第513話 第三章「拍手と多数」前編

舞台には、見えない椅子がある。

 役者が台詞を投げる先だ。

 客席が空でも、その椅子へ向ければ声は届く。

 紅葉カナタは、見えない椅子を信じてきた。

 問題は、役所が椅子を数えたがることだった。

 中央行政放送所の第一調整室には、椅子が百二十脚あった。

 ひとつも客席ではない。

 会議用。

 見学用。

 予備。

 壊れかけ。

 誰のものか分からない椅子。

 カナタは、全部を廊下へ出させた。

「無観客は、椅子を片づける意味ではありません」

 放送技師が言う。

 名札は、塩見檀。

 痩せた男で、話す前に必ず喉を触る。

「分かってる」

「なら、なぜ」

「空席を見ると、埋めたくなるから」

「あなたが?」

「私が」

 塩見は、正直な告白を嫌う顔をした。

「職業病ですね」

「役所にもあるでしょう」

「空欄を見ると埋める」

「似た病気だ」

「治りません」

「治さなくていい。症状を書けば」

 カナタは中央の演台を退かした。

 代わりに、低い机を三つ。

 正式文。

 平文。

 退出・無回答記録。

 三つは等しい高さ。

 背後の壁には、通常なら国章と部署名が掛かる。

 今日は白布でも旗でもなく、何も掛けない。

 塩見が制御卓を操作した。

 壁面表示に、三つの数字が出る。

《接続数 0》

《拍手入力 0》

《退出率 0%》

 カナタは三つを見た。

「消して」

「接続数は設備監視に必要です」

「私から見えなくして」

「拍手入力は、命令支持率の算定に」

「切って」

「仕様です」

「仕様は神様?」

「人間が作りました」

「なら、人間が切れる」

「変更権限が」

「名前」

「放送運用責任者」

「人の」

 塩見が口を閉じた。

 朝と仕事をすると、質問が伝染する。

「塩見檀です」

「変更できますか、塩見さん」

「設備としては」

「判断は」

「……できます」

「する?」

「命令支持率が出なくなります」

「それが目的」

「支持のない放送を、行政が続ける根拠は」

「命令の持ち主を探すため」

「市民に見られなくても?」

「持ち主一人が見るかもしれない」

「一人のために、全回線を使う」

「劇場は、最後の一人が帰るまで灯りを消さない」

「採算が」

「悪い劇場は消す」

「正直ですね」

「行政放送は、赤字を隠す?」

「別の紙に書きます」

「役所は、罪を紙に分けるのが上手い」

 塩見は、拍手入力の回線を切った。

 壁の数字が一つ消える。

 消えた場所は黒くならない。

 灰色の四角が残った。

「退出率は」

「残します」

「なぜ」

「途中で見るのをやめられた証拠」

「高いほど失敗に見えます」

「失敗かもしれない」

「あなたは、失敗を数字で出すんですか」

「成功だけ数字にすると、数字が嘘を覚える」

 カナタは右足首を回した。

 薄い固定帯が、靴の中で擦れる。

 痛みは三日前から戻っていた。

 断裂ではない。

 炎症。

 歩ける。

 跳べる。

 跳べることと、跳ぶべきことは別だった。

「椅子、全部出しますか」

 塩見。

「三脚だけ残して」

「座らない?」

「座る。椅子は客席に見える。箱を」

「機材箱に座る役者は、映像映えが」

「映えなくていい」

「一番難しい注文です」

 難しい注文は、機材にも増えた。

 音声が聞こえない人のための字幕。

 文字を長く追えない人のための一文表示。

 画面を見られない人のための低速音声。

 退出ボタン。

 無回答ボタン。

 答えを後へ送る保留ボタン。

 通常の行政放送には、《賛成》《反対》の二つしかない。

「保留を足すと、集計が複雑になります」

 塩見。

「集計のために、人を二つへ切る?」

「切りません。分類します」

「言い方で痛みが減るなら、私も使う」

 塩見は制御卓へ三つ目を作る。

 カナタは画面表示を確認する。

《続ける》

《止める》

《まだ決めない》

「違う」

「何が」

「見るかどうかと、命令をどうするかが混ざってる」

 カナタは紙を一枚ずつ分けた。

《放送を続けて見る》

《放送から退出する》

《回答しない》

 別の紙。

《命令を継続》

《命令を停止》

《保留》

《自分には判断権がない》

「ボタンが七つ」

「見ている人全員に、下の四つを出さない」

「誰へ」

「発令、更新、受領、拒否の担当者だと自分で確認した人だけ」

「自己申告を信じる?」

「信じるんじゃない。名乗った後、記録と照合する」

「なりすまし」

「ある」

「では」

「なりすました人の名も残る」

 塩見は、喉へ手を当てた。

「行政は、偽物を入れないように作ります」

「劇場は、偽物を本物みたいに見せる」

「誇らしい?」

「仕事だから。今日は逆をする。うまい声を、本当の判断に見せない」

 字幕試験で、最初の一文が長すぎた。

《視聴継続は当該命令または説明者に対する賛意、支持、承認、委任その他これらに類する意思表示として取り扱わない》

 画面の端から端まで、二行半。

「読める?」

 塩見。

「役者は読める」

「視聴者は」

 巴が左手で平文を書く。

《見続けても、賛成したことになりません》

 真琴が正式文を隣へ置く。

 カナタは二つを読む。

「平文だけだと、誰への賛成かが落ちる」

 巴が追記。

《命令にも、話す人にも》

「今度は覚えやすい」

 カナタ。

「覚えやすさを、同意に使わないでください」

 真琴。

「役者へ難しい注文が多い」

 退出ボタンを押す試験もする。

 押した瞬間、画面には確認が出た。

《退出しますか。退出は命令への反対として記録されます》

「切って」

「標準仕様です」

「退出と反対を分ける話を、今した」

 塩見が文を直す。

《退出します。理由は記録しません》

 確認ボタンは一つ。

 カナタは押す。

 画面が消える。

 消えた後に、再接続を勧める音も鳴らない。

「静かですね」

 塩見。

「静かだから、帰れたって分かる」

 舞台の暗転は、次の場面を待たせる。

 今日の暗転は、戻らなくてよいと伝える。

 午後一時。

 放送形式の試験が始まった。

 試験視聴者は十一人。

 十二人だと、暫定命令の集会制限に触れる。

 画面越しでも数える案が出たため、十一人にした。

 そのうち三人は職員。

 二人は病院。

 一人は給水所。

 一人は店主。

 一人は運転手。

 一人は能力を失った元警備員。

 一人は命令で家族面会を止められている女。

 一人は、途中で接続を切る役。

「最後の人、役なんですか」

 カナタが訊く。

 塩見。

「退出記録が正しく残るかの試験です」

「退出する理由は」

「技術試験」

「本物の退出じゃない」

「本番前の試験です」

「役者が泣く練習をしても、本番の涙と同じじゃない」

「役者は泣く練習を?」

「しない人もいる。私はする」

「嘘泣き」

「練習泣き」

「違いが」

「料金」

 カナタは画面の前へ座った。

 機材箱。

 足を組まない。

 右足首へ負担をかけない。

 巴は左側。

 右人差し指を休ませ、左手で平文をめくる。

 真琴は右側。

 正式文。

 強い近視の眼鏡。

 三人の前に、命令書一枚。

 番号。

 発令部署。

 更新部署。

 現在の効力。

 分かっていない人名。

 カナタは、開始灯を見る。

 赤。

 昔なら、胸の奥で拍手を予告した。

 客の呼吸を読み、最初の言葉を半拍遅らせる。

 今日は読まない。

「午後一時二分。行政放送の形式試験を始めます」

 声が硬い。

 自分で分かる。

 硬い声を柔らかくしようとすると、台詞になる。

「この放送は、現在発効中の暫定命令について、発令、更新、受領、拒否の担当者を確認するためのものです」

 画面の端に、接続数十一。

 カナタからは見えない位置へ移してある。

「視聴を続けることは、命令への支持を意味しません。途中退出は可能です。退出理由を答える必要はありません。拍手入力は受け付けません。視聴数を賛意へ換算しません」

 病院の画面で、看護師が手を上げた。

《聞こえにくい》

 カナタは、声量を上げかける。

 巴が机を二度叩く。

 音ではなく、振動。

 筆談板。

《音量でなく速度》

 カナタは頷く。

「今の説明を、ゆっくり言い直します」

 一文ずつ。

 句点で三秒。

 役者にとって三秒は長い。

 客席の咳が聞こえる長さ。

 不安が育つ長さ。

 下手な演技が露出する長さ。

 行政放送では、その三秒に、人が退出できる。

 一人が切れた。

 技術試験役。

 接続数、十。

 塩見が操作卓から親指を上げる。

 カナタは無視する。

 親指も、賛意に見える。

「最初の命令です」

 真琴が正式文を読む。

《中央官庁群および指定周辺区域における十二名以上の集会を、当分の間、制限する》

 巴が平文を示す。

 カナタが読む。

「十二人以上が同じ場所へ集まることを止める命令です。いつまでかは、本文に書かれていません。現在は二十四時間ごとの更新で続いています」

 店主の画面に文字が出る。

《葬式も?》

「現在の別表では、葬儀も含まれます」

《家族十一人、運ぶ人二人なら?》

「十三人です」

《死んだ人は数える?》

 カナタは止まった。

 真琴が条文を探す。

 巴も冊子をめくる。

 答えがない。

 カナタの職業は、沈黙を埋めることだった。

 冗談。

 表情。

 次の台詞。

 何かを置けば、客は不安にならない。

 彼は、何も置かなかった。

 十一秒。

「分かりません」

 カナタが言う。

「命令文と別表に、亡くなった人を人数へ含めるか書かれていません。現在、答えを持つ人も確認できていません」

 店主の画面。

《じゃあ、何を放送してる》

「分からない部分を、分からないまま残さないためです」

《役者が?》

「役者も」

《偉い人は》

「探しています」

《逃げた?》

「その可能性も、名乗れない理由がある可能性もあります」

《曖昧》

「はい」

 接続数が九になった。

 誰かが退出した。

 理由は表示されない。

 カナタは喉の奥に、古い癖が出るのを感じた。

 九人へ向けて、もっと面白く。

 もっと短く。

 もっと強く。

 面の箱が、机の下にある。

 朱と群青。

 かぶれば、声が変わる。

 画面の向こうが、役者を見る。

 右足首が鈍く痛んだ。

 痛みは、やめる理由にならない。

 続ける理由にもならない。

 接続数を戻したい欲が、声を半音だけ明るくした。

「大丈夫です。ここから、私たちが――」

 舞台なら、客を次の場面へ連れていく声だった。

 病院の一回線が切れた。

 切れる直前、短い文字が残る。

《支持を求められたので退出します》

 カナタは口を閉じた。

「今の声、記録」

 七瀬。

「演技調へ変更。説明対象を《私たち》へ回収しかけた」

 巴が左手で平文を書く。

《安心させようとして、賛成してほしい声になった》

「次の質問へ進みます」

 今度は、硬い声のまま言った。

 カナタは面を取らない。

 試験終了後、十一人のうち四人が最後まで残った。

 七人が退出。

 技術試験役を除いて六人。

 回答は五件。

 無回答が二件。

「失敗です」

 塩見が言った。

「何が」

「残存率三十六・三パーセント」

「技術試験役を含める?」

「含めます」

「わざと出た人も、失敗へ数える」

「退出は退出です」

「それはいい」

「いいんですか」

「わざと出たかどうかを、こちらで決めない」

「でも、試験です」

「本番でも、嫌になって出た人と、仕事で出た人と、見終わった人を分けられない」

 塩見が計算表を見る。

「行政評価では、理由別に」

「理由を答えない権利を作る」

「分析できません」

「できないことを、分析したふりしない」

「数字が減ります」

「数字は痩せても死なない」

「予算は死にます」

「それは困る」

「急に現実的ですね」

「役者は食べる」

 巴が左手で書く。

《通訳も》

 真琴。

「法律家も」

「全員、食べる話はまとまる」

 塩見が、退出率の欄を指した。

「では、成功条件は何です」

 カナタは答えられなかった。

 最後まで見た人数。

 撤回された命令数。

 名乗った担当者。

 救われた人数。

 数字は必要だ。

 数字が悪いのではない。

 数字に、違う意味を食べさせるのが悪い。

「視聴を続けた人数と、命令を支持した人数を分ける」

 真琴が言う。

「退出した人数と、反対した人数も分ける」

 巴。

《無回答を、賛成にも反対にもしない》

「名乗った人は」

 塩見。

「名乗った事実だけ」

 カナタ。

「撤回した人は」

「撤回した命令番号と、自分の名前」

「放送を見ていない人が、後で撤回したら」

「放送の成果にしない」

「放送の評価が低くなる」

「私の成績表じゃない」

 試験視聴者の一人が、外線を求めた。

 家族面会を止められている女。

 氏名は公開しない。

 画面にも出ない。

《今の例に、私の話を使いますか》

 カナタは、返事の前に自分の原稿を見る。

 次の説明には、こう書いてあった。

《移動確認命令によって、家族との面会を妨げられている市民の事例》

 彼女の事情を、分かりやすい一人として使うつもりだった。

「使おうとしていました」

《私の名前は》

「出さない」

《顔は》

「出さない」

《家族関係は》

「面会を止められている、とだけ」

《それでも嫌です》

「理由を聞いていい?」

《答えなくていいと言ったでしょう》

 カナタは原稿へ線を引く。

「受領。使いません」

《困る?》

「説明が一つ減る」

《別の人を使う?》

「本人が、自分の話を使ってよいと言ったら」

《誰も言わなければ》

「事例なしで説明する」

《分かりにくくなる》

「なる」

《それで、命令が止まらなかったら》

 カナタは、すぐに「あなたの責任ではない」と言いかけた。

 それも、相手の責任範囲を自分が決める言葉だった。

「あなたが拒否したことと、命令が続くかは、別に記録する」

《別にすれば、関係ない?》

「関係はある。でも、拒否を撤回させる理由には使わない」

《役者は、感動する話が好きだと思っていた》

「好き」

《正直》

「好きなものを、毎回仕事に使うと嫌われる」

《誰に》

「自分にも」

 女は、しばらく接続を切らなかった。

《私が面会を止められている事実だけ、数には入れていい》

「公開?」

《件数だけ。家族の数、理由、地区は出さない》

「いつまで」

《今回の命令影響調査が終わるまで。その後は削除》

「受領」

 カナタは原稿の具体例を消す。

 代わりに書く。

《移動・面会の制限を受けた非公開事例 一件》

《本人は、事例内容の放送利用を拒否》

《件数のみ、期限付きで使用》

 塩見が言う。

「内容がない事例は、説明になりません」

「拒否があることの説明になる」

「視聴者は、何が起きたか分からない」

「分からない範囲を、本人が決めた」

「地味です」

「今日の仕事」

 外線の女が、そこで退出した。

 理由は記録しない。

 カナタは、彼女が怒って切ったのか、納得して切ったのか、考えないようにする。

 役者は、退場した人物の心情を作りたがる。

 行政記録は、作らない方がよい時もある。

 言った後、自分の胸が少し痛んだ。

 成績表ではない。

 分かっている。

 分かっていることを、身体が受け入れるのは遅い。

 カナタは、出演条件を書き直した。

 一、無観客。

 二、途中退出可能。

 三、退出理由を求めない。

 四、無回答を賛否へ算入しない。

 五、拍手入力を切る。

 六、視聴数を支持へ換算しない。

 七、録画の自動再生をしない。

 八、同じ内容を再放送する場合、再放送者が新しく名乗る。

 八条件を書いた後、カナタは空の調整室で一度だけ通し稽古をした。

 客はいない。

 試験視聴端末も切る。

 塩見、真琴、巴だけがいる。

「稽古なら、観客がいる」

 塩見。

「今日は、いない稽古」

「矛盾」

「役者は、矛盾を台詞にする商売」

 開始灯。

 カナタは命令名を読む。

 最初の三行は、普通の声だった。

 四行目で、無意識に語尾を落とした。

 次を聞きたくなる位置。

 巴が机を一度叩く。

《今、続きへ引いた》

「説明の順番」

《演出の順番》

 カナタは同じ文をやり直す。

 今度は、命令名の後に七秒置く。

「長い」

 塩見。

「退出できる長さ」

「誰も接続していません」

「接続していない時に、待てるか試してる」

 七秒。

 人がいないと、沈黙は自分へ返ってくる。

 下手だ。

 退屈だ。

 誰も聞かない。

 頭の中の観客が、勝手に席を立つ。

 カナタは追わない。

 次の文。

「現在、発令者の氏名は分かりません」

 言った後、申し訳なさそうに眉を下げた。

 真琴。

「表情で、謝罪を補いました」

「顔まで普通にするの?」

「分からないことへの謝罪と、命令の責任は別です」

「役者に顔を使うなって」

「使わないでなく、何へ使ったか記録してください」

 カナタは稽古紙へ書く。

《不明を述べた際、謝罪表情を使用。視聴者へ安心を与える一方、説明者が責任を負ったように見せる危険》

「自分の眉まで報告書にする役者、人気出ないよ」

 塩見。

「今日は、人気を出さない稽古」

 次は、質問に答えられない場面。

「分かりません」

 声を落とさない。

 笑わない。

 次の台詞へ急がない。

 十秒。

 巴が左手で丸を作る。

 真琴は言う。

「丸は評価に見えます」

 巴が丸を崩し、親指だけを上げかけてやめる。

「何も出さないの、難しいね」

 カナタ。

 三人とも、返事をしない。

 それが、稽古で最も成功した十秒だった。

 稽古の後、放送契約も書き直した。

 元の契約には、こうある。

《技術職員、行政立会人、警備担当を含む最低二十名を、放送成立確認者とする》

「二十人の客を、役所が用意する?」

 カナタ。

「客ではありません。成立確認者です」

 塩見。

「放送を聞く」

「業務として」

「退出できる?」

「勤務中です」

「なら、無観客じゃない。帰れない観客が二十人いる」

「技術確認に必要です」

「必要な人だけ、必要な区間を確認する」

 真琴が契約文を分ける。

 音声確認。

 字幕確認。

 退出記録確認。

 紙帯保存確認。

 警備確認。

 同じ二十人が最初から最後まで聞く必要はない。