第331話 第八章「能力なしの一撃」前編
第一ラウンドが終わった瞬間、場内へ三つの時刻が出た。
《現在時刻 二十三時五十五分零秒》
《休憩終了 二十三時五十六分零秒》
《興行終了 零時零分零秒》
三つ目だけ、鐘巻十夜の契約だ。
水科イオは、その表示を見て立った。
左腕の真鍮装具へ刻んだ目盛りではなく、場内時計を見る。
自分の時計だけを信じる人間は、時刻を守っているのではない。
他人へ自分のずれを押しつけているだけだ。
「どこへ」
真琴が訊く。
「試合場」
「休憩中の立ち入りは、医療者、安全責任者、審査担当者に限られます」
「停止条件確認担当」
「その肩書はありません」
「作って」
「一分以内に?」
「五十五秒」
真琴は筆を持つ。
「資格要件は」
「能力を失ったこと」
「一人だけになります」
「資格じゃなく経験」
「では、担当者ではなく参考人」
「何でもいい。入れる?」
真琴は審査主任を見る。
審査主任は、凱の眼球反応を確かめている医療者を見る。
医療者は、時間表示を見る。
人は責任を持つ時、時計を見る。
時間のせいにできる余地を測るためだ。
「参考人として、停止条件の再確認のみ」
審査主任。
「接触禁止。試合者への戦術指示禁止。二十秒」
「短い」
「残り四十六秒」
「十分」
イオは試合場へ入る。
左右違う靴が、石床へ別々の音を置く。
客席から声が飛んだ。
「部外者、下りろ!」
「王の試合に元能力者を入れるな!」
「縁起が悪い!」
最後の声に、イオは足を止めた。
振り向かない。
「聞こえた?」
凱が訊く。
「聞こえた」
「無視しろ」
「命令?」
「助言だ」
「内容が足りない」
凱は、一瞬だけ口を閉じる。
朝の広場なら怒鳴った。
今は、息を一度吐く。
「振り向けば、残り時間が減る。おまえの目的を優先しろ」
「合格」
「何の」
「説明」
凱の左膝へ、冷却布が巻かれている。
右手の指は小さく震える。
瞳孔は左右同じだが、視線がイオの顔へ合うまで一拍掛かった。
「視野は」
イオ。
「戻っている」
「端にいる人、何人見える」
「迅。医療者二人。犬飼。おまえ」
「反対側」
凱は目だけを動かす。
「七瀬。審査主任。轟」
「客席」
「数えさせるな」
「見える?」
「見える」
「停止条件を言って」
「契約書にある」
「停止できる人の一覧。あなたが止める条件じゃない」
凱の眉が寄る。
「必要なら止める」
「必要を誰が決める」
「俺だ」
「何を見て」
客席から、早くしろと声が飛ぶ。
十秒。
真琴が指を一本上げる。
イオは急がない。
「言えないなら、理由なしで止めていい」
「止める理由を持たずに止めるのは、逃げだ」
「理由を持ってても、言えない時がある」
「俺は言える」
「じゃあ言って」
凱の視線が、迅へ移る。
迅は西側の角で、水を一口だけ飲んでいる。
右手ではなく左手で容器を持つ。
呼吸は整っている。
脇腹を庇っていない。
「相手の両手が見えなくなった時」
凱が言う。
「左膝が体重を支えられなくなった時。医療者の質問を二度聞いても答えられない時」
「三つ」
「それから」
凱は客席を見た。
「俺が、止めると決めた時」
イオは頷く。
「最後を一番上にして」
「順番は変えない」
「じゃあ、同じ大きさで」
真琴が場外から書き取る。
《本人停止条件》
《一、本人が停止を選んだ時》
《二、相手の両手を視認できない時》
《三、左膝が体重支持不能となった時》
《四、医療質問へ二度連続して応答不能となった時》
西側画面へ出る。
観客から、怒号と拍手が同時に起こる。
「なぜ公開する」
凱。
「あなたが今、公開の場で言った」
イオ。
「止める時、客席に理由を説明しなくていい。条件が使われたかも、後で本人が公開範囲を選ぶ」
「複雑だ」
「人間の停止を、一個の赤いボタンにする方が変」
残り八秒。
イオは試合場を出ようとする。
「水科」
凱が呼ぶ。
イオは振り向く。
「おまえは、止められたのか」
何を。
能力を使うこと。
仲間を打った腕。
保護される生活。
今も他人の時計を直したくなる癖。
「一回目は、止められなかった」
イオは言う。
「二回目は、他人に止められた。三回目から、終わる時刻を先に書いた」
「それで失わなかったか」
「失った」
イオは右腕を見せる。
「止めても、失うものはある。止めないより少ないとは限らない」
鐘が一度鳴る。
休憩終了。
イオは白線の外へ出た。
客席から、《逃げた》と声が来る。
「そう」
イオは小さく答えた。
「白線の外へ」
白線の外へ戻ったイオは、登録証者席の前を通った。
そこには、開始前に《疑いあり》へ印を付けた溶接工がいた。
「止める条件を公開したら、能力に影響する?」
青年が訊く。
「するかもしれない」
イオ。
「止めると思うと、信じにくくなる」
「信じるって、最後までやること?」
「昔は、そうだった」
「今は」
青年は自分の左手を見る。
三本の指だけ太い。
熱を逃がす能力が薄れた後も、その指は作業の形を残している。
「工場で、俺が止めるって言うと、代わりがいないから続けろって言われた。凱が止めたら、王がいないから続けろって言われるのかな」
「言う人はいる」
「証者の俺が、続けろって信じたら」
「あなたの信頼条件を変えられる」
イオは登録札の裏を示す。
《疑いあり》
「何へ」
「《止めると言ったら止める》」
「それを信じる?」
「今は半分」
「半分のまま書く」
青年は鉛筆を借りる。
《停止宣言を守るかを見る》
小さな字だった。
能力へ何が足されたか、測定器には出ない。
信頼は数字にならないまま、条件だけ変わる。
イオは次の席へ行かない。
一人の変更を見たからといって、二百九人へ同じ質問を配れば、また揃えてしまう。
試合場では、迅が右足の位置を変えていた。
七段差から一身体分、離れる。
「何を避けた」
凱。
「昔の位置」
「石は新しい」
「客が古い」
迅は客席を見る。
「同じ台詞を待ってる」
「言わなければいい」
「おまえも、同じ拳を待ってる」
「勝負だ」
「再現じゃない」
凱は黒い手袋の右を締め直す。
「俺は、おまえに勝てば、以前と同じだと証明できる」
「以前と同じなら、右手は震えない」
「震えても打てる」
「それは、同じじゃなくて、今の技能」
凱の目が細くなる。
「イオに教わったか」
「見れば分かる」
「なら、能力が出なくても勝てると言え」
「勝てる」
迅は即答した。
「おまえも」
凱が少し驚く。
「なら、なぜ能力判定が要る」
「王位の方が、能力へ寄りかかってるから」
「俺の拳ではない」
「知ってる」
迅は右手を開く。
環指と小指が、少し遅れて伸びる。
「俺の右手も、前と同じじゃない。だから殴れないかって言われたら、殴れる。七歩を使わないと俺じゃないかって言われたら、違う」
「おまえは、王ではない」
「助かった」
「逃げるな」
「役職からは逃げる」
休憩終了の鐘が鳴る。
凱は構える。
迅も構える。
どちらの誓痕も、光らない。
客席の期待だけが、先に立ち上がった。
第二ラウンド。
迅は、凱の能力を待たなかった。
鐘が鳴るより半拍後、左足を前へ出す。
凱の肩が動く。
右拳。
迅は外へ回らず、内側へ入った。
額が凱の鎖骨へ近づく。
左前腕で右肘を押し、右手を凱の脇へ差し込む。
組む。
客席が沸く。
読み切りの時、迅は距離を作った。
退くために。
今日は、距離を消す。
凱の前進を、歩数にしない。
自分の後退を、七つに数えさせない。
凱は右腕を引けない。
左手で迅の襟を取る。
左膝は深く曲げられない。
腰を回す。
迅の足が床を離れる。
投げではない。
体勢を浮かせ、右肩で押す。
迅は足を戻し、凱の踵の外へ置く。
二人の重心が、一つの円の中で入れ替わる。
凱が壁側へ。
迅が中央へ。
迅の左膝が、凱の腿へ当たる。
強くない。
装具の上を避け、筋肉だけを止める。
「手加減か」
凱。
「場所を選んだ」
「同じだ」
「膝を壊すのが全力なら、全力って雑だな」
凱の額が、迅の額へ当たる。
頭突きではない。
視線を隠す。
迅が右へ離れようとする。
凱は離さない。
右手を一度、迅の背へ滑らせる。
拳を打つ距離がない。
だから、掌の付け根を使う。
迅の右脇腹へ、短い一撃。
音は小さかった。
過去の王路のように床は揺れない。
空気も割れない。
字幕も光らない。
迅の身体だけが、内側で止まる。
肺から息が抜ける。
右肋部に、丸い痛みが残る。
骨の線ではない。
筋肉と肋軟骨の間。
迅は凱の襟を離した。
二歩、下がる。
客席の一部が笑った。
「今の?」
「能力なし?」
「弱っ」
凱の右手が、次の拳の形へ固くなる。
迅は脇腹へ触れない。
「痛い」
言った。
笑いが止まる。
凱の目が、わずかに開く。
「同情か」
「痛いって言った」
「効いたと言え」
「注文が多いな。効いた」
「立っている」
「効くと倒れるは別だ」
迅は呼吸を一度浅くし、二度目を深くする。
右肋部が痛む。
骨が擦れる感じはない。
息は入る。
続けられる。
犬飼豪が場外で、拳を一度上げる。
救護確認の合図。
「呼吸、左右」
迅は両腕を上げる。
右側だけ、少し遅い。
「痛み、十段階」
「四」
「増えたら言え」
「言う」
「嘘つくな」
「努力する」
「そこは約束しろ」
迅は答えず、構え直す。
豪は停止を宣言しない。
痛みがあるから止めるのではない。
痛みを隠して判断材料を奪った時、止める。
凱は自分の右手を見る。
震えている。
それでも、一撃は入った。
能力の残りではない。
十年以上、身体へ覚えさせた距離と角度だ。
客席の画面へ、イオが文字を出す。
《身体技能による有効打》
《誓痕反応なし》
審査主任が横から言う。
「能力判定の画面です」
「身体技能の欄もある」
「補助欄です」
「見える大きさにした」
「規格外」
「規格の文字は十二点。客席から読めない」
「記録原本では読めます」
「人へ見せる公開判定で、原本だけ読める文字を使う意味は?」
審査主任は返せない。
真琴が画面の配置を見ている。
能力所見が上。
身体技能が下。
文字の大きさは同じ。
「上下にも意味が出ます」
真琴。
「どうする」
イオ。
「左右へ並べます」
「左が先に読まれる」
「交互に入れ替える?」
タマキ。
「試合中に動かすと、記録位置が変わります」
「二枚にする」
タマキは鉄箱から白い板を一枚出した。
「能力と身体、別の板。誰から誰へ?」
「審査局から観客へ」
真琴。
「目的」
「別だと示す」
「じゃあ、離す」
タマキは二枚の板を、一人分の幅だけ離して置く。
単純だった。
制度は難しい。
板は動く。
イオが笑う。
「採用」
「あなたに決定権はありません」
「提案」
「採用します」
真琴は能力所見を右、身体技能を左へ置いた。
どちらが上でもない。
画面の中央に、空白ができた。
その空白へ、二人の身体が入る。
第二ラウンド、二十七秒。
能力所見と身体技能の板が左右へ分かれてから、観客の視線も二つに割れた。
右の板を見る者は、光を待つ。
左の板を見る者は、拳を見る。
両方を見るには、首を動かさなければならない。
迅は、その首の動きまで視界の端で捉えた。
観客が右へ向く。
能力を待つ。
凱が左の拳を出す。
普通の拳。
迅の頬骨へ、拳頭の外側が当たる。
視界が白くなる。
光ったのは誓痕ではない。
頭の中だ。
迅は一歩、後ろへ出る。
数えない。
凱が追う。
右拳は震えるため、軌道の最後でわずかに外へ流れる。
その流れを隠すため、肩を早く回す。
以前より遅い身体が、別の癖を作っている。
迅は流れた拳の内側へ入る。
右前腕で、凱の上腕を押す。
左拳を腹へ。
凱は腹筋を固める。
迅は打たない。
拳を開き、上着の皺だけを掴む。
引く。
凱の右足が、半歩前へ出る。
自分で進んだ。
能力ではない。
迅の左足が、凱の足首の外へ置かれる。
倒せる。
凱は左膝を使わず、右足だけで軸を戻す。
右肘を迅の鎖骨へ落とす。
迅が首を畳む。
肘は肩へ当たる。
鈍い痛み。
迅の右手が、一瞬開かない。
凱はそれを見た。
小指側から握り直す癖。
「右、まだ残ってるな」
「おまえも」
「俺は左だ」
「手」
凱の震える右手。
二人は、相手の古傷を知っている。
知っているから、狙わないとは限らない。
知っているから、狙った時の意味が増える。
凱が迅の右手首へ左掌を当てる。
握らない。
押す。
環指と小指の側へ、角度をつける。
迅の指から力が抜ける。
右拳が使えない。
凱の右拳が、迅の胸へ来る。
迅は左手だけで受ける。
受けきれない。
肩から一歩、下がる。
客席が《一》と叫ぶ。
「数えるなって言った」
迅は客席へ言う。
「試合中だぞ」
凱。
「客も参加してる」
「証者以外は能力へ入らない」
「身体には入る。うるさい」
「集中しろ」
「おまえが言うな」
凱の右拳が再び来る。
迅は今度、避けない。
左肩を前へ出し、拳を肩峰の外へ受ける。
痛みを一か所へ集める。
そのまま前へ。
額を凱の胸へ当てる。
凱の息が詰まる。
迅の左足が、凱の右足を踏まない位置へ置かれる。
腰を回す。
凱の身体が横へ流れる。
七段差の方向。
迅は最後まで押さない。
凱は自分で足を出し、段差の手前で止まる。
「止めたな」
「落とさなかった」
「勝機を捨てた」
「床へ勝たせたくない」
「俺は床にも勝てる」
「石、強いぞ」
凱は笑わない。
だが、呼吸が一つ乱れた。
迅はその乱れを狙う。
左の拳。
凱の右掌が受ける。
震えた手が、拳の中心を外す。
迅の拳は頬へ届かず、耳の後ろを擦る。
凱は受けた右手を、そのまま迅の手首へ絡める。
関節を取る。
迅は右へ回れない。
右肋部が近い。
左へ回る。
凱の右手の震えが、関節の締めを一定に保てない。
迅は、緩んだ瞬間だけを使う。
手首を抜く。
凱の胸へ、肩を当てる。
二人の額がぶつかる。
観客から、笑いが起こる。
「地味だ!」
「能力を使え!」
「普通の喧嘩じゃないか!」
凱が迅の耳元で言う。
「普通らしい」
「客は、普通を見たことないんだろ」
「おまえは」
「ある」
「誰と」
「犬飼」
「豪は普通ではない」
「誓痕はない」
「体格が異常だ」
「本人へ言え」
二人は組んだまま、短く笑った。
その笑いを、乱馬の音響が拾う。
客席が大きく沸く。
笑いまで、名場面にされる。
迅の顔から笑いが消える。
「切れ」
七瀬が音響へ言う。
「会話は試合記録です」
音響係。
「場内拡声は、本人同意の範囲外。原本には残す。客席へ流すな」
音が切れる。
二人の声は、最前列にだけ届く大きさへ戻る。
「助かった?」
凱。
「別に」
「聞かれたくないなら、黙れ」
「おまえが訊いた」
凱の右肩が沈む。
迅は腹を守る。
肩は囮。
凱の左足が、迅の右足の内側へ入る。
左膝は深く曲がらない。
足首だけで、迅の爪先を外へ払う。
迅の重心が開く。
凱の右掌が、迅の右肋部へ入る。
第一の有効打と同じ場所。
迅の息が止まる。
痛みが、四から五へ上がる。
迅は凱の手首を掴まない。
右手では、握り負ける。
左肘を落とし、凱の前腕を挟む。
身体を回す。
凱の右腕が、迅の脇の下へ固定される。
迅は左足を後ろへ引く。
凱の身体が前へ傾く。
左膝が、体重を受ける。
凱の顔が歪む。
迅は投げない。
腕を解く。
凱が自分で右足を前へ出す。
「また止めた」
「膝」
「俺の停止条件を、勝手に使うな」
「おまえが使わないから、見てる」
「まだ支えられる」
「知ってる」
「なら続けろ」
「続けてる」
二人は離れる。
西側の身体技能板へ、三つの記録が増える。
《獅堂凱 右掌打・有効》
《竜胆迅 組み崩し・有効》
《双方 危険な段差・関節角度で打撃中断》
能力所見板は、空白のまま。
空白が長くなるほど、客席の声が大きくなる。
凱は、声を聞かないために迅だけを見る。
迅は、凱だけを見ないために救護灯を見る。
同じ試合で、視野の使い方が逆だった。