?」

「翌日を買う客はいない」

「だから売らない?」

「舞台に上げても、地味だ」

「診察、借金、契約停止。地味でも事実です」

「君は事実を全部同じ照明で撮る」

「違います」

 七瀬は左肩の吊り帯を直す。

「照明を消す権利も記録する」

 中央画面で、凱の右拳が迅の顔を狙う。

 迅は首を引く。

 左足が一身体分、後ろへ滑る。

 三歩目。

 今度は成立し得る。

 迅の背後には、登録証者席の最前列がある。

 低い防護柵。

 その向こうへ、二百十人のうち十八人が座っている。

 凱の圧は今、出ていない。

 それでも凱の身体は九十キロ近い。

 前進のまま柵へ入れば、証者を巻き込む。

 迅が守る対象は、いる。

 自分から殴っていない。

 退路を一身体分、差し出した。

 七瀬は歩数を認定しない。

 能力条件の判定者は、七瀬ではない。

 ただ、迅の赤い紐が三つ目の結び目まで揺れた時刻を記す。

 二十三時五十七分四十秒。

 残り三十八秒。

「三!」

 観客が揃う。

 揃う声は、力になる。

 凱へではない。

 迅へでもない。

 結末へ。

 結末は、どちらの身体も持っていないのに、二人を押す。

 凱は、迅の右脇腹をもう一度狙った。

 迅は分かっている。

 分かっていて、完全には避けられない。

 第一の拳は囮。

 第二の肘が本命。

 迅は拳を外へ流し、肘の内側へ前腕を入れる。

 凱の肩が止まる。

 止まったはずの力が、半拍遅れて来る。

 能力ではない。

 第一ラウンドの反証で、凱の身体が自分の命令へ遅れている。

 肩の重さが迅の腕へ乗る。

 右肋部の痛みが六へ上がる。

 迅は息を吐く。

 後ろへ一歩。

 四歩目。

「四!」

 登録証者席の一人が、数唱を拒否して口を閉じる。

 隣の人間が、代わりに大きく叫ぶ。

 声量は一人分増える。

 証者は一人増えない。

 凱の左手が迅の上着を掴む。

 右手が脇腹へ入る。

 迅は身体を捻る。

 拳が正面ではなく、側面を擦る。

 痛みは七へ行かない。

 迅の右手が、凱の手首へ触れる。

 冷たい。

 夏の夜なのに。

「指、見えるか」

 迅が訊く。

「見える」

 凱。

「何本」

 迅は指を立てない。

「出していない」

「なら零だ」

「正解」

 凱が苛立つ。

 苛立ちに、圧は乗らない。

 普通の感情だけがある。

 凱は迅の上着を引く。

 迅が前へ崩れる。

 頭が近づく。

 凱の右膝が上がる。

 迅は左掌で膝を受け、右足を後ろへ引く。

 五歩目。

「五!」

 背後の防護柵まで、あと二身体分。

 凱は進む。

 左膝が一度、沈む。

 支えられる。

 停止条件には達していない。

 右手の震えは強い。

 迅の両手は見えている。

 医療者の質問は来ていない。

 本人は、止めていない。

 条件を満たしているから続ける。

 条件を満たすことと、続けたいことは同じか。

 凱には分からない。

 分からないまま、一歩進む。

 迅が六歩目を差し出す。

 赤い紐の六つの結び目が、順に床へ影を落とす。

 七退一還〈セブン・リターン〉の入口が、迅の背骨へ集まる。

 受けた動き。

 凱の進路。

 客席の結末要求。

 源は一つではない。

 凱の拳か。

 王冠か。

 乱馬の字幕か。

 登録証者の王呼びか。

 迅自身の勝ちたい気持ちか。

 七歩目を踏めば、返す先を決めなければならない。

 迅は決められない。

 決められないから、能力が弱いのではない。

 源を間違えて殴れば、強さが間違いを大きくする。

「六!」

 客席が叫ぶ。

 凱が右拳を引く。

 迅の背後、あと一歩で防護柵。

 七歩目の退路はある。

 左へ。

 身体一つ分。

 その先へ、証者はいない。

 空席がある。

 迅は踏める。

 凱は拳を出せる。

 七歩目の空席は、白く見えた。

 実際には灰色の椅子だ。

 試合灯が床へ反射し、迅の視界で輪郭だけが抜けている。

 退ける。

 左足を一身体分。

 背後の証者を守る位置。

 凱の拳を受ける。

 七つの退路を、返す一撃へまとめる。

 身体は、もう知っている。

 迅の左踵が、床から一寸浮く。

 客席が息を吸う。

 その吸気も、背中へ来る圧の一つだった。

 凱の拳。

 王冠。

 字幕。

 数唱。

 自分の勝ちたい気持ち。

 どれが暴力の源か。

 迅は、これまで何度も源を選んだ。

 拳を振るう人間。

 閉じた扉の連結爪。

 落ちる梁。

 暴走する搬送台。

 選べた時、一撃は強かった。

 今夜は、選べない。

 凱の拳だけを源にすれば、客席の要求が残る。

 客席を源にすれば、二百十人の異なる信頼を一つの群衆にしてしまう。

 王冠を殴れば、凱が今ここで止める権利まで物へ預ける。

 自分を源にすれば、勝ちたい気持ちを罰する拳になる。

 左踵が、床へ戻る。

 七歩目は踏まない。

 凱には、その動きが見えた。

 迅が退けなかったのではない。

 退かなかった。

「来い」

 凱が言う。

 迅は構えを解かない。

「止まる条件」

「まだ達していない」

「おまえが選ぶ条件」

「今は続ける」

 凱は前へ出る。

 左膝が揺れる。

 右拳は引かれている。

 視野は迅へ狭まっていない。

 客席の上段も見える。

 医療灯も見える。

 北側の十夜も見える。

 全部見えるから、全部の期待が入る。

「凱」

 迅が名を呼ぶ。

「何だ」

「勝ったら、何が終わる」

 凱は一歩進む。

「判定」

「それだけ?」

「試合」

「それだけ?」

「王位の議論」

「終わらない」

「終わらせる」

「誰が」

「俺が」

「拳で?」

 凱の右手が震える。

 拳の形を保てないほどではない。

 それでも、問いへ答えるための時間が一拍増える。

「おまえに勝ち、自分で決める」

「負けたら」

「負けを受ける」

「王をやめる?」

「結果を見て決める」

「今、決められない?」

「試合中だ」

「身体は、試合の外まで持ってくぞ」

 凱の前足が、迅の六歩目の線へ入る。

 あと一歩。

 迅は拳を上げる。

 七退の力は、背中へ溜まっている。

 完全ではない。

 行き先がないまま、六つの動きが互いを押している。

 右肋部が痛む。

 右の小指が遅い。

 それでも、一撃は作れる。

 作れることと、使うことは別だ。

 凱の目が、迅の左足を見る。

 七歩目を待っている。

 迅の目は、凱の拳を見ない。

 口を見る。

 止めると言えるか。

 凱は、一度、息を吸う。

 王の声を作る吸気ではない。

 四千人へ届かせるためでもない。

 自分の身体から、自分の言葉を出すための一息だった。

 場内時計が、第二ラウンド二分十八秒を示した。

「停止」

 凱が言った。

 声は大きくなかった。

 迅には聞こえた。

 審査主任にも聞こえた。

 鐘巻十夜にも聞こえた。

 客席には、半分しか届かなかった。

 録音拍手が流れたからだ。

 録音拍手は、停止の前から仕込まれていた。

 第二ラウンドが二分を越えた時点で、自動的に再生する。

 終盤を盛り上げるための音。

 予定された熱。

 凱の《停止》は、その熱へ飲まれた。

 十夜の手が、終了鐘へ伸びる。

 鐘を鳴らせば、試合は終わる。

 指先が、鐘木へ触れた。

 動かない。

 十夜は鐘木を握ったまま、場内時計を見る。

 二十三時五十八分十八秒。

「停止宣言、確認」

 審査主任が場内放送へ言う。

 音響卓の赤い灯りが点かない。

 録音拍手の回線が、放送回線を塞いでいる。

 カナタが音響卓へ走る。

 右足首の古傷を庇い、三歩目を小さくする。

「再生を切って」

「自動終了まで十二秒」

 音響係。

「十二秒も拍手させるな」

「手動停止は主卓だけ」

「どこ」

「北側」

 北側には十夜がいる。

 十夜は鐘木を離した。

「まだだ」

 口元に笑いがある。

 声は、笑っていない。

「本人が止めた」

 カナタが叫ぶ。

「第二ラウンドを」

 十夜。

「試合をだ」

「契約書は三ラウンド」

「停止後に第三はない」

「延長はない。短縮禁止は書いてない」

「その理屈、舞台で使うと役者が死ぬ」

「死なせないよ」

「自分を数に入れろ」

 十夜は返事をしない。

 録音拍手が止まる。

 二十三時五十八分三十秒。

 十二秒。

 短い。

 人間が一度《停止》を言った後に浴びる圧としては、長すぎる。