第511話 第二章「署名者不在」前編

職名は、名前より長生きする。

 朽葉真琴は、その事実を嫌ってはいなかった。

 人間は風邪をひく。

 辞職する。

 逃げる。

 死ぬ。

 それでも窓口が開かなければ、薬も水も届かない。

 だから職名には意味がある。

 意味があるものほど、使い方を間違えると厄介だった。

 午前十時三分。

 中央危機調整局は、扉が三つあった。

《来庁者受付》

《緊急事務受付》

《責任照会受付》

 真琴は三枚の表示を見比べた。

「どれですか」

 一文字巴が左手で訊く。

 巴の手話は、早くない。

 正確で、指の間に余白がある。

 右人差し指には薄い固定帯。

 使えないわけではない。

 使えば、午後まで痛みが残る。

 真琴は眼鏡の位置を直した。

「責任照会です」

 巴が扉を示す。

《責任照会受付は緊急事務受付へ》

 紙が、責任照会の取手へ貼られていた。

「では、緊急事務受付」

 真琴がそちらへ向く。

《緊急事務受付は来庁者受付へ》

「行政は円を好みますね」

 巴が筆談板へ書く。

《始点がないから、誰も先頭にならずに済む》

「円は図形としては美しいです」

《制度としては?》

「出口がない」

 迅が後ろから三つの取手を同時に掴んだ。

「全部開ける」

「壊さないでください」

「開けるだけ」

「三つとも内側で同じ廊下へつながっています」

 受付の女が、来庁者受付から顔を出した。

 四十代半ば。

 白い袖口を二度折っている。

 髪へ鉛筆を一本挿していた。

「なぜ三つ」

 迅。

「来る人の気持ちを分けるためです」

「中は同じ?」

「職員の気持ちは分かれませんので」

 女は窓口の札を裏返した。

《担当 芒野澄子》

「中央危機調整局、暫定命令管理係、代理統括の芒野です。御用件を、緊急、通常、不明のどれかで」

「責任照会」

 真琴。

「不明ですね」

「責任を照会することが?」

「当局の分類にありません」

「作ってください」

「私の権限では」

「では、作れる人の名前を」

「代理統括です」

「あなたですね」

「職名です」

 真琴は、一度だけ目を閉じた。

 怒っているわけではない。

 喘息の呼吸を崩さないためだ。

「芒野澄子さん。現在発効中の暫定命令、中央危調第二二〇四号第七二について、発令者、起案者、更新認定者、受領責任者、拒否窓口を照会します」

「発令者は中央危機調整局代理統括」

「氏名」

「職名で発令可能です」

「可能かどうかは訊いていません」

 芒野の鉛筆が髪の中で揺れる。

「私です」

「発令の判断をしたのは」

「安全認定が自動で上がりました」

「誰が安全認定を」

「医療維持局、上水保全局、移動統制局、集会安全室、記録監査局のうち、二部署以上」

「今回は」

「端末表示では四部署」

「氏名」

「職名です」

「人は」

「当局には分かりません」

「では、あなたは何を判断しましたか」

 芒野は、窓口の下から一枚の紙を出した。

《安全上必要との認定を受け、暫定命令を発令する》

 署名欄。

《中央危機調整局代理統括》

 印。

 氏名はない。

「認定を受けたので、発令しました」

「内容は読みましたか」

「概要を」

「別表五冊は」

「担当が」

「氏名」

「職名です」

 迅が真琴の横で、壁へ頭をつけた。

「殴っていい?」

「壁を?」

「答えを」

「答えは殴れません」

「だから嫌い」

 巴が迅の袖を引く。

 筆談板。

《答えは、殴ると短くなる》

「短い方がいい」

《条件も落ちる》

「条件は拾え」

《拾う人の名前は?》

 迅は、芒野を見る。

「こいつ」

「私は代理統括です」

「名前も言った」

「言いました」

「じゃあ拾え」

 芒野は窓口の内側を振り返った。

 机が十六。

 職員が二十二。

 全員が紙へ顔を伏せている。

 紙は、人から視線を守る盾にもなる。

「どの条件をですか」

 真琴は命令書を広げる。

「まず、効力のある部分と、疑義のある部分を分けます」

「無効ではなく?」

「職名署名は有効になり得ます」

 迅が顔を上げる。

「こいつらの味方?」

「法律の味方です」

「法律は、人?」

「今日の質問は難しいですね」

「いつもだろ」

 真琴は命令書の第一項を指した。

《中央官庁群における集会を十一名以下に制限する》

「この命令は、現在も現場で使われています。無効と言い切れば、警備員は何人まで通してよいか分からなくなる。十二人を止めた警備員の行為も、すべて違法だったとまとめて扱われる」

「実際、十二人目が照明係だった」

 カナタの声が廊下の通信管から入った。

 放送所と法制局をつないだ音声管。

 本人は見えない。

「聞いていたんですか」

「役者は壁の向こうの台詞も聞く」

「盗み聞きとも言います」

「出演料が出るなら、聴取」

 巴が音声管へ向け、手話をした。

 見えない。

 自分で気づき、板へ書く。

《今のは私の失敗》

 真琴は、その一文を見た。

「記録しますか」

《必要なら》

「必要です。伝達方法の選択ミス」

 迅が言った。

「いらないだろ」

「小さな間違いを記録しない人が、大きな間違いだけ正直に書くと思いますか」

「思わない」

「なら必要です」

 芒野が、命令書へ視線を戻す。

「有効な部分と疑義部分を、どう分けますか。赤字で」

「色は使いません」

「なぜ」

「色覚に差があります。複写で消えます。赤は危険、青は安全という意味を勝手に足します」

 巴が左手で頷く。

《別紙》

「はい」

 真琴は二枚の白紙を出した。

 一枚目の上へ書く。

《現在、現場が従っている事項》

 二枚目。

《誰が説明するか確定していない事項》

 芒野が覗く。

「二枚にすると、離れます」

「綴じます」

「綴じると、一枚と同じでは」

「同じ束です。別の答えです」

「分かりにくい」

 巴が筆談板へ書く。

《分かりやすさは、答えを一つにする道具ではない》

 芒野は、その文字を二度読んだ。

「長いです」

 巴が消す。

《分ける。離さない》

「短い」

「条件が落ちています」

 真琴。

 巴は眉を上げる。

《だから、正式文を隣に置く》

 真琴は、少し笑った。

「契約成立ですね」

《料金は別》

「そこは落ちない」

 方法を決めた直後、最初の失敗が出た。

 上水保全局の別表、第三項。

《中央給水拠点への立入者は、所属、目的、滞在予定時間を申告し、認定者の確認を受けること。ただし、生活上の理由を開示できない者については、受取側が代替識別を行う》

 巴が平文を作る。

《給水所へ入る人は、どこの人か、何をしに来たか、いつ出るかを言う》

 真琴は読む。

「ただし書きが落ちています」

 巴が眉を寄せる。

《長い》

「落とすと、理由を言えない人が入れません」

《理由を言えない人は、別の確認》

「誰が確認するか」

《受け取る側》

「受け取る側が、一人とは限りません」

 芒野が口を挟む。

「給水所には、受付、警備、配水担当がいます」

「正式文の《受取側》も曖昧です」

 真琴は原文へ印を付ける。

 迅が訊く。

「理由、言えないって何」

「家族から逃げている。病気を知られたくない。住居登録がない。仕事先を言うと解雇される」

 巴が指を折る。

「水を取りに来ただけで?」

「命令は、入口で人の人生を聞きます」

「水は、聞かないのに」

「制度が聞く」

 巴は平文を消す。

《給水所へ入る時、言える範囲で、どこの人か、目的、出る予定を伝える。言えない項目がある人は、受付担当へ「言わない」と伝え、受取方法を別に決める》

《言える範囲》は、誰が決めますか」

 真琴。

 巴は、自分を指す。

《本人》

「入れてください」

 追記。

《言える範囲は、本人が決める》

 平文は、短くならなかった。

 正式文も修正が必要になる。

 真琴は、芒野を見る。

「現行命令の説明を作る作業で、現行命令の欠陥が見つかりました」

「修正権限はありません」

「今は、欠陥として別紙へ」

「別紙が増える」

「増えた理由へ、私の名前を書きます」

「朽葉真琴」

「はい」

 真琴は署名する。

 巴も左手で署名する。

 一文字巴。

 同じ一文を作った二人が、同じ答えへ吸収されないように。

 午前十一時二十二分。

 命令書の別表は、五冊ではなかった。

 同じ表題の冊子が七部署に一冊ずつ。

 内容は少しずつ違う。

 医療維持局版には、病床の移動制限。

 上水保全局版には、給水塔周辺の通行制限。

 移動統制局版には、元能力者の出発確認。

 集会安全室版には、十一名制限。

 記録監査局版には、監視節点の再稼働。

 中央危機調整局版は、五つを要約していた。

 要約は、短い。

 短いものは運びやすい。

 毒も、瓶へ入れれば運びやすい。

 真琴は、七冊を机へ並べた。

「同じ命令番号で、本文が違います」

 芒野。

「別表は所管ごとの執行細目」

「細目で、人が病院から出られなくなります」

「医療維持局の判断です」

「移動先確認は」

「移動統制局」

「監視は」

「記録監査局」

「あなたの判断は」

「全体を発令したこと」

「全体とは」

「……各所管の判断を、一件の命令として成立させたこと」

 真琴は、そこへ線を引いた。

「今の言葉を、氏名付きで記録します」

 芒野の喉が動く。

「私だけの責任になる」

「なりません」

「しかし」

「他の人の名前も探します」

「見つからなければ」

「見つからなかった事実が残ります」

「私の名だけが」

「先に見つかったからです」

 芒野は髪の鉛筆を抜いた。

 机の角を、鉛筆の尻で三度叩く。

「名前を出した人から損をする制度では、誰も名乗りません」

 真琴は答えなかった。

 正しい。

 正しいからといって、名前を消してよい理由にはならない。

「損をしない保証はできません」

「では、なぜ名乗る」

「他人だけに損をさせたくないなら」

「道徳ですか」

「いいえ。選択です」

 迅が冊子を一冊持ち上げた。

「重い」

「百八十二ページです」

「一件って言った奴、殴っていい?」

「私です」

 芒野。

「やめます」

「なぜ」

「名乗ったから」

「名乗れば殴られない?」

「今は」

「法ではありませんね」

 真琴。

「俺の判断」

「危険です」

「お前の法律より早い」

「早い判断は、遅れて責任が来ます」

 迅は冊子を机へ戻した。

「来たら、名乗る」

「そこだけは評価します」

「他は」

「保留」

 正午。

 紙文書庫へ移送する時刻になった。

 有効命令の原本は、正午と午後六時に一度ずつ、地下の耐火庫へ送られる。

 四輪の書類車が来た。

 灰色の箱。

 鍵が三つ。

 運搬係が、七冊を箱へ入れようとする。

「待ってください」

 真琴。

「移送時刻です」

「照会中です」

「照会中でも原本は移送します」

「写しは」

「午後三時」

「三時間、本文を確認できない」

「規則です」

「誰の」

「記録監査局」

「氏名」

「職名です」

 迅が箱の前へ立った。

 運搬係が止まる。

「妨害ですか」

「待つ」

「命令により、正午に移送します」

「誰の命令」

「記録監査局書庫管理責任者」

「名前」

「私は知りません」

「じゃあ待つ」

「あなたに止める権限は」

「箱が通れないだけ」

 迅は両手を下ろしている。

 書類車へ触れていない。

 通路の中央に立っている。

 運搬係が右へ回る。

 迅も右へ一歩。

 左。

 左へ一歩。

 七歩は取らない。

 退いていない。

 ただ、道を空けない。

「通行妨害です」

「照会回答待ちです」

 真琴が言う。

「命令を無効とは言いません。正午移送のうち、照会対象の七冊について、移送後も閲覧可能な代替手段を求めます」

「それは記録監査局へ」

「今、連絡してください」

「正午を過ぎます」

「過ぎた理由を、あなたの名で書いてください」

 運搬係の顔が固まった。

「なぜ、私が」

「あなたが運ぶからです」

「私は命令を受けただけです」

「受領者ですね」

 タマキが、いつの間にか廊下へ来ていた。

 鉄箱を床へ置く。

「受け取った人も、四種類の一つ」

「私は運搬係です」

「名前」

「……日岡透」

「日岡さん。誰から受け取った」

「端末から」

「端末へ入れた人」

「分からない」

「受け取った時刻」

「十一時五十三分」

「目的」

「原本の耐火保管」

「拒否できる?」

「できません」

「本当に?」

 日岡は端末票を見る。

 下端へ小さな文字。

《安全上の不備または照会中の原本について、運搬係は移送を保留し、管理責任者へ理由を返送できる》

 日岡の顔が変わった。

「これ、今まで」

「読んでいなかった?」

 真琴。

「読める大きさじゃない」

 巴が紙へ顔を近づける。

 右手を使わず、左手で倍率板を置く。

《読めない大きさは、書いてないのと同じではない》

 真琴が続ける。

「法的には、同じではありません」

 日岡が安心しかける。

「でも、運用上は同じです」

 安心が消える。

 巴が別紙へ平文を書く。

《照会中なら、運ぶ人が止めてよい。止めた理由を責任者へ返す》

 日岡は読んだ。

「これなら分かる」

「正式文も隣へ」

 真琴が条項を転記する。

 日岡は二枚を見比べた。

「どちらへ署名するんです」

「両方です」

「同じ内容なら一枚で」

 真琴と巴が、同時に首を横へ振った。

 迅が言う。

「やめとけ。長くなる」

 日岡は、平文へ署名した。

 正式文へも署名した。

《移送保留――照会中》

 時刻。

 正午零分四十九秒。

 四十九秒、移送時刻を過ぎた。

 日岡は書類車を壁へ寄せる。

「私の判断です」

「受領」

 タマキ。

「でも、後で処分されるかもしれない」

「それも記録します」

 七瀬が、固定台の向こうで答えた。

 左肩を動かさず、レンズを紙へ向ける。

「撮影範囲は、署名、時刻、理由。日岡さんの住所、家族、給与は撮りません」

「給与も関係あります」

「公開しますか」

「しません」

「記録だけ限定保管します」

 日岡は頷いた。

 保留から三分後、日岡の受信具が鳴った。

『正午移送未了。理由を報告』

「照会中原本のため、運搬係判断で保留」

『管理責任者の許可は』

「事後報告します」

『運搬係に、その判断権限はない』

 日岡は、さきほど見つけた小さな条項を読む。

「あります」

『通常運用では使用していない』

「書いてあります」

『書いてあることを全部使えば、業務が止まる』

 日岡は真琴を見た。

「これ、どう返せばいいですか」

「あなたの言葉で」

「法律の言葉じゃなく?」

「条項番号は添えてください。判断は、あなたのものです」

 日岡は受信具を握り直す。

「私は、照会中原本を運ぶと、誰がどの文を判断したか確認できない時間が三時間生じると考えました。だから保留しました」

『処分対象になる可能性がある』

「分かりました」

『解除しないのか』

「しません」

『なぜ』

「処分されるかもしれないことと、今運んでよいことは別だからです」

 通信が切れた。

 日岡は、急に老けた顔をした。

「給与、止まりますかね」

 七瀬は撮影機を下げる。

「公開しますか」

「しない」

「では、限定記録だけ」

 タマキが訊く。

「今日の仕事、誰から受けた」

「記録監査局」

「運ぶ目的」

「原本を燃えない場所へ」

「今は」

「ここも耐火区画です」

「じゃあ、目的はなくなってない」

「でも、時間がずれた」

「遅延料金、請求する?」

「誰に」

「命令した人」

「名前が分からない」

「だから探す」

 日岡は、初めて少し笑った。

「配達屋は強いな」

「料金表があるから」

 保留は十三分続いた。

 その間、書庫管理側から三度解除要請が来た。

 日岡は三度とも、自分の名で拒否した。

 十四分目に、記録監査局から代替案が届く。

《原本は中央危機調整局の耐火複写室へ一時保管。写し作成後、午後三時に移送。日岡透の移送保留は、照会対応として記録》

 処分しない、とは書かれていない。

 処分する、とも書かれていない。

 日岡は、それでも書類車の鍵を開けた。

「今度は、誰の判断ですか」

 迅。

「原本を、ここへ十三分置いたのは私。耐火複写室へ運ぶのも私。午後三時に地下へ運ぶかは、その時の担当者」

「分けるんだ」

「一人で全部持てない」

「紙は軽い」

「責任は、車輪が付いてない」

 日岡は書類車を押した。

 迅は道を空ける。

 止めた人が、自分で次の運搬を始めた。

 芒野が窓口の外へ出てくる。

 初めて、机の向こうから出た。

「七冊の写しを、ここで作ります」

「誰の判断です」

 真琴。

「芒野澄子。中央危機調整局代理統括として」

「目的」

「現在有効な部分と、説明責任者が未特定の部分を分けるため」

「期限」

「本日午後三時まで。延長する場合は、私が理由を書く」

「拒否窓口」

「私」

「一人に集めすぎです」

 芒野は苦い顔をした。

「名前を出せと言ったのは、あなたです」

「全権を持てとは言っていません」

「人間は、注文が多い」

「法律もです」

「あなたが言うと、妙に説得力がある」

 複写室の機械は、一度に片面しか写せなかった。

「正式文を表、平文を裏にしますか」

 複写係が訊く。

 真琴と巴は、また同時に首を横へ振る。

「裏にすると、同時に読めません」

「二枚にすると、紙が倍です」

「倍にしてください」

「七冊、各百ページ以上」

「必要部分だけ」

「何が必要か、照合中でしょう」

 複写係は正しい。

 全部写せば時間が足りない。

 選べば、選んだ人間が内容を狭める。

「原本一冊につき、正式文の必要箇所は真琴さんが選ぶ。平文化する箇所は巴さんが選ぶ。選ばれなかったページ番号も一覧へ残す」

 芒野が提案する。

「誰が複写する」

「私たちです」

 複写係が二人、名乗った。

 浅野育。

 戸井田真澄。

「選ぶのは、あなた方ではない」

「複写漏れを見つけたら」

 浅野。

「止めて、指摘してください」

「私たちの名で?」

「はい」

「機械が詰まったら」

 戸井田。

「停止時刻、再開時刻、抜けたページを記録」

「紙を破ったら」

「破損記録を付け、原本と一緒に保管」

 迅が複写機を見る。

「俺、回す?」

「触らないでください」

 四人が同時に言った。

「まだ何もしてない」

「だからです」

 最初の写しが出る。

 正式文。

 次に平文。

 戸井田が、二枚へ同じ枝番号を打つ。

 浅野が、欠落ページ一覧へ線を引く。

 巴は左手で文を短くする。

 真琴は長い条件を隣へ残す。

 機械の仕事は同じ紙を増やすことだった。

 人間の仕事は、同じに見える二枚が、違う役割を持つと忘れないことだった。

 最初の二枚を、日岡透へ読んでもらった。

「どちらから」

「好きな方を」

 日岡は平文を取る。

《現在、現場が従っていること》

「これは、正しいこと?」

 真琴が首を横へ振る。

「現在使われていることです。適法性や妥当性が確認済みとは限りません」

「平文には、そう書いてない」

 巴が左手で見出しを直す。

《今、現場で使われている。正しいと決まったわけではない》

「これなら」

 日岡は正式文を見る。

《現行執行事項》

「こっちは、正しいみたいに見える」

「法令用語では、正しさを意味しません」

「運ぶ人間は法令用語で読まない」

 真琴は正式文の見出しへ注記を足す。

《現行執行事項(適法・妥当性の確認を含まない)》

「長い」

「必要です」

 次の平文。

《説明する人がまだ決まっていないこと》

 日岡。

「誰も責任を持っていない?」

「責任者がいないと確定したのではなく、氏名を特定できていません」

「違う?」

「誰もいない、と、まだ見つけていない、は違います」

 巴が消す。

《説明する人の名前を、まだ確認できていないこと》

「それなら、探してる感じがする」

「感じではなく、作業状態です」

 真琴。

 日岡は二枚を並べた。

「正式文は、何が落ちてはいけないか分かる。平文は、自分が何をすればいいか分かる」

「どちらかだけなら」

「正式文だけだと、読む前に運ぶ。平文だけだと、誰かが都合よく短くしたか分からない」

「二枚へ署名できますか」

「内容が一致すると確認できたら」

「一致しない時は」

「運ばない」

 日岡は、正式文と平文の間に指一本分の空間を作った。

「この隙間、必要ですね」

「なぜ」

「同じに見えたら、片方を読まなくなる」

 巴は、綴じ具の幅を少し広げる。

 細い空白が、指一本分になった。

 空白は、答えがない場所ではない。

 違う二枚を、違うまま読むための距離だった。