第301話 第五章「病院を動かす」前編
六月十二日 午後六時十九分
病院には、動かせない物が多い。
壁。
酸素管。
古い恨み。
患者は、その三つのどれでもなかった。
「全員、屋上へ上げる」
風祭澪が言った。
外環共同病院の地下廊下で、水は足首まで来ている。
右耳を奥へ向けず、左耳を時雨ミソラへ向けて立つ。
「全員は動かせない」
ミソラ。
「今なら動かせる」
「今だから動かせない」
「同じ言葉で反対しないで」
「同じ時刻を見ているから」
水がまた一センチ上がった。
電源は二階へ切り替え済み。
地下の洗濯室、薬品庫、古い病歴保管室は停電している。
患者と付き添い、医療者、厨房係を合わせて八十七人。
自力で階段を上がれる者、三十一。
介助一人で移れる者、二十二。
担架または車椅子、十九。
移動自体が生命危険になる者、十四。
一人、所在未確認。
「十四人を置いていくの?」
澪。
「置いていかない。残る」
「言い方」
「違う仕事だから」
「水は言葉を聞かない」
「患者は聞く」
二人の間へ、阿久津サナが濡れた板を差し込んだ。
《移動可能》
《介助》
《移動高危険》
《本人保留》
文字の下に、触って区別できる溝がある。
「喧嘩するなら、指を置いて」
サナ。
「どこへ?」
澪。
「自分が引き受ける欄」
澪は《移動可能》と《介助》へ指を置いた。
ミソラは《移動高危険》へ置いた。
《本人保留》だけが空いた。
「そこは誰」
澪。
「本人」
ミソラ。
「判断できない人は」
「代理確認。代理もいなければ、いま最も変更しやすい選択」
「残る方が変更しやすい?」
「屋上へ上げた人工呼吸器を、地下へ戻すのは難しい。地下に置いた患者を、後から屋上へ上げるのも難しい」
「どっちも難しいじゃない」
「だから一つにしない」
澪は短く息を吐いた。
怒っている時、彼女は笛へ触る。
三本の真鍮笛のうち、低音だけを指先で確かめる。
「朝まで私」
「何が」
「移動を決める時間。水位が速い間。午前五時まで、搬送側が順番を出す」
「医療判断を上書きする?」
「しない。運べる人の順番だけ。五時以後はあなた。残る人と、戻す人と、治療を決める」
「五時で水は止まらない」
「止まらないから、時刻を決める」
ミソラは澪の顔を見た。
「午前四時に水位が急上昇したら」
「私が続ける」
「午前三時にあなたが倒れたら」
「交代する」
「誰へ」
「帰路班の二番手」
「名前」
「古橋巡」
「聞こえ方」
「右耳に高音が入らない。左側から、短文、復唱」
「あなたのことを聞いてる」
「分かってる」
澪は少し笑った。
「医者は患者の話を聞けって言うのに、質問が多い」
「聞くために質問する」
「救難は質問してる間に落ちる」
「医療は質問しないと殺す」
サナが板の空欄へ書く。
《十八時二十七分~翌五時 搬送主導:風祭澪》
《医療上の停止権:時雨ミソラ》
《五時以後 医療主導:時雨ミソラ》
《経路停止権:風祭澪または古橋巡》
「勝ち負けは?」
サナ。
「ない」
ミソラ。
「保留」
澪。
「仲が悪いね」
「仕事が違う」
二人は同時に言った。
午後七時四分。
最初の移動は、三階の小児病室から始まった。
水は地下にある。
上から動かすのは逆に見える。
階段が混む前に、歩ける子どもと付き添いを屋上へ移し、途中階を空ける。
空いた病室を、地下から上がる患者の一時待機に使う。
澪は三つの声で経路を作った。
「送り出し。三階西」
《受け。四階踊り場》
「到着。屋上南」
無線の語尾が雑音へ溶ける。
澪が左耳を押さえる。
「最後、復唱」
《到着、屋上南。五名》
「五名、受けた」
この時点では、能力を使わない。
声は届いている。
人数も少ない。
人の復唱で足りるなら、誓痕を使う理由はない。
ミソラは十四人のところを回った。
呼吸器の男。
腹部手術直後の女。
頸椎を固定している少年。
高熱で意識が途切れる老人。
「屋上へ移る選択があります」
ミソラは、一人ずつ言う。
「ここへ残る選択もあります。どちらも危険があります。決めるために、今いちばん知りたいことは」
「雨、いつ止む」
老人。
「分かりません」
「医者なのに」
「天気は診ません」
「役に立たんな」
「熱は診ます」
「三十八・九」
「役に立ちます」
老人が笑い、咳き込んだ。
「残る。階段で死ぬのは嫌だ」
「水が二階まで来たら移動へ変更します」
「勝手に?」
「意識があれば聞く。なければ、事前の範囲で代理判断」
「代理は娘」
「連絡先」
「知らん」
「知らない?」
「覚えてない。紙は財布」
サナが財布から番号札を見つける。
名前は読み上げない。
連絡先だけを別紙へ写す。
白衣路〈ホワイト・パス〉は、誰でも通せる白い廊下ではない。
患者ごとに、医療と経路と受入れと本人選択が揃った時だけ開く。
揃わなければ、白い布はただの布だった。
男は残留欄へ指を押した。
十四人のうち、十一人が残ることを選んだ。
二人は家族代理と確認し、残る。
一人は決められないと言った。
「決めないを選べます」
ミソラ。
「それで水が待つ?」
患者。
「待ちません。二十分後にもう一度聞く。その間、移動準備だけする」
「準備したら、移る方へ誘導される」
「そう見える」
「見えるじゃない。される」
ミソラは黙った。
得意な手順は、相手を安心させるとは限らない。
準備は安全のためであり、圧力にもなる。
「では、準備する物をあなたが決めてください」
「何がある」
「頸部固定、酸素、布担架、階段椅子。何もしない」
「酸素だけ」
「受けた。酸素だけ」
準備する側の正しさを、患者が一つ減らした。
午後八時十一分。
地下洗濯室の扉が開かなかった。
水圧で内側へ押されている。
名簿で未確認の一人は、洗濯担当の東雲美佐。
五十六歳。
七瀬が扉の上へ固定機を置いた。
「撮る?」
サナ。
「扉の状態と作業だけ。中は、確認後」
「家族同意は」
「所在確認のための固定映像。公開しない。顔は撮らない」
轟が蝶番を見る。
「内開き。水、胸まである」
「壊す?」
澪。
「壊したら一気に来る」
「待てない」
「待たない。逃がす」
轟は扉の下へ薄い管を差し込んだ。
排水先は、廊下の水位が低い側。
一本では足りない。
榎並章吾が二本目を持ってくる。
「貸す」
「返却先」
「工場足場倉庫。六月十五日」
「長い」
「洗って乾かす」
「十六日」
「久我みたいになってるぞ」
「嫌だ」
章吾が管を固定した。
水が細く抜ける。
扉の圧が下がるまで、七分。
七分は長い。
澪は三度、扉へ拳を当てた。
「東雲さん! 聞こえたら一回!」
返事はない。
右耳を扉へ向けかけ、左へ替える。
「もう一度」
音はない。
七分後、轟が扉を十センチ開けた。
濁水が廊下へ出る。
ミソラとサナが入る。
東雲美佐は、乾燥機横の棚へ身体を寄せていた。
腕の中に、洗濯番号札の束を抱えている。
ミソラが頸動脈を確認する。
瞳孔。
皮膚温。
死後硬直の始まり。
「死亡確認、二十時二十二分」
推定死亡時刻は、浸水初期。
澪が壁へ拳を置いた。
「今なら全員運べるって言った」
「この人は、今の前に亡くなっている」
「だから何」
「あなたの判断のせいではない」
「それ、役に立つ?」
「立たない」
「じゃあ言わないで」
ミソラは頷いた。
「分かった」
洗濯番号札は濡れていた。
患者の衣類番号が、青い鉛筆で書かれている。
東雲は、自分の避難より先に、誰の服か分からなくなることを防ごうとした。
それを美談にはしない。
誰かの仕事熱心さが、その人を死なせた時、褒め言葉は二度目の命令になる。
七瀬は番号札だけを撮った。
東雲の身体は撮らない。
撮影しない保護〈カメラ・ダウン〉の札を、洗濯室の入口へ掛ける。
撮らないことも、記録の一部だった。
午後十時三十四分。
病院の移動は、予定の半分で止まった。
屋上斜路の排水口へ布が詰まり、水が溜まったからだ。
澪は四階踊り場で、三十七人目の担架を止める。
「戻す」
ミソラ。
「戻したら階段を二度使う」
「屋上は滑る」
「排水を開ける」
「何分」
「十二」
「患者の体温は」
「三十四・八」
「十二分待てない」
「なら四階病室へ入れる」
「酸素口は」
「二つ」
「担架は四」
「二人は携帯酸素」
「残量」
「十八分」
「排水十二、移動四、余裕二」
「二分は余裕じゃない」
「医療は何分なら余裕?」
「患者による」
「救難も同じ」
二人は睨み合った。
担架の上の女が、毛布の中から言った。
「喧嘩、後にして」
「後にします」
二人は同時に答えた。
「いま答えて。私は四階と屋上、どっちが寒くない」
ミソラが患者の指へ触れる。
「四階」
澪が経路を見る。
「四階。戻すんじゃなく、横へ入る」
「じゃあ四階」
「受けた」
患者の一言で、計画が変わった。
担架四台を四階西病室へ入れる。
酸素二口を分ける。
二人は携帯酸素。
屋上の排水を開けたのは、患者ではなく病院の洗濯係三人だった。
東雲と同じ仕事をしていた者たちだ。
布の詰まりを取り、斜路の水を掃く。
誰も「東雲の分まで」と言わない。
一人分以上働く言葉は、勤務表に載らない。
六月十三日 午前零時十六分。
二階東廊下の非常灯が消えた。
停電は一度起きている。
予備電源へ切り替えた後の、二度目だった。
二度目の暗闇は、一度目より恐ろしい。
人は一度目を事故と思う。
二度目で、戻らないかもしれないと知る。
「止まって!」
澪の声。
階段にいた担架三台が止まる。
後ろの車椅子が、担架の脚へ当たった。
「痛い!」
患者。
「どこ」
ミソラ。
「足。右の踵」
「元の痛みと違う?」
「違う。硬い」
「車椅子の足台。骨ではない」
「骨じゃなきゃ痛くないのか」
「痛い。位置を分けた」
ミソラは暗闇の中で、患者の踵と足台の間へ布を入れた。
「灯り」
澪。
「手持ち、三」
古橋。
「三つを一か所へ集めるな。先頭、中央、最後」
「中央はどこ」
「担架二と三の間」
「声、届かない」
「低音で一回ずつ」
誓痕は使わない。
笛を合図にするだけだ。
低い一音。
先頭の灯りがつく。
もう一音。
中央。
三つ目。
最後。
暗闇に、三つの小さな島ができる。
「動く順番」
澪。
「一台ずつ」
「水は上がってる」
「階段の踊り場は持つ」
轟が床を踏む。
「何分」
「十五」
「十五しか?」
「十五は、十五ある」
「技師は楽観的」
「救難は時間を借金みたいに言う」
「返せないから」
「構造も返せない」
「喧嘩、あと」
患者が言った。
「今日、皆それを言う」
澪。
「皆が正しい」
患者。
一台目を動かす。
担架の脚が暗闇で段差へ当たる。
「停止」
先頭。
「何」
「段差。三センチ」
「越える」
「患者へ聞く」
ミソラが担架の男へ顔を近づける。
「三センチの段差を越えます。振動で腹部の痛みが増える可能性。待てば床に水が来る可能性。どちらを選びますか」
「持ち上げろ」
「四人必要」
「いる?」
「いる」
「なら持ち上げろ」
担架を水平に上げる。
左肩を使えない轟は、腰側の棒へ入らない。
壁の手すりを支点にし、荷重を二人へ分ける。
暗闇で、誰が力持ちかは意味が薄い。
どこへ力を逃がすかの方が重要だった。
三台が段差を越える。
非常灯は戻らない。
病院の電気係が、二階へ走らない。
走れば階段が詰まる。
地下の配電盤から、何が落ちたかを順に読み上げる。
《二階東、照明系》
《酸素は継続》
《吸引は携帯へ》
《昇降機は停止のまま》
暗闇でも、設備が全部死んだわけではない。
見えないものを、ないことにしない。
午前一時四十八分。
十四人の残留者を、三階の高床区画へ集める案が出た。
ミソラは却下しなかった。
患者へ聞いた。
「一か所へ集まれば、医療者は少なくて済みます。感染、騒音、プライバシー、火災時の集中危険が増えます」
「残る者だけ、別の病棟へ追いやるのか」
頸椎固定の少年。
「追いやる形に見える」
「見えるじゃなく、なる」
「そうなる可能性があります」
「なら嫌だ」
「今の病室へ残る?」
「友達が屋上へ行った。僕も屋上は嫌だけど、一人も嫌」
「二つとも嫌でいい」
「選ばなきゃいけない」
「第三案を作る」
ミソラは廊下へ出た。
澪が壁にもたれて水を飲んでいる。
「残留十四を一か所へ集めるの、止める」
「人手が足りない」
「三か所へ分ける」
「もっと足りない」
「屋上へ移った患者の付き添いで、残ると選んだ人が四人いる」
「医療者じゃない」
「観察項目を限定する。呼吸数、声掛け反応、酸素残量。変化したら呼ぶ」
「責任を付き添いへ移す?」
「移さない。見る仕事だけ分ける。判断は医療」
「付き添いが断ったら」
「二か所にする」
「断らなかったら」
「三か所」
澪は水筒を閉じた。
「私は、残る人へ人手を回すと搬送が遅れる」
「そう」
「でも十四人が一か所を拒否した」
「一人が。ほかへも聞く」
「時間」
「十五分」
「十」
「十二」
「十一」
「十二」
「頑固」
「医療」
「十一分半」
ミソラは頷いた。
十一分半で十四人へ質問する。
十一人は三か所分散を選んだ。
二人は一か所の方が安心だと言った。
一人は決めないを継続した。
結果、二か所と個室一室。
完全に効率的ではない。
本人の選択を全部そのまま叶えたわけでもない。
叶えられない部分を、誰が削ったかだけ残した。
澪は搬送要員を二人、残留区画へ回した。
「返してもらう時刻」
「五時」
「四時半」
「五時」
「四時四十五」
「受けた」
対立は、十五分短くなった。
仲が良くなったわけではない。
午前二時五十二分。
屋上へ移った患者の一人が、戻りたいと言った。
八十歳の女。
呼吸は安定。
右膝の変形が強く、階段移動には四人必要。
「下へ戻す」
ミソラ。
「いま?」
澪。
「本人が希望」
「屋上まで上げるのに二十六分。戻す経路は混んでる」
「理由を聞く」
女は、屋上の隅にある空を指した。
「広すぎる」
「雨が?」
「空が」
「閉所ではなく、開所が怖い?」
「名前は知らない。屋根がないと、身体が落ちる」
澪は周囲を見る。
屋上には、仮天幕が三つ。
満床。
「三階の残留区画へ戻すと、階段を逆行する」
「嫌ならここで死ねって?」
女。
「言ってない」
「顔が言ってる」
澪が目を閉じた。
「皆、顔を読む」
「声より正直」
「私、顔は救難訓練してない」
「じゃあ今やれ」
ミソラが屋上の設備を確認する。
「洗濯乾燥室」
「狭い」
「屋根がある」
「患者用じゃない」
「床、乾いてる。換気あり。医療電源なし」
「酸素不要」
「本人へ聞く」
三人で乾燥室へ行く。
洗濯籠。
紐。
壁の時計。
「ここなら」
女は壁へ手を触れた。
「落ちない」
「患者用でないから、扉を内側から開けられるよう固定。見回り十五分。嫌になったら移動」
ミソラ。
「洗濯の人は」
澪。
東雲美佐の同僚が答える。
「使って。紐だけ残して」
「仕事が」
「今日は服より人」
「明日は」
「服も人」
乾燥室を一時区画にする。
女は下へ戻らない。
屋上へ残ることにもならない。
同じ場所の中へ、第三の選択を作った。
白衣路は廊下の色ではない。
患者が選んだ場所へ、必要な医療と経路をつなぐ手順だった。