第332話 第八章「能力なしの一撃」後編
第二ラウンド、四十六秒。
凱は能力を使わない。
使えないのか。
使わないのか。
外からは分からない。
分からないものを、観客は好きな方へ決める。
「温存してる!」
「もう消えた!」
「普通の拳で勝て!」
「王路を見せろ!」
四つの声が、同じ身体へ別の未来を投げる。
凱は、どれも拾わない。
迅の右脇腹を狙う。
一度効いた場所。
合理的だ。
迅は狙われると知っている。
合理的な攻撃は、避けやすい。
凱の右拳。
迅は左肘を下げる。
脇腹を守る。
凱の左拳が、迅の頬へ来る。
囮。
迅は首を右へ倒す。
拳が耳を擦る。
凱の右足が、迅の左足の外へ入る。
足払い。
迅の重心が崩れる。
左手を床へつく。
凱の膝が上がる。
左膝ではない。
右膝。
迅は床を蹴り、身体を回す。
膝が背中を擦る。
転がって離れる。
立つ。
右脇腹が、立ち上がりで痛む。
五。
豪へ指を五本見せる。
豪が頷く。
凱はそのやり取りを見る。
「俺を見ろ」
「見てる」
「救護へ合図しながら?」
「相手だけ見て戦うの、視野狭いぞ」
凱の顔が硬くなる。
第一ラウンドの反証。
視界の外側が消えたことを、迅は知っている。
挑発ではない。
確認だ。
「今、俺の両手は」
迅は左右の手を開く。
「見えるか」
「見える」
凱は答える。
「何本」
迅は右手三本、左手二本を立てた。
「五」
「足し算はできる」
「試合中に算数を出すな」
客席が笑う。
凱も、わずかに息を漏らす。
その瞬間、迅が入る。
凱の右手首を左で払う。
右肩を胸へ。
左足を凱の右踵へ掛ける。
凱は倒れない。
左膝を使わず、右脚一本で身体を支える。
迅の腰を右手で抱える。
持ち上げる。
能力はない。
背中と脚の筋肉だけ。
迅の足が床を離れる。
凱は投げようとする。
迅は右肘を凱の肩へ置き、身体を横へ逃がす。
二人とも倒れる。
凱が下。
迅が上。
迅は拳を上げる。
凱の顔が中央にある。
打てる。
凱の右手も、迅の脇腹へ届く。
互いに一撃を持っている。
迅は拳を打たない。
凱も打たない。
「なぜ止めた」
凱。
「床」
迅が言う。
凱の頭の後ろに、七段差の角がある。
打てば、後頭部が当たる。
「俺は続けられる」
「床が続けさせない」
「床に判断させるな」
「石へ同意を取れって?」
「俺へ取れ」
「頭打ってからじゃ遅い」
迅は立つ。
凱へ手を差し出さない。
自分で立てる。
凱は右手を床へつき、右脚で起きる。
左膝へ体重が移る瞬間、顔がわずかに歪む。
医療席の灯りが黄色へ変わる。
警告。
凱は見た。
停止は宣言しない。
一分十秒。
凱の呼吸は、第一ラウンドより浅い。
迅は胸の上下を数えない。
数えると、攻撃の時刻を決めたくなる。
代わりに、息を吐いた後の肩の戻りを見る。
遅い。
右手の震えを抑えるため、凱は握りを強くしすぎている。
強く握った拳は、開くのが遅い。
迅は右へ誘う。
凱の拳が来る。
迅は受けず、拳の外へ左掌を添える。
押すのではない。
戻る道を、少しだけ横へずらす。
凱の拳が開かない。
肘が伸びたまま、半拍残る。
迅の左肩が、凱の胸へ入る。
前へ押す。
凱は下がらない。
右脚で床を噛む。
左膝を曲げず、腰だけを回す。
迅の肩を外へ逃がす。
凱の左掌が、迅の後頭部へ触れる。
押さえる。
右膝が迅の腹へ上がる。
迅は頭を低くしたまま、左肘で膝を受ける。
衝撃が肘から肩へ抜ける。
「痛み」
豪が場外から言う。
「肘、三。脇腹、五」
迅。
「視界」
「ある」
「呼吸」
「できる」
凱の左掌が離れる。
「試合中に問診するな」
「問診へ答えながら殴れるなら、余裕ある」
豪。
「おまえも答えろ。膝」
「三」
凱。
「手」
「二」
「視野」
「全周」
「嘘なら止める」
「見えている」
迅が右手を肩の高さへ上げる。
指を一本だけ立てる。
「何本」
「一」
左手を腰の横へ出す。
三本。
「左は」
「三」
「足は」
迅は何も出さない。
「零」
凱は答える。
「見えてる」
「試合しろ!」
客席から怒号。
凱がそちらへ顔を向けかける。
迅が踏み込む。
「相手はこっち」
左拳を胸へ。
凱は右前腕で受ける。
震えが、迅の拳へ伝わる。
迅は打ち抜かない。
拳を凱の腕へ置いたまま、足だけを動かす。
右。
左。
凱の身体を、客席へ向けたまま半回転させる。
背後が七段差になる。
凱は位置を悟り、右足を止める。
「床」
迅。
「分かっている」
「下がれる?」
「俺へ訊くな」
「能力じゃない。足」
凱は左へ一歩ずれる。
後ろへは退かない。
段差から離れる。
客席がざわつく。
「逃げた!」
「横だ」
タマキが記録席から大声で返す。
「後ろじゃない」
「どっちでも同じだ!」
「違う。靴の向き見て」
タマキは床映像へ矢印を出そうとする。
真琴が止める。
「試合中の解説権限はありません」
「嘘、直さない?」
「記録板へ《横移動》とだけ」
文字が出る。
《獅堂凱 左側方へ一歩。後退ではない》
客席の声が半分になる。
凱はその表示を見る。
「余計だ」
「事実」
迅。
「王は退かない、を守ってやったつもりか」
「足の向き書いただけ」
「同情するな」
「してない」
凱の右拳が、迅の顔面へ真っ直ぐ来る。
震えている。
それでも、速い。
迅は首を外へ。
拳が頬を掠める。
凱の左拳が続く。
迅は右手で受ける。
環指と小指の握りが遅れる。
拳が掌を押し込み、迅の自分の指が頬へ当たる。
視界が揺れる。
凱の右肩が前へ出る。
迅は下がる。
一身体分ではない。
爪先半分。
数へ入れない。
凱は追う。
迅は、右肋部を守るため左肘を下げる。
凱はそこを見て、腹ではなく肩を打つ。
短い右。
迅の左肩が後ろへ飛ぶ。
足は残る。
上体だけが傾く。
迅は傾いたまま、右足を凱の外へ置く。
左拳を上げない。
額を凱の顎の下へ差し込む。
持ち上げる。
凱の視線が天井へ向く。
迅の左掌が凱の胸へ。
押す。
凱は二歩、横へ出る。
左膝が一度だけ揺れる。
黄色の救護灯が点く。
凱は灯を見る。
迅の両手も見る。
視野はある。
「続ける」
凱が自分で言う。
誰にも訊かれていない。
「受けた」
豪が返す。
「痛み、膝四。手二。視野全周」
凱は申告する。
客席の一部が笑った。
「自分で実況してる」
十夜が北側から言う。
「実況は報酬が出るよ」
「黙れ」
凱。
「具体性なし」
十夜。
迅が笑いかける。
凱の拳が飛ぶ。
笑いは消える。
一分三十秒。
凱の拳は、能力の光がなくても痛い。
迅の退き方は、七つに数えなくても鋭い。
観客が待っているものが出なくても、二人は戦える。
その事実は、能力が消えても何も変わらないという意味ではない。
何が残り、何が失われたかを、一つずつ見直す時間が要るという意味だった。
一分三十四秒。
残り四十四秒。
客席の声が、大きくなる。
時間が減ると、人は結末を急ぐ。
急いだ結末ほど、本人より先に決められる。
イオは場外の時計を見る。
零時まで、二分二十六秒。
十夜は北側の鐘のそばに立っている。
顔色が悪い。
それでも、動きだけは正確だった。
正確な人間が安全とは限らない。
壊れる時刻を、先へ送っているだけかもしれない。