第521話 第七章「放送所の籠城」前編

籠城には、城が要る。

 行政放送所にあるのは、防音壁と退出扉と、誰も座らない椅子の跡だった。

 それでも扉が閉まれば、中にいる人間は籠城者になる。

 四月二十五日、午前九時。

 放送所の床には、白い番号札が七十二枚並んでいた。

 医療十四。

 給水十二。

 移動十七。

 集会十三。

 監視十六。

 カナタは、番号の間を歩いた。

 右足首が熱を持っている。

 昨日の医師は、断裂なし、炎症再燃、跳躍禁止、長時間立位を避ける、と書いた。

「演説は座って」

 塩見檀。

「演説じゃない」

「行政放送」

「説明」

「呼び方で足首は変わりません」

「役者の気分は変わる」

「足首より大事?」

「大事じゃないから、言える」

 カナタは、三十五番札の前で止まった。

 移動群九番。

《指定区域における元能力者の宿泊先変更を、事前に届け出る》

 発令者――職名。

 更新者――職名。

 受領者――十二施設。

 拒否窓口――記載なし。

「今日、何枚読む」

 七瀬が訊く。

 撮影機は腰高の固定台。

 左肩へ負担をかけない。

「全部」

 カナタ。

「時間」

「一枚、平均六分。七時間十二分」

「無音区間を入れると」

「九時間」

「休憩」

「二時間ごとに十五分」

「足首」

「座る」

「声」

「交代する」

 巴が、左手で机を二度叩いた。

 右人差し指は固定帯。

 筆談板。

《私も読む。ただし声ではない》

「画面へ平文を出す」

 カナタ。

《正式文は真琴が外から送る》

「私は、間を作る」

《間に料金は?》

「無音は無料」

《高く取るべき》

「誰も払わない」

《役所へ》

「請求書の持ち主が見つかったら」

 七瀬が記録開始時刻を読む。

「午前九時三分二十秒。七十二命令個別説明放送。無観客。途中退出可能。退出理由不要。拍手入力なし。視聴数を賛意へ算入しない。録画自動再生なし」

 塩見が制御卓の鍵を回す。

 赤灯。

 放送開始。

 カナタは一番札を手に取った。

「医療群一番。正式名称――」

 真琴の音声が別室から入る。

《能力履歴者に対する臨時診療優先順位指定》

 巴が平文を画面へ出す。

《能力を持つ、または以前持っていた人を、先に診る命令》

 カナタが続ける。

「現在、有効です。発令部署は医療維持局。発令判断者の氏名は未確認。更新入力は、中央東診療所と北病院の病床数報告を使っています。二つの報告者は、優先順位への使用に同意したか確認中です」

 無音。

 五秒。

 画面の下に、三つの選択欄。

《質問する》

《後で見る》

《退出する》

 賛成も反対もない。

 五秒後。

「この命令によって先に診察を受けた人の治療は、命令が失効しても取り消されません。待たされた人の損害も、先に診られた人の責任にはしません」

 質問が一件。

《先に診てもらった。名乗る必要?》

「ありません」

 カナタ。

「命令を出した人を探しています。治療を受けた人を探しているのではありません」

 また無音。

 次の札。

 二番。

 三番。

 四番。

 数字を追わない。

 塩見だけが、技術記録として接続数を見る。

 カナタへは見せない。

 でも、質問の数で減っていることは分かる。

 最初は一枚につき十件。

 六枚目で三件。

 九枚目で一件。

 十枚目は、質問なし。

 カナタは、声を強くしない。

 客が減ると、役者は大きくなる。

 今日は、小さくなる。

 午前十一時四十一分。

 医療群十二番を読んでいる時、放送所の扉が閉まった。

 音は小さい。

 空気圧で、厚い防音扉が滑る。

 塩見が制御卓を見る。

「閉鎖命令」

「火災?」

 七瀬。

「違う。行政放送停止に伴う機材保全」

 画面へ文面。

《暫定命令に関する未確定情報の流布が、行政混乱を生じさせるおそれがあるため、放送を停止し、関係機材を封印する》

 発令者。

《中央危機調整局放送連絡責任者》

 氏名なし。

 更新認定。

《記録監査局》

《集会安全室》

「新しい命令?」

 カナタ。

「既存の監視群十六番と集会群十三番を根拠にした執行指示」

 真琴の声が通信管から入る。

「新規番号はありません」

「七十二に入る?」

「入ります。二本の適用範囲拡張です」

「増えなくてよかった」

「よくありません」

「数の話」

「七十二で安心しないでください」

 外側の音声管から、警備の声。

《放送を停止してください。機材を封印します》

 カナタは、赤灯を見る。

「誰の命令ですか」

《中央危機調整局放送連絡責任者》

「氏名」

 沈黙。

《職名による正式命令です》

「あなたの名前」

《中央官庁警備隊、第三班》

「人の名前」

《……班長、瀬戸内匡》

「瀬戸内さん。あなたは、放送停止命令を受領した?」

《はい》

「内容を読みましたか」

《未確定情報の流布防止》

「今、放送している情報のどこが未確定か、番号を言えますか」

《それを判断する立場ではありません》

「停止する判断は?」

《命令を受けました》

「停止した結果を説明する人は?」

《放送連絡責任者》

「名前」

《確認中です》

 カナタは、座ったまま右足首を伸ばす。

「確認が終わるまで、放送を続けます」

《命令違反です》

「私の判断です。紅葉カナタ」

《扉を開けます》

「避難口は」

《封印します》

「封印中に火災が起きたら」

《非常解放します》

「誰が」

《警備隊》

「今、扉の外にいる人?」

《はい》

「名前」

《瀬戸内匡》

「受領」

 カナタは、医療群十二番の札へ戻る。

「説明を続けます」

 塩見が、声を落とす。

「本当に?」

「止める?」

「私は技師です」

「質問の答えになってない」

「止めれば、機材は守れます」

「放送は」

「守れません」

「続ければ」

「警備が入ります。機材を壊す可能性」

「避難口」

「閉じられる」

「あなたは」

 塩見は喉を触る。

「続けます。ただし、第一回線が切られたら、第二へ。第二も切られたら、紙帯記録だけ残す」

「氏名」

「塩見檀。放送技師」

「受領」

 七瀬。

「撮影は継続。機材押収時は、原本を争って破損させない。複写三本を別経路へ送る」

「氏名」

「火群七瀬。記録者」

 巴は左手で書く。

《平文を続ける。退出路を塞ぐ説明には署名しない》

「氏名」

《一文字巴。契約通訳者》

 カナタは自分を指す。

「紅葉カナタ。説明進行。観客を盛り上げない。警備も盛り上げない」

 塩見が訊く。

「最後、必要ですか」

「一番大事」

 防音扉の向こうで、鍵が回った。

 赤灯は消えない。

 客席のない放送所へ、最初の侵入者が入ってくる。

 扉は、十二センチだけ開いた。

 最初に入ったのは盾。

 黒い長方形。

 その後ろへ瀬戸内匡。

 さらに三人。

 短棒。

 封印箱。

 機材停止札。

 誰も刃物を持っていない。

 役所の戦いは、流血を避ける道具で人を追い出す。

「放送を停止してください」

 瀬戸内。

「説明中です」

 カナタ。

「正式命令です」

「名前のない」

「職名署名は有効です」

「知ってる。だから、受けたあなたの名前を聞いた」

「言いました」

「次は、止める場所」

「主回線。記録機。再送装置」

「避難口は」

「封印」

「それは守らない」

「命令です」

「火事の時、役職名が扉を開ける?」

「私が開けます」

「あなたが倒れたら」

「代行が」

「名前」

 瀬戸内の後ろで、若い警備員が目を伏せた。

 瀬戸内は答えない。

 盾を前へ出す。

 カナタは立ち上がらない。

 機材箱へ座ったまま、右足を床へ置く。

 昔の彼なら、盾の上へ跳んだ。

 客席へ背を見せ、反転し、面をつけたまま着地した。

 拍手が来る角度。

 今日は、跳ばない。

 盾が机へ近づく。

 カナタは机を引かない。

「平文を、右へ」

 巴が左手で書いた札を、七瀬へ渡す。

 七瀬は固定台を動かさず、平文だけを第二カメラへ移す。

 主カメラが塞がれても、文字は残る。

 塩見が第一回線の出力を半分に落とす。

 盾の向こうから、別の警備員が停止札を伸ばす。

 主回線のレバーへ貼るつもりだ。

 カナタは、右手で札の棒を受けた。

 掴まない。

 手首を外へ回し、棒の先を床へ流す。

 警備員の肩が前へ出る。

 その身体を投げれば、画面に映える。

 投げない。

 肘を支え、転ばせず、足だけを白線の外へ戻す。

「今のは何です」

 警備員。

「転ばせなかった」

「妨害です」

「保護でもある」

「どちら」

「両方」

 盾が机へ当たる。

 正式文の束が揺れる。

 巴が左手で押さえる。

 右手を使わない。

 瀬戸内が盾を斜めにし、机を横へ押そうとする。

 カナタは立つ。

 右足首へ重み。

 痛みが走る。

 顔へ出さない癖が、まだある。

 顔へ出さないことは、医師への報告をしないことではない。

「足首、痛み三」

 カナタが言う。

 七瀬が時刻を記録する。

「午前十一時四十五分十秒。右足首炎症、本人申告三。跳躍なし」

 瀬戸内の眉が動く。

「戦いながら診療記録?」

「後で、怪我をあなたのせいだけにしないため」

「私が押した」

「前から炎症がある」

「なら、座ってください」

「放送を止める?」

「それは別です」

「話が分かる」

「命令は守ります」

「話は分からない」

 カナタは、机の脚へ靴を掛ける。

 蹴らない。

 机が動く方向だけ変える。

 盾の力が、主回線ではなく、空の椅子跡へ流れる。

 瀬戸内が一歩出る。

 カナタは半歩下がる。

 拍を作らない。

 見栄えのよい三連撃をしない。

 短棒が右肩へ来る。

 左前腕で受ける。

 肩を回さず、棒を身体の横へ滑らせる。

 膝裏を狙わない。

 喉も。

 顔も。

 相手の手袋の留め具へ指を掛け、棒だけを落とす。

 金属音。

 拍手に似ない。

 警備員が拾おうと屈む。

 カナタは踏まない。

 その間に、巴が平文の箱を避難口側へ移す。

 避難口を塞がない。

 箱を壁へ寄せる。

 七瀬の撮影機へ、二人目の警備員が手を伸ばす。

「機材を封印します」

「原本へ触れる前に、氏名」

 七瀬。

「警備隊、木伏絵美」

「撮影停止の判断者」

「瀬戸内班長」

「木伏さん自身は」

「命令を受領」

「機材を壊す?」

「壊しません」

「複写を消す?」

「封印対象です」

「封印後の保管者」

「記録監査局」

「氏名」

「未確認」

「私は渡しません」

 七瀬は固定台の脚へ、両足を掛ける。

 左肩で抱えない。

 腰の支持帯と床の摩擦で守る。

 木伏が台を引く。

 七瀬の左肩が動きかける。

「肩、停止」

 七瀬自身が言う。

 カナタは、瀬戸内との間合いを捨てた。

 木伏の手首へ走る。

 走らない。

 右足首を守り、三歩。

 一。

 二。

 三。

 木伏の指と固定台の取手の間へ、薄い台本板を差し込む。

 指を折らない。

 掴みを外す。

「私へ攻撃?」

「機材を守った」

「同じです」

「違う。あなたを倒してない」

「倒せば早い」

「知ってる」

 カナタは、木伏とレンズの間へ立つ。

 朱と群青の面は、箱の中。

 素顔。

 木伏が、彼の顔を見た。

「あなたの舞台、見ました」

「今は観客じゃない」

「好きでした」

「今は警備員」

「だから、止めます」

「私を好きだったことを、命令支持へ使わないで」

「使ってません」

「なら、いい」

 木伏は、もう一度台へ手を伸ばす。

 カナタは、もう一度外す。

 同じ技を使わない。

 今度は取手を押し、木伏の力を空へする。

 派手さはない。

 画面で見ても、何をしたか分かりにくい。

 それでいい。

 見せるための戦いではない。

 外の廊下で、大きな衝突音がした。

 迅の声。

「開けろ」

 瀬戸内が通信管へ答える。

「封印命令中です」

「名前」

「瀬戸内匡」

「お前が閉めた?」

「受領し、実施しています」

「火事なら」

「非常解放します」

「今、中で戦ってる」

「機材保全です」

「人は」

「負傷させないよう」

「させたら」

「私が記録します」

「それだけ?」

「審理を受けます」

 迅は、すぐ扉を殴らない。

 カナタには見えない。

 でも分かる。

 殴れば、防音扉の枠が歪む。

 非常解放ができなくなる。

「蝶番、どこ」

 迅が外から訊く。

 塩見が答える。

「内側二本、外側一本。圧力錠は上部」

「外から止められる?」

「解放管を守れば」

「誰が」

「外の壁、赤い弁」

 通信管の向こうで、足音。

 迅は扉を壊さず、非常解放管へ回った。

 瀬戸内が顔を歪める。

「外部からの操作を妨害してください」

 若い警備員へ命じる。

 その警備員は動かない。

「氏名」

 カナタが訊く。

「……三崎篤」

「今の命令を受けた?」

「受けました」

「実行する?」

 三崎は、非常口の表示を見る。

 緑の灯。

「しません」

 瀬戸内が振り向く。

「三崎」

「非常解放管を止めれば、火災時の退路が一つになります」

「現在、火災はない」

「戦闘があります」

「機材封印の範囲だ」

「人の退路を封印する命令は、受けていません」

「命令違反だ」

「三崎篤。拒否します」

 七瀬が時刻を記録する。

 午前十一時五十二分三十三秒。

 三崎は盾を床へ置いた。

 警備を辞めたわけではない。

 非常口の前へ立ち、誰も塞がないよう守る。

 瀬戸内は彼を殴らない。

 短く息を吐く。

「拒否を受領した」

「班長」

「後で処分照会する」

「受領」

 瀬戸内は、部下の拒否を受けた後も、封印命令を撤回しなかった。

「封印対象を確認する」

 木伏が言う。

「主回線端末、映像記録機、紙文書原本」

「非常解放管は」

「対象外」

「退出扉」

「対象外」

「複写は」

「命令には《原本および関連複写》とあります」

 七瀬。

「関連の範囲を決めた人は」

「放送連絡責任者」

「氏名」

「未確認」

 木伏は、そこで自分の封印札を見た。

「私は、原本と、現在接続中の映像記録機だけを封印します。退避済み複写と、巴さんの平文箱は、責任者確認まで触れません」

「命令違反」

 瀬戸内。

「解釈範囲です」

「誰の」

「木伏絵美」

 七瀬が時刻を記録する。

 瀬戸内は短棒を下げない。

「木伏。後で照会する」

「受領」

 三人は、味方へ変わっていない。

 三崎は非常口を守る。

 木伏は封印対象を狭める。

 瀬戸内は主回線と原本を止める。

 それぞれ、同じ制服の中で別の判断をする。

 その直後、廊下側の圧力差で、機材台が動いた。

 放送所の防音扉が半開きになり、空調停止した室内へ外気が流れ込む。

 車輪止めを外されていた台車が、非常口へ向かう。

 上には、紙帯記録機。

 重量、二十八キロ。

 三崎の足元へ来る。

 彼が避ければ、非常解放管へ衝突する。

 止めれば、非常口を塞ぐ。

「右へ」

 カナタが言う。

 命令ではない。

 台車の進行方向を示した。

 三崎は盾を床へ斜めに置く。

 台車の車輪が盾へ当たり、右へ流れる。

 そこに瀬戸内がいる。

 瀬戸内は短棒を捨てず、左手で台車の取手を受ける。

 勢いが強い。

 靴底が滑る。

 カナタは右足首で踏ん張らない。

 左足を台車の進路外へ置き、機材箱の蓋を車輪前へ滑らせる。

 蓋が車輪へ噛む。

 台車は止まりきらない。

 木伏が、七瀬の固定台から手を離し、反対側の取手を掴む。

 三人と一人。

 警備と役者。

 誰も合図をそろえない。

「下げる」

 瀬戸内。

「非常口と逆」

 三崎。

「紙帯を傾けない」

 七瀬。

「足首、使わない」

 カナタ自身。

 台車を壁際へ戻す。

 紙帯記録機は落ちない。

 非常口も塞がらない。

 終わると、瀬戸内はカナタへ礼を言わない。

 カナタも、共同作業を和解に使わない。

「機材は封印する」

 瀬戸内。

「人の退路は」

 カナタ。

「封印しない」

「受領」

 木伏は、紙帯記録機の側面へ札を貼る。

《封印対象。ただし、破壊・消去禁止。保管者氏名確認まで、放送所内で保持》

 自分の名。

 木伏絵美。

 三崎は、非常解放管の赤い弁を全開にしない。

 外から迅が操作できる位置まで、半回転だけ戻す。

「なぜ半分」

 カナタ。

「今すぐ扉を開けると、戦闘中の人間が廊下へ流れる。外から解放できる状態だけ作る」

「誰の判断」

「三崎篤」

「受領」

 拒否は、何もしないことではなかった。

 受けなかった命令の代わりに、自分が何をするかを選ぶ必要があった。

 命令へ従う者と、拒む者が、同じ制服で同じ扉を守る。

 敵味方の色は分かれない。

 カナタは、それを舞台へしない。

 赤灯の下で、医療群十三番の札を拾った。

「説明を再開します」

「この状況で?」

 木伏。

「この状況だから」

 巴が平文を画面へ戻す。

 七瀬が固定台を正す。

 塩見が第二回線へ切り替える。

 主回線は、瀬戸内が封印札を貼った。

 第二回線の音は少し悪い。

 カナタの声が、薄くなる。

 薄くても、届く。

 庁内表示へ一行が入った。

《夜勤へ戻ります。続きは紙で読みます。退出理由はこれ以上答えません》

 接続が一つ減る。

 カナタは呼び止めなかった。

 塩見は退出を失敗欄へ入れず、受信終了時刻だけを紙帯へ打つ。

「医療群十三番。正式名称――」

 外で、非常解放管の弁が回る音がした。

 扉はまだ開かない。

 でも、閉じたままにする命令へ、一人分の拒否が入った。

 午後零時六分。