第512話 第二章「署名者不在」後編

 浅野が、二組目の綴じ具へ印を打つ手を止めた。

「これ、運べません」

 正式文は医療群四番。

《受入能力を確認できない場合、当該搬送を一時停止することができる》

 平文。

《病院の空きが分からなければ、搬送は止まる》

 戸井田が二枚を見比べた。

「同じじゃない?」

「正式文は、止めるか決められる。平文は、勝手に止まる」

「結果は止まる」

「止めなかった時の責任が違う」

 浅野は印判を伏せた。

 複写係に、法律を決める権限はない。

 だからこそ、同じでない二枚を同じ枝番号で送り出す権限もなかった。

 真琴が正式文を読み直す。

《することができる》は、裁量を残します」

「平文では落ちました」

 巴。

「短くしたのは私です」

「意図は近いです」

 真琴が言う。

 巴は左手の白墨を置いた。

「近い文を、同じ文として運ぶ?」

「運びません」

「今、一瞬、運べると思った」

「思いました」

「記録」

「します」

 迅が複写機の横から首を出す。

「今の、誰が悪い」

「悪人探しをしていません」

 真琴。

「じゃあ何探してる」

「動詞です」

「小さいな」

「小さい動詞が、扉を閉めます」

 浅野が正式文の《できる》を指で叩いた。

「止める人は、誰です」

 枝番号の元になった指示記録を開く。

 病院ではない。

 搬送所でもない。

 《現在の移送担当者》とだけある。

「名前がない」

 戸井田。

「職名も曖昧です」

 真琴。

「だったら、平文を直す前に、持ち主を探す?」

「両方です。今使われている文を誤って運ばない。同時に、誰が判断する仕組みだったか確認する」

「二つも?」

「紙は二枚ですから」

「便利に使ったね」

 巴が左手で書き直す。

《病院の受入れを確認できない時、その人の搬送を止めるか、今の移送担当者が決められる。全部の搬送が自動で止まるわけではない》

 日岡が読む。

「長い」

「短くしますか」

「この長さでいい。止める人の名前を書く欄があれば」

 真琴は平文の下へ三つの空欄を加えた。

《判断する人》

《止める理由》

《止めなかった時の受入先》

 浅野は、まだ印を押さない。

「正式文にも、同じ欄を」

「正式文は原文を変えられません」

「じゃあ、添付票」

 芒野が即答する。

「作ります。原文へない情報を、あるふりはしない」

 戸井田が、新しい枝番号票を二枚出した。

「片方へだけ付いたら?」

「運ばない」

 浅野。

「署名が片方だけなら?」

「運ばない」

「二枚の意味が違ったら?」

「運ばない」

「機械が急げと言ったら?」

 迅。

 複写係二人が、今度は迅を見た。

「機械に名前を書かせます」

 浅野が答えた。

「書けなければ」

「待たせます」

「薬が待てない時は」

「その待てない判断をした人が、別の紙に名前を書く」

 真琴は頷く。

「例外で急ぐほど、名前を消さない」

 浅野と戸井田は、ようやく二枚へ印を打った。

 印は承認ではない。

 正式文と平文を両方読み、同じ命令を指していると確認した印だった。

 確認できなければ、紙は廊下へ出ない。

 命令の速さを、複写係が初めて止めた。

 小さな停止だった。

 だから、誰の生活を止めたかまで、小さくはしなかった。

 巴が板へ書いた。

《短くすると、苦情が落ちる》

 真琴は、二枚の用紙を一つの綴じ具へ通した。

 右に正式文。

 左に平文。

 二枚は離れている。

 同じ金具でつながっている。

 その間へ、細い空白が一本残った。